在沪日記

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ドリームシティ

2024-05-07 | マウイしまへようこそ
 
 ときどき、もし地球上でどんな街にでも住むことができるなら、どこの街がいいだろうかと考える。

 そんなときいつも「カフルイがいいかな」と思う。

 カフルイの別名は「Dream city」

 「夢のかなう街」



 1843年、それぞれ宣教師を父に持つサミュエルとヘンリーというふたりの少年がラハイナの学校で出会った。

 それがアレキサンダー&ボールドウィンという会社の始まり。

 19世紀の後半から20世紀初頭にかけ、A&B社はマウイ島中央部に大規模なサトウキビ・プランテーションを開発した。

 農園で働くさまざまな国からの移民労働者たちはサトウキビ畑地域からはやや北のワイルク地区にキャンプを与えられ、そこから農場や製糖工場に通うことになった。

 キャンプの場所は移民たちの出身国ごとに区分けされる。

 その中では母国の生活様式、伝統や文化が継承されていた。

 例えば、日本人移民のキャンプの中では豆腐や醤油が作られ、風呂は銭湯のような多人数で使用する共同浴場であった。



 1940年代に入ると人手不足と労働運動の高まりにより農園労働者の賃金が上昇した。

 そのため経営者は農園や製糖工場の大規模化、機械化を迫られた。

 さらに労働条件の改善も課題だった。

 それにともない民族別に区分されたプランテーション・キャンプも解体することとになる。
 
 1949年、アレキサンダー&ボールドウィン社は不動産開発を目的とし「カフルイ・ディベロップメント(KDCo.)」という子会社を設立する。

 島の主要な港であったカフルイ港周辺に農園労働者や製糖工場職員、農産物を輸送する鉄道会社職員のために「新しい街」を作る事業をKDCo.は始めた。

 プランテーション・キャンプの解体後、労働者に住居を供給する事業である。

 その計画の名が「ドリーム・シティ」。

 港を要とし、扇のように14区画、3500戸あまり住宅、それと同時にオフィス、学校、病院、教会、ショッピング・センターなどの施設を配置するプランだ。

 住居は鉄筋コンクリート製で瓦葺きの平家。

 1000平方フィート強、3ベッド・ルーム、グラージ付きモダンデザインの一戸建て住宅を6000ドルから9000ドルで提供した。

 そして、移民労働者たちの出身国ごとの住居区分は撤廃された。

 日系も韓国系も中国系もフィリピン系もポルトガル系も、あらゆる民族の融和が図られた。

 移民労働者、そしてその子孫たちの「自分の家を持ちたい」という「夢」がかなう街、それがカフルイだったのだ。

 最盛期には「2分に1戸」住宅が売れたという。

 

 それから70年が過ぎた「ドリーム・シティ」をゆっくりと車で走ってみる。

 古いが外壁の塗装はよく手入れされた一戸建ての建物。

 狭いながらもきれいな芝生の前庭。

 そして花や果実をつける樹木が家々の軒先を彩っている。

 廃屋などは見当たらない。

 庭先のフェンスのデザインにふと「日本らしさ」を見つけたりする。

 現在、カフルイの町に住む人に農業従事者や製糖工場で働く者はほぼいない。

 しかしかっての「夢をかなえた街」の雰囲気はそこここにまだ残っている。

 そして、僕はカフルイのそんな空気が好きなのだ。

 カフルイに住んで、カフルイで働いて。

 マウイ・モールで買い物して。

 タンテズでピナクベットを食べて。

 休みの日にはビーチに行って。

 退屈かもしれないが、そんな暮らしをしてみたいと思う。

 
 僕にとっては「夢」で終わりそうだが。



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Bとの対話

2022-12-27 | マウイしまへようこそ
 今日も北東から風が吹いている。
 
 デッキチェアーに寝そべるようにして、Bはこちらに手をふってくれた。

 彼は半ばリタイアした現在、一年のうち3ヶ月間をこのホテルのコテージで過ごしている。

 ホテルも長年のゲストである彼にいろいろと配慮してくれているらしい。

 デッキチェアーのそばにあるテーブルにはホテルのおごりだという白ワインと数種類のアペタイザーがならべられている。

 夕方の貿易風がスイミング・プールの上を渡って僕とBの頬を撫でる。

 「ここはいいね。空気が乾燥しすぎていない。最近は呼吸器の具合があまりよくなくてね。ここにいると随分と楽なんだ」

 「ここでもピアノは弾くの?」

 「ああ。ピアノの前に座ると気持ちが落ち着くからね。コテージに88鍵のエレクトリック・ピアノを置いてもらってる。最近のエレクトリック・ピアノは素晴らしいね。キーのタッチもほとんど本物のピアノと同じだよ」
 
 「作曲は?」

 「たまにモチーフが浮かべば、ピアノの前に座って展開させてみるよ。たぶんもう発表することはないだろうけどね」

「・・・・・・そうか。発表する気はないんだ・・・・・・。それでも曲は書くんだね。君はこれまで何のために作曲を続けてきたんだい?」

「簡単なことだよ。君も同じだろう?僕が僕であるためさ。ただそれだけ・・・・・・君は神の存在を信じるかい?」

  Bはいたずらをしかける子供みたいな表情で僕に質問してくる。

「最近は簡単に『神』なんていうと見当違いな批判にさらされるからね。けれど僕は神の代理だよ。神が僕という小さな存在をとおして音楽をこの世に生み出しているにすぎない。曲ができるのは僕の才能じゃなくて神の力のあらわれだと僕は感じている」

「『天啓』ってやつかな?」

「そうだね。それのごく小さなものだ。頭の中にメロディーが『おりてくる』のと同時にほとんどすべてのアレンジが曲として頭の中で鳴っているんだ。ただ僕はそれを再現するだけ」

「じゃあ、もう作品を公表する気がない、と言ってたけど、それはもう『伝道』をやめた、ということ?それとももう『天啓』は君に訪れないの?」

 Bはひとくちワインをふくみ、しばらく黙った。



「ポップ・ミュージックはテクノロジーとコマーシャリズムと密接な関係にある。ティーンエイジャーがお小遣いで買えるシングル盤の普及がロックンロールの隆盛につながったし、LP盤がコンセプチャルなロックの表現を可能にしたよね。CD、シリコンオーディオ、そして今はサブスクリプション。音楽を販売するメディアも変わった」

「そうすると、音楽の聴き方が変わる。もうビニル製のLPレコードをA面の一曲目から、B面最後の曲までオーディオ・セットの前に座り込んで聴くことなんかなくなった。僕はちょうどシングル盤からLPに移行していく時代に『まるまる一枚通して聴くと何かが立ち現れる』アルバムを作ることに全精力を傾けてきた。曲間の秒数まで、盤の内周と外周の音質差まで考慮してレコードを作っていたんだ。もう僕の望む聴き方をしてくれる人々がいないんだから、作品を発表する意味がない」

「レコーディング技術も進歩した。机の上の小さなコンピューターでポップ・ミュージックが作られるようになった。それは多くの人々が気軽に音楽表現ができるようなった、という面では素晴らしいことだよ。ただ、その反面もう昔のようなレコーディングができる大きなスタジオはなくなってしまったし、製作にかかわる職人のような技術者もいなくなってしまった。個性的なセッションマンもね。当時は彼らと共同作業を行うことで僕ひとりでは思いもつかなかった結果が生まれていたんだ。たったひとりでレコーディングしていたらたどりつけないような」

 Bはかつてレコーディングを行ったスタジオの名前やアレンジャー、レコーディング・エンジニア、ミュージシャン達の名前を羅列した。

「僕はあるときからもう、このテクノロジーの進化につきあいきれなくなってしまった。それは同時に多くの若者にとってもう僕の音楽が必要ではなくなった、ということを意味していると思うんだ。僕はその運命を受け入れることにしたんだ」

「ひとりも聞く人がいない曲はこの世に存在していないのと同じだからね」


「もうひとつ。ヒップ•ホップとの向き合い方が僕にはわからなかった。ヒップ•ホップは『歌詞」の音楽だ。ポップ音楽の作り手として僕の最大の欠陥は歌詞が書けないことだ。若者向けの曲のなかで歌詞の占める割合は大きい。メロディーやアレンジと半々かそれ以上の重要な要素だ」

「僕は神からメロディーや編曲のアイディアを受け取れるけれど、神の具体的な言葉を受け取ることはできないんだ。そもそも「音」と「言葉」は存在している次元が違うものなんだと思う。脳の全く違う部分を使うんだと思うよ。メロディーを作るより、歌詞を生み出す方がおそらく一万倍くらいむつかしい。メロディーやリズムのもたらす快楽は非常に原始的で本能的なものだからね」

「僕は『言葉」を神から授かることはできないんだ。もしかしたら「言葉」は人間が長い時間をかけてつくった『発明品』で、神から付与されるものではないからかもね。おそらく神は『言葉』を必要としないから。だから神のメヂィアの僕には『言葉』を操る技術がない」

 西の空が鮮やかな濃いピンク色に染まっていた。

 穏やかな風がシャワーツリーの葉ずれの音を運んでくる。

 どこかから甘い蘭の花の香りがする。

 Bはそれらをすべて吸い込むように大きくいちど息を吸った。

「それにしても音楽は素晴らしいね。・・・・・・音楽は永遠だ」

 アリューシャン列島の低気圧が生み出した大きなうねりが長い長い距離を伝わってこの島のガケに当たる音が聞こえる。

 壮大な音楽。



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HANA BALL PARK〜ハナ・ボール・パーク

2022-08-17 | マウイしまへようこそ
 
 ハナ・ボール・パークではスロウ・ピッチ・ソフトボールの試合中。

 夜7時半までには試合終了。

 午後7時をすぎたら次のイニングには入らないルールだ。

 4回の裏、ワンナウトでPJに打順が回ってきた。

 チームは2点差で負けている。

 PJは滑り止めをバッティング用グラブにたっぷりとふきつけ、上体を左右に回しながら
ゆっくりと左のバッターボックスに向かった。

 風は止んでいる。


 PJはハナで生れた。

 ハイスクールを出て、オアフ島のカレッジに学んだ。

 カレッジを出てサーバー管理会社の下働きの職を得、サンノゼで3年間暮らした。

「給料はよかったけど、とにかく忙しかったし、家賃が高くてね。働いても働いてもたい
して貯金なんかできないんだよ。それでやっぱりハナに帰ってきた」

 故郷にもどり父親も働いているホテルの仕事に就いた。

 ホテルの運営するアクティビティのホースバック・トレッキング。

 今、PJは馬たちを管理をしている。

 夕方馬を洗い、飼葉を与え、馬房に馬を入れて「おやすみ」と言ったら一日の仕事はおしまいだ。



 ハナ牧場とホテル・ハナ・マウイの創業者あるサンフランシスコの実業家、ポール・フェイガン。

 彼はマイナーリーグチーム、「サンフランシスコ・シールズ」のオーナーでもあった。

 シールズは新設の機運がたかまる「西海岸のメジャー・チーム」の最有力候補でもあった。

 1947年のシーズン開幕前、彼はチームのスプリング・キャンプを愛するハナの地で
行うこととした。

 ハナ・ベイを望むカイウキ岬のつけねにある古い学校のグラウンドを整備し、練習場と
して使った。

 そのグラウンドが現在のハナ・ボール・パークだ。

 選手たちは午前中は練習し、午後や休日は乗馬やテニス、水泳やハイキング、ビリアードをして
楽しんだという。

 同時にオーナーのフェイガンは選手とともに、新聞記者やスポーツ・ライターたちもハナに
招いた。

 この美しい村を「ヘブンリー・ハナ」として誌面で多くの人たちに紹介してもらうためだ。

 このことがきっかけで牧場しかないマウイ島の寒村が観光地として全米に知られることと
なった。

 フェイガンはもちろん「隠れ家のようなリゾート」としてハナを発展させようとも考えて
いたのだ。

 選手たちや記者、ライターたちの宿舎が、その後のホテルの基礎になっていることは言うまで
もない。


 
 PJはバッターボックスで2度素振りをして、ボールを待った。

 ピッチャーはセットしてふんわりとギリギリでホームプレイトまで届くような山なりの
ボールを投げる。

 
 ボールはグラウンドを照らすライトの光に一度輝き、上昇し、闇にのまれ、落ちてきて、
またバッター・ボックスの手前で光を受ける。

 PJは思い切り振った。


 打ったボールは右中間にあがり夕闇に吸込まれていった。


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ホノコワイのグランマ

2022-03-13 | マウイしまへようこそ

 ホノアピイラニ・ハイウェイと呼ばれる州道30号線ができる以前。

 「西マウイ」という言葉は「田舎」と同義語だった。

 灌漑用水を引ける土地はサトウキビ畑。

 水が充分でなければパイナップル畑。
 
 雨が少ない西マウイにはそのふたつ以外に耕作に適した作物はない。

 あとはただの乾いた荒地がひろがっていた。

 そのころ。

 数カ所の岬をたどる海岸沿いの道としてホノアピイラニ・ロードはすでにあった。

 地域の中心地ラハイナの町とさらに北部のパイナップル・プランテーション
を結ぶ生活道路。

 収穫されたパイナップルをホノコワイの缶詰工場まで運ぶ道でもあった。

 缶詰工場の跡地は今、ショッピング・モールになっている。

 週末、モールのまんなかにあるステージでは地元のこども達がコーラスを披露したり
フラを踊ったりする。

 そんな呑気なモールだ。

 ショッピング・モールを東側からグルっと包みこむようにしてホノアピイラニ・ロードが
走っている。

 そして敷地の北東の角で現在のステイト・ハイウェイと合流し、ホノアピイラニ・ロードは
終わる。

 その昔、北西部のプランテーションにつづく道の終点・起点が缶詰工場だった、ということだ。

 西マウイのパイナップルが1日に万単位で缶詰にされていたころ、ホノアピイラニ・ロード
にその食堂はもうあった。

 「シシド・レストラン」




 2011年9月。

 空港で車を借り出し、カパルアに向かっていた。

 ホノアピイラニ・ハイウェイでラハイナを過ぎ、時間を確認する。

 午後1時前。

 コンドミニアムと約束した時間にはまだ少し早い。

 それに腹が減った。

 思えばハワイ時間の早朝に飛行機の中で出されたフルーツとペチャンコにつぶれたクロ
ワッサンが最後の食事だった。

 それにしても「クロワッサン」の発音が難しい。

 機内で今回も一度でクルーにわかってもらえなかったな。

 フランス語だからかな、三日月。

 ハイウェイを降り、左折で旧道に入る。

 ローワー・ホノアピイラニ・ロード。

 ハイウェイとの交差点にあるガス・ステーションに車を入れ、ポンプの番号を確認する。

 喉もかわいていた。

 とりあえず、なにか飲みたい。

 ガス・ステーションの事務所兼売店の中に入る。

 眠そうなフィリピン系のアーンティが店番をしている。

 ダセニのドリンキング・ウオーターを一本手に取り、なにか食事になりそうなものがないか物色
してみる。

 サンドウィッチやデリ用の冷蔵ケースはあるのだが、ほとんど商品は入ってない。

 カップに入ったフルーツゼリーでは腹の足しにならないだろう・・・・・・

 水のボトルをキャシャーに差し出し、3枚のドル札をそえる。

 「おはようございます。調子はどうですか?パンプナンバー3に10ドル、それとこの水ね」

 アーンティーは水のボトルをスキャンする。

「おはよう。あら、もうお昼すぎだよ。”おはよう”には遅すぎる。調子は、まあまあ。現金なんて
100年ぶりに見たよ。あんたたち日本人はまだ現金で払う。11ドル70。」

「チェックの方がいい?」

「いいよ、いいよ、現金で。お釣りはあるから。ありがとうね」

「ありがとう。えーと、この近くにカフェか食堂ないかな?朝ごはん、いや、そうじゃなくて
昼メシ食べたいんだ」

 ボトルのスクリュー・キャップを開け、ひと口飲んでアーンティに聞いてみた。

「シシド・レストラン知ってる?」

「聞いたことないな。近く?」

「日本から来たなら、行ってみるといいよ。ここを出て右、ローワー・ホノアピイラニ・ロ
ードを行くと、彼らの店がある。パン・ケーキかサイミンを試してみなさい。コークの大きな
看板がサインの店だよ」

「教えてくれてありがとう。行ってみます。じゃあよい日を」

「ありがとう。あんたもね」

 

 ガス・ステーションを出てローワーホ・ホノアピイラニ・ロードを1マイルほどゆっくりと
北上する。

 右手に大きなコカ・コーラの看板が見えてきた。

 横幅10フィート以上はある赤地のコカ・コーラのロゴ広告。

 その上の白く抜かれた部分に店名と広告が記されている。

 「シシド・レストラン、世界的に有名なパン・ケーキ」


 外観は昔ながらのロード・サイド・レストランだ。

 日本ではドライブ・インと呼ばれるやつ。

 横長の平屋で、真っ平らの陸屋根。

 屋根と壁はピンクがかったサンド・ベージュに塗られている。

 店の前は舗装された広い駐車場で、その駐車場に向かって屋根が5フィートほまっすぐ
にせり出しひさしと雨よけになっている。

 大きな腰高のガラス窓が6面。

 店の前面は7~8インチほどの高さで、白いコンクリートのテラスになっている。

 中央やや右手にアルミニウム・サッシュにかこまれた両開きのドアがある。

 
 入口を入った左手にキャシャーがあり、そこの70代くらいの女性が座っている。

 「こんにちは。ひとりです」

 そう告げる。

 「カウンターの席はいかが?」

 「ありがとう」
 
 カウンターにはひとりぶんずつ重いマグカップとカトラリーが用意してある。

 座ると中年のウエイトレス役の中年女性がマグカップをひっくり返しながら、
「コーヒー?紅茶?」とたずねてくれる。

 コーヒー、と答えると、すぐにマシーンで保温してある大きなポットから薄いコーヒーが
注がれる。

 席についてすぐにコーヒーを飲めるのはいいシステムだ。

 味はともかくとして。



 店の自慢のパンケーキを食べ、店を出るときだった。

 キャシャー席に腰掛けていた、老女に声をかけられた。

 「パンケーキを楽しみましたか?」

 「はい。おいしかった。ありがとう」

 「あなたは日本から来ましたか?」

 「はい」

 「そう。津波きましたか?あなたのファミリーは大丈夫だった?レディエイションは?」

 「マウイしまにも津波が来ました。多くの人が高いところに逃げましたよ。水が
入った家もあります」

 「わたしのおじいさんはね、フクシマ。だから私は津波のこと悲しい。レディエイションも。
心配です」
  
 「マウイしまに来てくれて、ありがとう。また必ず来てください」

 老女は僕の目をまっすぐにみながら言った。

 距離も時間も離れてしまったおじいさんの祖国を心配している人がここにいる。

 ホノコワイのグランマ。

 ありがとう僕も僕の家族も友人も無事でした。

 でももうあなたのおじい様の祖国は安心して暮らせる国ではなくなりました・・・・・・

 悪魔に魂を売ったからです。

 残念です。

 しばらくマウイでのんびりしたら僕はまた東京に帰ります。

 そしてまたマウイに来たら、必ずパンケーキを食べにきます。

 グランマ、そのときまでどうぞお元気でいてください。

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シュガー・ミルがなくなる

2022-02-06 | マウイしまへようこそ

 プウネネのシュガー・ミルがなくなる。

 カフルイ空港で車を借り出し、エアポート・ロードからクイヘラニ・ハイウェイに入ると、いつもシュガー・ミルの煙突から煙がのぼっているのが見える。

 それを見ると「ああ今日も北から風が吹いてるんだな」と思う。

 そして同時に、またこの素敵な貿易風の島に来たんだなと思い、嬉しくてにっこりしてしまう。

 だけどもうシュガー・ミルの煙突から煙のあがることはなくなるんだな。

 ハレアカラに向かうハイウェイの両側にひろがっていたあのサトウキビ畑はいったい何になるんだろう。


 (マウイ島プウネネ地区にあったアレクサンダー&ボールドウィン社の製糖工場は2016年12月閉鎖された)


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ホテル・ハナ・マウイ

2021-11-29 | マウイしまへようこそ
 ホテルのメイン・ダイニングの椅子に座り、半マイル先にひろがる入江をながめている。

 海抜50フィートほどの段丘にこのホテルはある。

 丘の上から眺める午後の南太平洋は白っぽく輝いている。

 9月の東マウイは、まだ風も波もおだやかだ。

 ホテル・ハナ・マウイ。

 小さなサインひとつしかこのホテルの入口をしめすものはない。

 ハワイ州道36号線、通称ハナ・ハイウェイ沿いにこのホテルの入口はあるのだが、
あまりにも目立たなくて初めてのゲストは一旦通り過ぎてしまう。

 それどころか、一度もハナを訪れたことのない者なら、自分が村でもっとも「繁華な」
場所を走っていても、そうとは気づかないだろう。

 ホテルの入口とハセガワ・ゼネラルストア、そしてゼネラルストアが経営するガス・ステー
ションのあるあたりが「村の中心部」なのだ。

 ホテルの向かい、村の中心地の西側には、丘の上に向かって牧草地がひろがっている。

 牛たちがのんびりと草をはんだり、ねそべったりしている。

 「ハナ・ランチ」

 ハナ牧場だ。

 そしてこの牧場こそが、現在のハナの村をつくった。


 
 19世紀のなかば、マウイ島の北東端、ハナの地にもサトウキビ産業がもたらされた。

 それからおよそ80年間、もっとも盛んなときには6つものプランテーションができ、
1926年にはハナ・ハイウェイも1車線道路ながら完成した。

 しかし、1940年代に入るとハワイ州全体で労働運動の機運が高まり、それと同時にサトウキビ
農園労働者の賃金が上昇する。

 小規模なハナのプランテーションはコスト増に耐えられなくなった。

 砂糖の積み出し港から遠く離れた立地の悪さもあいまって、ハナのサトウキビ農園は
つぎつぎに閉じられていった。

 村の労働者は島中央部の農場に移らざるをえなかった。

 ハナに仕事がなくなった。

 そんなとき、以前から村のプランテーション経営にかかわっていたサンフランシスコの実業家、
ポール・アーヴィング・フェイガンが新しい事業に打って出る。

 1944年、フェイガンは14000エーカーのサトウキビ農園を買取り、牧草を植え、自身が経営して
いたモロカイ島の牧場からハーフォード種の肉牛を運ばせた。

 そして村の失業者たちを雇った。

 「ハナ・ランチ」の誕生である。



 牧場経営が軌道にのり始めると同時に、フェイガンはさらにハナの地の可能性に
賭けてみようという気になった。

 彼自身がこの美しく静かな村をすっかり気に入ってしまったのである。

 ただし、実業家としての目論見もあった。

 1940年代を通じ、重要な軍事拠点であるハワイを数百万もの将兵、軍関係者が訪れた。

 そして同時にそれはメインランドの多くの人士が観光地としてのハワイの魅力に気づく
ことも意味していた。

 「またハワイに来たいと思う人々は多いだろう。そしてワイキキ以外の地も訪ねてみよう
と考える富裕な観光客は増えるはずだ」

 そう確信したフェイガンはハナの入江を望む岬の丘陵に、その岬の名を冠して「カイウキ・イン」
という宿泊施設を開業した。

 それが「ホテル・ハナ・マウイ」の前身だ。




 そして80年の時が流れた。

 21世紀の現在、55エーカーあまりの敷地に69の一戸建てコテージがある。

 特に素晴らしいのはハナ・ベイへの断崖までゆるやかに降りていく斜面に点在するコテージだ。

 かつての農園労働者たちの住居を模した建物の中には、エア・コンディショナーもテレビもラジオ
も時計もない。



 東マウイ特有の未明の雨。

 差し込んでくる朝日。

 遠くの波の音とヤマバトの鳴き声、木々の葉擦れの音、風の音。

 それ以外は聞こえない。

 世界で最も美しい夜明け。


 
 そしてこのホテルの魅力はそんな周囲の自然にだけあるのではない。

 世界中から何世代にもわたってゲストを招くこのホテルの美点は、やはりその成立ちに
関わっている。

 開業時、ホテルの従業員となったのはハナ牧場の労働者、そして彼らの家族。

 そしていまでもホテルで働く人々のほとんどが、血縁か婚姻によって結ばれた文字通
りの「家族」なのだ。

「家族的なもてなし」という表現がよくなされるが、ホテル・ハナ・マウイでは「ほんとうの家族」
がゲストを「新たな家族」として迎えてくれるのだ。

「今年もまた帰ってきた」そう思わずにはいられない雰囲気と従業員の笑顔がこのホテルの
あらゆるところに満ちている。

「お帰りなさい。お待ちしていました」



 午後のハナ・ベイをながめながら、素晴らしい白ワインを飲んでいる。

 「今朝ここから1マイル沖でとれたオノだよ。さあどうぞ」

 ウェイターのアイザックが入江の先を指差す。

 「ちょうどあのあたりだね」

 「君が釣って来たの?」

 「うちのレストランには専属の漁師がいるんだ。彼が今朝獲った魚。レオっていうぼくのイトコだよ」

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