goo blog サービス終了のお知らせ 

なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

THINKING THINK(其の10)「考える糸井重里さん。」

2016年01月31日 | 考えごと
前回エントリからつづきです。】

先日『ほぼ日』で糸井重里さんが書いておられました、
夢に手足を。」ということば、
すてきだなーとぞんじまして。さっそく、
じぶんのあたまの中にある壁に貼った~!!

「夢」って、
寝ているときに見る「夢」、未来を想い描く「夢」の、
ふたつがあるけれど。そのどちらもさ、
素晴らしくて輝かしくて賛美されるような場合と、
罵倒や嘲笑などの悪い意味として使われる場合とがあって。
たとえばそれは「悪夢」だったり、
「夢ばっかり語ってるんじゃねぇよ!」ということば
だったり。。。

よくもわるくも、
それらのあたかも幻のような「夢」に、
糸井さんは「手足」をつけようとなされまして。
これはぼくはまだうまく言えないんだけれど、
そこに命が吹き込まれたみたいなポジティブさを思ったの。

ってゆうぼくの感想はどーでもいいんだった。

えーと、現在このブログで書いております
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」
のこととして申しあげますと。『ほぼ日』の
「今日のダーリン」で糸井さんがおっしゃておりました、
【考える】のことでありやすっ。





「ほぼ日」って、なにをしている会社なんですか。
そう言われたときの、なにかいい答え方を考えていた。
ずっと考えていた。あえて言えば17年以上。
それをことばで言えたほうがいいだろうとは思っていた。


(2016年1月27日「今日のダーリン」より引用です。)





そこから糸井さんはこれまでの『ほぼ日』でのことば、、、
「Only is not Lonely」や、
「ゴキゲンを創造する中くらいのメディア」や、
「やさしく、つよく、おもしろく」をあげられて。でも、
それでもまだ「なにをやる会社なの?」という質問には、
答えられていない。と、さらに、さらに、考えて、そして、
「夢に手足を。」のことばが見つかった。
とのように書いておられて。。。

そんな、何年も何年も【考え続ける】なんてこと、
ぼくにはもうただすごいとしか言えないのですが。
【考える】というのはさ、そのような、
長い長い長時間のスパンのうえで行われる行為なのだと、
思いました。いえ、思いました、とか言って、
まだ「思った」だけなんだけども。

(つづきます。)

2016年1月31日

THINKING THINK(其の9)「考えるの究極。」

2016年01月30日 | 考えごと
前回よりつづきですー。】

げんざいこのブログでは、
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」のことを、
何回かにわたって書いているですが。
だんだんと沼の中に溺れてゆくよーな感覚も覚えながら。。
つづきを申しあげまーす。

ぼくなんかですとどーしても頭で考えてしまう質ですので、
たとえば「考え過ぎだよ!」や、
「そんなに考えなくてもよい。」や、
「考えちゃダメ。考えるのはよくない。」という言付けを
いただくことが度々ございまして。
言ってもらえるのは有難いのですが、言われても、
ぼくはどうしたらよいかをまたさらに考えてしまうのよね。

さっとできちゃえば、よいんだけれど‥‥

‥‥のそんなときにさ、たしか、
たぶん糸井重里さんのことばだったかもと存じますが。
「頭から血が出るまで考えろ。」
を聞いた(読んだ)ときにはショックを受けました。
じぶん自身「考えてしまう質」だと思いながらも、
「頭から血が出る」ほどまでぼくは考えたことがあるか?!
「ない。」としか言えないのよねぇー。
「頭から血が出る」という、そのようなことを、
これまで考えたことさえなかったし。。。

そのぐらいまで【考える】をしなければ、
問題の解決は見つからない。
と言われているようにも思えるけれどぼくはそれ以上にね、
「頭から血が出るまで考え」たとしても
人間のからだはまだ無事だからそこまで考えても、よい!!
って言ってくれているように感じまして。
なんだか「考えるのはよくない。」よりも、
逆にそのようなことばのほうがぼくの中では救われたの。
いや、じぶんがそこまで【考える】ができてるかなんて、
ぜんぜんできていないんだけれど。

と。それはそうといたしまして糸井さんの先日のことば、
夢に手足を。
がすてき~。これまで感じたことのない
とてつもないポジティブさをおもいましたっ。

(次回につづきます。)

2016年1月30日

THINKING THINK(其の8)「考えることはよいかわるいか」

2016年01月29日 | 考えごと
前回エントリからのつづきです。】

‥‥と、ここまで書いてまいりまして思ったのはさ。
【考える】とは、
あるときでは「よいこと」になり、
あるときでは「わるいこと」になる。てことでして。

例えば、うじうじと【悩む】をしていれば、
「なにをやってるんだ、ちゃんと考えなさい!!」
って咎められ。【考える】が優遇され。
そんな【悩む】と【考える】とを比べれば、
【考える】のほうが「よいこと」だって思えるし。
かと言って、膠着させるような【考える】だけをしてたら、
【考える】は「わるいこと」となる。

そのときには【考えない】ことが大事になってくる~。

つまりだよ、
【考える】が「よい」場合には、
【考えない】は「わるいこと」だし。逆に、
【考える】が「わるい」のときでは、
【考えない】は「よいこと」へ切り替わっちゃう。

【考える】ことは、そして、【考えない】ことは、
「よい」か「わるい」かどっちなんだろう?!

【考える】にも「長所」はあるし、
【考えない】も「長所」がある気がする。
【考える】にも「リスク」はあるし、
【考えない】も「リスク」がある気がする。

【よい考える】と【わるい考える】と、
【よい考えない】と【わるい考えない】というのが、
あるのかやー。

【考える】とはどーいうことで、
【考えない】とはどーいうことなんだろう。っていうのを、
【考える】ほうがよいか【考えない】ほうがよいか。
ていう時点でもうすでに「考えてしまってる」から、
んーっとなんだか「【考える】の沼」にハマっている??

2016年1月29日

THINKING THINK(其の7)「考えるのをやめたほうが…」

2016年01月28日 | 考えごと
前回よりつづきですっ。】

「『【考える】とは、なにか?』を考える。」というのを
書くってのはなんだかじぶんの手に負えないような、
そんな気にもなってきてる。。。

っていうのもねぇ、
「【考える】には『危険性』がある。」って言いながら、
このブログも【考える】をしながら書いているので、
エントリ書くこと自体に「危険性」がある。んだよねぇー。
そのことも、ちょっと意識させ、つづきを申します。

さてここでそもそもどうして、
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」のことを、
書こうと思ったかを申しあげますと。
じぶんはさ、
「考え過ぎだよ!」や「考えるのをやめたほうがよい。」や
を度々言われまして。言ってもらえるのは有難いですが、
でもじぶんの中でこれらをどうしたらよいのかは、
よくわかっていない。。。

そもそもが「考えてしまう質」ですから、たとえば、
「考え過ぎだよ!」と言われれば、
【考える】と【考え過ぎ】の間には境界線があるだろう…
と考えてそこから、
(どうしたら【考え過ぎ】の境界線を超えずに、
 ちょうどよい【考える】ができるのだろう??)
みたいなことを考えてしまうし。
「考えるのをやめたほうがよい。」と言われれば、
(どうしたら【考える】をやめることができるか?!)
って考えてしまう。

言われても、じぶんでできるわけじゃないから、
どーすればできるんかを考え、
でもまぁちょっとわからないからできんままなんやけど。

それで、こーいうのを「わからない」のは、
じぶんの【考える】がダメだからなんだろうなぁー。
ていうように考えまして。ならば、
【考える】ができるように成るためにも、
【考える】とは、なにか? を考えようとおもったの。
でもその「【考える】とは、なにか?」を【考える】にも、
そもそもの【考える】ができていないから、
むつかしいんだけども。あー、ややしこしくてごめんねー。

(つづきます!)

2016年1月28日

THINKING THINK(其の6)「考える危険性。」

2016年01月27日 | 考えごと
前回エントリからのつづきですー。】

昨日のブログ最後で
「【考える】ってば、とっても大事なことだと思うけれど、
 とある危険性もはらんどるように思える~。」
と申しまして。なのでその「危険性」について、
きょうは書くです。

【考える】という行為ってさ、
よくもわるくもじぶんの中にある「なにか」を、
固定化させてしまうものかもと思ったのよねぇ。
考えた結果「こうしよう!」って決断したならば、
それはじぶんの行動を「決める」ことになるので、
つまりそれが基本と成り。これ、うまく言えないだけども、
「なにか」を決めて先へすすんだら、その
「なにか」はよくなっても、別の
「なにか」は置き去りにされてしまったり。。。

それは、たとえば「行動」だけでなくって、
考えてからの「思考」とか「ことば」とかも、
そこには含まれて。よくも、わるくも?!

えーと。前回ぼくが申しました
「さいきん【考える】ことが上手く成ってきた気がする。」
って言うとするじゃん。ぼくが。あなたへ。
そして。仮にあくまでも仮にねっ、
言う前はたしかに【考える】が上手く、ていうよりかは、
少しばかり【考える】ができるように成ってきていた、
とするじゃん。仮に。。

「さいきん【考える】ことが上手く成ってきた気がする。」
て言うひとが【考える】ことってかなり怪しそうじゃん??
つまり、そう言うことによって、
「立場」が固定されてしまうのね。
たぶんさー、ぼくは当時、
「さいきん【考える】ことが上手く成ってきた気がする。」
ってまず【考えてしまった】のよねー。
【考えてしまった】から、また言いたくなって、言った。

仮に、それまで【考える】ことができてたとしても、
その後またちがう別のステージに突入すれば、
以前までの知識は使えないかもしれないわけだし。
先へすすんだその場所で【考える】ことが、
ちゃんとできるか?! はわからない。
ぼくの当時の場合では、
ほんとうの意味では【考える】ができていなかった、
って思うから、なおのこと、あれは間違ってて。

でもなにかそーではない【よい考える】のときだって、
じぶん自身をどこか膠着させる危険性が、
【考える】にはあると思った。うまく言えないけれど…

2016年1月27日

THINKING THINK(其の5)「考えるのが上手い?!」

2016年01月26日 | 考えごと
前回エントリからつづきです。】

っていうふうにね、つまり、
【考える】がよいもので、【悩む】はわるもの。なのか、
ぼくにはわからない! って今でこそ言うけれど、
以前のじぶんですとやはりどこか【考える】行為を、
崇高なものだと考えてたふしがございまして。

いえ、正直に申しますと、
今でもちょっと思ってるかもしれない、ですが。。。

あれは専門学校に通っておったときだったやー。
グラフィックデザインの授業課題が与えられ、
日々それらのことを考えながら。。。
なんだかじぶんは【考える】ことができるひとなのだって、
思ってしまっていたんかのぅ。
課題のことだけに限らず、じぶんの悩みのようなことも、
じぶん自身で考えられるように成れたとおもって。
あるとき担任の先生(土井先生)へ、
「さいきん【考える】ことが上手く成ってきた気がする。」
ってしゃべったことがございまして。
振り返れば、そう言うのよくなかったと思うのよ。

頭の中で【考える】ことをするのが、
なにかすばらしいことのように思いつつ。
それをさらに「上手く」できるように成れたなんて、
おこがましいと申しますかまちがってると申しますか。
ましてや【考える】って「上手い」か「下手」かの、
「技術」じゃない気もしてる。

それをさ、「上手くできるように成ってきた!」って、
言ってしまえばもうそこから全然ダメに成ってしまうような、
そんなことばをじぶんで言ったみたいな。。
【考える】ってば、とっても大事なことだと思うけれど、
とある危険性もはらんどるように思える~。

2016年1月26日

THINKING THINK(其の4)「考える or 悩む」

2016年01月25日 | 考えごと
前回よりひきつづきです。】

「『【考える】とは、なにか?』を考える。」のことを、
書いてゆこうとおもいますが。
まずはさ、なにを書けばよいんだろー?!
じつは、それさえも、よくわからないけれど。。。

えーっと。

たとえば。よく言われていることでございますと、
【悩む】と【考える】はちがうから、
【悩む】でなくて【考える】をしよう。というのって、
ぼくも聞いたときなるほどって思ったですが。
んでも、その【悩む】と【考える】のちがいは、
思えばなんだかよくわからないし。どちらかと言えば、

【悩む】は「わるもの」、【考える】が「よいもの」。

っていう感じにも思えてきて。
果たしてほんとにそーなのかぼくにはわからないのよ。
【悩む】は極力排除させ、
【考える】をしたほうが、よい。なんてのは、
たぶんそのほうがよいとはぼくも思うけど。だけんども、
【悩む】と【考える】を、
そんなにうまく分けることなんてできる??!

ここで言われる【考える】とは、つまり、
なにかしらの「結果」を出しつつ、
そこから「効果」を期待することのような気がするだけど。
そうじゃない【悩む】をいくらしたところで「効果」には
まったく結びつかないので、よくない。と言われても、
むつかしい・・・

なんかさ、ときに悩んだって、よいじゃん。
しょうがないし。そういうときはあるよ。
【悩む】も【考える】も、
そして【思う】や【想う】だってもそのどれが
「よい・わるい」ではないよーな気もするんだよねぇ。

(次回につづきます。)

2016年1月25日

THINKING THINK(其の3)

2016年01月24日 | 考えごと
前回エントリからのつづきですっ。】

そーなんだよなーって、
ブログを書きながらじぶんで思いましたのは、
昨日の最後に申しました
「(ブログの文章が、)
 コミュニケーションには成っていないので読む方にとっては
 退屈で面白くは無いかもですが」
のことです。。。

「コミュニケーションに成っていない」ていうのはさ、
言うならば、
「読まれる方の読む目線をどうしても意識できていない。」
ってことだとじぶんでは思うですが。
それをどーすれば克服できるのかぼくはわからない。

吉本隆明さんのおっしゃるには、
「コミュニケーション用の言語」である【指示表出】と
「自分のなかにある沈黙に近い言語」の【自己表出】を、
分けて考えたほうが、考えやすい。とのことなのですが。
やはりぼくはそれらをまだわかっていないのよねぇ。

たぶんだよ、
ぼくは「コミュニケーション」はおろか、もしかしたら
じぶん自身で考える【自己表出】のほうだって、
なかなかできていなくって。
なので、どっちみち内容もよいはずがない!!
吉本隆明さん仰る【自己表出】とは、たぶん例えば、
今回ぼくがブログで書いてみたいと思っております
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」の、その、
【考える】のことと近いような気もしてきた、です。

それらのこともできれば少しだけでも想いながら、
ブログ書きたいと存じまする。

というわけでプロローグ的なのはこれぐらいと致しまして、
次回よりさっそく
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」
のことをやりますっす~。

2016年1月24日

THINKING THINK(其の2)

2016年01月23日 | 考えごと
前回エントリのつづきです。】

「『【考える】とは、なにか?』を考える。」みたいな、
すこしややこしいのをブログ書いてみようって、
昨日なったんだけれど。
まず申しますのはさ、こーいうふうになるなんて、
じぶん自身が予期していなかった。。。

部屋の席についてブログ書こうとおもって、
Macを起動させブラウザ開くじゃん。
そのときには全く別の内容を書こうとしてただけども。
書き始めたら、おれ、それじゃなくって、
【考える】のことをタイピングしていて。
(え?!)とか思いながら、
まー、いつか書いてみたいとは思ってたから、んでも、
まさかそーなるなんて席ついた時からは想像できんかった。

書いておったらば、
原研哉さん著『デザインのデザイン』のことも思い出して、
それもじぶんの予想外だったし‥‥

ってゆうよなことをね、なぜ申してるか?と言いますとん。
昨日のエントリ書くあいだに、
このことは一回だけじゃ終われんわとか思いながら。
それでブログタイトルへ「前編」って記してしまうとさ、
次は「後編」もしくは「「中編」→「後編」」の、
2・3回しかできなくなるので「其の◯」にしたのですが。
「其の◯」とするなら、もうさ、書きたいように書こーと。
そもそもが予期せずのスタートだったし。
何回まで続きそうかもぜんぜんわからんし。
着地点もどーなるかさっぱり見えていないし。
なので、こんな、寄り道をさせながら。。。。。

でも、まぁいつも通りかもしれんけれど、
コミュニケーションには成っていないので読む方にとっては
退屈で面白くは無いかもですが。
これは、できるだけ「冗長」にやって行きたいと存じます。
じぶんの考えてることをじぶんで知りたい!

次回につづくます。よい週末を~!!

2016年1月23日

THINKING THINK(其の1)

2016年01月22日 | 考えごと
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」て書くと、
括弧の中がなんだか、
ロシアのマトリョーシカ人形みたいに、
つまり入れ子の構造?! のようにも感じるんだけれど。
【考える】について「考える」ことって、
じぶんが『考える』ためにも大事かなぁとも思ってる。
(←これ、ややこしくて、すみません。)

なにかを『考える』ときに、
【考える】とはどーいうことなのか?! もいっしょに
「考える」ようにしておかないとじぶんのその『考える』が
ブレてしまったり間違えてしまったりときに見当違いの
【考える】をしてしまいそうな気がしてて。。。

その「入れ子構造」をぼくがさいしょに意識しましたのは、
原研哉さん著『デザインのデザイン』という、
原さんが書かれた本の「タイトル」からでございますが。
『デザインのデザイン』とは、たぶん、
『【デザイン】を「デザインする。」』の意なのかな??
表紙には『デザインのデザイン』のタイトル下に、
『DESIGN OF DESIGN』と英語で記されて。
ぼくはグラフィックデザインの専門学校へ通っていたとき、
先生より教えてもらって著書を読んだのですが。

そしてその数年後。
大幅増補のスペシャル・エディションとして刊行されました
『デザインのデザイン』のタイトル英訳が、
『DESIGNING DESIGN』へと変更されておりまして。
その英語タイトルすばらしい! って思ったの~。
以前の『DESIGN OF DESIGN』のときにはぼくはまだ、
その意味よくわかっていなくって。
タイトルが『DESIGNING DESIGN』と成ってから、
もしかしたら上で申しあげました
『【デザイン】を「デザインする。」』て少し言えるように
成れたかもしれないです。
それをじぶんでできるかどうかはさておき‥‥

えっと、なんの話しだっけ?! あ、そーだ、
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」っていう
「入れ子構造」のことだった。

原研哉さんが「【デザイン】の『デザイン』」つまり、
「DESIGNING DESIGN」されておられるのならば。
ぼくは、その原さんの「構造」を拝借いたしまして。
「【考える】を『考える』」つまり、
「THINKING THINK」したい! って思ったんよ。

(次回につづきます。)

2016年1月22日

ぼくにはつくれない。

2016年01月21日 | 考えごと
たとえばぼくが、
誰かへ「メール」しようと思って。でもその、
「メール」を送信する「コンピュータ」も「携帯電話」も、
コンピュータ&ケータイに入ってる「メールソフト」も、
ぼくにはつくれない。

たとえばぼくが、
誰かへ「手紙」をおくりたいと思って。でもその、
「手紙」を書く「サインペン」や「万年筆」や「筆ペン」や、
「ハガキ」と「便箋」に「封筒」も。さらにはそれを届ける
交通機関の「クルマ」「バイク」「電車」「飛行機」も、
ぼくにはつくれない。

たとえばぼくが、
ただ単に「メモ」を取ろうと思って。でもその、
「メモ」する「ボールペン」も「鉛筆」も「紙」すらも、
ぼくにはつくれない。

買ってくれば、手に入れることはできる~。

「筆」も「紙」も発明されていない時代には、
「メモ」を取ることすら気楽にできなかったんよねぇ。
たぶん「木版」や「岩」や「洞窟の壁」に彫ったり、とか、
地面へ「石」などを置いておく、とか。わからんけど‥‥
いちばんの方法は「脳」に記憶する、かな。
「伝え合う」ためには「口」でしゃべって「耳」で聞く。
みたいな???

「ペン」も「紙」も「コンピュータ」も、
お金さえあればもうとびきりな最高級の品だって、
購入できるけれど。
じゃあそこに、ぼくは何を「記す」ことができる?
何を「言う」ことができる?!
何を「覚える」ことができる??!
何を「受け取る」ことができるーっ???

「紙」も「ペン」もつくれないとしても、
「紙」と「ペン」で「つくる」ものさえをも、
ぼくにはつくれない。かもしれねぇ。。。

2016年1月21日 @ 念書

オーブントースターのこと。

2016年01月20日 | 日常
昨日「ほぼ日」連載最終回でございました、
バルミューダ株式会社・寺尾玄さん×糸井重里さん対談
バルミューダのパンが焼けるまで。』が、
おもしろくってぇー!!
そして、ちょっと落ちこんだ。。。
じぶんのダメさが、ちょっと見えてしまった、みたいな…

バルミューダの「トースター」でパンたべたい~。

去年のときから(いつか!)とおもいながら。
でもね、うちには、
まだまだこの方がご健在でございまして。



ほぼ40年前に母親が買ったらしい、
ナショナル」製のオーブントースター。
母は当時オーブントースターが憧れだったらしくて。
母曰く、念願叶ってようやく買ったものとのこと。



製品右上には「ナショナル」のロゴタイプ。

2・3年前、クリーム挟まれたパンを温めたときにね、
そのクリームが溶けトースターの蛍光管へ付着してしまい、
蛍光管も黒く焦げ、
ちょっとした煙り騒ぎになったことがあるのですが。

もうダメかも? とおもっても、
拭き取ったり掃除してみると無事復活して。
今でも元気に動いてるー。松下幸之助さん、すごい!!



右下の「タイムスイッチ」というつまみのネーミングが、
ぼくはすき~。そして、そのしたにあります
【5以下に合わせるときは、6以上まで
 回してからもどして合わせてください。】
の文も、ぼくは何度読んでるかわからないけど、すきやわ。



このみどり色がなんともすてきだし。
あらためて思えばデザインかっこよい!
なのでさ、いまはどーいうタイミングで、
バルミューダの「トースター」へと引き継ぐのかっ?!
を考え中。。。

芸能事務所にはりつき『アメトーーク』の家電芸人さんへ、
「いますごい扇風機持ってるんです。見たいですか」
そう声をかけたとおっしゃる寺尾さんのおはなし、
すごい~。

2016年1月20日

スラムダンクを知らなくても…

2016年01月19日 | 映画
映画『バクマン。』でなんだか印象的に感じたシーンはね、
サイコー&シュージンの仕事場に
サイコー・シュージン・福田・平丸・中井の
新人漫画家さんたちが集まって、
飲んだり食べたりしゃべったりする場面でのこと。。。

漫画家さんたちで集まったので、
北斗の拳』などのマンガの話で盛り上がるんだけれど。
グラフィックデザイナーを辞め漫画家になった平丸だけは、
それらのマンガ、例えば『スラムダンク』を知らなくて。
「えっ、スラムダンク知らないの?!」と皆から言われ‥‥
そのシーンがよいなぁーって思ったの。

『スラムダンク』はぼくら世代にはマストだし。
ぼくももちろん読んでるし。
でも、かと言って、みんな全員知っているわけじゃない。
知らないひとだって当然いるじゃん、平丸だけじゃなくて。
それは『バクマン。』の映画を観ている
お客さんの中にだって、
『スラムダンク』を当然のように読んでるひともいれば、
全く知らないひと、名前だけ聞いたことあるひとも、
いると思う。

映画スクリーン上で登場人物たちが
『スラムダンク』で盛り上がっているときに、
平丸が「それってなんのはなしをしてるんですか?」って
ツッコミ入れることでそういうような「知らない」ひとも、
置き去りにされないと申しますか。。
その、いろいろなひとたちへ向けられた感覚が、
観ていてなんだかうれしく思ったんだよね。

これまでにぼくが感じた大きなカルチャーショックはさ、
大学のゼミで人生初めて仲よくなった異性の友だちに
ある例え話をしようとしてぼくは、
漫画『クレヨンしんちゃん』を用いてしゃべったのだけど。
その子は『クレヨンしんちゃん』知らなくって。
ぼくにとっては小学生の頃から当たりまえのように観ていた
『クレヨンしんちゃん』が、
たとえ同い年であっても性別や生活がちがうことで、
当たりまえではなくなるんだぁ~! て知ったこと。。。

ささいなことかもしれんけど、
ぼくのなかではあれは衝撃的だった。

2016年1月19日 @ 新宝島(Instrumental)

2016年01月18日 | 日常
小学1年生のふゆやすみにね、
「凧」に「防災の絵」を描く、という宿題がございまして。
それをぼくはどーしてだったかは忘れたけど、
たぶんもう描けないとか言って、
父親に描くのをお願いしたんよ。

それで父が描いてくれて、
完成した「凧」を休み明けに提出いたしまして。
その後、教室の後ろで飾られるのを見て、
ぼくはこどもながらになんだか恥ずかしさをおもった。

その「凧」の絵はさ、
もうあきらかに大人のひとが描いたタッチで。
父はあんがい器用で丁寧なんだけれど、
小1の課題っていうのまでは考えなかったかもしれない。
みんなのとはちがって、ぼくだけ、無性にきれいな絵。。。
それを見たとき「こーいうことはやっちゃいかん。」と、
「じぶんでやらにゃいかん。」と感じたの。
じぶんで頼んどいてそう言うの父にも申しわけがない。

そんで、それから学校の宿題&課題は、
(なるべく)じぶんでやるようになったですが。
だからと言ってそれがなにかじぶんの身になったかと言えば
ぜんぜんそんなことないんじゃがの。
なにかができるようになったとか別にないし。
でも、あのとき感じた恥ずかしさの気持ちは、
なかなか忘れられない~。

2016年1月18日

センター試験のあとから

2016年01月17日 | 日常
センター試験の日ですので、
センター試験のときのことを思い出してたですが。
じぶんのなかでは、高校のころを思えば、
センター試験終わったあとがいちばん楽しかったなー。
なにかこれまでと学校授業の雰囲気が変わってさ、
みんなそれぞれ自由にやっている。というか。。
うまく言えないけれどあの感じ、なかなかすきだった。

ぼくはセンター試験「国語」がぜんぜんできなくて。
自己採点もうめっちゃわるくって。
どーしよー?! と思っていたら担任の先生が、
「国語」の配点を低くし合計する公立大学を探してくれて。
現在はどういう配点になってるかわからないだけど、
それが母校の前橋工科大学建築学科だったのね。
(建築へ進みたいって当時思ってたからさ。)
ぼくは大学では完全にダメ学生だったですが、
「前橋」の日々はやはり思い出ぶかい。
それがなければぐんまけん行かなかったし‥‥

高校のころに話し戻りまして。学校のね、
「進路指導室」ていうところにみんな集まって。
ぼくは、友だちがよくそこへ行ってたので、
そのよしみでついていき。それも、たのしかったぁ。
二次試験でおのおの全国各地をおとずれるときには、
駅弁大会やろー! ってことで男子みんな駅弁買ってきて。
じぶんは高崎駅で「だるま弁当」「鶏めし弁当」買った~。
食べ比べるの、たのしかった!!
卒業後はその進路室メンバーでね、
友人宅(←友輔んち。とってもお世話になりました。)
にて集まり会もして。振り返ればそのときのことって、
じぶんのなかで大事なおもいでだわ。

センター試験終わって次の学校行った日の帰り、
みんなでカラオケ行っちゃったのは、
まぁしょーがないなーと思う。16年前の2000年1月。。。

2016年1月17日 @ 蜂蜜パイ