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西村ヒロのハーモニカ・ダイアリー

ハーモニカ、音楽のことなどを綴ります
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20代にエンジニアとして勤めた(株)豊國の思い出

2025-07-10 17:04:00 | Weblog
エンジニアとして会社勤めをしたことのあるハーモニカ・プレイヤーは珍しいと思うので話のネタとして書いてみる。





2025,7/5、呉市のクレイトン・ベイ・ホテルで(株)豊國https://www.toyo-kuni.co.jp/の「創立70周年を祝う会」が催され、ハーモニカとタップダンスのコラボをステージで披露させていただいた(西村ヒロ:ハーモニカ、粟村マサル:タップダンス、ギター:石井完治)。


(株)豊國は陸上での機器及び船舶に搭載される機器を扱う会社だが、海上自衛隊の艦船に搭載されている航海用計器のメンテナンスを行う部門があり、自分は20代の4年間ほどエンジニアとして此処へ勤めていた。

入社して2、3年過ぎてメンテナンス業務も満足に身につけていないにも関わらず、何か創ることをやってみたいと現場の足しになるような簡単な電気回路など会社の業務が終わって朝まで作ったりしていた(何を作っていたのかさっぱり覚えていない)。

そんな頃、直属の上司の山本課長が海上自衛隊の船舶に搭載する船上で計測した風速、風向、速力、進路を入力データとして対地の風速、風向を表示する機器があるが、これをデジタル化したものを作ってみようと提案された。

当時はまだ計測器類はアナログ信号、アナログ回路だったので計算をデジタル化すれば精度がグッと上がる。

渡りに船とばかりに話に乗ったが、要員は自分と山路さん(現社長)の二人だけ。

しかもプロジェクトは会社の正式なものではなく、業務時間外に勝手に何かやってるような体である。

山路さんがソフトを作り自分が回路設計全部を請け負った。

ソフトとハードの整合性を図るために簡単な動作の試験から始めた。

何せ実働員は二人だけなので自分が回路設計をやり、機器の大きさに合わせて数枚の回路基盤に振り分けて電子パーツの大きさに配慮しながら配線図も書かなけれならない。

外注先も探したり.......社内では誰も経験がないので自分たちで殆どやっていたような気がする。

ともかく二人とも必死でとても忙しかったんだろう。

朝までの泊まり込みもけっこうやっていたような。

そのうち勤務時間外での作業では時間が足りなくなり自分だけはコッソリと勤務時間に食い込んでやっていた。

社長にバレるとまずいので山本課長がすべてうまく誤魔化してくれたが、チクチクと詮索されていたことだろう。

内部の基盤や各パーツが揃って形になったあたりから正式な業務として他の社員の方々にも手伝っていただき筐体(機器の外側)は社内の経験者に設計、発注してもらった。

初期の頃は周りの理解を得られずなんとなく圧力を感じたりしていたが、新しいものを創るという高揚感が優っていた。

お互い経験やアドバイスがない中で、ともかく目的を達成するにはビジュアライズ出来る目標と段階を踏んだ達成項目と期限を決めるという事を学んだ。

ちょうど取引先の会社の社長がモティベーションと目的達成のためのプログラムをやっていて、そこへ参加したのも役だった。

いろいろな経験をしてなんとか完成し船舶に納入、設置出来たが、本来正式なメーカーではないので設置場所や配線のことなどかなり配慮と手間がかかったようだが山本課長がすべて動いてくれた。


さて、電子・電気が好きで大学に行き会社に入ったのだが、どうしても音楽の道に進みたくなった。

‘74年に大学へ入学しロック部というサークルで作ったバンドでジュニア・ウェルズなどのブルースをやったり、卒業後はストンパーズという黒人ブルースのコピーバンドを立ち上げてギターを弾いていたが、徐々にブルースハープとボーカルもやるようになりブルースハープを本格的に職業としてやりたくなったので仕事が一区切りしたところで退職した。

社内に残ればより好きに業務が拡張出来そうだったが(それまでも遅刻は多いは、傍若無人な行動で好き勝手していたが.....山本課長が尻拭いしていた)、世の中の電気電子関係のエンジニアとしてはレベルが低いことを実感したし、ブルースハープという未開拓分野の多いところで独自のスタイルを創ってみたくなったし(’84年当時は一般認知度も低くプレイヤーも少なかった)、目指すサウンドは明確だった。

そこで先ずは本場シカゴに行って現地のプレイヤーと接するのが一番と考えて計画を立てた。

シカゴの半年間を経て広島→東京となるのだが、そこら辺はまた機会があれば。


ともかく、会社で得た目標達成のノウハウをその後のハーモニカ・プレイヤー:西村ヒロへの育成にそんまま持ち込んでやってきた。

仲間であった山路さんは、その後社長を務めているが時々連絡を取ったりして互いの動向は知っているので「オーッ、やってるなぁ」などと互いを鼓舞するキッカケになっている。

けっきょく分野は全く違うが、あのバディ時代に得たノウハウをそれぞれの道に活かしてずっと進んで来ている。

いつも上と下の板挟みの山本課長は自分が退職すると相談されてずいぶん心配してくれたが、「やれやれ」とホッとひと息ついたのではないかと想像する。

たまに会うことがあるが、相変わらず大丈夫か?と心配してくれる。

先日の70周年イベントでは、会食が隣の席だったので、ずっと頭を下げっぱなしだった上に同僚が来て話す内容は、いかに自分が好き勝手していたかを思い起こさせる事ばかり。

他のテーブルに座ってらっしゃった元社長に挨拶に行こうと思っていたものの機を逃していたら、元社長自ら歩いて来られて「元気そうだね」.....いや〜皆さん寛大な方ばかり、それで今があるんだなぁ、とつくづく感謝する日だった。


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