今日も北東から風が吹いている。
デッキチェアーに寝そべるようにして、Bはこちらに手をふってくれた。
彼は半ばリタイアした現在、一年のうち3ヶ月間をこのホテルのコテージで過ごしている。
ホテルも長年のゲストである彼にいろいろと配慮してくれているらしい。
デッキチェアーのそばにあるテーブルにはホテルのおごりだという白ワインと数種類のアペタイザーがならべられている。
夕方の貿易風がスイミング・プールの上を渡って僕とBの頬を撫でる。
「ここはいいね。空気が乾燥しすぎていない。最近は呼吸器の具合があまりよくなくてね。ここにいると随分と楽なんだ」
「ここでもピアノは弾くの?」
「ああ。ピアノの前に座ると気持ちが落ち着くからね。コテージに88鍵のエレクトリック・ピアノを置いてもらってる。最近のエレクトリック・ピアノは素晴らしいね。キーのタッチもほとんど本物のピアノと同じだよ」
「作曲は?」
「たまにモチーフが浮かべば、ピアノの前に座って展開させてみるよ。たぶんもう発表することはないだろうけどね」
「・・・・・・そうか。発表する気はないんだ・・・・・・。それでも曲は書くんだね。君はこれまで何のために作曲を続けてきたんだい?」
「簡単なことだよ。君も同じだろう?僕が僕であるためさ。ただそれだけ・・・・・・君は神の存在を信じるかい?」
Bはいたずらをしかける子供みたいな表情で僕に質問してくる。
「最近は簡単に『神』なんていうと見当違いな批判にさらされるからね。けれど僕は神の代理だよ。神が僕という小さな存在をとおして音楽をこの世に生み出しているにすぎない。曲ができるのは僕の才能じゃなくて神の力のあらわれだと僕は感じている」
「『天啓』ってやつかな?」
「そうだね。それのごく小さなものだ。頭の中にメロディーが『おりてくる』のと同時にほとんどすべてのアレンジが曲として頭の中で鳴っているんだ。ただ僕はそれを再現するだけ」
「じゃあ、もう作品を公表する気がない、と言ってたけど、それはもう『伝道』をやめた、ということ?それとももう『天啓』は君に訪れないの?」
Bはひとくちワインをふくみ、しばらく黙った。
「ポップ・ミュージックはテクノロジーとコマーシャリズムと密接な関係にある。ティーンエイジャーがお小遣いで買えるシングル盤の普及がロックンロールの隆盛につながったし、LP盤がコンセプチャルなロックの表現を可能にしたよね。CD、シリコンオーディオ、そして今はサブスクリプション。音楽を販売するメディアも変わった」
「そうすると、音楽の聴き方が変わる。もうビニル製のLPレコードをA面の一曲目から、B面最後の曲までオーディオ・セットの前に座り込んで聴くことなんかなくなった。僕はちょうどシングル盤からLPに移行していく時代に『まるまる一枚通して聴くと何かが立ち現れる』アルバムを作ることに全精力を傾けてきた。曲間の秒数まで、盤の内周と外周の音質差まで考慮してレコードを作っていたんだ。もう僕の望む聴き方をしてくれる人々がいないんだから、作品を発表する意味がない」
「レコーディング技術も進歩した。机の上の小さなコンピューターでポップ・ミュージックが作られるようになった。それは多くの人々が気軽に音楽表現ができるようなった、という面では素晴らしいことだよ。ただ、その反面もう昔のようなレコーディングができる大きなスタジオはなくなってしまったし、製作にかかわる職人のような技術者もいなくなってしまった。個性的なセッションマンもね。当時は彼らと共同作業を行うことで僕ひとりでは思いもつかなかった結果が生まれていたんだ。たったひとりでレコーディングしていたらたどりつけないような」
Bはかつてレコーディングを行ったスタジオの名前やアレンジャー、レコーディング・エンジニア、ミュージシャン達の名前を羅列した。
「僕はあるときからもう、このテクノロジーの進化につきあいきれなくなってしまった。それは同時に多くの若者にとってもう僕の音楽が必要ではなくなった、ということを意味していると思うんだ。僕はその運命を受け入れることにしたんだ」
「ひとりも聞く人がいない曲はこの世に存在していないのと同じだからね」
「もうひとつ。ヒップ•ホップとの向き合い方が僕にはわからなかった。ヒップ•ホップは『歌詞」の音楽だ。ポップ音楽の作り手として僕の最大の欠陥は歌詞が書けないことだ。若者向けの曲のなかで歌詞の占める割合は大きい。メロディーやアレンジと半々かそれ以上の重要な要素だ」
「僕は神からメロディーや編曲のアイディアを受け取れるけれど、神の具体的な言葉を受け取ることはできないんだ。そもそも「音」と「言葉」は存在している次元が違うものなんだと思う。脳の全く違う部分を使うんだと思うよ。メロディーを作るより、歌詞を生み出す方がおそらく一万倍くらいむつかしい。メロディーやリズムのもたらす快楽は非常に原始的で本能的なものだからね」
「僕は『言葉」を神から授かることはできないんだ。もしかしたら「言葉」は人間が長い時間をかけてつくった『発明品』で、神から付与されるものではないからかもね。おそらく神は『言葉』を必要としないから。だから神のメヂィアの僕には『言葉』を操る技術がない」
西の空が鮮やかな濃いピンク色に染まっていた。
穏やかな風がシャワーツリーの葉ずれの音を運んでくる。
どこかから甘い蘭の花の香りがする。
Bはそれらをすべて吸い込むように大きくいちど息を吸った。
「それにしても音楽は素晴らしいね。・・・・・・音楽は永遠だ」
アリューシャン列島の低気圧が生み出した大きなうねりが長い長い距離を伝わってこの島のガケに当たる音が聞こえる。
壮大な音楽。