goo blog サービス終了のお知らせ 

なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

ちいさい「器」の生存戦略

2015年05月01日 | 考えごと
ぼくなんかで云えばさ、ぼくってのはさ、
「器」が人一倍にちいさいのだけどね。
「器」がちいさいとどーなるか?!
を申しますれば、すぐに「いっぱいいっぱい」になる。
のコトが特徴なのかねぇー。。

「器」がちいさいから、中身が「空」であっても
ものの一瞬でいっぱいになっちゃって、
あたらしい物事の入る余地がいつもない。

的な状態が「いっぱいいっぱい」とゆーことやね。

以前はさ、じぶんのその「器」のちいささに
気づいてからと云うものの、
「器」のサイズをなんとかおおきくしたい~っ!!
とかゆーのを思ってたりもしたんだけれど、
まー、無理だったね。

たぶんさぁ、にんげんの「器」ってのは
産まれた時にもうズバッと決まっちゃってて、
あとからでは変えられないんだわ。

であらば、どーしたらよいか?

「器」をおおきくするのは、あきらめる。
そして、
「器」がすぐに「いっぱいいっぱい」になるなら、
いっぱいになるまえにいっぱいになったあとに中身を
かき出す!

かき出して、かき出して、かき出すっ!!!

わざわざ入れるとかしなくっても、
なんでもかんでも「器」にはどんどん入って来ちゃうから
(ここは、こころの豪雪地帯かっ?!)
日々「かき出す」作業をいたしながら、
いったん「空」になったとしても安心しちゃダメ絶対、、、
このちいさき「器」では
もうすぐにも「いっぱいいっぱい」になってしまうから~。

気を抜けば、すぐ次の一瞬で、ゲームオーバーなのよっ!

‥‥ってゆーような、そんなじぶんのコトについて
こんかいブログを申しあげましたー。

2015年5月1日 @ Relax In The City

覚えたり、忘れたり。

2015年04月27日 | 考えごと
覚えよう、と思ってもころっと忘れてたり、
覚えなきゃ、って必死で暗記するも頭に入ってなかったり、
覚えておこう、とは特に思わなくても記憶をしてたり。

そして。

忘れよう、と思ってもしれっと覚えてたり、
忘れなきゃ、って必死に念じれば念じるほど頭に焼きつき、
忘れたくっても、忘れることの、叶わない記憶があったり…

ひとが、「覚える」とか、「忘れる」とかってさ、
コンピューターのハードディスクのように
クリックひとつで、
コントロールできるものではないなぁ、って感じて。

ひとは、じぶんの脳を、
じぶんの思いどおりに動かすことはできないんだわー。

たとえばじぶんの脳味噌の内部へは、
じぶんの手元のマウスで動くポインタは届かない。
ってゆーか。目で見られない、と云うか。
そもそも、ディスプレイとは接続できない、的な??

こんな近くにあるのに「脳」ってめっちゃ遠い。。。

こちらから手紙を出してみても、その返事はおろか、
脳までの道中で「なにか」の事態が起こり
手紙はもしや届いておらんかったり。かとおもえば、
いきなり突然に脳からのサイレンが響き渡ったり~。

って言ってしまうとね、なんか、脳に良いように
使われてしまってる言い方かも知れんけれど、
けっこうそんなわけでも無くってぇ。えーと‥‥

脳と、もっとなかよくする方法を、模索したい!!

と、そんなよーなことをさ、
覚えたり、とか、忘れたり、のコトをふと思って
ブログに書いてみましたっ。

2015年4月27日 @ エソラ

「『問題』とはなにか」問題について

2015年04月23日 | 考えごと
「問題」とは、
じつのところどーいう事柄のコトを指すのだろう?
ってさ、なんかちょっと考えていたんだけれど。

「問題」ってのは「解かれる」のを待っているわー!
だとは、まずはおもったね。

「〇〇問題」と名付けられたのなら、
「〇〇問題」ご自身は、いつか、いつのひか、いつまでも、
「解かれる」その日を夢見てる。。。

その時が、たとえ数時間後でも、数日後でも
数ヶ月後でも数年後でも数十年後でも、数世紀後でも、、

とは申し上げましても、
「解く」までにそんなめっちゃ時間のかかる
「問題」ってば、みんなどーしてる???

めんどいじゃん、「解く」のってぇ。

ずっとずうっとその「問題」のコトを注視しながら、
ひたすら(どうなんだろう?どうなんだろう?)って
考え続けたとしても「答え」なんてそうそう出て来ないぜ。

この「問題」の「答え」は、このまま行けば、
3時間後には出ます!
とかゆーのを考え出す前には言えないわけだし。
(言えたのなら、それは「問題」だとは云えなそう…)
考え始めても、その問題が「いつ」解かれるか?!
がわかんねぇから、もう予定とかまったく立てらんねぇー。

だからさ、あの、先方のかたに対しましては
これとっても申し訳ないのだけれども、
あらかじめのプレゼンとか出来ないんだよね。

この「問題」の「答え」がいつ出るのか、
わたしにも、まだ、さっぱりわかりません。
としか言えないけど、それを云っても、相手の困り顏。。

なので、相手を困らせないためには~、
もうすぐにでも、こう一瞬で解けそうな
「問題」だけをつくって、この問題の
答えはこうです! おぉー!(←相手方の声)みたいな。。。

その方法もね、たとえば解法のひとつなのかも知れないね。
問題の本質は変えずに問題の「立て方」を試行錯誤し、
より「答え」へと近づかせてゆく……
…んでもよぉ、なんかっ、やっぱし
「一瞬で解けるのか? 一瞬では解けないのか?」
のどちらかだけを追い求めちゃってる感もあるだし。。

うん? あーと、なんのはなしだっけか?!

あ、そーそー、
「『問題』とはなにか問題」のコトだったわ!!
その問題の解答ってば、えーと、ぼくにはよくわからない
ってぇのがまぁオチなんだけれど。
昨日(4/22)のほぼ日でね、
糸井重里さんが「今日のダーリン」で仰っておりました
「よくわからない」のこと、またそのコラム最後での、、





「わかりたい」と「よくわからない」は、兄弟なんだよ。





と、あんどさらには、以前の
吉本隆明さんの講演会『芸術言語論』にて、
吉本さんが講演おはなしの最後の最後でおっしゃった‥‥





ほぼ半世紀に渡ってあたまのなかで産んできた
あれ(考え)だから、
そう、そう、、そう簡単には、、、あんまり……






‥‥のことばが思い出されてまいりまして。
ココでもよう言えんじぶんのあの「〇〇問題」のコトらを、
もうちょっと考えよう。と、
おもいましたしだいでございまする~! るるる~。

2015年4月23日 @ ぶたぶた (ZⅡ ver)

倒れるか、倒れないか。

2015年04月19日 | 考えごと
植物が
「倒れるか、倒れないか。」の違いのひとつには、
根っこの張り具合にあるんではないか?! とおもって。

幹や葉っぱやお花はたとえどんなに立派でも、
根っこが張っていなければ
倒れちゃうし、かんたんに引っこ抜けちゃう。
逆に、地面のなかでもうとてつもなく
根が張り巡らされているならば、
そこでどんな事物が起きたとしても根元からは崩れない。

のよーなコトをおもってからはねぇ、
じぶんが(精神的に)倒れそうになったときにはっ、
じぶんの「足」のひらを意識させている。

忘れてた「根」のきおくを、呼び覚ます。的な……

…たとえば、
あたまの方ばっかりに意識が行っていたのをね、
根まで下ろす。。。 すると、なんか
土と、土地と、地面と、地球と、じぶんが、
つながったような気がしてくるんだよねぇ。

そーなれば、もう倒れないっ!!

と、そこからさらにいま考えているのはさ、
まだまだけっこう貧相なじぶんのその
「根」をどれだけ広く・深く伸ばすことができるのか??
みたいなことでございまして。

なんと申しますか「倒れない問題」にプラスさせて、
より遠い場所、より深い場所より、
養分(?!)をたくさんたくさん
じぶんのからだへおくることができるように、
どーすればじぶんの根っこを
もっと長くもっと太く生やせてゆけるのかねぇ。。

そんなことをかんがえちゅうっす。

2015年4月19日 @ ねぇ

人間は、ちくわだ。

2015年04月18日 | 考えごと
人間は、人間のからだは、ちくわだ。
のようなことを言っていたのはどなただっけかな??
あの、忘れてしまって、恐縮なのですが……

口から入り、食道や胃や腸を通って、肛門等から出る。

と云う、そんなひとのからだの状況のことを
「ちくわ」にたとえるって、
あぁー、なるほどなぁ… と今も感じておりまして。

ちくわってさ、
ちくわの「身」の部分だけがちくわなのではなく、
ちくわの「身」とちくわの「穴」を合わせた全体で、
ちくわなんだよね。

つまり言い換えれば、
ちくわの「身」に挟まれた「穴」の「中」と、
なんにも挟まれていないただ単なる「宙」の場所とでは、
その場所の空気成分はどちらも同じであっても
前者は「ちくわ」、後者は「宙」なんだよねぇ。。

(←説明がややこしくって、ごめん~!)

それは、人間であってもおんなじことでさ。

人間とは、
肉体や皮膚や内臓だけで出来ているんじゃなくって、
口から肛門までを流れる「管の中」、つまり
空気成分上では「宙」に見える部分であっても、
(あっ、いや、途中で胃液とかある場所もあるけれど…)
そのまるごと全部を合わせての全体像が、人間であり、
人間の「からだ」。

と、それでねはなしはもうさらに完全に飛びますが、
いますこし考えているコトとはさ、
「『こころ』や『たましい』とは何ぞや?!」
てなコトなのですが。。
あの、ぼくのまだ拙いちょっとした仮説にて申しますと、


・ちくわ = からだ

・ちくわの「身」 = 肉体

・ちくわの「身」のなかにある
 ちくわの「核(コア)」的な部分 = こころ

・ちくわの「管」のなかの「宙」の場所 = たましい


のよーではないんかなぁ?!
って、ちょっとだけ考えているのだけどもぉ、
んでもこれは全然まだよくわかっていないっす!!

まぁ、ちくわ外側の
焼き色と白の部分が「皮膚」だってコトだけはっ、
間違いない気もしているるる~。

2015年4月18日 @ 豊橋名産ヤマサのちくわ

我輩は「砂時計」である。

2015年04月16日 | 考えごと
砂時計って、しんぴだなぁ! ってさ、
昔から思っていたんだけどもね、砂のおちかたとかさ
重力の感覚、そのフォルム、穴のほそさ・せまさ。

「砂」ぜんぶが「穴」をとおりきるまでの間を、
「時間」として計測しよう。のよーな発想ってば、
すばらしいよなぁー! そう改めて思ったり。。

たとえば、
「穴」がある種の「境界線」となっておって、
こちら側からあちら側へと
「砂」が越境してゆくふんいきを味わえたり。。。

なんか、見てると、見とれてしまうんよ~!

そんな砂時計の中に、もしも、じぶんが入れられて
「おい、これからそのなかで暮らせよ!!」
と云われたらどーしよー?? って妄想してみたり……

…そーなればっ、
重力によってぼくが「穴」を越境し続けてゆくためには、
もう「身を粉にして働く」しか方法は無いんかも。
とか考えたり。。

さらにはさ、砂時計がさ、
なぜだか「人間」に見えてくるんだよねぇー。
「砂時計」全体をひとの「からだ」だとすれば、、

・「上部」=あたま
・「穴」=くび
・「下部」=おなか
・「砂」=たべもの、的な??

それはまさに「消化活動」をしてるかのよーな‥‥

砂時計ご自身といたしましては、
ただ単にふつうの「消化活動」的をしているだけなのに、
その姿を見る「誰か」にとってみれば
カップラーメンの3分間をそれで測っていたり、
「これこそが重力であるのだ。」と地球を感じていたり、
見とれながら「しんぴだわ!」って感慨に耽っていたり。

オーディエンスのかたがそれぞれそこで何を想われるかは
砂時計は知らないし、わからないし、
まったくもって予測さえついていない。

彼は、
きょうもあしたもあさっても
「砂」をただ移動させ続けてゆくだけ‥‥

っと、そんなよーなじぶんでじぶんの「砂」を
「移動」させてゆくためにけっこう重要なコトとはさっ、
「『穴』が詰まらないようにする。」
なのだと思ったんだよねぇ。パイプの掃除、的な??

(←器が「壊れない」ってコトも、そーだの。)

それがちゃんときちんと滞りなく流れて行けるのであれば、
誰か、その「砂時計」を見たひとがさ、
それぞれ何なのかはよくわからないのだけれども、
「砂時計」のほうからでは予期できない
「なにか」を想ることはできる、かも知れない。。

てゆうよーなぁ、なんか、
砂時計みたくじぶんをたびたび引っくり返させながら
止まらずに動き続けられたなら。。
みたいなことを考えておりました~!!

「お手本は、砂時計。」であれ、はたまた
「砂時計になりたい。」でもよいかも知れぬ。そして、
「我輩は『砂時計』である。」かのごとし‥‥

我輩は砂時計である。名前はまだ無い。

2015年4月16日 @ 青い闇をまっさかさまにおちてゆく流れ星を知っている

ステキなクレーマー

2015年04月13日 | 考えごと
「他人のきもちを、無理矢理に動かすことは出来ない。
 かろうじて、動かすことが出来るのは
じぶんのきもちだけだ。」

って云うように述べてみると、これはたぶんなのだけれども
ふたつの反応があるような気がしていて。
それはさ‥‥

「そうだね。じゃあ、
 ならばわたしはじぶんでじぶんを動かせて行こう。」

的な場合と、

「そうだよ。だから、
 あなたはわたしを動かすことは出来ない。」

的のよーなとの、ふたつ。。

どーしても、どーしても、どーしてもっ、
それをされるといやでくるしくてたまらないような事柄を
なんとか止めて欲しい。って、もうどーにも想ってしまい、
そのコトを相手へどーにか伝えようと試みたとしても
相手を動かすこと、相手を変えることは、出来がたい。。。

相手にとってみたら、
「止めて欲しい。」と云われること自体が、
あたかも、モンスタークレーマーからのクレームの如し。
ただ迷惑に思われてしまうだけ。

極限的に申し上げてしまえば、

「おまえは、おれのことを、
 じぶんの思いどおりに動かそうとしているのかっ!!」

ってゆーふうになってしまうとけっこうつらいのだけれど、
でも、たぶん、もっとステキな伝え方で伝えなかった
じぶんがダメだったんかも‥‥ ともおもったり。

えーっと、あ、あとはさ、たとえば、
「学ぶ」のコトでございましても
「学びなさい。」って命令してもひとは学ばず、
「学びたい!」と本人で思わない限り学ぶことは出来ない…

うーんと、なんか、ちょっと愚痴っぽい??

ごめん‥‥。

あのさ、どーしたら、モンスタークレーマーでなく
ステキなクレーマーと成れるのか??
みたいなことを考えてたら、こんなこと思っちゃったの。

「ステキ」って肯定的に伝えることばだけしか、
言ってはダメで、批判的なことばは迷惑だ!
みたいなことをさ、たぶんじぶんでも
こころで思っているだろうからひとのことは言えなくて。

でもね、じぶんとしては、なんとしてでも、
大事なひとからだったならなおさらのこと、
その「批判」的なことばを伝えられた「瞬間」は
たとえキレるような反応をしでかしたとしてみても、、
あとで、夜とか、ひとりになったときには、
相手からのその「ことば」をじっと思い出しながら、
頭の中で転がせながら
そのことについて少しでも考えられるように成りたい…

って、なんか、おもいましたっす~!

2015年4月13日 @ ギリギリchop (Version 51)

結末は知っているのに。

2015年04月09日 | 考えごと
このまえのブログエントリでは、
「書き始めた時点からではまったく想いも寄らなかった事柄を
 書き終えられたらよいなぁ。」とか、また、
「結末がどーなるか?! じぶんでもまだよくわからない…」
的な「書く」のことを申しましたですが。

そんな、「結末」についてのコトでさ、
またちょっと思いましたのは、、、

逆に、もう「結末」はすでに知っているのに
なんどもなんどでもみたりよんだりしても、
いつだっておもしろい!!
のよーな作品って、あるなぁ。とおもいまして。

例えば、「唄」はそうだー。なんど聴いてもさ、
それこそミュージシャンのコンサートで毎回歌われるような
定番の唄ってあるけれど。毎回うれしいし、もりあがる~♪
と、そしてぼくの場合ですと、
村上春樹さんの物語、内田樹さんの書籍、そのほかにも
作家のかたがたの著書、
なんども読み返したい文章・ことばが沢山ございますし。

映画ですと、たとえば
『となりのトトロ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』や
『ショーシャンクの空に』や『モテキ』って、
もうなんど観かえしたことか。。。

あとは、そーそー、
人志松本のすべらない話』の「すべらない話」もさ、
先月放映されました過去選りすぐり珠玉の「すべらない話」、
以前聴いたことあるお話でもおもしろくってぇ。

そしてまた「落語」でございましても、
噺の内容や下げ(オチのこと)を知っているにも関わらず
なんどでも「よいなぁ!」って思えるなんて……

すばらしい!!

…と申しますかよりも、
なぜ、どうして、「内容」や「結末」はわかっているのに、
なんどでも「すてき!」と感じるのだろう??
どうしたら、どのようにしたら、
そのようなもの・作品をつくることができるのだろう??

てゆーのはね、これはぜんぜん
ぼくにはよくわからないのですが。。。

昨日久しぶりに、ほぼ日の永田さんが以前書かれました
たんぽぽ」というおはなしをよみまして。。
やっぱし、すてきだなぁ! とおもい、なので
なんかこんかいこのよーなことを申しあげました~。

2015年4月9日 @ 幸せな結末

「無視」のこと。。。

2015年04月07日 | 考えごと
いま少し思いだすだけでも、こころが縮み、
息が微妙に苦しくなって来てしまうかのような
あることがらについて、ほんじつは申しあげます。

それはあの、その、ことばの単語で言ってしまえば
「無視」のことなのですが。
「無視」ってさ、たとえばいじめ的なことで、
意識的に、本人の意志として行われる事であるのだと
ぼくはかねてよりずっと思っていたのだけれど。

あるときを思い返しますと、その考えだと
どこかつじつまが合わないかもと思い、、

詳細を書くのはこんかい省きますが、
ぼくも、ある方に対しまして、
「無視」をしたことがございまして。それはでも、
「『無視』をした。」って申しますよりかは
「『無視』となってしまった…」と申しあげますか、
いえ、なんかこれだと言い訳がましくって、
うーんとあのうまくは言えないのですが。

ぼくのしたあることがらが引き金となり、
その方との関係はすこしずつこじれ、
終いにはもうあいさつをすら出来なくなった。。
ぼくがその方を避け、だから、その方もぼくを避け、
そしてぼくはさらに、相手がぼくを「避けた」のを
また相手方のせいにして。。

それはでも最初の段階からすでに完全にぼくが悪いから、
ぼくはぼくを責め、相手への「無視」であっても
そのような行動を取っているぼくが悪いのだから、
また、ぼくは、ぼくを責める。

そのよーな循環をたどることで、なにかが改善されるのか?
なんてことあるはずもなく、
コミュニケーションを司る「パイプ」は
だんだんへどろが詰まったみたいに流れが止まり、
もう、なんの身動きも取れなくなる……

…と、それ以来その事はもうずっと考えていて
そして今回申しあげますのはさ、、

「無視」は、意志じゃない?!

でございまして。その方に対しまして
じぶんがしてしまっていた「無視」とは、
じぶんの意志の元で積極的に「やろう!」とした
「無視」ではない。そう感じまして。
そして、で、あるとすればっ、その
「その方」がぼくへなされることとなった「無視」も、
その方の「意志」ではない。

のかも知れない。。。

「意志」なのではなく、
からだがもうそのように動くしか無い、
そのようにせざるを得なくなってしまっていた、だけ。
なのかも知れぬ。と。

(無視なんか、したくない。けれど‥‥)

つまりはさ、「無視」には2種類がございまして。

積極的な意志における「無視」と、
意志ではもうどうしようも制御もできない「無視」、
のふたつがあるんではないかやぁ??

そのようにぼくはこのたび思いましたので、
もしかしたら世間では
これはもう当然の常識のことなのかもしれないけれど、
じぶんの考えの記録としてブログに書きました~。

最後までお読みくださった方がもしもおられましたら、
感謝を申しあげます。
どうもありがとうございます。深謝!

2015年4月7日 @ TSUNAMI

ビフォーからアフターへの境目と変化。

2015年04月05日 | 考えごと
なにかとても欲しいものがあったとして、
そのものを「買うまえ」とそれを「買ったあと」とでは、
心理的にはもう全く違う別の状態ではないかーっ?!
って、おもったんだけどねぇ。。

たとえば、簡単に申しますなら、
「欲しい。」って云う欲求は解消されているわけだし、
「手に入れた。」のだから暮らしや生活も
(買い物によってその量や質は違えど)変わる。つまり、、

・買うまえ → 購入の瞬間 → 買ったあと

のよーにさ、「買い物」ってゆうのはその
「購入の瞬間」を境にして「ひと」を変化させてしまう
出来事ではないのかやぁー。ってぇ。。。

と、それでね、
そーいう出来事、ほかにもあるかなぁ??
みたいにちょいと考えておったのですが……

例えば「理解」ってのはそーだわ。と。
ある知識&知恵を「理解」するビフォーとアフターとでは
これはもうまったくの別人で。
アフターからビフォーへとはもう戻れない!!

つるかめ算を「○匹すべてが鶴だとしたら…」と
これまで解いていたひとが、数学の授業で、
連立方程式を習ってしまえば、もうその以前に戻れない。。

それからまた他に思い出しましたのは、
糸井重里さんの著書
思い出したら、思い出になった。』の中で記されていた
あることば‥‥





若いときにさ、好きな女の子がいてさ、
あのこはオレのことが好きなのか嫌いなのかもぞもぞ
なんて煮え切らないままに、妄想で遊んでいるとき、
「彼女の本音を訊いてきたよ」なんてやつがいたら、
その日で、なにかが終わっちゃうんだ。 (155頁)






のごとく、糸井さんのその「終わっちゃうんだ。」のごとし、
「理解」をしてしまうことによって、
ひとは、よくもわるくも、変化する。。。

んーと、あとは「反省」ってゆーのもそうでさ。

・反省するまえ → 反省の瞬間 → 反省したあと

的な流れを、「反省」も経過するであるとするならばっ、
「反省するまえ」と「反省したあと」とを比べてみると
もうそれは、違うひとに成っていなければ、
本当に「反省の瞬間」があったかどうか疑わしい…

「反省します。」といくら口でしゃべっても、
その後、あたまやからだの変化が見つからなければ、
口先っぽいのようになってしまう~??!

そしてそれは、「表現」も、そうであって。
絵画や詩や音楽などなどの芸術表現にかぎらず、
あいてへ話したことば、日記に記した文字、ひとりごと、
また「なにも云わない」と云う「沈黙」の表現さえをも
それは「表現」で。

「表現」することによって、じぶん自身が、変化してゆく。

であるとすれば、日々毎日、ひとはすこしずつだけでも
どこかしらの箇所は変化しつづけていて。
よくも、わるくも。
そのじぶんの「変化」を注意深く観察しておらないと
いつか、じぶんが、
じぶん自身から取り残されてしまうんじゃないか?!

…って申しあげながらも、
じぶんがその観察をちゃんと出来てるかどうかって、
けっこうあやしいんだけどね~。

2015年4月5日 @ One After 909

具体と抽象のジレンマ

2015年04月03日 | 考えごと
その指示があまりにも「抽象的」だからと云って、
「もう少し具体的に言ってくれ。」と相手に云ってしまえば
もうそこで、なにかが終わってしまうんじゃねぇか?!
ておもっただけどね。

「抽象的」な事柄を、「具体化」させるのは、誰だ!!
的な問題のことなのだけれど、
「もう少し具体的に言ってくれ。」のことばってさ、
「具体化」させる「作業」を相手に委ねてしまってて
つまり最終的には、云うなればっ、
じぶんの「行動」を相手へと預けてしまうかのよーな‥‥

(「行動」って、「抽象的」ではなく「具体的」だから。)

とは申しましても、やっぱし
「抽象的」な指示ってわかりにくくて、それが反対に
「具体的」であればあるほど、もうすっごいよくわかる、、

わかる、わかるんだけど、わかる以上に、わかりやすすぎる!

「わかりやすすぎる」ってコトはさ、どーいうことか云えば、
解釈は「ひとつ」のみ存在している。
を、さらに云い換えれば、
解釈が「ひとつ」のみしか許されない。であって。

「具体化」されると、もう、
その「行動」以外は取れなくなってしまうんだよねぇ。

ことばがまだ「抽象」の状態であれば、
ことばの解釈は無限にひろがっていて、自由だ。
ですから、相手の「解釈」を縛らないためには
「抽象的」なことばで伝えるしか方法は無いかもだけど。。

かと云って「抽象的」に伝えたとすれば、即座に
「もう少し具体的に言ってくれ。」と云われてしまい、
そんな、「具体」と「抽象」のジレンマ???

なんてゆーのかな。

そのことばが、どんなに「抽象」であろうとも、
その「抽象的」を「具体化」させる作業だけはじぶんで、
じぶんの頭や手で、やらなきゃならない……

…って云うこの今回のブログ自体がさ、
けっこう「具体的」な内容のような気もしてきたわっ。
ごめん。。。 と、もしくは逆に、
「具体」とか「抽象」とかを飛び越えちゃっていて~、
さっぱり意味のとおらない文章かも知れぬ。

2015年4月3日 @ Re-アホイ!

真似とか、タイムスリップとか。

2015年04月01日 | 考えごと
エイプリルフールのことはするっとスルーして~。

「パクる」とか「パクられる」とか、
「真似る」とか「真似ぶ」について考えていたのだけどね。
例えば、ぼくが、タイムマシンで過去へと
タイムスリップしたとして、じゃあそこで、

ひと儲けしてやろーか!!

と申しましたところだったらば往年の大ヒット曲を、
ってぇ、あーと、たとえばなんだろう、
Mr.Childrenの『 Tomorrow never knows 』や、
B'zの『 LOVE PHANTOM 』の歌詞やメロディーを
頭で覚えているからと云って、それをぼくが、
たとえ当時の元のCD発売日前にそれらを発表してみても、
だれにも、相手にさえしてもらえないだろう…

てなことをおもったんだよね。

歌声はおろか、演奏であっても、
はたまたCDジャケットのデザインとしてみても、
内容は知ってはいるも完全な再現をぼくには出来ぬ。

やっても無残な物になるだけ。

つまりはさ、
どなたかの表現をさっといただいて「パクる」なんてのは、
なんてゆーの、
どこかの木に成っている「実」をもいで来て、それを
じぶんの木にガムテープや瞬間接着剤でくっつける的な?!

それでは全然つまらなくってぇ。

そして逆に、「真似ぶ=学ぶ」とはっ、
これまでただの枝だったじぶんの木に「師」からの
養分などをなんとか取り入れることによって、
いつかそこに自力で「実」が「成る」かのような~???

じぶんの目指すところはさ、むつかしいかもだけれど、
「瞬間接着剤」の方よりは
後者の「実が成る。」だわねぇ。。

と云いつつ映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』での、
過去世界でマーティーがチャック・ベリーの曲を演奏する
あのシーンをおもいだして。
いま考えてもあれ、すげぇーなー! とおもいましたっ。

2015年4月1日 @ Johnny B. Goode

じぶんの「メモ」について。

2015年03月30日 | 考えごと
前々回および前回のブログエントリでは、
ケータイからスマホへと機種変更して変化した
じぶんの「メモ」について申しあげまして、
ほんじつはそのつづきでございます。

前回では、iPhoneの「メモ」アプリに記した「メモ」が
もうあまりに増えすぎて一覧しにくくなってしまい、
なので、どーしよう?! と考えていたとき
ご登場致しますのが2015年新発売の「ほぼ日手帳avec」…

のことでありました。そして、、

「メモ」ってじぶんはどういうときにするのかーっ?!
と云えば、なにかを考えて思いついたときや、
あいてとの会話のなかで生まれて来たことばを、
消えてしまわぬうちにさっと掴まえるかのように。だわー!
なのだとおもったけれど。。

であればさっ、前回で申しあげました
年間が2冊に分かれた分冊版「ほぼ日手帳avec」での
「左側に『avec』、右側にMUJIの文庫サイズノート
と云う方法、じぶんにとってベストなのか?? って。

つまりっ、iPhoneアプリに記した「メモ」を、
あとで見やすいようにまたノートへ手書きするのは
良しとして、でもそのノートをねぇ、
ぼくは持ち歩く必要があるのかやー。と……

iPhoneは持ち歩いてるのだから、ノート要らない。
って判断をして、
現在は、手帳は「avec」のみに。。。

ほんとっ、軽いって、すばらしい~!!

MUJIノートは「一覧」用、iPhoneアプリは「検索」用、
と「メモ」を使い分けておりまする。
…と。なんて云うか、
ケータイに「メモ」を保存しておった段階でじつはもう
うえ↑で申しました一連のことって出来たはずなのだけど、
当時はまったく考えもつかなくって。
iPhoneに変えたことで初めて考えたのだわー!!
的なコトでございましたっ。

「ほぼ日手帳」とiPhoneのじぶんなりのつかいかた、
さらにこれからも引き続き考えてゆきたいっす~!

2015年3月30日 @ Precious Memories

ほぼ日手帳avecとMUJIのノート

2015年03月29日 | 考えごと
前回エントリでは、約1年前、携帯電話を人生初
スマホ(iPhone)にして劇的変化したのは、
ほぼ日手帳の使い方なんだよねー! の話でございました。

それまでは、おもいついた考えごとを
ケータイのメールの「下書き」欄に保存しておって。
でもそれも保存容量あるから(20件)、
それをほぼ日手帳の1日ページに書き写し
写せば「メモ」を消去する、的な。。

それが、スマホとなって
保存件数気にせんでもよくなったからー、
ほぼ日手帳へ写すことも無くなった……

…ってぇのが、前回申しましたことでありやした。

ほんじつは、これ↑のつづきなのですが。
iPhoneで生活のメモが変化し、それでメモも
iCloudの機能のおかげで記した矢先に
iMacと繋がっててその連携的なハイテクすげぇー!!

みたいな、最初は感動だったのですがぁ。

日々が経つにつれ、メモ件数がどんどん増えるにつれて、
じぶんにとって便利な「メモ」アプリも、
少々問題点を感じるようになってしまって来たの。
それは、、、
メモを「一覧」しにくい。のことでございまして。

iPhoneのいち画面で表示できる件数はいちぶだし、
メモの順番もデジタルで厚さ&重さが無いから感覚も無く、
さらには、メモが増えれば増えるほど
過去メモの保存場所は遠くなり、
まぁ、指でバーッと画面スクロールすればすぐなのですが、
それでも見返すの少々辛くなってきて。。。

どーしよう?! って考えていたときに、
再びご登場ねがいますのが「ほぼ日手帳」の
本年2015年より新発売、年間が2冊に分かれた分冊版
avec(アヴェク)」なのよ!

あーと、なにやらまた文章が長くなってるけど
もうちょっとだけつづきまするー。

つまりん、通常盤半分の薄さ・軽さの「avec」、
ほぼ日ページ紹介での使い方を拝見いたしましたら
たとえば、手帳カバーの
左側へ「avec」、右側へは何か「文庫本」を挟む。
のように記され、それでハッと思ったんだよね。

そーだ、無印良品の文庫サイズノートを
カバーに挟み「メモ」を書き写そう、的な。。。
(ノートならば、以前の分でも見返ししやすい。)

思い立ったら善は急げ!!

MUJI店舗を訪れまして、文房具コーナーを見ながら
黒色が表紙の「滑らかな書き味のノート」A6横線を購入。
そして、ほぼ日手帳使い始めの1月より
これまでのiPhone保存メモを少しずつ書き写して行って、
(←量が膨大でけっこう大変だった…)
なんとか現在の日付けまで辿りついたそのときーっ、
またもういちど「メモ」について考えたの。。

の、その考えたことはさ、
三たび次回ブログエントリへと続きまする~。
雨ではございますが、よい日曜日を過ごしてねー!!

2015年3月29日 @ 愛のメモリー

スマホとメモとほぼ日手帳と

2015年03月28日 | 考えごと
人生初めて携帯電話をスマホ(iPhone)にして、
もーすぐで1年になるのだけれど。
スマホにして劇的に変わったのはさ、
ほぼ日手帳」の1日ページの使いかたなのよねー。

と申しますのも、その説明のためにはまずは、
いつ頃からだったかじぶんは何かを思いついたらそれを
ケータイにメモするようになっておって。
(散歩中とかは、ペン&メモ帳を持ち歩きたくないから~)

それでね、その前まで使っていたケータイにも
もちろん「メモ」機能はあったのですが、
じぶんにとって幾分使いづらさもございまして、
なのでメールの「下書き」欄にメモ保存していたの。

じゃけども、その「下書き」にはさ、
全部で20件までしか保存が出来ないから
いっぱいになりそうになれば使っている「ほぼ日手帳」に
ひとつずつ手で書き写し保存の「メモ」を消去していた……

…ってゆうそれがさっ、
スマホになったら「メモ」アプリの保存件数
気にせんでもよくなったもんでさぁ、気楽~!!

その都度書き写していた「ほぼ日手帳」の1日ページ、
写した日の頁は小さな文字が所狭しと乱立し、
それはそれで味わいみたいなのもあったんだけど、
読みにくいし、メモをあとから探すのがたいへん。。。
(スマホだとメモに記した単語さえ思い出せれば、
 検索が出来るからねぇー。)

そんな文字のみだれうちが無くなったもんで、
今の「ほぼ日手帳」はもうちょいゆったり雑記を書いてて
この生活ってば、思えば結構変化したもんだわー。
っておもったんよね。

あ! そーだ。んでもそのiPhoneの「メモ」アプリにもさ
ひとつだけじぶんの中での問題点がございまして。
そのコトにおきましての考え事については、
また次回ブログにて申したいと思いますっ。

2015年3月28日 @ 潮騒のメモリー