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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

じたく、温泉、桃源郷。

2013年11月25日 | 日常
お風呂に入るとき、
たまーに、電気を消して
暗くして湯船につかる。

そうするとー、
だんだん天井から
星空が見えてくるようになってきて。

なんとなく、
ひのきの匂いもしてきたり。

と、そーいえば、
どこかしらお湯の
成分が変わってきたよーな‥‥

なんて思いはじめたら、
もうそこは

三谷のような、下呂のような。
伊豆でもあり、熱海でもあり、箱根でもあり。
加賀か? 十和田か? 登別か? 
伊香保だ! 草津だ! 水上だーっ!
別府… 湯布院‥‥んー

ってな具合でたのしんでいるときによ。
いきなり電気がついたかと思えば、
裸の父親がとびらを開けてきて

「なんだ、入ってたのか?!」

なんて言われて。
「せっかくの別府が」と嘆いても
父親にはちんぷんかんぷん。

そう、ここは豊橋‥‥

これを、
コミュニケーション的に
言ってしまうと。

電気の明かりが
「ここに居ます」のサインになっていた。

とかゆーような、
理屈が分かりました、先生!
みたいな?!

いや、
んなことはどーでもいいんだ。
温泉だ。温泉につかりたいんだ。

父親に電気を消してもらったのち、
想像を、また最初の
星空からやりなおすも。

もう暗さに目が慣れちゃっていて、
どーにも
自宅の風呂場にしか見えない!

なので、身体を洗いはじめてみたりー。

そんなのこんなで、
温泉は
まだまだ遠い‥‥

パチンコ台とふわふわの玉

2013年11月18日 | 考えごと
どうしても考えてしまうことを、
いつも通りに考え始めてみるも、結局
いつもおんなじ結論になっちゃって。

どこにも辿りつけないあの感じは、

いっこうに
当たり穴に入らない、
パチンコ台のよう。

ぜんぶの玉が
下の穴より流れていって、
それこそ、時間とお金の浪費。

どうやってみても、玉は
外れへと落ちていくことが、
スタートの時点から決められている罠。

それってさ、

なにが原因かと言うと、
究極的に考えれば
たぶん「重力」なのかな。

「重力」があるから、
玉は下へと落ちていく。

でも、なぜ玉は、
「重力」に逆らえないんだろう?

って考えてみるとね。

持っている思いや気持ちや感情の
ぜんぶからぜんぶまでを、
ぎゅうぎゅうに固くキツく縛ったから、

だから、
出来上がった玉は
あまりに重いものとなる。

そして、落とされた重い玉は、
パチンコ台の釘や仕掛けや
すべてを壊していきながら、どんどん落ちていく‥‥


河合隼雄さんが
『河合隼雄のカウンセリング講話』
という本のなかで、


    「もつれている糸を全部生かそうと思うと、
     絶対に引っ張ってはいけない。
     それでは、どうしたらよいかと言うと、
     ふわふわさせるといいんです。
     ふわふわっとやっていると、だんだん
     ふわふわっとほどけてくるのです」(p.227)


そうおっしゃっていたのが、
とっても
印象に残っているのだけれど。

もしも、河合さんがおっしゃるように、
持っている思いを
「ふわふわ」させることが出来たなら、

重い玉は軽くなり、

パチンコ台に投入しても、
玉は下には落ちなくて、
「ふわふわ」っと舞い上がっていくのかな??

そんなイメージを持っていたい。

田原市図書館にて。

2013年11月11日 | 読書
このまえ、大好きな
田原市図書館に行ってきましてー。

それでね。
おれ、図書館で
いちばん好きな時間は、

あと1冊借りられるけれど、
どーれにしようかなー? って
図書館の中を
ぐるぐる歩いてるときかもー、とおもった。

そのときって、

まえもって決めてた本は
もう手元にあるから、
すんごい自由な気分だし。

たとえば、男性が書かれた本ばかり借りてるから、
女性の作家さんでなにか無いかなー?
ってバランスなどなど考えてみちゃったり。

なにか1冊見つけても、
いや、この本はまだ次回でもよいはず。
いま読むべく本があるはずだーっ!!

と、みょうに必死になってしまったり‥‥

なんつーよーな、
そんなこんなの感じで
このまえ歩き回って見つけたのは、

『スケッチトラベル』

という、以前
ほぼ日こちらで連載もされていた、

スケッチブックが
さまざまなアーティストからアーティストに
手渡しでバトンタッチされ、そのつど
アーティストの手によって絵が書き加えられていく。

の書籍バージョンというのかな。

まえまえから「読みたい!」おもってたから、
見つけたときは
これだ、のひとこえで手のなかへ。

拝見をいたしますと、

絵はもちろんさることながら、
アーティストの方々のコメントや、
手渡しの際に撮られたという写真が、もうすばらしい!!

そして、
さいごの宮崎駿さんのページは
鳥肌たった‥‥。

図書館って、
そういう出合いあるから、
たのしいっす。

そうそう。

さっきほぼ日手帳ひらいたら、
ちょうど今日は『スケッチトラベル』を企画された
堤大介さんのことばだったしー!

ぐーぜん。

ではまたねー!

志澤氏の批評論

2013年11月08日 | 読書
2週間くらいまえかな。

村山由佳さんの
小説『ダブル・ファンタジー』を読んでいて。
とてもおもしろくてー。

そのなかでもね。

志澤一狼太という登場人物が、
主人公・奈津にメールで伝えたあることばが
妙にこころに残っていて。

どういうことばかと申しますと‥‥


脚本家をしている主人公・奈津は、
家事一般で仕事のサポートをしてくれている
夫からの支配・抑圧に悩んでいて。

そのことを、奈津は
奈津が敬愛するベテラン演出家・志澤に
メールで相談をする。

そのとき志澤は、奈津に


   「奈津、はっきり言おう。
    おまえが彼のその言葉を赦せないでいるのはな。
    彼がもはや着られない服であるということを、
    じつは悟っているからだ。
    人は、自分以下の存在に批評されることに
    (無意識のうちにも)耐えられないんだ。」(p.94)


などなどを伝えた‥‥


っていうシーンからの
上に引用しましたことばでして。

ちょうど、おれ
批評について考えてたときだったから、
気になったのかもしれんけど。

ストーリーの詳しい流れや
そのときの登場人物のこころうちは、
ちょっと置いといて。んでも


   「人は、
    自分以下の存在に批評されることに
    耐えられない」


の一言は、なんか
「なるほど!」とおもった。

「見下ろす」というか、「見くだす」というか、

そういう
「下に見る」感覚を持っていると、
お互いに、お互いのことばは届かない。

でも、自然にどうしても身体が反応してしまい、
「下に見る」ことが起きてしまうから、
たぶんむつかしいんだろうけど。

「敬意」というか、「敬愛」というか、
そういう流れになっていくには
なにが必要なのかっ??

うぅーん・・・ とね。。。

いま思っているのはー、
じぶんが
どんどん地下へと潜っていって、

そこから相手を「見上げる」。

っていう感じなのかな。
よく分からんけど。

相手から見下されずに、でもまた同時に、
相手を見上げる感覚を
もてたらいいな。

「心を亡くす」のこと。

2013年11月06日 | 考えごと
武富健治さんの
漫画『鈴木先生』第2巻に、
鈴木先生が


   「現場っていう「忙しい」場所に埋もれて……
   「忄(こころ)」を
   「亡(な)くさんように頑張るさ!」(p.93)


と、居酒屋で
大学時代の旧友に話す
シーンがあって。

なんかね。

さいきん、その
「心を亡くす」とは
いったいどーいうことか? ってのを考えてる。

たとえば、
白川静さんの『常用字解』第二版より
「忙」を調べてみますと‥‥


   「〔列子、楊朱〕に「子算忙然として、以て之れに応ふる無し
    (言い返すことができなかった)」とあり、
    ぼんやりの意味とする。
    「いそがしい、あわただしい」の意味に使用するのは、
    唐代(七世紀~十世紀)以後のことであるらしい。」


とのように、
「忙」には
「ぼんやり」するという意味があるようで。

おもえば、
専門学校に通っていたとき、
あんまり体調がよくなくて。

そんなときに、
いろんなやること抱えながら
「忙しい、忙しい‥‥」言ってたら、ある友人が


   「じぶんで「やる!」って決めたからでしょ」


のようなことを話されて、
「なるほど、そーだな」とおもいながら。

いま考えると、

その感じが
まさに「心を亡く」していた、つまり
忙しく動いているようで
逆に「ぼんやり」していた、ような気もする。

忙しいとさ、
考えながら思いを巡らす時間も
なかなかとれなくて。

じぶんにとって
大事な出来事があったにもかかわらず、
そこから
教訓を得ることが出来なかったり。

考えられたとしても、
判断力が落ちてしまっていて、
よい考えに結びつけられなかったり。

いろいろ振り返ると、
「心を亡くす」って
そーいうことなんじゃない?

ってゆーのをおもいました。

口角あげてすごしたい!

こころのなかのダム

2013年11月02日 | 考えごと
こころのなかに
「気持ち」をためるダムみたいな
ところがあって

たまーに
そのダムが
うまく機能しなくなる

いつもなら
「気持ち」の貯水率
だいたい90%くらい??

で 平常運転なんだけど

一気に
「気持ち」が降ってきては
ダムが溢れてしまったり

逆に
使いすぎたり 忙しすぎたりすると
ダムは渇きに渇いて

節「気持ち」を呼びかけることになる

決壊も
渇水も
どちらもなくしていくためには

たぶん
用水路ならぬ 用「気持ち」路の
整備が必要なのだとおもいつつ

「気持ち」がよく流れていくように

整備して 整備して
さらにはもっと
どれだけ整備をしてみても

どんどん変化していく
あるいは成長していく
「気持ち」の降り方には 対応が行き届かない

生きていくために

はじめは
「こりゃあいい!」とおもって
こころにダムを建設したけれど

その建設は
もしかしたら あまりよくない
開発事業だったかもしれないね

そのときから
こころの自然破壊は
はじまっていた

のだとしても

もう建設は過ぎ去っていて
元に戻すことも
あたらしく建て直すことも

もはや むつかしい

ならば その
むつかしさを受け入れるのだと
決意と覚悟をすればいいさ

それが『建設』というものだ!