7月は母、兄そしてブルースハウス・ブルースバンド〜ブレークダウンのドラムだった小川俊英氏の命日の月だ。
物覚えの悪い自分だが、最近はappleのカレンダーやリマインダーで告知してくれる。
猛暑とはいえ夏は明るい強い陽射しと真っ青な空がイイ!そんな風景を見ながら「あゝこんな気持ちをもう共有出来ないんだなぁ」と心の何処かで思ったり「ありがとう」と感謝したり。
親、兄弟にはとうぜんお世話になり、感謝の念でいっぱいだが、小川さんもバンド仲間、先輩であり兄のような存在だった。
家業を継ぐためにブレークダウンを辞めて広島県福山市へ帰って来ていた小川さんを当時、広島市内で活動していた自分のブルースバンド STOMPERSに参加してもらうべくひょっこり一人で訪ねて行ったのが最初だった。
それからライブを一緒にやるようになって、呑んだり一緒に泊まったり泊めてもらったり。
こちらが、ちょっと困ったことや不安なことを話しても流す訳でもなくニコニコとしながら対応してくれる姿は自分の心の支えだったように思う。
ただ一度、怒られた?(いつもどおり笑顔は残っていたが)のは阿佐ヶ谷ギャングスターでのライブに入道氏と来た時だ。「西村くん、違うじゃろ。ジミーリードのハーモニカはもっとガツンとくるじゃろ、あんなんじゃない!」と珍しく語気強く言われたことがある。
まあ、そんなことを思い出しながら「ひまわり」を三本飾ってみた。


物覚えの悪い自分だが、最近はappleのカレンダーやリマインダーで告知してくれる。
猛暑とはいえ夏は明るい強い陽射しと真っ青な空がイイ!そんな風景を見ながら「あゝこんな気持ちをもう共有出来ないんだなぁ」と心の何処かで思ったり「ありがとう」と感謝したり。
親、兄弟にはとうぜんお世話になり、感謝の念でいっぱいだが、小川さんもバンド仲間、先輩であり兄のような存在だった。
家業を継ぐためにブレークダウンを辞めて広島県福山市へ帰って来ていた小川さんを当時、広島市内で活動していた自分のブルースバンド STOMPERSに参加してもらうべくひょっこり一人で訪ねて行ったのが最初だった。
それからライブを一緒にやるようになって、呑んだり一緒に泊まったり泊めてもらったり。
こちらが、ちょっと困ったことや不安なことを話しても流す訳でもなくニコニコとしながら対応してくれる姿は自分の心の支えだったように思う。
ただ一度、怒られた?(いつもどおり笑顔は残っていたが)のは阿佐ヶ谷ギャングスターでのライブに入道氏と来た時だ。「西村くん、違うじゃろ。ジミーリードのハーモニカはもっとガツンとくるじゃろ、あんなんじゃない!」と珍しく語気強く言われたことがある。
まあ、そんなことを思い出しながら「ひまわり」を三本飾ってみた。

