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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

「見る。」のこと

2015年01月31日 | 考えごと
まだ、あんまりしっかりとことばになっていないままに
ちょっとだけ書いてみようとおもうんだけどね。
さいきんは、「見る。」のことを考えている。

その「見る。」ってのはさ、
たとえば何か特別な比喩とかでは無くって、
「目で見る。」のことなのですが。「見る。」とは、
いったいどーいうことか?! って少し考え込んじゃって…

テレビを、新聞を、インターネットを見てみれば、
もうすぐにでも、遠くから近くまでのあらゆる出来事が
押し寄せて来るかのように目に飛び込んできては、見る。

見てしまったら、そのことについて
なにかしらでも思わざるを得なくなり、考え始める。
(そんなことは、考えたくもない。)と思うのは、
よくないことだ! と思うから、見て、さらに考え続ける。

んでもさ、その考えているあいだには
他の周りの事はぜんぜん見えていなくって、
(それではいかんっ!)と思うから、周囲も見始める。
周囲を見ながら「考えないといけない事柄」も見て、
全部を同じように大切に考えなきゃダメだ。と思えば、
なぜやらどこか悲しくもなってきて。

遠いところでは、本当には何が起きているか?!

なんてのは、その場に行ってみないとわからない。
って云うのもそれもそうだとも思うけれど、
かと言って、ではぼくの一番近い場所である
(ぼくの部屋ではどーなんだ?!)と言えばさ、
ぼくの部屋にあるけれどぼく自身が見たくない物は、
押入れに押し込んで壁とふすまで見えなくしているし。

ベッドの下は、実はほこりでいっぱいだし。。。

つまり、ぼくのいちばん近いこの場所ですら
「全部を見る。」なんてのは不可能で、
何が起きているのか?! は本当のところよくわからない。

ぼくにとっての「見たいもの」と「隠したいもの」を、
ぼく自身が編集してしまっているから……

その、ほんの数メーターさきの場所では、
男性が女性に決死のプロポーズをしてOKをもらい、
そのまたおとなりのテーブルでは、
初孫が産まれたと連絡を受けて泣いているおとうさん。

足元では今まさに、花のつぼみが開こうとしている…

でもその景色は、カメラにはうつらない。
中継されない。文章にも、音声にも、ことばにもされない。
なので、「見る。」ことは出来ない。とか申しつつ、
本当の出来事を想像することすら、むつかしい。

2015年1月31日 @ Across the Universe

完璧な説明?!

2015年01月29日 | 考えごと
前回エントリを書きました後で、なんか
「説明」のことでいろいろと考えちゃって。

前回のぼくの記し方ですと、
じぶんがいかにもちゃんと何でもわかってて、
完璧な説明が出来るのようにも、読めるやも知れない‥‥
と思えてきて。

もうぜんぜんそんなことはなくて。。。
どちらかと云えば、なにかあれば
もうすぐにでも「説明をしたくなってしまう。」的な
まさに、説明の病理を抱えているよーな?

その説明が、
説明される側(前回エントリでは、母。)にとって、
ほんとうにそれを望んでいるかどうかは謎だし。
じぶんの説明自体が間違っているのかも知れないし。
考えたその説明を、
ただ聞いてもらっている状態なのかも知れなくって。

フォローのつもりが、流れを斬る行為であったり…

「人は口の中に、斧を持って生まれてくる。」
ということばを聞いたことあるけれど、それとはたぶん
「悪口」の事を言われているのかな??
でもさ、よくない「説明」のことばだっても「斧」だわ!
って、じぶんでも思いながら
おだやかな説明を出来るようになりたいと思いました。

2015年1月29日 @ おだやかな暮らし

畑でもあり、種でもあり。

2015年01月24日 | 考えごと
なんの因果なのか今週のブログでは、
「じぶんのからだを『畑』に見立てた思考の『種』まき」
の事について、日をまたぎ長々と書いていたんだけれど。

それを書きながらこころひそやかに思っていたのは、
じぶんの「からだ」とは、
「畑」でありながら同時に「種」でもあるかなぁ??
ってなことでございまして。

たとえば、
どこかの「なか」で見つけることが出来た「思考の種」を
じぶんに蒔いて、根が張り、芽は出、やがて実の収穫。
という流れとは平行にして、
じぶんのからだが「(人間としての)種」となって、
「畑」に蒔かれて「土」や「水」と出合い、
「芽」を出したい。

みたいな望みだって、想えることは出来るよなぁー!!

的な?!

とか何とか申しあげるかのよーな
「『畑』でありつつ、『種』でもある。」
と云う(一見矛盾しとるかも?)状態で過ごしたいわっ。
って、今はなんかちょっとそんなことを思ったり‥‥

では、ほいではのぅ。よい週末を~!

2015年1月24日 @ いばらの涙

生命存続!

2015年01月23日 | 考えごと
この何日かブログで申しております
「思考の種まき」の事について、
さらに、あともう少しだけ更新をいたしまする~。

さて。前回エントリでは、
「『思考』にとって『種』とはなにか?!」問題
のことを記しましたのですが、「なにか?!」と問われても
「『種』は『種』だし…」としか答えられないし。。。

でありますので、その問いをねぇ、
「『思考』における『種』とは、『どこ』にあるか?!」
と変えてみましてん。
するとさ、それはたぶん植物に当てはめれば、
「果実」の「なか」にあるよーな気がしてきて。

(「思考」を「植物」に喩えることが赦されるなら、)
「思考」においても、「種」は
「果実」の内部にあるのかも知れないなぁ!
っておもいましたの。

つまり「種(=種子)」とは、
植物がその生命をつぎの代へと存続させてゆくために
(たぶん)つくられたものであって。
それは、「思考」にとっても同じなんじゃなぁーい??

地球上にて、代々と受け継がれてゆくもの。。。

「(思考の)種」とは、先輩や先人のかたがたが創られた
「(思考の)果実」の「なか」に存在しておって。そして、
その「種」とは、生命(=思考)存続のために‥‥

‥‥と云うのが、今回じぶんで想った仮説なのですが。
もしそれがそうであるならばっ、
「果実」の「なか」をよく見て「種」を探したい!
的なことをおもいました~。

2015年1月23日 @ Whole Lotta Love

思考にとって「種」とはなにか

2015年01月22日 | 考えごと
前々回前回のエントリよりひきつづき、
もうすこしだけ、じぶんのからだを「畑」に見立てた
「思考の種まき」について記してみたいと思います。

と、それは、
「『思考』にとって『種』とはなにか?!」問題
のことなのですがっ。。。
その「種」ってのはさ、いったい
具体的には何を指し、何を表しているんだろうかねぇ??

「種」を蒔き、「発芽」し「成長」し「開花」して、
やがては「果実」がたわわに成るかのような、そんな
「思考の畑」における「種」とはなにか?!

うーんと。。。

じつを言えば、ぼくには全然よくわかんないのだけれど。
なんかまずイメージとして想ったのはさ、
「種」ってぇ、「畑」や「土」にとったらば
「異物」ではあるわよねぇー。

「異物」である「種」が入って来たとき「畑」は
アレルギーとかおこさずに「種」をやさしく受け入れる。
受け入れられた「種」は、
「畑」の「土」や「水」と出合うことで反応し作用し、
その結果、硬い「種」の殻をやぶって、
「芽」が外へと飛び出す‥‥

みたいな流れであるかのぅ??

たとえば、
「土」にどれだけ「土」を入れてみても、
「土」はずっと「土」のままだし。「土」にいくら
「水」をかけてもあげくに「泥」となるだけで。
「種」的な「異物」を蒔かないと「芽」は出ない。。。

そして、もうひとつ~!

「蒔く」という行為のことなのですが。
それもね、じっさい具体的には何を示すか?!
って云われても、じぶんはよくわからなくってぇ。

んでもおもうのは、それは
ひとつの「行動」と申しますか、
小さくても「アクション」の内のひとつ、と申しますか。
「種」を棚に仕舞っておくだけじゃNGで、
なにかしらの「蒔く的アクション」を起こさなきゃ、
「芽」は出ない。。。

つまり、「実」も成らないんだわ。

なんてぇー、
やはり具体的なことは何もわかりませんでしたが、
「種」を「蒔く」のことでございました!

2015年1月22日 @ 羊どろぼう。

雑草を引き抜く?!

2015年01月21日 | 考えごと
昨日エントリでは、じぶんのからだを「畑」に見立て、
ものごとを「思考する・考える」ときには、
「『畑』に『種』を蒔き、やがては
 『実(=新しい視点、アイディア?!)』が成る。」
のよーなイメージのことを申しあげまして。

エントリのなかでね、ぼくは
「よい『実』が成るには『畑』の状態が大切か?」
と、さらには、そのためには

「『土』や『水』や『肥料』や、『雑草』を抜いたり、」

が大事であるかも?? とは記したのですが。
「思考する。」と云う意味で申しますならば、その
「『雑草』を抜いたり」の部分って間違っているよなー。
って思いましたの。

比喩では無いじっさいの「農作物」を育てるときには、
「栄養」を取られないように「雑草」を引き抜く。
の話をどこかで聞いたことあるのですが、
それはたぶん「農作物」において、であって
(←これ、素人が想像で言っているだけなので、
 間違っていたらごめんなさい。)。

「思考」における、
「思考的雑草」は抜いてしまっては、よくない。
とも感じたのよね。

つまり「雑草」とはさ、
「じぶん本人では植えたつもりが無い植物。」
の意だと思うのですが。

「思考的雑草」に「用は無い」から、
そちらに「栄養」を行き渡らせないため、引き抜く。
なんてさ、とっても合理的ではあるけれど。
「用は無い」と言って「思考的雑草」を引き抜いて、
切り捨てて、排除する。みたいな考えをしてよいものか??

じぶんで植えたい(=考えたい)事柄だけを、
育てれば(=考えれば)よいものなのか??

と、うーん……と。。。

「思考」ってば、なんかそんなんじゃなくって、
もっと「アマゾン」的な、もっと「ジャングル」的な、
いろいろがごっちゃに入り組んどるところかも?!
っておもいまして。

んだからさ、ぼくが昨日申しました「畑」の考えって、
いわゆるちょっと傲慢だったかも知れないねぇ~。
それならばっ、めっちゃ「人工」と、めっちゃ「自然」の
真ん中ら辺をイメージさせられたらなぁー。

てなことを、さらには考えてみたっ!! 

2015年1月21日 @ Welcome To The Jungle

畑に思考の種を蒔く。

2015年01月20日 | 考えごと
なんと言いますか、ぼくは
じぶんの「からだ」のことを「畑」なのだと考えてて。
思考や考えごと等をするときには、

「『畑(からだ)』に『(思考の)種』を蒔き、
 やがて、『実(新しい視点・アイディア)』が成る。」

と云うよーなイメージを持っているの。

ってなるとさ、よい「実」が成るために大切なのは、
「畑」の状態と、
「種」を蒔いたあとの「(思考の)苗」のケアなのかな??

「畑」の状態のことで申しますと、
素人なので詳しいことはよくわかりませんが、
「土」や「水」や「肥料」や、「雑草」を抜いたり、とか…

その、とくには、ぼくはまず
「土」のことが大事なような気がしてるのよねー。

そして、「思考」における
「種蒔き」&「苗のケア」とは、いったい
具体的にはどーいうことを指しておるのかっ??
だってもよくわからないけど、たぶん大切な事柄はあって。
それらを考えながら過ごしたいなー、とも想ったり。

また、「実」が成ったとしてもさ、
その「実」を保存する「冷蔵庫」や、調理する「厨房」や、
お出しする「レストラン」のことだっても、
いろいろとあるのだろうけれども。

ぼくは、まだそこまでは全然至っていなくって。
まずは「畑」に、よい「実」が成るよう
「土づくり」と「種蒔き」をしっかりやらねばっ!!

と、まぁこれ、完全に抽象的なことではございましたが、
そんなことをなんか思いました~。

2015年1月20日 @ 椰子の実

からだが動くとは、奇跡的?

2015年01月19日 | 考えごと
いまだひそやかに療養中の身であるじぶんなんかが、
こうなんかあらためて想うことは、
人間のからだが動くってじつは奇跡的だわ!!
みたいなことでございまして。

そういう考えとは、
たぶん、普通よりも少し異質な考えであって。

その考えかたのため、
社会不適合のマイナス評価が下されてしまう。
かのようにも微妙に思えるのですが。

でもやっぱりぼくとしては、
「じぶんのからだが動く。」ってのは奇跡だなぁ。
と感じながら、からだが動くことに対して、
感謝を想ったりもするのだけど。

ぼくであれば、
秋から冬への季節うつりかわりの時期となると
ちょっとすこし、からだ、しんどくなってきて‥‥

どーしたもんかやー?! って考えたり。。。

で、昨日なんとなく思ったのはさ。
真冬であるいまの時期の段階から、もう
次に訪れる(だろう??)「秋から冬へ」の季節のため、
ちょっとずつからだづくりを始めてみよう!!
ってなことでよ。

まぁ、昨日エントリで申しあげたこと
(未来を想像・予測・準備するのは、ダメ。かも?)とは、
若干矛盾しているですが。

そのよーな事柄を、いま改めておもいましたっ。

2015年1月19日 @ Street Fighting Man

予測できない未来の話。

2015年01月18日 | 考えごと
仮にねっ、まだいま現在の段階では、
想像できない・予測できない出来事が
未来のある瞬間に訪れる。のだとして‥‥

訪れたその「とある出来事」によって、
いま現在では「想像もできない・予測もできない」ような
新たな「出合い」へと、人生は繋がれてゆくんでしょう。

で、あるとすればさっ!

現在の段階では「予測できない」わけだから、
もう、予測してはダメ。だと思ったのよねぇー。

「予測する」ってことはよ、
現段階の時点で「予測ができてしまう。」事柄だけしか、
思いつくことは出来なくって。

それ以上の思いつきは、どう足掻いても、出来ない。

もちろん「予測する」のことは大事だし、
未来を考えるときには大切なことだと思うけれど。

現時点では到底「予測できない」出来事が訪れたことにより
「未来のじぶん」が、もう
「現在のじぶん」ではぜんぜん予測しえない「じぶん」に
成ってしまってるとしたら‥‥。
「現在のじぶん」がどれだけ予測し準備していたとしても、
その「未来」では「じぶん」はまったく立ち行かない。

それは、たとえば、
「現在のじぶん」がおこなった「予測」に
「未来のじぶん」が捉われてしまう。かのよーな??

と、このこと↑について、
どうしたらよいか?! はもう全然わからないのですが、
なんかまずは「未来を、予測してはダメ。」って云う考えも
もしやあるかも知れないなぁ‥‥ と、ふと思いました。

2015年1月18日 @ クロノ・トリガー

教会にて「おいのり」をする。

2015年01月15日 | 考えごと
おれは今までに、どれだけの回数、
教会にてお祈りを捧げて来たことでしょう??

‥‥とは言ってもさ、これはゲームの
ドラゴンクエスト(通称:ドラクエ)』の事なのですが。
『ドラクエ』では、ゲームにおける
これまでの冒険記録を保存(セーブ)するためには、
「街」の中にある「教会」をおとずれ、
そこで、神父さんに対して「おいのり」をする。。。

と云った設定なのだけれどね。
(『3』以前は「おうさま」に、だったかな??)

「おいのり」によって冒険の「記録」をつける。
ってのがサ、よく考えると面白いよなぁ!
とおもったのよねぇ。まぁ、すんげぇ今さらなのですがっ。

日々の記憶ってば、
その都度ちゃんときちんと記録つけて行かないと、
薄れたり忘れてゆくものなんだと思っていて。

それが、たとえばあたまだけでの保存ですと、
ほんとうにセーブ出来ているのかよく分からなかったり。
また、じぶんにとって都合よく書き換えてしまっていたり。
そのために次の機会へとうまく繋がらなかったりして…‥

その「記録をつける」という行為がさ、『ドラクエ』では、
「『神父』さんに対して『おいのり』を捧げる。」
なのだとすると、なんだかうまく言えないんだけれど、
ドラマチックな流れとして(よいなぁ!)と思ったのよ~。

祈ることで、人生の続きが楽しめる。的な??

ほいではなーっ!!
このブログに来てくれてどうもありがとうございます。
『MOTHER』シリーズの「パパに電話」の話も素敵なのよ!

2015年1月15日 @ このまま でんげんを お切りください。

二つの欲望

2015年01月08日 | 考えごと
前回エントリにひきつづき、この際なので
じぶんが携えている「マイナス感情」について、
もう少しだけ書いてみよー!!

と、それは、
「欲望」のことであるのだけどねっ。
「欲望」には、つまり「欲しい。」という感情には、
二つのパターンがある、って思ったんよねぇ。

ひとつめはさ、
「物が欲しい。」や「お金が欲しい。」や「愛が欲しい。」
などの、
「本人が『もらう』側に立つ」パターン。

そしてふたつめは、
「話を聞いて欲しい。」や「気持ちを受け取って欲しい。」
などの、
「本人が『あげる』側に立つ」パターン。

それらのよーな、
「もらう」と「あげる」と云う二つの「欲望」のあいだを
「行ったり来たりしてしまうこと」こそが、
「欲深い」状態であるのだと感じまして。

でもよっ、「もらう」と「あげる」なんて、
もう全くの正反対じゃん。

それが、あるときには「もらいたい…」、
またあるときには「渡したい…」と、時&場合によっては
ころころ入れ変わってしまうなんて。。。
おれ、どんだけぇ~。とはじぶんでも感じるのですが‥‥

たぶん、相手方にもさ、
「もらう・あげる」の「欲しい。」は秘めておられて、
その(ときには、真逆に転換する)二つの「欲望」を
逆に、ぼくが注視をいたしながら、
さらには、それを解消させてあげられるように成れたなら
よいのだけどなぁ! と想いました。

ほいではなぁ~。
このブログに来てくれてどうもありがとうございます。
またこんなこと↑言っちゃって、口先っぽいんだわっ!!

2015年1月8日 @ 四つのお願い

じぶんの産み出す「憎しみ」のこと

2015年01月07日 | 考えごと
さくじつ、こんなよーなことを書いたのでさ、
ちょっと改めてじぶんのことを見てみようかねぇと思って、
じぶんを見てみたら、まぁ、呆然としたのですが。

どこのなにに呆然したかと言えば、
じぶんの中にあった「恨み」とか「憎しみ」のたぐいの
マイナス感情だったのよねぇ。

普通にしていたとしても、あるときには
「憎しみ」がふと湧いて出てしまってて。

言うなれば、じぶんが、じぶんの産み出す
「憎しみ」に捉われてしまっとる?!

たぶんこのブログではさ、「善」的な、
(いえもっと申しあげるなら「偽善」的な、)ことばっかり
書いているような気もするんだけれど。
なんでぼくがそんなことを書いてしまうのかっ?!
といえば、そんな「憎しみ」を実は携えてしまっておるから
なのではないか?? とは存じます。

隠しててもそーいう感情は表面に現れて来てしまうもので、
うーんとたとえば、じぶんの顔でもさ、
たとえ笑っていたとしても、たぶんいつのまにやら
「憎しみ顔」になってしまっとるんかも、とも感じたり…

もうすでに抱えてしまっている「憎しみ」から、
逃げようと思っても、それじゃぁ多分どうしようもなくって
(「憎しみ」の方から逆に追いかけてくるから‥‥)。
でも、その「憎しみ」の近くに居てれば、
じぶんがじぶんの「憎しみ」にやられてしまう。。。

と、そんなじぶんの本性を肌で想ったら、
なんか呆然と、歴然と、愕然としたのよねぇ~。

ではではではっす!
このブログに来てくれてどうもありがとうございます。
そのじぶんのぶぶんをなんとか見つめながら生きる、的な?

2015年1月7日 @ 黒い青春

「上手い」話。

2014年12月30日 | 考えごと
「上手くやる。」とか、「上手くやろう。」とか、
あとは「ささっと上手いことやっといて。」などの
「上手い」ってゆうことばにさ、何かたまにどこか変な
違和感を感じることがあって。(←感じないときもある。)

それは、なんでだろう? と考えてみたらば‥‥

たとえば、なにかのストーリーでね、
夫婦の関係が完全に冷え切ってしまっている要人が
とあるパーティーにカップルで出席をするということで、
そのパーティーのスタート直前に奥さんへひとこと

「きょうは、上手いことやろう。」

と言って、いつもなら顔を合わせても
会話やあいさつや笑顔さえをも何ひとつ無いけれど、
パーティーのあいだだけは仲良くふるまう。みたいな…

なんかそんな、「上手い」のことばには、
「騙し騙しやる。」や「小手先」のような雰囲気も
ときにあるように感じられたのよねぇ。

と、そして。

「上手い」には、仮に
そんなよーなイメージがもしもあるとしたならば、よ。
たとえば、ほかには

「わたしの人生、上手くいかない。」

みたいなことばだっても、うえにてぼくが申しました例と
もしかしたら似ておって。
じぶんにはほんとうには似つかわしくない
「上手い」人生を想像して、歩もうとしてしまっていて。
でも、そのじぶんの思い通りには人生が進まない。。。

このことってば、じぶんでもときに
ふと言ったり思ったりしてしまうようなワードであって、
自身に言い聞かせるように書いてる節もあるんだけれど。

「上手くやろう。」としなくたって、
よいんじゃないかなぁ。と、まずはおもいました~!

でははではは。
このブログに来てくれてどうもありがとうございます。
旨いものなら、もうどれだけでも食べたいわっ!!

2014年12月30日 @ 声

「嘘をつく。」の反対は??

2014年12月29日 | 考えごと
前々回前回のエントリでは、
「嘘をつく。」についてを申しあげたのですが。
そのあとでねぇ、
なんかちょっとふと思いついたことがございまして。

それはさっ。

「嘘をつく。」の逆が「嘘をつかない。」だとしてぇ、
そして、その「嘘をつかない。」と云うのは
イコール「正直を言う。」なのでは無い。
ってなことでさ。つまり、

「嘘をつく。」の対義は「正直を言う。」じゃあない。

と、それをじぶんでふと思いついておきながら、
その意味がじつはよくわかっていないのだけど。。。
たとえば「嘘をつかなきゃよい。」ってゆーのならば、
では、「正直」だけを「言」っておけばよいのか?!

を考えてみると、やっぱりそれはちょっと違くって。

えーと、なんて申しますか、
「正直」や「正義」や「正しさ」の怖さ、、、
と云うかのような? であるかのような??

でも、かと言って、
「嘘」も「正直」も言わずにぜんぶ「黙」っておけば、
それでよいのかーっ?!

も、すこしちがうような気がしてて‥‥

だったらば、どうしたらよいんだっ!!
と、そんなよーな究極的なことを言ってしまうとさ、
もうじぶんではさっぱりお手上げなのではございますが。

「嘘」と「正直」と、「言う」と「黙る」の、
「あいだ」の部分、「まんなか」の部分、「中庸」の部分が
たぶんあるんだろーなぁ、とは思いました。

まぁ、それが「どこだか」はよくわかりませんが。。。

ではではねぇ!
このブログに来てくれてどうもありがとうございます。
駆使し試行錯誤し、あなたは「表現」しているんでしょう…

2014年12月29日 @ 染まるよ

嘘つきは「何」のはじまりか?!(後編)

2014年12月28日 | 考えごと
前回エントリでは、

「嘘つきは泥棒のはじまり」の「泥棒」とは、
たぶん何かの比喩であって、
それなら、そのことばとは何を意味しているのか??

について申しあげて、今回はそのつづきでございます。
「嘘」をつくとどーなるのか?! と言えば、
ぼくの場合ですと、どこかしら「からだ」が嫌な感じの
なんか少しおかしくなってくる感覚を覚えるのよね。

それはさっ、
「嘘」をつくと、こころの奥底で「罪悪感」が生まれる。
からではないかなぁ?? とおもいまして。
つまり、どういうことかと申しますと‥‥

その「嘘」が、意識的であれ無意識的であれ、
「からだ」は「嘘」をついたことを知っていて、
その嘘に対して、負い目や引け目などの「罪悪感」を抱く。

その「罪悪感」っていう感情がさ、少々やっかいで。

たとえば、だれか相手から
「なんてことはない何か」を仮に言われたとしても、
「嘘」によって抱いた「罪悪感」によって
聞く側はたとえどんな話でも「責められている…」と
勝手に誤解してしまい、
なので本人は、不機嫌にもなるし、怒りやすくもなるし、
つまり相手からの「話」が聞けなくなる。

話す相手はまったく「責める」つもりは無いのにも関わらず
本人からすると「責められている…」のだと、
あやまった解釈をしてしまう。

そんなよーなモードにひとたび陥ってしまったのなら、
それからは、本人の見える世界というのは、
もうぜんぶ「じぶんを責めている」と考えてしまって、
周りの風景すべてが、歪んで見えてきてしまう。。。

でも、その本人にとったらば、
その「歪んだ風景」のことを「現実の世界」なのだと
たぶん認識してしまうだろうから、それが恐ろしくって。

そうなると、世界を信頼することも出来なくなって、
しまいには「泥棒」のようにもなっちまう‥‥

‥‥みたいなストーリーを考えてみたんだけどねぇ、
どーなんだろう??? と、あとはさ、
「嘘」以外にでも「罪悪感」を抱いてしまうときはあって、
そのような感情とどう向き合うか?! と云うのが、
じぶんの課題でもあるのかなぁー。と感じました。

それではねっ!
このブログに来てくれてどうもありがとうございます。
ここまで書いてやはり「嘘つきは泥棒のはじまり」かもと…

2014年12月28日 @ Lies and Truth