なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

ぼくの世界観。(「どせいさん」的そんざいver.)

2015年02月28日 | 考えごと
前々回および前回エントリではねっ、
じぶんの知覚できる領域の事を「知覚範囲」とよびまして、
その範囲の

・「中」にあるもの(=知覚できている。)
・「外」にあるもの(=知覚できない。)
・「境界線」に接するもの(=掴まえることができる。)

ってゆーような分けかたをいたしまして。
そこから、「あたらしいであい」をするためには、
どこぞかの「知覚範囲外」より「境界線上」へと
流れ寄って来たものごとをなんとか掴まえる!

みたいなことが大事なのかも。と申しあげました。

なんかさ、そのことをブログ書いてて思ったのはさ、
おれってのはそーいう価値観と云いますか、
世界観のなかで生きているんやなぁー! ってさー。

だってふつうならば、
そんな「知覚範囲」の「中」と「外」とを分けなくても、
どんどん歩み出して行ってしまって。それは、
泳ぐであったり、船であったり、飛行機であったり。。。

でもおれってのは島の中央でぽつんと待ちながら、
たまに海岸線へと流れ寄る「異界のものごと」を
「どせいさん」的そんざいが持ち帰って来てくれる‥‥

‥‥と、そんなよーなの、世界観?!

なんかすっごいバリア張ってるかのよーな??

「どせいさん」的そんざいは
それらを掴まえて拾ってきてくれているときに、
(これはよいものひろったー! ぽえ~ん)とか
(これ、いらない。です。ぶーぶー)などなど仰りながら、
ご自身でご判断をされながら拾われるのだそうだけれど。

そのご判断にたいして、ぼくはその
「どせいさん」的そんざいのことを信頼してるからー、
んーと、まぁ、だいじょーぶっ!!

で、ときに感受性がちょっと鋭くなってしまうぼくが、
皮膚感覚をまるだしにして過ごすよりかは
この↑ような世界観をもって生活する。
ってのを、たぶんいつだったか発見をしたのだけどねぇ。

ちょっと最近、一歩ふみだしたい気もしている…

とおもって、
さらにあともうすこしだけ考えてみたのはねー




↑こんなかんじで、
 数珠つなぎでつないで行ければ
 もうちょっと遠くまで行けるかも知んないなぁー。。

ほいではね、よい週末の月末をぉ!!

2015年2月28日 @ 若者のすべて

「知覚範囲内」の旅。

2015年02月27日 | 考えごと
前回エントリでは、
あたらしい「であい」のことについて
「知覚範囲」という範囲をもって図解でご説明申しました。

のではございますが、なんかあれだと
まだまだ説明が不十分なよーな気がいたしましたので、
ほんじつはもう少しだけそのつづきを申しあげます。

まずは、昨日の図をひとつにまとめますと、、




↑このように、この「円」を「知覚範囲」として、
 「緑」が「範囲内の物事=知覚できる」
 「青・茶」が「範囲外=縁が遠すぎる=知覚できない」
 「黒」が「境界線上=掴むことができる=知覚できる」

っと云うふうに、ぼくは考えました。
そしてその「知覚範囲」をぐぐっと拡大してみれば…





…の、さらに倍……

【立っているポールは、中心点を表しております。】





…はいっ! と、ここで




↑以前よりうちへおしのびでいらっしゃっている
 どせいさんにご登場をねがいまして、
 つづきのご説明をもうしあげます。




↑「知覚範囲」を動き回るどせいさんは、
 いつも「範囲」の中心よりスタートしてゆくのですが、
 一番近い(=縁の濃い)物事には、もうすぐにも到着。




↑次の物事は、その「範囲」の中だけれど
 ちょっとだけ遠いから、




↑どせいさんは、一歩ずつ、一歩ずつ




↑よーやく到着!

の、場所よりさらに遠くにございます
「知覚範囲の境界線上」にある「黒」までは、
この場所を「中継点」として、さらに、歩く、歩く・・・




↑そして、なんとか、たどりつく。

ここでね、ぼくが何を申したいかって申しますとぉ、
「境界線に接している」からと言っても
そこへは簡単にはたどりつくことが出来なくって。
「知覚範囲の中」だけど「より遠い物事」を経由させ、
それで、よーやくそこに到着できるのではないか?!

ってなことでして。

んでね、最終的にどせいさんは、




↑こんな感じで、それを、もちかえって来てくれて…

「近い物事」ももちろんよいんだけれどもさ、
「より遠い物事」にもたびたび触れながら
ときには、どこかから「境界線上」まで流れ寄る
「未知な物事」ともであいたいっ!!

なんてゆーような、ほんじつのエントリでありやした~。

2015年2月27日 @ サクラあっぱれーしょん

あたらしい「であい」についての図解。

2015年02月26日 | 考えごと
最近すこし考えていることがございまして。

それはさ、「であい」についてのことなのだけどねっ
そのぼくがおもう「であい」のこと、
ちょいと図解をいたしますと……




↑まずはこんな感じで、じぶんが
 知っている・感じ取っている・知覚できている範囲が、
 ありますとして。




↑このように「知覚範囲の中」にある物事は、
 知っていたり感じ取っていたり見たことあったり
 もう思うことはできているのだけれど。。。




↑上図みたく「知覚範囲の外」に存在しているものは、
 じぶんからは程遠くってなかなか縁薄いと申しますか、
 知覚もあまりできなくてぇ‥‥

‥‥と、そーなりますとっ。

「知覚範囲の外」にあるものとはであえずに、
もうすでにであえている「知覚範囲の中」の事柄のみで
暮らしがちにもなりそうなのですが。

それだとぉ、ちょっとつまんない!

とおもって、ほいで、ぼくが考えたのはねぇ、、




↑の図で申しあげますように、
「知覚範囲」にくっついて来た物事、つまり
「知覚範囲」に接してきている物事を知覚できたらなぁー!

ってなコトでございまして。。。

「知覚範囲」に接してる。ってコトは、
「知覚範囲の外」側にはあるんだけれど
外皮に触れてるのだからあながち縁は薄いわけじゃない。

3番目の図のように、めっちゃ遠くにあれば
それを掴むことはできにくいですが、
くっついていれば「外」のことがらではございましても、
その一部は「境界線の上」にあるんだからぁ~~っっ。

あたらしい「であい」ってのは、
なんか、そのようにであうしか
方法はないんかも知れんなぁ、とおもいましたー。

ってなりますと重要なのは、あれ、なんだっけ、
科学とか化学とかでの「陽イオン」や「陰イオン」的な
電荷を帯びてくっつくのよーな?! ん、ちがったっけ??

なんか忘れたからまぁいいや。
ではではどうぞおげんきでー!!

2015年2月26日 @ イオン

とある3つの偶然。。。

2015年02月24日 | 日常
前回エントリでは、ある本をよんで感じました
ちょっとした偶然のつながりについて書いたのですが。
そのほかにも、そーいう偶然あったなぁ! とおもって
なので、そのことをいくつか(←3つ!)申しあげますっ。

まず1つめは、ぼくは、本年お正月の初売りで
MUJIの「福缶」を購入いたしましたのですがぁ。




(↑これですね。)


中身には手づくりの縁起物が入っているとの事で、
じぶんのは何かなーっ?! って見てみれば、
「大阪張子 虎張子」だったではございますが‥‥




(↑中身はこのようでございました。)


これを見て「お~っ!」ておもったのはさ、、、

昨年大晦日のじぶんのブログでね、
ユニコーンの『ライジングボール』のことを申しまして。
そのエントリでは、


  ♪目の前は ただ巨大なハリコのトラ


と云う歌詞の引用をして、その大晦日に書いた事がさ、
お正月へとつながってやって来たーっ!!
って思ったんよねぇ。

んで、今の現状は、





こんな感じ↑で、目の前は ハリコのトラ。。。

と。そして2つめはじぶんはPerfumeのね、とくには
のっちさんがすきなんやけど、、、
年末て長時間の音楽番組あるやん! 紅白とかMステとか。
そのよーな長丁場だとやっぱずっとは見てられんくて、
たまにテレビつけたりチャンネル合わせたりで。

そうして、そんなふうにパッと番組を観た瞬間にっ、
とくにPerfumeの出番では無いときでもさ、
なぜか結構のっちさんが画面映っていて「おーっ!」って
おもうのはちょっとキモいわなおれ。

さて。3つめですが、これはほんとうにほんとうの偶然で。
と申しますのも…

大学時、同じ研究室だった友人の女の子がおりまして、
卒業後も年に2回くらい連絡取っていたのだけど。
さくねんの6月だったかな、ニュースで「群馬が猛暑」
(←大学が群馬県前橋市だったの。)なのだと聞いて、
それでねちょっとその子のことが思い出され

「そちらは暑そうだけれど、おからだお気をつけてね。」

的なメールをし、するとっ、

「よいお天気だったね、
 きょうは、軽井沢で結婚式を挙げてきました。」

って返信が来たのだわ。

(えっ?!)とおもって、
「挙げてきました。」ってコトはご本人が花嫁さんだわ!!
なのですので、「おめでと~!」ってメールしたですが。

連絡もなかなかしないのにたまたまメールしたその日が、
結婚式だった。なんて偶然ある?!
その子には学生のときからもうめっちゃ感謝感謝で、まぁ
じつは片想いもしていたのですが、
人生において特別にスペシャルな「結婚式」の当日に、
そーいうよーな連絡の偶然がさ、
ぼくとしてはなんかうれしかったんだよねー。

あらためて、友人へのご祝福をもうします。

本日のブログはちょっと長くなってしまいましたが、
よんでくれてどうもありがとうね。
よい1にちをすごしておくれ~!!

2015年2月24日 @ ラッキープール

「バカ枠」のつながり。

2015年02月23日 | 読書
昨日、内田樹さんの著書『街場の戦争論』を再読了。
2度目をよみましてもまだまだ
内容を受け止められていないような気がしているので、
またこんど、再々によみ返したいなぁと思っておるですが。

最初にね、よみましたときも思ったのだけれども、
ひとつ(うれしいなー!)と感じたことがございまして。
それは、著書の最終章・第五章「インテリジェンスとは」の
そのまた最後のほうに、
「「バカ枠」のすすめ」というチャプターがあるのですが…

まずは、その箇所の引用を申しあげます。


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  どのような組織も必ずどこかで制度が経年劣化して、
  機能不全に陥るときがくる。そのとき組織を救う「リーダー」は
  それまでの組織の格付け基準に従って順調に出世してきた
  「イエスマン」の中からは決して出てきません。
  思いがけないところから出てくる。
  そういう「非常時用人材」を確保するために僕が
  企業の採用担当者にお勧めしているのは
  人事採用に際して
  「バカ枠」(@佐々木倫子)を用意しておくことです。(273-274頁)


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内田さんがここで仰る「バカ枠」とは、、、
チャンネルはそのまま!』という
北海道のテレビ局が舞台となった佐々木倫子さんの漫画より、
主人公・雪丸花子が局に就職採用された時の「枠」のことで。

ぼくはちょうど、著書が発売される半年くらい前に
『チャンネルはそのまま!』をよんでいたので、
(あ!)って思ったんだよねぇー。

漫画『チャンネルはそのまま!』との出逢いについては、
ブログのこのエントリに記したのですが。
それもさ、どこかしらちょっと運命的で。
なんかこの『街場の戦争論』を読むひとつの準備段階として、
導かれたのかも知れない‥‥

なぁんて、まぁ単なる偶然なんだけれど、
たまにこーいう偶然が起こって、
その感じがまたちょっとうれしくおもいました~!

と、そしてまた『街場の戦争論』をよみたいと思いますっ。

2015年2月23日 @ Ba・Ca

「考え過ぎ」を越えたい。

2015年02月22日 | 考えごと
じぶんは昔からよく「考え過ぎ」なのだと言われてて。
それはさ、やっぱりそーなのだろうなぁ…
ってのはじぶんでも思うんだけど。

「考え過ぎ」だってよく言われるぼくが考えるのはね、
「考え過ぎ」とは、そのことばだけで見ますと
「『考える』を『し過ぎ』ている。」みたいな、
つまり、「量」のことを云っているかと思うけれども。

それは、ほんとうにはそうではなくって。

「その『考える』はどこかが間違っている。」とか、
「『考える』の方向性が変な所に向かっている。」的な、
「質」のことを仰っているのでは無いかっ?!
っておもったんだよねー。

ほら、あの、なんと言いますか、
とってもたくさん考えておられる方がおられたとして、
でもその「考える」がとってもすばらしいければ、
相手から「考え過ぎ」だとはぜんぜん思われなくって。
なるほどぉ! すごいっ!! と声があがる。

でもさ、ぼくのようなひとの場合ですと、
ぼくの「考える」を聞くと相手はどこか違和感を感じられ、
その違和感のことを相手のかたは「考え過ぎ」だと仰る。

「考え過ぎ」なんだと伝えられ、
(そうか、ぼくは「考える」を「し過ぎ」ていたのか。
 じゃあ「考える」の「量」を、もう少しだけ減らそう…)
とか、もうすこし行けば、
(「考える」ことを辞めたほうがよいのかも知れない。)
のように考えても、たぶんあまりよくはなくて。

(なんにしろ、どうせ「考える」をしてしまうから‥‥)

「量」について考えるよりかは、
じぶんの「考える」の「質」を振り返って、
軌道修正をしたり考え直してみたりするほうがよいのかも…

そこからさらに、その「考える」を先に進めてゆく。

ぼくは出来ればさっ、
じぶんの「考え過ぎ」の状態から、
んでも「考える」ことによって「考え過ぎ」を越えたい。

のよーなことを考えました~。

2015年2月22日 @ ZERO

うつくしくあざやかのように。

2015年02月21日 | 日常
「美」と云う漢字とは、
「羊の大きい姿」の意をあらわしている(らしい)。
ってのをねぇ、ある日のほぼ日での糸井重里さんの
ダーリンコラム』で初めてうかがいまして。

そして。本年はひつじ年、とゆーことでぇ、
(まぁ、もう2月も後半で今さらではあるけど…)
お正月の時にまたそのお話を思い出し、それでなんか
なんとなく
「ビューティフル」的なきもちをもちながら、
1年を過ごしたい! そう思ってたんやけども。

それからさ、なぜだか
どの漢字の中に「羊」の字が入っているか??
が、けっこう気になるようになって。

たとえば、「鮮」の漢字にも「羊」が入ってて、
白川静さんの『常用字解[第二版]』で調べてみますと‥‥
魚のにおい、羊のにおい、両者を合わせたような字。
とのことで。また、
「鮮麗(あざやかで美しいこと)」の説明も記されていて、
「美」とつながってる~!! とも思ったり。。

あとはねっ、わたしの母の兄つまりぼくの伯父に、
「洋(よう)」さんという方がおられるのですが。
「洋」おじさんはひつじ年のお生まれだそうで、
そこから名前付けられたかどうかはよくわからないですが、
「洋」という漢字にも「羊」が入ってるーっ!!

みたいなぁ、「羊」をもっと見つけたいわ。

2015年2月21日 @ 美しき人間の日々

ふたつの「暦」のこと。

2015年02月19日 | 日常
いつごろからだったかな、じぶんはねっ、
新月・満月の日はいつか?
をチェックするようになっていて。
(たぶん「ほぼ日」と「ほぼ日手帳」がきっかけ!)

つまりはさ、
旧暦のことを少しだけでもあたまに入れておきたい。
であるよーな‥‥

いえ、もう全然そういうのよく知らないし、
詳しいとかはまったくもって無いんですが。

「月」の満ち欠けによる旧暦の「暦」ってぇ、
「自然」だなぁ! って感じるの。
「自然」を感じながら過ごしたい、的な~。。。

まぁ、新暦・太陽歴のことだっても実は何も知らないし、
起源などとか色々あるかとも存じますが。
ぼくのよーな人ですと、これまで過ごしてきた感覚ですと、
新暦ってばどこか早くって
ちょっと慌ただしいかのような印象がございまして。

喩えるならば、リニアモーターカー?!

磁力で浮き上がり超高速で走ってゆく、
みたいな、なんか、そんなリニアのごとく未来的な、
びゅんびゅん流れてゆくせわしさも感じるのだけどねぇ。
それだとっ、ちょっとからだが付いて行かない~♪

そこに、旧暦という暦が
補助輪的な「車輪」となって、
じぶんのからだを支えてくれるイメージ‥‥

と、そういう感じで、
新暦・旧暦ふたつの「暦」のどちらもあたまに込めながら、
ぼくは過ごしたい! って想っておりまする。

本日、旧一月一日。新月…

2015年2月19日 @ 車輪の唄

ぼくの知らないあいだに…

2015年02月18日 | 考えごと
前回エントリでは、
武富健治さんの漫画『鈴木先生』第7巻より、
ぼくの好きなあるシーン
(←家庭科担当の女性教師・足子先生の「乱心」の回。)
について申しましたのですが。

その後では、足子先生どうなるのだったっけ。

あぁ、そーだ、あれだっ。最終巻、
女生徒・小川さん人質事件で足子先生が犯人に叫んで、
まぁ言うなればそれで均衡が破られる場面があったわー!

と、うーんと、なんて言いますか、
漫画を読んでいない方にとっては完全に訳わからん内容と
なっておりますが、、、あの、んでも、
前回ブログよりひきつづきぼくが想ったことを申しあげます。

それはねっ、もしかしたら足子先生にとってみれば、
昨日ぼくが引用しましたシーンがあったからこそ、
そのギリギリのところで「救われていた」のではないかっ?
という仮定でございまして。

つまりん、
本人が「居ない」ところで起きていた出来事によって、
本人の知らない間に、じつは本人は救われてた…

…と、そーいうことってさ、
結構あるかのよーな気も最近では感じておりまして。

わたくしごとではございますがじぶんの事で申しますと、
もうけっこう数年前の専門学校に通っていたときに
パリ・ロンドンをおとずれる研修旅行がございまして。
いろいろ思い出ぶかい旅行だったのではございますが。。

そのころ、ぼくはね、
精神面での体調すぐれないことがたびたび有り、
あらゆる場面で皆や先生方にご心配やご迷惑をかけてて。
最終的には、ひでし(←ぼくのなまえ。)は
海外研修には行かせないほうがよいのではないか?!
という職員会議(?!)が開かれるまでになり…

その発展してしまった全体の状況をおもえば、
ぼくもまた、恐縮で、申し訳なくって、、
旅行には行きたかったけれど、そのように周りの方々に
思わせてしまうくらいなら自粛をしたほうがよいのかも……
とも考えたり。、。

っていうよーなときにねぇ、
ぼくは、研修旅行より帰ってきてからのそのあとに
どこぞの噂で聞いて知った事なのですが。

それは旅行に行く前、同じ海外研修メンバーのみんなが、
ぼくのことに対して「旅行に行かせてあげて欲しい。」的な
ちゃんとしたことばは何なのかよくわからないけれども、
先生方にそう頼んでくれていたらしくって
(←噂なので、事実かどうかもよくわからないけど…)。

それとはさ、ぼくの「居ない」ところで、
みんなが「してくれた」事によって、
ぼくはその旅行に「行けた」かも知れない。。。

と、そーいうことってば、たとえばぼくの人生の中にでも、
ぼくが知らないだけで、ぼくの知らないあいだに、
誰かのおかげで「救われていた」ことって
たくさんあるかも知れないなぁ。

なんてなことをねぇ、このたびおもいましたっ!

2015年2月18日 @ 涙がキラリ☆

乱心

2015年02月17日 | 読書
ぼくは、
武富健治さんの漫画『鈴木先生』がとってもすきでして。
すきなシーンはたくさんあるのだけれど、
なかでもねっ、7巻の、
家庭科担当の女性教師・足子先生の「乱心」の回が壮絶で。

その回のこと、ご説明を申しあげますと‥‥

生徒よりある職員へと
「足子先生がプリプリしていておかしい」という相談があり、
事情を聞こうと職員室で、
校長と足子先生が対話をされるシーン。

対話が終わったのか足子先生が職員室より出てゆき、
その、足子先生の破壊的で異常な雰囲気を見た先生たちが
また話をつづけてゆくのですが。

そこで、女性教師・桃井先生は、
足子先生のその状態について


──────────────────────────────────


  あれは───
  本当に壊れる 寸前の状態ですね…


──────────────────────────────────


と話す。
そこでの「壊れる」についての説明と、
さらには電話機のダイヤルボタンをプッシュして
電話機に置かれたままの受話器を右手で掴みながら、


──────────────────────────────────


  この受話器を上げれば 救急車が来ます…
  そこまでやったら───
  もしかすると この学校で足子先生の姿を見るのは
  さっきのが最後になるかもしれませんよ……?


──────────────────────────────────


と言い、さらには


──────────────────────────────────


  病院ってのはもちろん病を治すための所ですけど──
  寸前の人を入れた場合…
  これで本当に最後のスイッチが入ってしまう場合が
  あるんですよね…


──────────────────────────────────


そして、
「心の病って 病っていうけど
 ちょっとケガに近いとこあるんですよ」
という説明に続けて、


──────────────────────────────────


  寸前てのは
  ひどい後遺症にならずにすむケガなわけですよ…

  それをもうひとひねりすれば
  一生ついてまわるようなケガになっちゃう…
  ほんとに──そのもうひとひねりが
  その人のその後の一生を決めたりするんですよね……

  どうですか? 五井先生… 受話器とります?


──────────────────────────────────


桃井先生は、そのように、問いかける。。。

ぼくは初めてそのシーンを読んだとき、
どこかたましいが縮むような想いがして…。
なんて言うんだろう、うまくは言えないのですが、
「救急車」と云うメタファー(暗喩)の事なのかなぁ??


  ・学校 →(電話、救急車)→ 病院


とのように、ぼくなりに
桃井先生の説明を図式化してみると、図式の中では、

「学校」とは「こちら側」、
「病院」という場所とは「あちら側」。そして、
「救急車」が「こちら側」と「あちら側」を結んでいる。

であるのだと仮にするならば…

逆に、


  ・病院 →( ? )→ 学校


の図のように、
「病院」から「学校」へと帰る手段が、無い?!
であるよーなことかも知れない。

って考えますと、なんか、怖くなって来たの。

はたまた、
ギリギリの地点で「こちら側」にとどめようとする、
桃井先生の対応もすてきだなぁ!
とも感じたり、おもったり。

そして、もしも、誰かの手によって
「あちら側」へと入り込んでしまった場合には、
どうやったら「こちら側」へ戻って来られるだろう?!

そのような問いも、思い浮かびました。

2015年2月17日 @ I Don't Want to Miss a Thing

自由なドライブ?!

2015年02月16日 | 考えごと
こんかいブログで申しますのは、
このまえ車に乗っててふと思った事でございまして。。。

たとえば、
「今日はとくに目的地のない自由なドライブをするぜ~!」
と云いながら、じゃあ「自由」であるのならっ、
あらゆる住宅や施設や敷地を突っ切って、
ひたすらまっすぐまっすぐ進んで行っては…、いけない。

それだと侵入や破壊となってしまうし、
もう、あるルールから外れてしまっている。

つまり「自由なドライブ」とは云っても、
「道路」を通り、「信号」を守り、そして、
燃料が無くなれば
「ガソリンスタンド」にも立ち寄らねばならぬ‥‥

‥‥と、このこと↑はさ、
言ってみればまぁ当然なのですが、
すでに誰かによって敷かれた「レール」の上しか動けない。
なんてぇ、ほんとうに「自由」なのか?!
みたいなことをね、運転中にちょっと思っちゃって。
そーであるならば、では、

「自由」とはなにか??

的な事も付け加えて考えていたんだけれど、
じぶんにはさ、それについてちゃんと説明できることばを
ぜんぜん持ち合わせておらんことに、
けっこう愕然としたのね。。。

また、これに関連させて申しますなら、
「自由」の「逆の状態」だっても、
どーいう状態の事を指すのかよくわかっていないし。

んでも、たぶん「突っ切る」とか「破壊」とかの
「じぶんの『思いどおり』にする。」のよーなことは、
「自由」とは呼ばないんだろうなぁー。

2015年2月16日 @ FREEDOM

圧倒的な寂しさのまえで

2015年02月14日 | 虚事
寂しさのきもち ってさ
もう今では結構かなり平気なフリさえも
ちょっとは出来ているつもりだったのだけれど

たまーにね
おそろしいほどにも圧倒的で得体の知れない激情な寂しさを
感じてしまうことがございまして

そーいうときは もうなんか
どーすることも出来なくなっちゃうんだわねぇ

まったく動けなくなる かのような??

つまりはさ どういうことかと云えば
今そこにある今そこにいてくれるひとのぬくもりでは
足りない なんてことを思ってしまって

ほんとうにあるのかどうかはわからない
とおくのほうに漂っていそうな ぬくもりを
強力に 完全に 絶大に 求めてしまうみたいな

そんなふうに成ってしまったなら おちついて
ベッドのなか ひとり 毛布にくるまって

あの憧れの異性のひとが どうか幸せであられますように

と 祈りながら 想いながら 念じながら 
その躰を つよくこころに秘めながら
自慰をする

それとは多分 世界中を旅しているような 気分‥‥

そしてまた 今いるこの場所へと
舞い戻って来るんだ

2015年2月14日 @ Dance Dance Dance