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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

海のバラッド

2013年01月31日 | 音楽
「長い影も
  波の輪郭の中
   水平線上 空と出会ったよ」

   海のバラッド / レミオロメン

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いぜん、あるひとから

レミオロメンの 『アカシア』 が大好きで。
そして、
『海のバラッド』 もなかなか好き。

てなこと聞いて以来。
たまに思い出しては、
『海のバラッド』 を聴いている。


愛知県は、そして、豊橋市は
海に面していて。

場所によっては、目の前が海。
というとこもあれば。
オレの家からは、いちばん近くの海岸まで車で20分くらい??

子どものころ住んでいた岡崎市の家からだと
海水浴場まで
車で1時間以上はかかったのかな。


というような、じぶんと海との距離感。


これがさ。
内陸の県に住むひとだと
海まで行くのも、たぶんだいぶ時間かかって。

(以前、群馬に住む子と話してたとき、
 こんど家族と新潟の海に行くんだ!
 って言ってたもん)

はたまた。海岸ちかくに住む、
漁師さんや、サーファーのひとの感じる
海への想い、というのも、また別にあるのだろうし。

海に接していない国に住んでいるならば。
もしかしたら、一生のうち一度でも、海をみるのが夢。
という方も、おられるかもしれない。


海とどれくらいの距離に住んでいるかで、
ひとへと宿る、海に対する気持ちが
変わってくるのかもなぁ!

ってなこと考えてみると、
海が、自然が、地球が、
なんか、ダイナミックに思えてくる。


「海」の歌ってことで。まぁ、比較するのは安易かもだけど。

奥田民生さん作詞作曲、Puffy の 『海へと』 や、
アジカン最新アルバム 『ランドマーク』 収録の 『大洋航路』 は、
もうすっごい大好きで。

それらの歌も、『海のバラッド』 も、制作者それぞれの方の
「海との距離感」というものが、表れてるかもしんねぇー。
なんてことも思ってみたり。

レミオロメンをひさしぶりに聴きながら。
花鳥風月と、
ひきつづき群馬のことを、考えている。

大学の先生への手紙

2013年01月24日 | 日常
手紙について考えてたら、やっぱ、どうしても

昨年3月にお送りした、大学の研究室でお世話になった
先生への手紙のことを、おもいだした。


大学のとき、とても、とってもお世話になって。
まー、俺みたいな、こんなにもダメ学生を
もうほんとうに、最後の最後まで、指導していただいて。

でも。そんな、大学の卒業式のとき、
(いま思えば、加藤諦三さんの「幼児的願望」とでも言うような…)
先生や皆に、きちんとあいさつも出来ず。そのまま地元へ戻ってしまい。

その後、同じ研究室メンバーの、女の子の友だちから
「ちゃんと先生に手紙を書きなよ」と連絡もらって。

そうだよなぁ……って思いながら。でも、ずっと何年も書けなくて。

それで。二十代終わるまでには、絶対書こう!って決意し。
なんとか、30歳の誕生日に書き終え、おくったのね。

それからは。先生より、すぐに連絡いただいて。
群馬 (の大学に通ってました) へ遊びにいくことになり。
先生の企画で、先生とふたり、草津温泉へ連れていって頂いて。

その旅行のすべて、すっごい思い出! ってくらい印象に残ってる。


思えば。大学4年、卒業研究での実験を、
そこらへんにある物を上手く使って、サッと、手ばやく進めていくところや。

研究室の、みんなが使う机や、安全靴をしまう下駄箱、
パソコンデスクなどを、木材で、きれいに格好よく作ってしまったり。

実験室での焼肉パーティーや、飲み会。そして、
黒部ダム、白馬への合宿が、たのしかったり。などなど。

先生の、そういうアイデアマンなところ、すごいっ!! って思いながら。

俺は、先生のそういう姿を見て、学んでいたのかもなぁ。
って、今、恐縮ながら感じてる。 まだまだだけどね…。


草津までの道中、先生の運転するクルマのなかで。また、
夜、お酒飲みながらの、先生との対話のこと。

だいじな、だいじな、授業を受けているような
そういう、あたたかくて、やさしいイメージが感じられて。
ほんと、いまでも感極まる経験だった。

先生が、どうか、これからもお元気で! と願う。 感謝。。。

手紙について

2013年01月21日 | 考えごと
ま、こんなこと書くのもどうかねー、って思ったけど。
今ちょっと寂しさ感じーの、てなもんで。 書いてみる!


おととしくらい、からかな。

手紙をね、ちょくちょく書くようになって。
友だちや、お世話になった先生、親戚、知り合い、
あとは、……好きだったひと… になどなど。

でもやっぱ、俺が手紙書くってさ。
まぁ、手紙書きたい欲、とゆーか、
勝手に、押し付け的なところ、やっぱりあるから。

よし書こう! って決意しても、

書くまえ、書く準備、書いてる途中、
これを、相手が読んだら、どう思うんだ? って考えては、悩んだり。
できれば、ちゃんとした手紙になるように、って願いつつ。

で、なんとか書き終えて。そんなとき、
もうこれ以上、どんだけぇ、考えても考えても、
相手がどう感じるのか、もう全くわからんくなって。

もしかしたら、喜んでもらえるかもしれんし。でも、どーにも
俺の欲がにじみ出ちゃって、そういう悪い面が伝わっちまうかも、とか。
これまでも、そーいう失敗、あったりーので。

でも、やっぱ手紙おくりたい! ってなったとき、
相手を信じて、ポストに、郵便局に、持っていく。

なにを信じるか、っていうと。
相手のコンディションと、
手紙に記した、込めようとした、相手への祈りね。

そこに込めた祈りが、祝福が、相手のもとで
ちゃんと発動されますように……。というような。

どうか、どうか、って思いながら。日々を過ごす。


♪そんなことを 思ってしまった  しぃまあった  し! まったぁぁー!!!

by 茜色の夕日

「ことばがわかる」 のこと。

2013年01月18日 | 考えごと
ども、こんにちはー。

ことし開口一番、なぜか、
俺は糸井重里さんのどこが好きなのか? を考えてて。それは、
糸井さんの「ことば」、とりわけ「比喩」だ! と思ったのね。

それから、
吉本隆明さんの講演 『喩としての聖書』 ひさしぶりに聴いてみよう!
となって。そこで考えたことを、ここ何回かブログにしています。


このまえのブログでは、
以前から気になっていた、ミスチルや村上春樹さんの作品などに出てくる
「メタファー」ということばを入り口にして、

吉本さんが講演で説明された「比喩」、そして
聖書に登場する、ことばから見た「奇跡」とはなにか?
について、紹介しました。


その説明のあと、吉本さんは、
聖書のなかの、具体的な奇跡について、語り始めます。

その奇跡とは…


  イエスのもとへ、悪鬼に憑かれた子どもをつれてきた母親が、
  「悪鬼を追いだして、病気を治してやってください」という場面。

  イエスは、その母親に、ある比喩をつかって話をします。

  その問いに、母親は、また、比喩で返します。
  母親の答えを聞いたイエスは、言います。「治った!」と。

  「おまえの答えかたはイイっ! 見事だっ!!」 だから治った、と。
 
  そして。母親が子どものもとへ戻ると、
  子どもの病気は、本当に治っていた……


吉本さんは、この奇跡のシーンを巡り、
「これは、喩で答えたということであり、なぞなぞの答え方である」
と説明します。そして、


  「あぁ、この母親はわかってるよ。いいかえれば
  「ことば」というものが、わかっている。

  「ことば」がわかっているとは、つまり「喩」がわかっている。
  「喩」がわかっているとは、よい信仰を持っている、ということだ。

  それじゃ、もう治ったも同然だよ。」


というように、イエスは言っているんだ。
吉本さんは、このように話を続けます。


この話をはじめて聴いた以前から、俺は、ある色々なことで
大きな不安、恐怖を、抱えてしまっていて。

振り返れば、それが、こころや、からだに
不調をもたらしていたんだと、今では思うのね。

そういう、よくない精神状態のときには、
だれか、友だちや先生、周りの方から、手を差し伸べてくれるように
ことばをかけられたとしても。

そのことばを
誤解したり、攻撃されてると勘違いしてしまったり、などで、
ちゃんと聞き取ることが出来なくて。

それで、また、体調が悪くなる。という悪循環…。

そんなときに、この講演を聞いて、俺は、
ことば、喩、なぞなぞが、わかっていなかったんじゃないのか?!
と、反省をした。

「喩」がわかれば、つまり
「メタファー」がわかれば、体調も治るんじゃないの?? 

というふうに、考えながら、いまは、生活をしています。


そういうことを考えるきっかけとなった、ということで、
この吉本さんの講演には、愛着があり、つよく印象に残っている、

てなことを書こうとしたかった、今回のブログなのでした!


うわぁー。またもや、長っ!!

読んでくださった方、いらっしゃいましたら、
ほんとうに、どうもどうも、ありがとうございます! 感謝…。


「幼稚なメタファーに引っかかって、
 ふらふらーってなっちゃう人は、ダメな人です」

と吉本さんが話す、講演終盤の箇所のこと、
いま、すっごく大事な気がしてる。

それではねー。

君がいないと困る

2013年01月15日 | 飲食

というわけで、吉本隆明さんの講演のことについては、
ひと休みして。

昨日の夜、お鍋にしたのだけど。
日曜、スーパーで買ってきたぽん酢が、超うまかったー!

そのぽん酢は、岩手県陸前高田市、八木澤商店さんの
味付ぽん酢柚子 『君がいないと困る』 です。

(八木澤商店さん、ほぼ日でもコンテンツになってたね。
 河野社長、すごい、かっこいい!)

もう、なんていうの。

ふつう、ぽん酢ってさ、口に入れた瞬間
酢の刺激がピリッと広がって、ちょっと痛くなる感じ、あるじゃん。

それがね 『君がいないと困る』 は、まったくない!

酢の風味はあるんだけど、刺激にはなってなくて。それでいて、
柚子の香り、しょうゆやおだしの旨みが、きちんと身体に届いてくるのね。

いやぁー、びっくりした。うますぎて。

豊橋市、愛大ちかくのスーパーあつみ山田店で
賞味期限間近のものがセールになっていましたので、

ご興味ある方は、ぜひぜひどうぞ!


今日もよい1日になりますよーに。ではねー。

メタファー、なんだろう?

2013年01月14日 | 考えごと
「たまに不吉な夢見るんだよ
    走っているのに進まない
 ひょっとしたら実際に起きてることを
    夢の中で知らせるメタファーかも Oh No!」

    終末のコンフィデンスソング / Mr.Children

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Mr.Children の 『終末のコンフィデンスソング』 や
『Pink~奇妙な夢』 の歌詞のなかに。
また、村上春樹さんの小説 『海辺のカフカ』 のなかに。

「メタファー」っていう、ことばが出てきてさ。

それ、なんだ?! って思ってるとき、
吉本隆明さんの講演 『喩としての聖書──マルコ伝』 と出合ったのね。


吉本さんは、その 『喩としての聖書』 という講演のなかで、
聖書に描かれている「奇跡」を元に
比喩(たとえ話)について考え、お話をされています。

比喩には、「直喩」と「暗喩」があって。

(「虚喩」というものもあるみたいだけど、
 今はまだ、よくわからないので、除いています)

たとえば、


 ・「あの人の目は、象のように細い」


と言うような、「のようだ」「ごとし」を用いた表現のことを
「直喩(:simile )」と呼び。それとは別に、


 ・「あの人の目は、象だ」


という言い方をすることで、
その目の細さや、柔和さを伝える表現のことを
「暗喩(:metaphor = メタファー)」と呼ぶ。

そして、そのことを踏まえながら、
聖書に登場する「奇跡」というものについて、


  本来ならば、あまりに隔たっていて、
  どのような結び付け方をしても結び付けられない2つの事柄を
  「メタファー」として結びつけたものが、ことばから見た「奇跡」だ! 


と、吉本さんは、説明をされています。


その説明でね。俺は「メタファー」というものは、

「のように」という単語がなくても、
ことば同士、何かと何かが結び付いていることがあって、
その繋がりが、何かの意味を示していることもある。

というよーなことかなぁ、と思って。なんとなく、
理解できた気がしたのね。(本当の意味は、どうかわからんけど…)


そして、吉本さんが、その次にお話しされる、

「子どもの病気が治った!」という「奇跡」の箇所は、
もう、ものすっごく印象に残っていて。

その部分のことをねぇ、ブログに書きたいのだけど、
長くなってしまっているので…。また次回に! と思います。


この講演の序盤に出てくる、

「何を言わんとするか、思いわずらうな。
 ただそのとき授けられたことばを言え。」

ということばは、当時、ほんとうに励みになった!!

草野球とコンパス

2013年01月12日 | 考えごと
俺は『ほぼ日』が好きで。
コピーライター糸井重里さんのことも好きで。

糸井さんのどこが好きなのか、を考えてたら、
やっぱり、糸井さんの「ことば」かなぁ、って思った。

「ことば」のなかでも、とりわけ「比喩」よね。

たとえばさ、ほぼ日の連載記事で言うと。

適切な大きさの問題さえ生まれれば。』のなかで言われた、
どういうときに問題が解決していくのか? についてのお話での


「思えばそれって、友だちどうしの間では
 いつも行われていることですよね。
 つまり、ボールが1個、ありましたと。

 バットもグローブもないけど、ボールが1個あるんだったら
 せっかくだから野球しようぜということになるし、

 そういうムードになった瞬間に
 もう、棒を拾いに行ってるやつがいるじゃないですか。
 で、ベースを書きはじめるやつがいたりね。」


の部分ね。また、ほかには、

『 MOTHER3 』の気持ち。』のなかの、
「確信をもつ」について説明されたときの


「軸をふたつとらないと
 中点ってとれないっていうか、
 コンパスを2回使わないとだめなんですよ。

 自分だけの、こ~んなにでっかいコンパスを
 1個持ってるだけではだめなんです。」


というようなところ。


さいしょの例はさ。

誰かが、何かを、提案したとき。
メンバーが、その提案に、命令で動くんじゃなくて。
やってみたいなぁ、と思った人から、自発的に動いていく。

という流れを説明しているのではないか、と。

そして、つぎの例では。

自分と相手との間をはかる。ってゆーの?? 
そういうときの考え方かなぁ、って思ってるのね。


その2つは、特に印象に残っていて。
あるときに思い出しては、
自分に言い聞かせたり、また、誰かに説明してしまうときもある。

そういう糸井さんの比喩は、
対象をズバっと選んで、ことばにされているのが、すごい!


書いてたら、もうちょっと、比喩のこと考えたくなった。
吉本隆明さんの講演 『喩としての聖書』 ひさしぶりに聴こうかな。


あぁー!
いつのまにか、1月も半分くらい過ぎてたぁー。

ことしもよろしくねー!