首都 Damascus (ダマスカス)を拠点として Quneitra (クネイトラ)に出かけた。
クネイトラは古代から人々が住んでいた歴史ある街で、オスマン帝国時代に隊商の中継地となった。
イスラエル(イギリスから独立)とシリア(フランスから独立)の両国国境付近の街だった為、第二次大戦後のゴラン高原における戦略的に重要な都市としての位置付けがなされ、市場と基地が置かれて人口も2万人を越えたらしい。
この街がクローズアップされたのは6日間戦争(第三次中東戦争)(1967年)の時で、この時クネイトラはイスラエル軍に占領されている。
1973年のヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)でシリア軍が一時的に奪回したが、イスラエル軍の反撃にあって再度占領された。
1974年にイスラエル軍が撤退した時には街並みは激しく破壊されていた。
シリアはこの地をイスラエルの残虐行為を記録する街として修復せずに保存している。
イスラエルは、プロパガンダのため故意にクネイトラを放置しているシリアの姿勢を非難している。
現在、クネイトラは国連監視下における非武装地帯となっている。
当時聞いた話では、クネイトラ地区の自衛隊はイスラエル軍、シリア軍とも45名ということだった(確認できたわけではないので真相の程は不明)。
この地に行く為には、ダマスカスにある内務省の機関でパーミット(入域許可証)を申請する必要がある(パスポートが必要)。
バスとタクシーを乗り継いで約1時間半かかってクネイトラに着くと、シリア人の公認ガイドが破壊された街を案内してくれた。
まず案内されたのが、ゴラン病院跡だ。入口の看板にはシオニストに破壊され銃撃の対象になったと書かれていた。
その後も周囲一帯の破壊された建物を見学した。
戦争の悲惨さを肌で感じると共に、奇妙な違和感を覚えたのを覚えている。
なぜかというと、そこが一大観光地(シリア国民の巡礼地)になっていたからだった。日本の小学校で言うならば社会科見学にあたるのだろうか、多くの小学生達が廃墟の周囲でお弁当を食べている。家族連れもいた。
戦争を体験したことのない自分にとって、こういった戦争の傷跡を見るとショックを受けるのが常だった。
しかし、彼らにとってはもはやそれが当たり前の世界(日常)で、慣れきってしまっているのかもしれない。
もっと街をよく見たかったが、30分も経たないうちにガイドが「見学は終わりだ」と言ってツアーは強制終了させられてしまった。わけのわからない日本人旅行者(しかも一人)の為に無駄にする時間はないということなのであろう。
この時利用したタクシーの運転手に値段をふっかけられてごねたと旅日記に書き記してある。
破壊された街を見て、一人神妙な面持ちで考え込んでしまっている自分に対し、現地の人々はタフに生きていたと思う。それが経験の差なのかもしれない。
※地図はこちら
クネイトラは古代から人々が住んでいた歴史ある街で、オスマン帝国時代に隊商の中継地となった。
イスラエル(イギリスから独立)とシリア(フランスから独立)の両国国境付近の街だった為、第二次大戦後のゴラン高原における戦略的に重要な都市としての位置付けがなされ、市場と基地が置かれて人口も2万人を越えたらしい。
この街がクローズアップされたのは6日間戦争(第三次中東戦争)(1967年)の時で、この時クネイトラはイスラエル軍に占領されている。
1973年のヨム・キプール戦争(第四次中東戦争)でシリア軍が一時的に奪回したが、イスラエル軍の反撃にあって再度占領された。
1974年にイスラエル軍が撤退した時には街並みは激しく破壊されていた。
シリアはこの地をイスラエルの残虐行為を記録する街として修復せずに保存している。
イスラエルは、プロパガンダのため故意にクネイトラを放置しているシリアの姿勢を非難している。
現在、クネイトラは国連監視下における非武装地帯となっている。
当時聞いた話では、クネイトラ地区の自衛隊はイスラエル軍、シリア軍とも45名ということだった(確認できたわけではないので真相の程は不明)。
この地に行く為には、ダマスカスにある内務省の機関でパーミット(入域許可証)を申請する必要がある(パスポートが必要)。
バスとタクシーを乗り継いで約1時間半かかってクネイトラに着くと、シリア人の公認ガイドが破壊された街を案内してくれた。
まず案内されたのが、ゴラン病院跡だ。入口の看板にはシオニストに破壊され銃撃の対象になったと書かれていた。
その後も周囲一帯の破壊された建物を見学した。
戦争の悲惨さを肌で感じると共に、奇妙な違和感を覚えたのを覚えている。
なぜかというと、そこが一大観光地(シリア国民の巡礼地)になっていたからだった。日本の小学校で言うならば社会科見学にあたるのだろうか、多くの小学生達が廃墟の周囲でお弁当を食べている。家族連れもいた。
戦争を体験したことのない自分にとって、こういった戦争の傷跡を見るとショックを受けるのが常だった。
しかし、彼らにとってはもはやそれが当たり前の世界(日常)で、慣れきってしまっているのかもしれない。
もっと街をよく見たかったが、30分も経たないうちにガイドが「見学は終わりだ」と言ってツアーは強制終了させられてしまった。わけのわからない日本人旅行者(しかも一人)の為に無駄にする時間はないということなのであろう。
この時利用したタクシーの運転手に値段をふっかけられてごねたと旅日記に書き記してある。
破壊された街を見て、一人神妙な面持ちで考え込んでしまっている自分に対し、現地の人々はタフに生きていたと思う。それが経験の差なのかもしれない。
※地図はこちら