たかが親子されど親子、そして兄弟そして夫婦そして自分

いづみかほるの様々な想い(世のファミリーをテーマにエッセイ風に綴っています)

『父を想う日』

2022-08-30 09:49:15 | エッセイ風

今日は56回目の父の命日
父の結婚前の日記を、数十年前に今は亡き母から私の手に渡りました。
その日記には生きるヒントが沢山含まれています。息子より若い頃の父の日記なのに。
それを日々読みながら一生懸命人生を歩き続ける娘でございます。

父がこの世を去ったのは56年も前のことなのに、あの日のことが鮮明に思い出されます
8月16日の夜中に倒れ、家族や親戚一同みんなで奇跡を信じてましたが2週間後に逝きました。

41歳でした。今年の息子の年齢とさほど変わりないとは。私は8歳でした8歳の私の目で見て感じた心の動きを、しっかりまとめ心に収めてあります。

 

64歳になる娘が、8歳だった私が見た41歳のままの父に時折救いを求めます。すると必ず返事をくれて心が楽になるのが本当に不思議です。

やはり人の命に終りはあっても、こうして父は私の中で存在し続けている。そう思えるのです。

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母を想う日

2022-08-17 08:33:56 | エッセイ風

一昨年の今日母が逝った。

 三十代で夫に先立たれ、貧弱な娘と手のかかる息子を懸命に育て、孫についても仕事を抱えながらも可能な限り協力してくれた。人に尽くすのは積極的だったが尽くされるのが苦手で、晩年の口癖は「迷惑をかけないでコロッと逝きたい」だったが、そのとおり自宅で静かに旅立った。前日、あまりの暑さに心配した私が電話口で聞いた「生きてるよ」という声が、自分の聞いた最後の言葉だった。

  幼児期には川でおぼれ葬式準備中に息を吹き返し、思春期には激しい爆撃の中たまたま入れなかった防空壕が命中全滅し偶然にも命拾いした母。もしも母の命がそこで途絶えていたならば、自分の誕生もなく夫との出会いも息子の誕生もその嫁との出会いも、孫の誕生もなかったのだと改めて思い、命の誕生は奇蹟的なことでとても尊いのなのだということと、命はつながっているのだということを実感した。

逝った年は悲しむ余裕もなく日々を送っていたが、一年経ち二年経って母のいない空しさを感じる今日この頃。

仏壇に向かい、懸命に生きよう懸命に生きよう、そう心に誓う。

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忘れることのできない8月16日。

2022-08-16 08:58:12 | エッセイ風

8月16日は、私にとって複雑な日。
父の倒れた日母の死にかけた日祖父の亡くなった日
ですが、私たち夫婦の結婚記念日でもあるのです

母は、私たち夫婦が悪い日を良い日にしてくれたのだとよく言っていました。

43年前の今日、忙しかった私たち夫婦は、その日がどんな日と気づきもせず、何者かに引っ張られるように出張所に出向きました。

そして婚姻届を提出。その結果、悪かった日は良い日となったというわけです。
これにはきっと意味があるのだろうと、私はずっとそう思って生きているのです。

結婚43年目に突入!
ひたむきに淡々と生きる、ただそれだけですね。
母や父や祖父や祖母、果てしない祖先から今の自分の命がつながってきていること、子に孫にと更に続いていることをしみじみと感じるこの日です。

家族みなが元気に毎日を送れていること、それはあたりまえではなく元気に過ごせる一日一日に感謝です。

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