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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

天然の壁、人工の壁。

2016年03月31日 | 考えごと
「壁」には、
2つの種類があるんじゃないかなぁ? と考えてて。
それはね、自然がつくった【天然の壁】と、
人間がうみだした【人工の壁】なんだけれども。

【天然の壁】と言うのは、
山や川や谷や海や砂漠やジャングルや大気圏や宇宙空間や。
【人工の壁】は、家や建物の「壁」とか「塀」、そして、
「ベルリンの壁」や「万里の長城」や「38度線」や
京都の「御土居」というような国境線的な境。また、
「バリアフリー」って呼ぶときの「段差」もそうですし、
「心のバリアフリー」って呼ぶときの「差別的段差」も
物質では無いけれど【人工の壁】と言えそう。
養老孟司さんが書いていた『バカの壁』って言うのもさ、
人間のうみだす「壁」なのだと感じる。

ってゆうときにねぇ、
じぶんが出くわしたその「壁」を「超える」ためには、
それが【天然の壁】なのか【人工の壁】なのかで
「超え方」がちがうんではないか?! っておもって。
それが、どちらとも困難であるにしろ。。

【天然の壁】の場合では、
橋とか船とかロープとかの交通手段や道具などを使って、
渡り超えるのでしょう、たぶん。そして、
【人工の壁】は、これにも2種類あると思っていて、つまり、
「体」がつくりだす【建造物の壁】と
「心」がつくりだす【精神的な壁】なのだけど。
どちらも超えるのはとってもややこしい気がするのよ。
いえ、【天然の壁】も非常に困難なものだとぞんじますが、
【人工の壁】というのはかなり複雑で厄介なような・・・

【建造物の壁】をたとえば「飛び越えて」越えようとすれば、
咎められたり通報されたり捕まったり罰せられたり
ときには撃たれたりしてしまうやもしれない。
なので、上から乗り越えて行くのは得策とは言えない。
地面を掘ったり、壁を壊したりするのも、よくないでしょう。
超えるにはどこか「関所」のような場所を通り抜けるしか、
たぶん方法はなくって。んでも、
その「関所」をちゃんとパスできるかどうかはわからない。
「通行手形」的なものが必要なんだろーなぁ。
あとは、奇跡的な「革命」が起きることが在れば、
「壁」も無くなるやもしれない。。。

もうひとつの【精神的な壁】の場合では、
それは目には見えない「壁」なので、
「超える」ことはおろか「認識する」だっても大変で。
(バリアフリーには成っていない「段差」も、
 健常者にはなかなか見えなくて‥‥)
まずはその「認識する」ところからスタートしなきゃあ、
「壁」を無くしたりするのもできない。

これは、養老さんの『バカの壁』も同じかもしれねぇ~。

家の部屋を囲む「壁」の恩恵を受けてたりもするので、
「壁」自体が悪いものとは言えないっ。
どーしても分けることが大事なときだってあるだろうし。
けれど「壁」にたどりつき「超えよう!」とするときには、
その「壁」が【天然の壁】なのか【人工の壁】なのかを
見極めることが肝要だとおもったの。むつかしいけれど‥‥
アイディアが出ないとか、限界を超えられないときでの、
「壁」はどちらだろう???

人間の「皮膚」は、【天然の壁】だわー!

2016年3月31日 @ Heroes

「わかった。」と言えるとき。

2016年03月30日 | 考えごと
なんどかこのブログで書いているとも思うけれど、
また考えてみたくなったので、書きます。
それは「わかった。」ということばについてなんだけど。
「わかった。」のことばがさ、
じつはかなりむつかしいことばなのだと感じた最初は、
内田樹さん著『先生はえらい』の一節を
読んでからでございまして。

まずは、あのぉ、
以前にも引用したことがあるかとも存じますが。
今回も引用を申しあげます。。。





「もう、わかったよ」とか
「だから、その話は、もう聞いたってば」というのは、
「私はあなたの言いたいことを
 たいへんよく理解しました。ピース」というような
友好的なメッセージではありません。どちらかというと
「わかったから、黙れ」という
コミュニケーションの打ち切りを意図する信号ですね。


(『先生はえらい』101頁より。)





内田さんおっしゃるには、
「わかった。」とは
「コミュニケーション打ち切り」のことば、とのことで。
「もうこれ以上その話は聞きたくないから、黙ってくれ!」
って会話の中で言うにはカドが立つから言えなくて。
「わかった。」や「わかりました。」であれば、
それほどカドは立たないように見えるので、
話を終わらせるためには「わかった。」ということばは
とっても有効なような気がする。

わかってしまえば、もうその時点で、
それ以上の説明を聞く必要がないからー。

と、ここでややこしいのは、
ほんとうの意味での「わかる」とはどーいうことか?!
ってことなんだけれど。
相手を黙らせる手段として「わかった。」を言う場合には、
その話が「わかる」か「わからない」かは
別にどちらでもよくって。
たとえ仮に相手の話を「わかってない」のだとしても、
「わかった。」って口にすればもうそこで
すぐさま会話を打ち切ることができるからさ。

だけど、その場合には、
「わかった。」は嘘になる。
じつは「わかってない」のだからねぇ。
いや、でも、もしかしたらそーいう嘘だっても、
「嘘も方便」に当たるやもしれないけど
。。。

「わかった。」を言うことができるのは、
「これまでわからなかったことが今ようやくわかったとき」
だけだと思ったの。
考えても、考えても、ぜんぜんわからなかった事柄が、
その話を聞くことで初めて「わかった。」とすれば、
聞いたあとの行動や言動は自ずと「変化する」はずで。
そういう変化が無いのなら、
「わかった。」とは言えない。嘘になるもんで。

(どんな話でも聞くことができれば一番よいのだけれど‥‥)

「わかった。」ということばってば、
それだけ重いことばのような気がしてるんだよね~。
相手を黙らせるために「わかった。」と言えば言うほど、
「ほんとうにわかる」ことが
できなくなって行ってしまうような気もするの。

2016年3月30日

正しさのデメリット

2016年03月23日 | 考えごと
「正しさ」のデメリットは、
「間違ってない」ことだと思ったのね。
「正しさ」とは「間違ってない」からさ、たとえば、
その「正しさ」がどこか嫌だのように感じたとしても、
ことばで伝えにくい。

「間違っている」のならば、
間違ってるよ! とかゆーふうにすぐに言えるので、
言う側も言われる側もわかりやすいんだけれど。
「正しさ」は、なまじ間違ってないから、
正しいのだけど、なんか・・・ みたいに、
どうしてもことばが多くなる。

「正しさ」とは、一体どーいうことを言うんだろう??

「正義」とか「正解」とか「正当」とか「正直」とか、
「正確」とか「正統」とか「適正」とか「公正」とか。
は、すべてほんとうに「正しい」のかどうか。
「正論」ということばはさ、
たいてい悪い意味で使われるけれど。でも、
「正しさ」が「間違ってない」ことを指して言うのならば、
「この『正しさ』は、正しいから、正しいのだ!」
とも成りやすくって。
「この『正しさ』は、ほんとうに正しいのか?!」
という問いは立ちにくい。

たとえば、
「正解」が「ゴール」のようになってしまえば、
そのたどりついた「正解」の場所に居ついちゃって、
もうそこから一歩も動けなくなる。膠着してしまう。。。
かと言って「間違い」の場合はどうかと言うと、
「間違い」は「間違い」なので「バカか!」と思われる。
なので、バカにされないためにも「正解」を選ぼうとする。
意識的、無意識的にでも「正しさ」を選択しようとする。

「間違い」は「バカ」で、
「正しさ」は「正論」で。とすればさ、
「間違い」も「正しい」もどちらもよいイメージじゃない。
だけど、仮にそーなのだとしても、
「正しいかどうか」ていうものさしは、
地味に強力なんだよねー。抗えない、というか‥‥

「正しさ」も大事なことのうちのひとつだと思うけど、
ぼくはその「正しさ」というものさしから
できれば自由でいたい。

と言う、これさえも、正論?!

2016年3月23日 @ SUPER LOVE SONG

純粋のリスク

2016年03月22日 | 考えごと
「純粋」について考えてたんだけどね。

たとえば川を流れる水は、
どこか湧き水よりちょろちょろ浸み出したのが源流となり
そこから長い時間をかけ下流までやって来る。
っていうのをテレビなどで見たことあるけれど。

さいしょの湧き水はとても「純粋」なのだとしても、
流れ流れて来るあいだの道中で
いろいろなものが入り合わさり取り込まれて、
下流にたどりついたときにはもうその水は「純粋」と
呼べない。
つまり、異物が入り込んでしまったものは、
「純粋」ではないんだよね。

これは水の話しなのですが。
たとえば人間が、ていうよりも、ぼくが、
「純粋」をかたくなに守りたいとするなら、
異物の侵入をなんとしてでも喰い止めようと試みる。
異物が近づいてきたら、門を閉める。
たとえば相手の話を聞いているときにでも、
読書しているときにでも、
テレビを見てるときやその他いろいろのときにでも。
ほんの少しでも異物の気配を感じれば、
黙ったり、目を閉じたり、逆に、キレたり怒ったり。。
そーすることによって「純粋」を死守する。

さっきの水のたとえで申しますと、
湧き水が浸み出した源流の場所からずっとそのまま
一歩も動かないようにしてる、的な。。。

先日のNHK震災特番のなかでね、
出演されていた糸井重里さんが放送中に何度も
「混ざることが大事なんだよ!」と話していたけれど。
糸井さんのその「混ざる」とは、
「純粋」からの脱却だとも感じたの。

「純粋」ってば、えーと、なんていうのかな、
弱さや脆さと直結させてしまうような気もしていて。
そんなときにたとえば異物をからだへ取り込むことで、
抗体をつくりだす、みたいな?!
そのためにはさ、本を読むときとかに、
すべての文字を飛ばさず一語一語を追ってゆきたい。
なかなかできないんだけれど~。

2016年3月22日 @ Goodbye Happiness

イノベーションは「むつかしい」か?

2016年03月21日 | 考えごと
なにか困難な問題に直面したとき、
「それはむつかしい問題だねぇ。」って言うことは、
もしかしたら希望であるかも? とおもったの。
「むつかしい」ということが「わかる」ってのは、つまり、
解くのが簡単だとか楽とは言えないんだけど、
(不可能では無い!)と直感的に判断しておって。
解決は「可能」だとじぶんで宣言している。

たとえばぼくがこれからメジャーリーガーとなって
4割バッターになりたいとか、
フルマラソンのタイムで1時間を切りたいとか、
そーいうのは「むつかしい」んじゃなく「不可能」でさ。
ある問題を耳に入れたときその問題が、
たとえ困難でも「可能」であるか。それとも、
「不可能」なのかは判別できる。はずで。。。

じぶんは楽で簡単なことしかしたくない、と言うなら、
「むつかしい問題」だっても絶対に解決できないけれど。
「不可能」じゃないのならば「可能」かもしれない、
って思えるならいつかは解ける、かもしれない。

たとえば「イノベーション」はどうか?!

ドラッカーの著書を初めて読んだときにね、
ぼくはわからないことがたくさんあったのですが。
その中でも「イノベーション」ということばは、
それがどういう意味なのかぜんぜんわからなくって。
今でもよくわかってないけど、でもそれはつまり、
ドラえもんの【どこでもドア】のことかなぁと思ってる。
【どこでもドア】が発明されれば、
クルマも電車も新幹線もバスも飛行機もロケットも
ぜんぶ必要なくなってしまって・・・

映画『ドラえもん のび太と銀河超特急』がたしか、
そういうストーリーだったかな。
【どこでもドア】の発明により廃れてしまった
星空間移動列車がミステリートレインとして復活し、
そのミステリートレインへのび太くんたちが乗り込んで、
少しずつ事件に巻き込まれてゆくみたいな。。
【どこでもドア】はイノベーションだし、
【ミステリーテレイン】も再生のためのイノベーション。

ていうのがぼくの今の解釈なんだけれど。

そのような「イノベーション」とは、
「むつかしい」のか。それとも「不可能」なのか。
簡単じゃあないって思うけれども、
(【どこでもドア】を発明するのは無理だとしても…)
でも決して不可能でもないような気がする。
他にたとえば「アイディア」を出すことだって、
むつかしいことだと思うけど。不可能ではない!!!

そう想えたらよいなぁとおもってる~。

2016年3月21日 @ 口がすべって

考える建設。

2016年03月17日 | 考えごと
どうしても考えてしまう考えごとを
「考えない」ようにするのって、
考えることから逃げて「考えなくする」んじゃあなくて。
考えに考え抜いた先で「とある答え」にたどりつき、
これでもう考える必要が無くなったので
「考えなくなる」のことかもしれん。

ちょっとどうしようもない悩みごとも、
「悩む」ことから逃亡してしまうのでなくって。
悩みに悩み抜いたその先に
在るなにか。。。

「考え抜く」や「悩み抜く」ていうのは、
考え始めてすぐに到達できるものじゃないもんで、
時間かかるだろうし大変だと思うけれど。
でも、どうしたらそれができるようになるんだろう???

ひとつ思ったのはさ、例えば、
今日レンガをひとつ積み、
明日そのレンガの上にもうひとつレンガを積むとき、
今日積んだレンガが明日の朝そのままになっていなきゃあ
上へも積むことができねぇ。
明後日またその上へ積むのだとしても、
今日明日と積んだレンガが積まれたまんまになってないと
積めらんなーい!!

何度積んでも毎回レンガ無くなってたら、すすめない。

何度捨てても毎回ガレキ戻ってきてたら、片づかない。

つまり、
ゲームで言えばゲーム途中で記録するバックアップ機能、
本で言えばしおりやひもや本へはさむなにか。
そーいうのが「考える」ときにもあれば、
よいとおもった。
昨日「考えた」ことを寝たらもう忘れちゃうんでなくて、
今日にも「引き継ぐ」ことができるなら、
もしかしたら明日明後日いつかたとえ数十年後でも
「とある答え」にたどりつけるかもしれない。

すすんだ場所からまた出発できる、というか、
日々をふまえる、というか、
建設、というか。
そういうのがまずは大事かとおもった。

2016年3月17日 @ スタウダマイヤー

時刻を知りたいとき。

2016年03月07日 | 考えごと
たとえば、
土地勘のない町を何も持たずに歩いていて、
どーしても今の「時刻」を知りたくなった、とします。
携帯電話も腕時計もそういうのなんにも持ってないので、
じゃあ、どうすればよいか?!

町を歩く誰かに訊きたいとおもいます。
「すみません、いま何時かわかりますか?」
と訊ねてみれば、
「◯時◯分だよ!」って教えてもらえる場合もあれば、
「ちょっとわからないねぇ。」というときもあって。
わかったならもうOKなんだけれど、
わからなければどうするか??

わかる人が現れるまで、訊きつづける。

でもさ、その町が都会ならよいけど、
ぜんぜん人が歩いておらず次にここを誰がいつ通るかさえも
見当つかないときには、
「ちょっとわからないねぇ。」「はい、そうですか…」
と言って去られるには惜し過ぎる。。。

たとえば、
「すみません、いま何時かわかりますか?」
「ちょっとわからないねぇ。」
「では、この辺で時計のある場所どこか知りませんか??」
「あぁー、それなら・・・」っていうような、
「時刻そのもの」でなくて
「時計のある場所」と質問を少し変えてみれば、
もしかしたら「時刻」もわかるかもしれない。

心の中で(時刻が知りたい)って悩んでるときにさー、
いきなり通りがかりの人から
「貴方はもしかしたら時刻を知りたいのではないですか?
 今は◯時◯分ですよ。」
なんて教えてくれることはありえない!!
かと言って、
「すみません、いま何時かわかりますか?」と訊いたとき
「わたしはちょっとわからないけど
 むこうの方に時計があるからそっちへ行けばわかるよ。」
そう話してもらえることだってあるかもしれないけれど。
それは親切なのだから、そんな親切を、
こちらからは期待しないほうがよい。

どーいう問いをじぶん自身でどう考えられるかってのは、
ぼくもなかなかできてないですが、
けっこう大事かなぁーとおもったの。

2016年3月7日 @ 赤い河

2種類のインプット

2016年03月04日 | 考えごと
前回エントリでは、
藤圭子さん『圭子の夢は夜ひらく』を聴きまして、
UNICORNの『川西五〇数え唄』が、その曲の
オマージュだったことに気がついた。のことを申しました。

それは『圭子の夢は夜ひらく』のなかでの
【十五 十六 十七と】のところを聴いたときに、
『川西五〇数え唄』の【十五 十六、十七と】が思い出され、
(あぁ、そーだったんだぁ!)と思ったんだけれど。
昨日のブログでぼくは
「どーしてそこだけつづけてなのか?! が、
 ぼくはそういえばこれまでわからなかった」
って記したですが。そこで「そういえば」と書いたのはさ、
『圭子の夢は夜ひらく』を知るまえに、つまり、
『川西五〇数え唄』を聴いていたときには、
その「十五 十六 十七」がつづけて唄われることに
ぼくは違和感というか不思議さはすこし思ったけど、
「どーしてそこ『だけ』つづけてなのか?!」っていう
「問い」までは考えてなかったのね。
それは『圭子の夢は夜ひらく』を聴くことによって、
初めて具体的に「問い」を立てることができた!!

これって、なんだか興味ぶかいかも。とおもったのよ~。

しかもさ、これまで立てることができなかった
「問い」の立ったその瞬間、
もうすぐに「これは藤圭子さんのオマージュだった!」って
「答え」が出たのだから。。
「問い」が立てばもう「考える」ことなく「答え」は出る。

‥‥であるとするなら、では、
どーしたら「問い」を立てることができるか?!

それはねぇ、今回のことを例にして考えますと、
「インプット」が2回必要なんじゃないかと思ったの。
最初の「インプット」だけでは何かしら想うことはあっても、
まだ「問い」は立たなくって。
1回目の「インプット」で感じられた
まだことばに成れてない「感覚」をそのまま持ちながら、
2回目の「インプット」によって「問い」が立ち、そして、
「答え」へとひらかれる。

そーいう流れかな??? うまく言えないけど。

「インプット」だけではよくなくってさ、
二度目での別の種類の「インプット」をすることが、
重要なのかもしれない。。。

あ、そーいうことよりもさ、
『川西五〇数え唄』っていつ聴いても笑えるからすごい。のと、
『圭子の夢は夜ひらく』が何故か口ずさみたくなるー。
のほうが大事だわさ。

2016年3月4日 @ 半世紀少年(カラオケ/長髪残し)

火星とか、貨幣とか、媒介とか。

2016年03月01日 | 考えごと
「お金」について書きました昨日のブログでぼくは、
「現金」のことしか考えていなかったなーと思って。例えば
「クレジットカード」や「おサイフケータイ」や
「電子マネー」となればまた話は変わってくるかも。。。

イーロン・マスクの本だったと思うけれど、
人類火星移住計画で人類が火星に住むときには、
火星で「現金」は使えず、買い物はすべて「カード」等での
「電子マネー」払いになる予定らしくって。
イーロン・マスクはそれがビジネスチャンスに成るのだって
書いてあったけかな? 詳しいことは忘れました。
「現金」を、地球から火星へ持って行ったり、
火星で製造したりはできないから、
ていうのが理由なのかな。

いつかこのまえの『怒り新党』で、
「電子マネー」のことが話題になっていたけど~。
こーいうのって火星はもとより例えば地球でもどんどん
「電子マネー」的に成ってゆくかねぇ。
技術の発達によって「現金」が完全に無くなってしまう??
そーなるとなにやらの悪影響があるのかどうか、
ぼくにゃあ、想像してみてもまったくわかりません!!

そして。このまえ図書館でね、
『智慧の実のことば ほぼ日刊イトイ新聞語録』
という本を借りて読みまして。
そのなかで、経済学者・岩井克人さんは‥‥





言葉、法律、貨幣など、
人と人との間をつなぐ「媒介」がなければ、
人間は、人間として、存在できないのです。


(書籍42頁より引用です。)





‥‥と言っておられて。

ぼくにはむつかしいことはよくわかりませんが、
人間が人間として存在するには「媒介」というのが
大切みたいです。「貨幣」もそのひとつなのだそうです。
つまり「貨幣」とは「媒介」であります。

となると「電子マネー」も「媒介」なのかどうか???

うーんと、なんだか「熟語」ってば、
むつかしい事柄がわかったような気持ちになれるけど、
すぐわかるみたいなそんなこたぁ無いような気もしてきた。

2016年3月1日 @ 惑星

お金を大事にするということ。

2016年02月29日 | 考えごと
「お金」を「お金」として「使うことができる」のが
当たりまえだと思ってたけれど、
当たりまえじゃないのかもしれない。っていうのをね、
前回ブログでは申しました。

ネットで調べてみると財務省ホームページでは、
「現在発行されている貨幣」
「現在発行されていないが通用力を有する貨幣 」
の一覧がございまして。

例えば【10円硬貨】ですと、
現在の硬貨は昭和34年から発行されていて。そして、
いわゆる「ギザ10」の【ギザあり】は昭和26年~33年の
期間で発行、現在でも使えます。
【5円硬貨】は、現在のは【10円】と同じく昭和34年から。
硬貨に記された「五円」の文字がゴシック体ではなく、
楷書体のものが昭和24年~33年。
穴が開いてない現在のとは全くちがうデザインのものが、
昭和23年~24年。すべて、通用する。

その以前と現在では「お金」がちがうんだわねー。
これにはやはり太平洋戦争が
おおきく関係しているのかどうか。はたまた、
現在の「お金」がもしも使えなくなってしまうならば、
それはなにが起きたときなのだろうか。
ぼくにはよくわからない。。。

例えば今から400年後のきょう2416年2月29日。
現在の「お金」が、
つまり、昭和や平成に発行された「貨幣」がそのまま、
現在同様「使える」って起こりうることだろうか???
(そのときまで、劣化で貨幣自体が朽ちないものとして…)
仮に「使えている」とすればさ、
それはすごいことなんじゃないかなー。

よく言われます「お金を大事にする。」ということばとは、
「お金」が、この使っている「貨幣」が、
あしたもあさってもこれからの将来も流通されていることを
「信じること」なのかもしれない。
みんながこの「お金」を「お金」として信頼しながら、
ちゃんと「使える」と信じながら過ごせること。
それこそが平和なのかもしれない、と感じたの~。

「お金」を大事にしたい。うるう日!!!

2016年2月29日 @ You Never Give Me Your Money

戦争とお金。

2016年02月28日 | 考えごと
前回エントリでは、
以前『ブラタモリ』で観て知りました
江戸時代に使われていたお金「藩札」のこと。そして。
小野田寛郎さんが戦地フィリピン・ルバング島にて、
戦場では住民となにも替えることができないからと、
持って来ていた紙幣をすべて燃やしてしまった。という、
ふたつのことを申しあげました。

「お金」って、なんだろー???

例えば戦争が起きてしまえば、戦争中には、
戦争の混乱でお金が使えなくなってしまったり。。。

えーと仮に、ぼくがお店をやっていたといたしまして。
おとずれたお客さんがぼくのお店で買い物をして、
お客さんが払ってくれた「お金」がじぶんのところへ
渡ってきたとしても。
その後、戦争状態がさらに悪化してしまった場合には、
今度ぼく自身がどこかのお店に行き、
手に入れたお金を「お金」として使いたくっても、
使えないかもしれない。
使えないかもしれない、ってひとたび思ってしまえば、
店主であるぼくは最初の時点でお客さんから
(この「お金」は受け取れない…)と思うかもしれない。

そして、それから戦争が終わりまして。

その戦争によって例えば政府が変わってしまったり、
例えば納める国(国家?!)が変わった場合には、
もしかしたらこれまで使われていた「お金」も、
まったく別の「お金」に移り変わるのかもしれない。
そうなればこれまで使ってた「お金」はもう使えない。
考古学的な資料としての価値しか無い。
持っていた「お金」を、
新しい「お金」に両替ができるかどうか???
なんて、戦争が終わるまえの戦争中には定かじゃない。
と、そーいうふうに思ってしまえば、やはり、
その「お金」は不安で持っていられない。。。

‥‥というこの流れって、合ってます???
素人考えなので間違ってる可能性がかなり高そうだけど。

でもさ、なんて言いますか、
「戦争」と「お金」は関係している、って感じたのよね。
「お金」を「お金」として使うことができるって、
当たり前だとぼくは思ってしまってるけれど。でも本当は、
当たり前ではないかもしれない。なんかそう思った。

2016年2月28日 @ 傘の下の君に告ぐ

わからないお金。

2016年02月27日 | 考えごと
どの放送回だったかは忘れましたが、
以前『ブラタモリ』を観ててちょっと考えたことはさ。

番組のなかで、江戸時代にお金として使われた
「藩札」が紹介されまして。
その「藩札」はもちろん現在では使用できなくって。
つまり、もうお金としての価値がない。
たとえば当時の江戸のかたがたは、
いつかこのお金がお金として使えなくなることを、
想像しただろうか?? って考えちゃって。

それを考えてしまうと、
もしかしたら現在の「円」という通貨単位だっても、
数百年後のなんとか時代にはもう使えなくて。
現在同様、資料館に展示されていることだってありうる。
それを、その時代のタモリさん的そんぞいのかたが、
平成時代の痕跡を探しながら坂道や地質を調べ、歩いて、
その土地での学芸員のかたが「円」を指し
「これが当時使われていたお金です。」と説明なさる。

そういうことだって、あることなのかもしれない‥‥

小野田寛郎さんが戦地フィリピン・ルバング島で、
「お金を燃やした」という話を読んだことがございまして。
(書籍『智慧の実を食べよう。 』より。)
当時でいうところの相当な額のお金を、
戦場で持っていてもなんにも住民と替えることができない。
マッチ一本ですら替えられない。
だから、紙幣全部燃やしてしまった。というエピソード。。。

お金は大事。とは言いましても、では、
「お金」とは、「お金の価値」とは、何なのか??? 
ってじつはぼくには説明ができないし。わからないわー。
小野田さん仰るような「物資と【交換】すること」そして、
お金をお金としてたらしめる「ひと同士の【信頼】関係」、
と言うようなことがキーワードだと思うけれど。
ぼくにはうまく言えない。まだよくわかっていないです。

2016年2月27日 @ Eat The Rich

やりたいことを「宣言」するかどうか??

2016年02月18日 | 考えごと
前回エントリでは、
たとえば大すきなミュージシャンの新曲の「発売日」と
その発売日がアナウンスされる「発表日」は、
どちらとも大事な日なのかも?? と申しました。
の、そこからねっ、
このことはじぶん自身の生活にでも使えるのでは、つまり、
「発売日」と「発表日」のことから何かが学べそう。
ていうのを今回書きますです。

これは以前からちょっと思ってたことなんだけども。
なにかじぶんで「やりたいこと」があるっていうときに、
その「やりたいこと」をだれかお知り合いのかたへ
【◯◯をやりたい!】と宣言したほうが、よい。
そーすれば助けを頂けたり、導かれたり、アイディアが出たり、
「やりたいこと」がより実現しやすくなる。

‥‥と、そのような考えを聞くことあるけれど。
ぼくは、それはそうなのかもしれないし、
そうじゃないのかもしれない、とも思ってるの。

言えば実現しやすくなる【夢】もあれば、
言えば実現できなくなる【夢】だっても
ある気がする。。。

例えば、アートディレクター・佐藤可士和さんが、
NHK「トップランナー」へ出演なされましたとき
【幼稚園のデザインをやりたい。】と仰って。
それがきっかけになり幼稚園のお仕事の依頼が入って来た。
だから、このわたしも「やりたいこと」を
可士和さんのようにどんどん【宣言】してゆこう!!
ていうのはさ、ぼくはどーなのかよくわからないのよね。
たぶん、それは可士和さんだったからこそ、
言われた「やりたいこと」が実現につながって。
可士和さんでなかったのならまたどうなのかはわからない。
実現するかもしれないし、実現しないかもしれない。
言えば言うほどそれが「実現する」とは限らない。
ていうように感じていて。

実現する【宣言】と、実現されない【宣言】では、
それらはどうちがうのか?? っていうのを、
ぼくなりにぼんやり考えてることがございまして。
「発売日」と「発表日」とに関連しておるんですが。。。
そのこと次回ブログにて書きたいとぞんじます。

2016年2月18日 @ (I'm Not Your) Stepping Stone

ホームベースでの3名の立場。

2016年02月13日 | 考えごと
野球のホームベース付近では、
まったく立場のちがう人たちで密集しているよなぁー。
とおもいまして。それはもちろん、
「バッター」「キャッチャー」「審判」のことなのだけど。
「ピッチャー」にとったら、
「バッター」は敵で、「キャッチャー」は味方、
「審判」は敵でも味方でもない。
という、その3人がすんごい近い場所で固まってるって、
なんだかおもしろいなーと。

【会話は、キャッチボール。】ていうのをよく聞くけれど。
仮に「ピッチャー」である「話し手」のことばを、
ホームベース上で待ち構えるときに「受け手」は
「バッター」にも「キャッチャー」にも「審判」にも、
成れちゃう。三つの立場ともすぐ近い場所にいるからね。

こちら側へ投げられて来る「ことば」をさ、
「敵」として「かっ飛ばす」か。
「味方」として捕って返して次の「サイン」をおくるか。
「審判」としてストライクとボールの「判定」を下すか。
そのどれも【会話は、キャッチボール。】って言うときの、
キャッチボールじゃあないっ!!
もう「試合」に成ってしまっているもんねぇ。

「ピッチャー」のほうだって、
変化球だったり豪速球だったり内角低めギリギリだったり、
のような「ことば」を投げれば、、、
たとえば「バッター」からは三振を奪えたり、
「観客」が盛り上がったり、
「実況アナウンサー」は熱い絶叫をされたり、
「解説者」の素晴らしい制球ですねという声を聞けたり。
「球団」と「スポンサー」との間で巨額な資金が動いたり・・・

それはさ、やはりキャッチボールではないっ!!

打つか打たれるかとか勝つか負けるかとかではない、
【キャッチボール的な会話】に成るのが、
ほんとうはよいんだわ~。

2016年2月13日

THINKING THINK(最終回)「考えるを未知化させる。」

2016年02月08日 | 考えごと
シリーズで書いてます 前回エントリはこちらです。】

先月22日より申しておりますこの
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」のこと、
なんだか今日でしめくくれそうな予感。。。

あの、どーしてこのシリーズ書こうって思ったのかを
ここで申しますと。まず1月22日のときにさ、
その日のブログどーしようかけっこう迷っていて。
なかなか書き出せなくって。
それで、リーディングリストで溜めてしまってた
読めずにいたネット記事をいろいろ読みにゆき。そして、、
くるりのnoteの『岸田日記Ⅱ #72』では、
岸田繁さんが「考える」のことと「感じる」のことを
おっしゃってて。
そこからふとじぶんの考える【考える】について、
書こうとおもったの。

「『【考える】とは、なにか?』を考える。」ていうのは、
前からちょっと考えていて。
「なにか」を『考える』ためには、
【考える】とはどーいうことか? がわかってないと、
考えられないやも、と。ならば【考える】を考えよう、と…
(←わたくし個人のけんかいです。)

シリーズの「タイトル」でネーミング拝借をいたしました、
原研哉さん
デザインのデザイン DESIGNING DESIGN』を、
このたび、ひさしぶりに読み返しまして。
(大きくぶ厚い本ですので、すこしかいつまみながら…)
そこで【未知化】のことを思い出したの。





デザインを言葉にすることはもうひとつのデザインである。
本書を書きながらそれに気づいた。

何かを分かるということは、
何かについて定義できたり記述できたりすることではない。
むしろ知っていたはずのものを未知なるものとして、
そのリアリティにおののいてみることが、
何かをもう少し深く認識することにつながる。


(書籍18頁「はじめに」より引用です。)





今からだいたい10年前、
母校の専門学校へ原研哉さんが講演でいらっしゃって。
そのとき原さんは、
【未知化】のことをお話しされていたのだけれど。
思い返せば、当時はまだ全然わかってなかった。
(現在もあんまりわかっていないが・・・)
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」とはさ、
つまり、
「【考える】を【未知化】させる。」ことだとおもい。
できればそうなれるようにエントリ書きました。

そして。本屋さんで注文しておりました
古賀史健さん著『20歳の自分に受けさせたい文章講義』が、
届きましたと連絡いただき購入してまいりまして。
いま読み始めておるですが~。
まず冒頭の「はじめに」で古賀さんは、
【書くこととは、考えること】だと書いておられて。
ぼくもその【考える】ことができるようになりたいなぁー。
って思ったんだよね。

(シリーズ、これにて、おひらき。)

2016年2月8日 @ ジュビリー JUBILEE