ひからびろ 3.0

密かに輝くラクダとビロード、ロバ。お願いだから、ひからびてほしい。

モダニズム文学について。

2011-09-11 | 日記
9/11

読み終えたもの:

夏目漱石『三四郎』

丸谷才一『闊歩する漱石』

大江健三郎『読むこと学ぶこと、そして経験』

モダニズムというものの本質が、
ミニマルなものをマキシマムなものへつなげたいという、
そういう反転した思いであると知り、かなり納得した。


この間、クッツェー(南アフリカのノーベル賞作家)の『恥辱』を読んで、
ワーズワースとかバイロンとかいった西洋文学を、
自分が寄って立つ南アフリカの大地と接続する、
その手腕に唸らされたんだけど、
まさにこれがモダニズム的手法なわけだ。

クッツェーを読んでて思い出したのが、
大江健三郎で、
彼がやってることもまた自分の個人的な体験を、
西洋文学の引用と絡ませながら、
その意味を普遍的なものにまで高めようというわけだ。

要するに、
「こんなのは自分しかしてない!」みたいな、
そういう特殊な体験の中に、
どんな場合にも適用できるような普遍性が潜んでる、
そういう「信仰」がモダニズム文学を成り立たせてる。

けど、それだったら、
『死ぬかと思ったH』で目にするような「特殊な体験」を、
ダンテやフロベール、エリオットを引用しながら、
文学世界に入れ込むことだって可能なはずだし、
誰かやってるんじゃないか? と思うが、
少なくともぼくは知らない。

そう考えると、
「モダニズム文学」とか「世界文学」って呼ばれるものは、
死ぬほどくだらないものの中に、
ある種の普遍性を見出してる・・・・
というよりもむしろ、

「こんな体験したんだけど、これってあの小説のあのシーンに似てない??」

みたいな、
単なる文学マニアがスレ立てた的な状況に近いんじゃないのか。

おいおい、モダニズム文学、
お前は本当にそれでいいのか?
それって文学なのか?
少しばかり心配になってしまう。

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