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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

思考停止とは、本当に「停止」なのか?

2015年03月23日 | 考えごと
「思考停止」だと云われる状態ってさ、思考の流れが
本当に「停止」している場合もあるかも知れないけれど、
もしかしたら、じつは
そうじゃない(←停止、じゃない。)のかも知れん。
って、ちょっとおもっただけどねぇ。。。

それとはつまり、
「思考停止」ではなく、「思考全自動」でございまして。

なにかと出くわしたとき、ひとは「思考」を開始する。
であるのだとしてぇ、その思考とは
果たしてどのように進まれて、
そして最終的にはどう「行動」がなされるか?!

‥‥と、そうゆうときにね、思考の結果
最善な道を歩むことが出来る時もあれば、
「思考停止」の文字どおり思考が
完全にストップしちゃって「行動」取れない時ってのも、
じぶんを振り返ればあったり。。。

あとはさ、これから申しますのが、
うえ↑で記しました「思考全自動」の事なのですが、
思考をするときにもうじぶんの中で完全に
思考がオートフォーメーション化しておって、
入力した瞬間「答え」がすぐにも出力されるような場合…

こう、なんてゆーか、(パッ!)とさ。

いえ、たぶんそーいう状態のほうがもしや思考には
理想的なのかもしれないですが、
うまく行っている時期ならばよいかもだけれど、
もしも何かの歯車が
噛み合わなくなってしまっている事態の時をおもえば、
「思考全自動」、どうなのかなぁ? とおもったのね。

それは、たとえば
サーキット場のコースを超超超高速でぐるぐる回っていて、
また言い換えれば、
同じ地点を力強く回転する駒のごとく、
もう誰にも止めることも動かすことも触れることも出来ぬ。

サーキット場から「出る・抜ける」ためには、
建物の中と外とをつなぐ通路をくぐらないと行けないけど、
最高速で走っている時ならば
そんな通路をくぐるのはどんなに腕が確かでも不可能で。。

ブレーキ踏んで、、スピードを落として、、徐行させ、、
ゆっくりコースを外れてその通路に向かう必要がある。
じゃけども、ずーっとハイスピードのままならば、
もう誰にも止められずにもしかすると本人すら
車を制御することが出来なくなっているのかも知れない…

…的な???

「思考停止」も、「思考全自動」も、
思考にとってみるとあんまりよくなくってぇ、
ほどよい加減の「思考手動」がちょうどよいのかも~!
ってゆーようなコトを考えてみましたっ。

2015年3月23日 @ ワンダーライン

能力は「なにか」で覚醒する?!

2015年03月18日 | 考えごと
じぶんの能力ってのはさ、たとえば
誰かより「いいね!」を言ってもらったり、
誉めてもらえたり、仮に偉大な賞をいただいたとしても、
そのおかげで能力がアップするわけじゃない。

その「いいね!」とは、あいてのかたはたぶん
じぶんの「過去」の能力のことをおっしゃっていて、
「未来」からの能力については何の担保されてない。

んでは、どうしたら
じぶんの能力がこれから上がるのか?! と言えば、
それはやっぱしよくわからないだけれども。
んでもそーいうのってのはさぁ、もしかしたら
じぶんのからだの「なか」の話、なのかも知れない。。。

っておもったのー。

じぶんのからだの「なか」で、
これまででは到底思いつけなかったような考えが
「そのとき」の後ではなんか思いついてしまうかのように、
成る。みたいな??

となれば、その
「そのとき」の瞬間にはからだの「なか」で、
なにが巻き起こっているのだろう‥‥

‥‥て、それでね、ふと思いだしたのはっ、
ゲーム『 MOTHER 3 』の主人公・リュカが
はじめてPSI(超能力)を覚えたときのこと。

どっかトンネルをぬけるとなんか温泉があって、そんで
なんやらそこでイオニアと云うマジプシーのひと(?)に
「なにか」をしてもらって。そこでねぇ、
タララッタラッ♪ って最初のPSIを覚えるのですが。
その瞬間にはゲーム画面が真っ暗となり、なので
(まっぱだかの)イオニアさんに「何」をしてもらったかは
主人公・リュカ本人にもよくわからない。

なんてゆーか、ブラックボックス的な~?!

でもそれとはつまり、
「いいね!」では無いなにか別の「こと」を、
他人のかたより「してもらった」から、
じぶんの「なか」が変化した。。。

と、そーいうようなコトがさっ、まずは
「スタート」になるのではないか?????
って思ったんだけどねー。
それがさ「なにか」はさーっぱりよくわからないっ!

2015年3月18日 @ 変身 (GLIDER MIX) by group_inou

「すてき」の考察。

2015年03月17日 | 考えごと
さいきんおもっていたのはね、、、

「すてき」なひととは、
「すてき」なことがらのことを
「すてき」だと、どんどんはなすひと。なのだと。
「すてき」をいう量に比例して、そのかたの
「すてき」さはさらにさらにと加速してゆく。。。

のよーなコトなんだけどもー。

「すてき」っていうためには、まずは
「すてき」を探しみつけることが重要で、そして、
「すてき」なひととはたいてい
「すてき」をすぐさまに発見しておって、さらには
「すてき」ってスッと声に出せる…

…なのではないんかやぁ?! とおもったもんでよ、
じぶんも、
すてきだってちゃんといえるようになれたらなー。
とかをかんがえてただけどねっ。

それでまたおもいだしたんはさ、
あずまきよひこさんの漫画『よつばと!』12巻での‥‥

みんなでキャンプに行き、
よつばのうちのお隣綾瀬家三女・恵那が
どんぐりでネックレスをつくりよつばにみせると、
よつばは「!!」とおどろいて





もうそれ ほうせきになった

いいな! そんなすてきなの
よつばはおもいつきもしなかった…

だからどんぐりいっぱいあるのに
そんなほうせきは1こもない… いいな…





という場面のことがなんか強烈に印象に残ってて、
ふとおもいだされたもんでぇ
『よつばと!』、また読み返してたもんねー!!




(↑12巻、最後のシーンがまたよいのよねぇ。。)

では、ほいでは~。ほんじつこちらは快晴だよーん、
どーぞよい1にちをすごしてね!

2015年3月17日 @ きらきらひかれ

ものごとの鮮度?!

2015年03月05日 | 考えごと
地面の「なか」で育つか「うえ」で育つかによって、
野菜の性質(←火が中まで通るまでの時間。)が
まるで変わってくる~。

のよーなことを前回エントリにて申しあげました。

と、そこからさらに解釈を飛躍させてしまって、
「考えごと」や「アイディア」のようなコトにだってさ、
そのような「食べごろの調理時間」てのがあって。

たとえば、収穫した「思い」や「感じ」とゆーのが、
地面の「なか」的なのか「そと」的なのかの「収穫場所」で
変化するんじゃないかなぁー。っておもったのよね。

んで、なんか、それでちょっと思い出してしまったのは、
去年くらいのいつごろだったか忘れたけれど
思い付いたときは結構盛り上がってブログにも書こうと
おもってたけれどタイミングを逃し、
そのままにしとったらぜんぜん鮮度も落ちて
もうすんげぇつまんない感じになっていた話のこと。。。

それはねぇ、、、




↑自宅の洗濯機での




↑この「温水コース」っていうボタンを押したらば、
 ぬっくんこと俳優の温水洋一さんがここへいらっしゃって
 温水さんがその手でやさしく洗濯してくれる…


っていう話だったのですが。。 ま、サブいだわねぇー。
なのですが、言った瞬間はさ、なかなかの好感触でさ、
これってばさ、それを「もぎたて」だったときは
新鮮だったけれども。的な?! いや知らんけど。。。

でございますので、ちょうどその時期のこのブログってば
たしかなにかのシリーズものを書いていて、
それ終わってからよし書こうとしてみても
そのときにはもう完全に目も当てられなくなっている。

(温水さん、ネタとしてしまい、ごめんなさい。)

つまりはねぇー、
調理(制作)にめっちゃ時間かかる根菜的事柄もあれば、
収穫したその場で食べんとダメ、みたいなのもある‥‥

‥ってまとめたとしたってもねぇ、
まぁー、あれ↑じゃあ説得力無いわな。

ではでは! 豊橋晴れてますっ、よい1にちを~♪

2015年3月5日 @ プライマル

根菜を茹でる的。

2015年03月04日 | 考えごと
じぶんはお料理のことはもうさっぱり素人なのだけれども、
そいでもなんかふとうかがって
(なるほど~!)とおもったのはさ。

「野菜を茹でるときには、根菜類は、
 『お湯』からでなく『水』の状態から茹でる。」

のことなのだわね。
ま、そーいうのはぜんぜん常識なのかも知れないですが、
はじめて聞いたときは「おぉー!」って、
じぶんはおもったんよー。

理由は
「火が中まで通るのに時間かかるから。」
とのことらしいかね?! んと、よく知らないけれど。

ほいでさ、
土の「なか」で育つか、土の「うえ」で育つか。
によって野菜の性質が変わってくる。なんてぇ、
ちょっとおもしろい!!

「地面」という境界線が、その性質を二分してるもん。

(←ググってみると、「レンコン」は沸騰したお湯から、
  根菜ではないけれど「カボチャ」は水から、
  などの例外はあるらしい。)

そーなってくるとさ、それをちょっと飛躍させてしまって。
「考えごと」とか「アイディア」のようなものにだってぇ、
それが「地面」の「なか」か「うえ」かのどちらかによって
中心まで「火」が通りやすいかどうかーっ?! 
のコトが変化してくる。ってなもんで……

 ・お水の状態から入れておいてゆーっくり茹でるのか
 ・沸騰した所に入れ「さっ」と煮たりしゃぶしゃぶか
 ・はたまた生野菜サラダとしてもうすぐ食べられるか

なんとゆーのかな、「思い」や「感じ」を収穫したとして
でもそれが、
「地面」の「なか」的なのか「うえ」的なのかによって、
制作のしかたや制作時間が変化してくる。

そういうよーなことをね、ちょっくら思いました。

2015年3月4日 @ 炎のエスカルゴ

どれだけの時間を要するものか‥‥

2015年03月03日 | 考えごと
これは、ちょっとふと思ついたことなのですが。

たとえば、全くそのようでは無いひとつの「国」が、
「軍国」であるかのような様相に変わるためには、
少なくとも、どれだけの時間を要するものであろうか??

この日本におきまして、このわたしに対して、
あした、召集令状なるものが届くことは無いだろう。
あさって、召集令状なるものが届くことは無いだろう。
しあさって、召集令状なるものが届くことも無いだろう。
1かげつご、召集令状なるものが届くことさえ無いだろう。

1ねんご、召集令状なるものが届くことは無いだろうか?!

2ねんご、3ねんご、5ねんご、10ねんごは、50ねんごは、
どうなのだろうか。。。
100ねんご、500ねんご、1000ねんごとなれば、
そのときぼくはもう居ないけれど、
その時代を住むご子孫のかたがたには、どうであろうか。

ウィキペディアで少しだけ調べてみますと……


  1867年 大政奉還
  1873年 陸軍省より徴兵令が発布
  1889年 徴兵令大改正によりほぼ国民皆兵制となる
  1927年 徴兵令を全面改正、兵役法制定
  1937年 支那事変勃発
  1941年 太平洋戦争開戦

  その後、幾度かの兵役法改正・召集規則施行を経て

  1945年 終戦、兵役法廃止


この年月におかれまして、
仮に「1867年」と云う年をあくまでも仮に、
現在の年に置き換えますと……


  6年後 「省」より「令」が発布
  22年後 「令」の大改正
  60年後 「法」の制定
  70年後 「事変」勃発
  74年後 開戦
  78年後 「法」の廃止


これはもう考えても、
まったく想像できないことなのではございますが。
江戸時代に住まわれておられたご先祖のかたがたは
その将来に「徴兵令」が発布されることは、
予測出来なかったのではないか。(わからないけれど。。)

となりますると、この現在におかれましても
5年先ならばそのようなことは「起らない」とは云えても、
60年先では今の時代では考えられないような「法」が
もしかしたら制定されているかも知れなくて‥‥

いま現在のなにかしらの舵きりが、
近い将来においてはほとんど変化無くとも、
もしや数十年後の未来となっては
それがある大きな流れ・方向をもたらすものかも知れぬ。

とかなんとか、つべこべと思っていた~。。

2015年3月3日 @ ベリーベリーストロング~アイネクライネ~

おでかけをする。

2015年03月01日 | 考えごと
あ、どーもどーも。こんにちはっ。

ってゆーか、3月だわ!
いつのまにやら。。。

そして。昨日エントリまでのことは、よみかえせば
なんかじつはちょっと矛盾していそうな雰囲気、と云うか、
でっかい比喩の中にさらに比喩(←「島」のくだり)を
入れ込んじゃってる所とか。ちょっと、ややこしいな‥‥

んでもさ、なんと申しますか、たぶん
その申しました全体の事がじぶんの気質と申しますか、
まとめてしまいますと「ひきこもり気質」的な??

それも、「身体のひきこもり」って申しますよりかは、
「精神的」な…、「心」の…、いえもっと申しますならば、
「魂のひきこもり」からのぉー 脱出?!

んであるからしてぇ、
たとえば実際にどこか外へ出かけたとして。
それはたとえじぶんの「身体」を引き連れていてもねっ、
その「身体」から見える風景は、「魂」がひきこもってては
じぶんの「知覚」できる物事以外には
なんにも見たり触れたり感じたりすることができない。

そして。でも、かと言って、
完全に「魂」がオープンだとしたのなら、
もう総ての物事が「身体」に入って来ちゃってパニック!!
と、そーいう
「『バリア』は貼るけれどちょっと『風穴』は開いている。」
みたいな、感覚~??

えーっと、なんか今日のこの↑文章ってば、
もうとくに、じぶんのためのメモ的なふんいきに
なってしまっているけれど。ま、いいやー。

あの、もしも、
ここにお越しいただいてる方がおられましたら、
深く感謝を申しあげます。あなたに。どうもありがとう!

ほんじつは、おでかけをして来ますっす~。

2015年3月1日 @ サラウンド -出戻Re-mix-

ぼくの世界観。(「どせいさん」的そんざいver.)

2015年02月28日 | 考えごと
前々回および前回エントリではねっ、
じぶんの知覚できる領域の事を「知覚範囲」とよびまして、
その範囲の

・「中」にあるもの(=知覚できている。)
・「外」にあるもの(=知覚できない。)
・「境界線」に接するもの(=掴まえることができる。)

ってゆーような分けかたをいたしまして。
そこから、「あたらしいであい」をするためには、
どこぞかの「知覚範囲外」より「境界線上」へと
流れ寄って来たものごとをなんとか掴まえる!

みたいなことが大事なのかも。と申しあげました。

なんかさ、そのことをブログ書いてて思ったのはさ、
おれってのはそーいう価値観と云いますか、
世界観のなかで生きているんやなぁー! ってさー。

だってふつうならば、
そんな「知覚範囲」の「中」と「外」とを分けなくても、
どんどん歩み出して行ってしまって。それは、
泳ぐであったり、船であったり、飛行機であったり。。。

でもおれってのは島の中央でぽつんと待ちながら、
たまに海岸線へと流れ寄る「異界のものごと」を
「どせいさん」的そんざいが持ち帰って来てくれる‥‥

‥‥と、そんなよーなの、世界観?!

なんかすっごいバリア張ってるかのよーな??

「どせいさん」的そんざいは
それらを掴まえて拾ってきてくれているときに、
(これはよいものひろったー! ぽえ~ん)とか
(これ、いらない。です。ぶーぶー)などなど仰りながら、
ご自身でご判断をされながら拾われるのだそうだけれど。

そのご判断にたいして、ぼくはその
「どせいさん」的そんざいのことを信頼してるからー、
んーと、まぁ、だいじょーぶっ!!

で、ときに感受性がちょっと鋭くなってしまうぼくが、
皮膚感覚をまるだしにして過ごすよりかは
この↑ような世界観をもって生活する。
ってのを、たぶんいつだったか発見をしたのだけどねぇ。

ちょっと最近、一歩ふみだしたい気もしている…

とおもって、
さらにあともうすこしだけ考えてみたのはねー




↑こんなかんじで、
 数珠つなぎでつないで行ければ
 もうちょっと遠くまで行けるかも知んないなぁー。。

ほいではね、よい週末の月末をぉ!!

2015年2月28日 @ 若者のすべて

「知覚範囲内」の旅。

2015年02月27日 | 考えごと
前回エントリでは、
あたらしい「であい」のことについて
「知覚範囲」という範囲をもって図解でご説明申しました。

のではございますが、なんかあれだと
まだまだ説明が不十分なよーな気がいたしましたので、
ほんじつはもう少しだけそのつづきを申しあげます。

まずは、昨日の図をひとつにまとめますと、、




↑このように、この「円」を「知覚範囲」として、
 「緑」が「範囲内の物事=知覚できる」
 「青・茶」が「範囲外=縁が遠すぎる=知覚できない」
 「黒」が「境界線上=掴むことができる=知覚できる」

っと云うふうに、ぼくは考えました。
そしてその「知覚範囲」をぐぐっと拡大してみれば…





…の、さらに倍……

【立っているポールは、中心点を表しております。】





…はいっ! と、ここで




↑以前よりうちへおしのびでいらっしゃっている
 どせいさんにご登場をねがいまして、
 つづきのご説明をもうしあげます。




↑「知覚範囲」を動き回るどせいさんは、
 いつも「範囲」の中心よりスタートしてゆくのですが、
 一番近い(=縁の濃い)物事には、もうすぐにも到着。




↑次の物事は、その「範囲」の中だけれど
 ちょっとだけ遠いから、




↑どせいさんは、一歩ずつ、一歩ずつ




↑よーやく到着!

の、場所よりさらに遠くにございます
「知覚範囲の境界線上」にある「黒」までは、
この場所を「中継点」として、さらに、歩く、歩く・・・




↑そして、なんとか、たどりつく。

ここでね、ぼくが何を申したいかって申しますとぉ、
「境界線に接している」からと言っても
そこへは簡単にはたどりつくことが出来なくって。
「知覚範囲の中」だけど「より遠い物事」を経由させ、
それで、よーやくそこに到着できるのではないか?!

ってなことでして。

んでね、最終的にどせいさんは、




↑こんな感じで、それを、もちかえって来てくれて…

「近い物事」ももちろんよいんだけれどもさ、
「より遠い物事」にもたびたび触れながら
ときには、どこかから「境界線上」まで流れ寄る
「未知な物事」ともであいたいっ!!

なんてゆーような、ほんじつのエントリでありやした~。

2015年2月27日 @ サクラあっぱれーしょん

あたらしい「であい」についての図解。

2015年02月26日 | 考えごと
最近すこし考えていることがございまして。

それはさ、「であい」についてのことなのだけどねっ
そのぼくがおもう「であい」のこと、
ちょいと図解をいたしますと……




↑まずはこんな感じで、じぶんが
 知っている・感じ取っている・知覚できている範囲が、
 ありますとして。




↑このように「知覚範囲の中」にある物事は、
 知っていたり感じ取っていたり見たことあったり
 もう思うことはできているのだけれど。。。




↑上図みたく「知覚範囲の外」に存在しているものは、
 じぶんからは程遠くってなかなか縁薄いと申しますか、
 知覚もあまりできなくてぇ‥‥

‥‥と、そーなりますとっ。

「知覚範囲の外」にあるものとはであえずに、
もうすでにであえている「知覚範囲の中」の事柄のみで
暮らしがちにもなりそうなのですが。

それだとぉ、ちょっとつまんない!

とおもって、ほいで、ぼくが考えたのはねぇ、、




↑の図で申しあげますように、
「知覚範囲」にくっついて来た物事、つまり
「知覚範囲」に接してきている物事を知覚できたらなぁー!

ってなコトでございまして。。。

「知覚範囲」に接してる。ってコトは、
「知覚範囲の外」側にはあるんだけれど
外皮に触れてるのだからあながち縁は薄いわけじゃない。

3番目の図のように、めっちゃ遠くにあれば
それを掴むことはできにくいですが、
くっついていれば「外」のことがらではございましても、
その一部は「境界線の上」にあるんだからぁ~~っっ。

あたらしい「であい」ってのは、
なんか、そのようにであうしか
方法はないんかも知れんなぁ、とおもいましたー。

ってなりますと重要なのは、あれ、なんだっけ、
科学とか化学とかでの「陽イオン」や「陰イオン」的な
電荷を帯びてくっつくのよーな?! ん、ちがったっけ??

なんか忘れたからまぁいいや。
ではではどうぞおげんきでー!!

2015年2月26日 @ イオン

「考え過ぎ」を越えたい。

2015年02月22日 | 考えごと
じぶんは昔からよく「考え過ぎ」なのだと言われてて。
それはさ、やっぱりそーなのだろうなぁ…
ってのはじぶんでも思うんだけど。

「考え過ぎ」だってよく言われるぼくが考えるのはね、
「考え過ぎ」とは、そのことばだけで見ますと
「『考える』を『し過ぎ』ている。」みたいな、
つまり、「量」のことを云っているかと思うけれども。

それは、ほんとうにはそうではなくって。

「その『考える』はどこかが間違っている。」とか、
「『考える』の方向性が変な所に向かっている。」的な、
「質」のことを仰っているのでは無いかっ?!
っておもったんだよねー。

ほら、あの、なんと言いますか、
とってもたくさん考えておられる方がおられたとして、
でもその「考える」がとってもすばらしいければ、
相手から「考え過ぎ」だとはぜんぜん思われなくって。
なるほどぉ! すごいっ!! と声があがる。

でもさ、ぼくのようなひとの場合ですと、
ぼくの「考える」を聞くと相手はどこか違和感を感じられ、
その違和感のことを相手のかたは「考え過ぎ」だと仰る。

「考え過ぎ」なんだと伝えられ、
(そうか、ぼくは「考える」を「し過ぎ」ていたのか。
 じゃあ「考える」の「量」を、もう少しだけ減らそう…)
とか、もうすこし行けば、
(「考える」ことを辞めたほうがよいのかも知れない。)
のように考えても、たぶんあまりよくはなくて。

(なんにしろ、どうせ「考える」をしてしまうから‥‥)

「量」について考えるよりかは、
じぶんの「考える」の「質」を振り返って、
軌道修正をしたり考え直してみたりするほうがよいのかも…

そこからさらに、その「考える」を先に進めてゆく。

ぼくは出来ればさっ、
じぶんの「考え過ぎ」の状態から、
んでも「考える」ことによって「考え過ぎ」を越えたい。

のよーなことを考えました~。

2015年2月22日 @ ZERO

ぼくの知らないあいだに…

2015年02月18日 | 考えごと
前回エントリでは、
武富健治さんの漫画『鈴木先生』第7巻より、
ぼくの好きなあるシーン
(←家庭科担当の女性教師・足子先生の「乱心」の回。)
について申しましたのですが。

その後では、足子先生どうなるのだったっけ。

あぁ、そーだ、あれだっ。最終巻、
女生徒・小川さん人質事件で足子先生が犯人に叫んで、
まぁ言うなればそれで均衡が破られる場面があったわー!

と、うーんと、なんて言いますか、
漫画を読んでいない方にとっては完全に訳わからん内容と
なっておりますが、、、あの、んでも、
前回ブログよりひきつづきぼくが想ったことを申しあげます。

それはねっ、もしかしたら足子先生にとってみれば、
昨日ぼくが引用しましたシーンがあったからこそ、
そのギリギリのところで「救われていた」のではないかっ?
という仮定でございまして。

つまりん、
本人が「居ない」ところで起きていた出来事によって、
本人の知らない間に、じつは本人は救われてた…

…と、そーいうことってさ、
結構あるかのよーな気も最近では感じておりまして。

わたくしごとではございますがじぶんの事で申しますと、
もうけっこう数年前の専門学校に通っていたときに
パリ・ロンドンをおとずれる研修旅行がございまして。
いろいろ思い出ぶかい旅行だったのではございますが。。

そのころ、ぼくはね、
精神面での体調すぐれないことがたびたび有り、
あらゆる場面で皆や先生方にご心配やご迷惑をかけてて。
最終的には、ひでし(←ぼくのなまえ。)は
海外研修には行かせないほうがよいのではないか?!
という職員会議(?!)が開かれるまでになり…

その発展してしまった全体の状況をおもえば、
ぼくもまた、恐縮で、申し訳なくって、、
旅行には行きたかったけれど、そのように周りの方々に
思わせてしまうくらいなら自粛をしたほうがよいのかも……
とも考えたり。、。

っていうよーなときにねぇ、
ぼくは、研修旅行より帰ってきてからのそのあとに
どこぞの噂で聞いて知った事なのですが。

それは旅行に行く前、同じ海外研修メンバーのみんなが、
ぼくのことに対して「旅行に行かせてあげて欲しい。」的な
ちゃんとしたことばは何なのかよくわからないけれども、
先生方にそう頼んでくれていたらしくって
(←噂なので、事実かどうかもよくわからないけど…)。

それとはさ、ぼくの「居ない」ところで、
みんなが「してくれた」事によって、
ぼくはその旅行に「行けた」かも知れない。。。

と、そーいうことってば、たとえばぼくの人生の中にでも、
ぼくが知らないだけで、ぼくの知らないあいだに、
誰かのおかげで「救われていた」ことって
たくさんあるかも知れないなぁ。

なんてなことをねぇ、このたびおもいましたっ!

2015年2月18日 @ 涙がキラリ☆

自由なドライブ?!

2015年02月16日 | 考えごと
こんかいブログで申しますのは、
このまえ車に乗っててふと思った事でございまして。。。

たとえば、
「今日はとくに目的地のない自由なドライブをするぜ~!」
と云いながら、じゃあ「自由」であるのならっ、
あらゆる住宅や施設や敷地を突っ切って、
ひたすらまっすぐまっすぐ進んで行っては…、いけない。

それだと侵入や破壊となってしまうし、
もう、あるルールから外れてしまっている。

つまり「自由なドライブ」とは云っても、
「道路」を通り、「信号」を守り、そして、
燃料が無くなれば
「ガソリンスタンド」にも立ち寄らねばならぬ‥‥

‥‥と、このこと↑はさ、
言ってみればまぁ当然なのですが、
すでに誰かによって敷かれた「レール」の上しか動けない。
なんてぇ、ほんとうに「自由」なのか?!
みたいなことをね、運転中にちょっと思っちゃって。
そーであるならば、では、

「自由」とはなにか??

的な事も付け加えて考えていたんだけれど、
じぶんにはさ、それについてちゃんと説明できることばを
ぜんぜん持ち合わせておらんことに、
けっこう愕然としたのね。。。

また、これに関連させて申しますなら、
「自由」の「逆の状態」だっても、
どーいう状態の事を指すのかよくわかっていないし。

んでも、たぶん「突っ切る」とか「破壊」とかの
「じぶんの『思いどおり』にする。」のよーなことは、
「自由」とは呼ばないんだろうなぁー。

2015年2月16日 @ FREEDOM

「国」って、何なのだろう?!

2015年02月11日 | 考えごと
そもそものことを申しますならば、
そもそも「国」って、何なのだろう?!

の、よーなことはさ、
たぶん辞書とか百科事典やインターネットを見てみれば、
もうすぐにもわかるとは思うんだけれど。
それだとちょっと早急すぎちゃう気もしたので、
なにも見ないでじぶんの頭にあるものだけで、
じぶんなりに稚拙感満載でブログを書いてみたいとおもう。

まずはさ、
「国」ってどうやって創るのだろう??
のところからなのかな。

いえ、もういきなりよくわからないんだけども、
たぶん「自称」ではダメだから、怒られてしまうだろうから
どこかに申請したり認定されたりしないと創れないよね。
よく知らんですが。。。

仮に、あくまでも仮の想像でっ、ぼくが
「日本」から独立してじぶんの「国」を創ろうとした場合、
じぶんでそれを言ってるだけじゃ相手にされないだろうから
なにかの手続き?!
なんかさ、そういうのが必要なのでしょう。たぶん‥‥

そして、その手続きが滞りなく進み、終了し、
国際社会的にも認められたら、はじめて「国」と成る。

つまり、あたらしい「国境線」が設けられる。

そーなれば、「日本」という「国」の
いろいろな制度・法律などを受けることは勿論出来ないし、
警察や要人の方々もそこには簡単には入れないっ??

ぼくの「国」の内では、ぼくの「国」の「法」のもとで
いろいろなことがらが決められてゆく。ってことなのかな。
とゆーことはまずは「国」とは、
「国境線」と「法」のことが関係していそうかね。

って、まーったくよくわかりませんが。。。
独立とか別にしないし、
「国」とはなにか? をただ考えているだけなので…

んでも逆を言えばさ、ぼくが「外」に出るためにも
ビザやパスポートや入国審査みたいなのが要るのかも、、、
あ。でも、なんかヨーロッパ内では要らない場所もあるって
聞いたことあるからどーなのだろう。

あーと、んでもそーなれば「海」の内だから、
「海外」と云う言い方では無くって、
「海内」になるのかのぅ。甲斐無いわっ!!

じぶんの稚拙な考えではこの程度しか思えなくって、
やっぱりさっぱりよくわからないけれど。
今の時代と、江戸時代の時と、はたまた平安時代の頃とでは
「国」の認識ってちがうだろうし。
(想像で申しますなら、大航海時代の前・後でも違いそう。)

今の時代に住んでいたっても、住む国のひとびとによっては
「国」の感覚、ちがうような気もする。

まぁ、いろいろなことが、
もうあまりにも知らなすぎる~。
ってことだけは、よくわかった気がするわ!!

平和を祈ります‥‥

2015年2月11日 @ 建国記念の日

「責任をとる。」の行動とは?!

2015年02月10日 | 考えごと
「責任をとる。」って言うのはさ、
いったい、具体的には何をすることなのか?!
といつも思うんだけれど、考えててもよくわからなくって。

辞めることだとか、罰則金を払うとか、、、

たとえば映画『踊る大捜査線2』でね、室井さんが
「責任をとる。それが私の仕事だ…」
と言うシーンをぼくはすごく好きなのですが、
では、室井さんはそのあとで何をしたのだろう??

ってゆーのも考えてみてみたり……

……それでさ、それからちょっとふと思いついたのは、
「責任をとる。」とは、
「ひとのせいにしない。」ことであるのだと、
もうすこし正確に申しあげれば
「ひとのせいにすることばを、ひとつも言わない。」
ではないのかなぁ? って思ったんだよねぇー。

「ひとのせいにすることば」とは、たとえば
「おまえの『せい』だぁーっ!!」的な、
「せい」と云うことばを実際に使わなくても文脈として
「ひとのせい」になってしまっている時もあったり。。。

でございますので、
ほんとうの意味での「責任をとる。」ってば、
生半可な気持ちでは出来ないのかも、とも感じたり。

かと言って、ならば、じぶんでじぶんの「せい」にする
「自己責任」を追求すればよいのか?!
のことだってもよくはわからないんだけどもぉ…

と、「自己責任」のことで言えばさっ、
じぶんの事を云う「わたしの『自己責任』だ。」ってのと、
誰か他人に告げる「あなたの『自己責任』だ。」ってのは、
「自己責任」ということばの
意味合いがすこし変わってくるよーな気もしていて。

ま、そのことはいいやっ。脱線しちゃったわ!

あーと、んでも、そしてさらにはねっ、
ドラッカーの「責任と権限はコインの両面に過ぎない。」
ということばも思い出しまして。
「権限」のあるところには「責任」が生まれるし、
「責任」のないところには「権限」は生まれない。

のような、「責任」についてのことを、
もういちどあらためて考えてみたいとおもいました~。

2015年2月10日 @ レインボー最中