ときどき、もし地球上でどんな街にでも住むことができるなら、どこの街がいいだろうかと考える。
そんなときいつも「カフルイがいいかな」と思う。
カフルイの別名は「Dream city」
「夢のかなう街」
1843年、それぞれ宣教師を父に持つサミュエルとヘンリーというふたりの少年がラハイナの学校で出会った。
それがアレキサンダー&ボールドウィンという会社の始まり。
19世紀の後半から20世紀初頭にかけ、A&B社はマウイ島中央部に大規模なサトウキビ・プランテーションを開発した。
農園で働くさまざまな国からの移民労働者たちはサトウキビ畑地域からはやや北のワイルク地区にキャンプを与えられ、そこから農場や製糖工場に通うことになった。
キャンプの場所は移民たちの出身国ごとに区分けされる。
その中では母国の生活様式、伝統や文化が継承されていた。
例えば、日本人移民のキャンプの中では豆腐や醤油が作られ、風呂は銭湯のような多人数で使用する共同浴場であった。
1940年代に入ると人手不足と労働運動の高まりにより農園労働者の賃金が上昇した。
そのため経営者は農園や製糖工場の大規模化、機械化を迫られた。
さらに労働条件の改善も課題だった。
それにともない民族別に区分されたプランテーション・キャンプも解体することとになる。
1949年、アレキサンダー&ボールドウィン社は不動産開発を目的とし「カフルイ・ディベロップメント(KDCo.)」という子会社を設立する。
島の主要な港であったカフルイ港周辺に農園労働者や製糖工場職員、農産物を輸送する鉄道会社職員のために「新しい街」を作る事業をKDCo.は始めた。
プランテーション・キャンプの解体後、労働者に住居を供給する事業である。
その計画の名が「ドリーム・シティ」。
港を要とし、扇のように14区画、3500戸あまり住宅、それと同時にオフィス、学校、病院、教会、ショッピング・センターなどの施設を配置するプランだ。
住居は鉄筋コンクリート製で瓦葺きの平家。
1000平方フィート強、3ベッド・ルーム、グラージ付きモダンデザインの一戸建て住宅を6000ドルから9000ドルで提供した。
そして、移民労働者たちの出身国ごとの住居区分は撤廃された。
日系も韓国系も中国系もフィリピン系もポルトガル系も、あらゆる民族の融和が図られた。
移民労働者、そしてその子孫たちの「自分の家を持ちたい」という「夢」がかなう街、それがカフルイだったのだ。
最盛期には「2分に1戸」住宅が売れたという。
それから70年が過ぎた「ドリーム・シティ」をゆっくりと車で走ってみる。
古いが外壁の塗装はよく手入れされた一戸建ての建物。
狭いながらもきれいな芝生の前庭。
そして花や果実をつける樹木が家々の軒先を彩っている。
廃屋などは見当たらない。
庭先のフェンスのデザインにふと「日本らしさ」を見つけたりする。
現在、カフルイの町に住む人に農業従事者や製糖工場で働く者はほぼいない。
しかしかっての「夢をかなえた街」の雰囲気はそこここにまだ残っている。
そして、僕はカフルイのそんな空気が好きなのだ。
カフルイに住んで、カフルイで働いて。
マウイ・モールで買い物して。
タンテズでピナクベットを食べて。
休みの日にはビーチに行って。
退屈かもしれないが、そんな暮らしをしてみたいと思う。
僕にとっては「夢」で終わりそうだが。
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