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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

東京へと2015【明日の神話編】

2015年12月10日 | デザイン/芸術
前回ブログよりつづきです。)

ヴィレッジヴァンガード下北沢店を出まして。
地元豊橋へ帰ろうと下北沢駅にて京王井の頭線乗車、
渋谷駅でJR山手線のりかえ品川駅へ向かおうとするときに
目に飛びこんでまいりましたのは、
岡本太郎さん壁画『明日の神話』なのですが。

ぼくは、
渋谷駅で『明日の神話』が設置されていることは
耳にしておったけれど。このばしょだと知らなくって…




(↑『明日の神話』渋谷駅にて。)

ぼくが『明日の神話』を観ましたのは2006年夏、
中学からの友人Nくんといっしょに訪れた汐留公開のとき。
と、その後またもう1回観たんだけどいつだったかや?!
って帰宅してからもちょっと考えていたですが。
当時のほぼ日手帳見返し思い出した~。

それはね、こんかいの旅行一日目におとずれ、
このブログ旅シリーズの「プロローグ編」でも申しました、
2007年10月27日土曜日の
東京都現代美術館」で観たのだった。




(↑探したら2007年10月の写真ありましたっ。)

そのときにはけっこう長時間鑑賞いたしながら、
展示室を出るときぼくは『明日の神話』へ
(また逢おう!)って呟きながら館を後にしたんだけど。
でも、すっかりそのこと忘れてて。。。

こんかい、ひさしぶりな東京旅行の最後に、
たまたまそこを通ったんよね。




(↑後方にはスクランブル交差点。すごいひと‥‥)

もしも、ヴィレッジヴァンガード下北沢店で、
MOTHERとほぼ日と糸井重里」というイベントが、
開催されていなければ下北沢へは行かなかったと思うし。
さらに。もしも、旅行最後の予定が下北沢じゃなければ、
井の頭線に乗らずその渋谷駅構内も歩かなかっただろうし。
それは、ほかの予定との兼ねあいと、あとまた
「母といっしょにゆく。」ていうのも、
スケジュール考えるときには重大なことでしたので、
そーいうのすべて合わさっての『明日の神話』だと思ったら
なんか感慨深くなっちゃって。。。

帰りの新幹線内ではそのことを考えたりしながら、
無事に豊橋駅へ着きましてん。
豊橋駅ビル・カルミアの「たごさく」さんで、
おこわのお弁当を買って豊鉄バスへ乗り20時過ぎに帰宅!!

最後に観ました壁画『明日の神話』が、なんだか
思いがけないプレゼントのようでありがたかったです~。

(東京へと2015、おしまい。)

2015年12月10日

東京へと2015【nendo3/3編】

2015年12月05日 | デザイン/芸術
前回からのつづきだよっ。)

かっぱ橋道具街をめぐりましてこんどは、
最寄りにございます田原町駅より銀座線に乗り表参道駅へ。
到着してまずはGYREにて現在では会期終了しております
「nendo3/3」という展覧会にゆくー。

こんかいの東京旅行日程が決まった直後にね、
今田耕司さん・瀧本美織さん司会のテレビ番組
アナザースカイ」で、デザイン会社「nendo」の
佐藤オオキさんが出演されている回を拝見いたしまして。
番組内で出ておりました「nendo」の展覧会、
しらべればちょうどじぶんが東京ゆく日にも
開催中だと知りましておとずれたー。



(↑会場でいただいたチラシ、帰宅後に撮影。)

佐藤オオキさんデザインの家具作品が、
まっしろい空間の中で置かれ、すてきだったぁ。
展示台の隅にはそれぞれタブレット端末が埋め込まれ、
みじかい説明動画が流れておったですが。
シンプルな線のみの映像おもしろくてわかりやすくって。
映像では、線で描かれた人間がその家具にちかづくと
【!】ってなにかひらめき、
家具を使いはじめるという内容なんだけれど。

いくつかの作品を観ていくうち、
動画のなかで【!】という記号が出るときには
会場内で「ピンっ」て音が鳴っていることに気がついて。
とおもえば、その「ピンっ」はさ、
展示された作品のあちらこちらで流れてるのでなく、
その瞬間のときにだけ聴こえる‥‥ あれ??
どーいうことか?! ってそれぞれ見比べてみると、
展示すべての動画で【!】の出るタイミングが
おんなじに成っていて。つまり、
説明動画の時間・構成がぜんぶ共通でつくられてる。。。

って、ぼくのこの説明は展覧会を観ていないかたには、
なんのこっちゃわからないかと存じますが。
でもなんかこの展示ってなんてゆうかシンプルの極限っ!!
みたいに感じてすげーっておもったんよ。

佐藤さんの作品はもちろんのこと、
まっしろい空間、タブレット端末の映像、【!】と効果音、
展覧すべてがすばらしいなーと感じました。

(つづきますです。)

2015年12月5日

東京へと2015【森美術館編】

2015年11月30日 | デザイン/芸術
前回からのつづきです。)

TORAYA CAFE」でおいしいおしるこを食べまして。
そしてこれから、
六本木ヒルズ森タワー53F・森美術館へと。
村上隆さんの展覧会「村上隆の五百羅漢図展」ですっ。

すごかったぁ!!

展示の規模が大きくって圧倒されるし。しかも、
椅子やベンチが無いので休めない修行のような鑑賞空間。
なかなか経験のないすべて写真撮影OKのふんいきに、
なにかまた別の凄みを感じるかのような‥‥




いりぐち。




さいしょから大勢のひと。




じぶんも写真を撮りながら、




接近すると背景が映ることに気がつき、




じぶんと、展示室内。




そのひだりがわ。




白色かとおもったら、どくろ。




ふりむいたり‥‥




ちかづいたり‥‥




黒い壁に覆われた『五百羅漢図』の展示室。。。




をさらに進んでゆき、




さいごの部屋も大勢のひと。




きらびやか~!!

もうへとへとになりながら展示室を出れば、
展覧経緯の映像が流れる部屋があり、すわって鑑賞。
そのあとでは村上隆さんのお花のクッションに腰かけて、
村上さんの作品集をよめるコーナーもございまして。
そこで、母とふたりでしばし休憩。。。

次回へつづきます。。。)

2015年11月30日

東京へと2015【有楽町から清澄白河へ編】

2015年11月28日 | デザイン/芸術
前回エントリのつづきです。)

そいで、旅行当日とあいなりまして。
朝8時ぐらいに玄関をでて、
もよりの停留所よりバスに乗り豊橋駅から東京駅へ。
10時ちょい過ぎには到着してるってはやっ!!
さいしょのもくてきちは、
今年9月リニューアルオープンの無印良品 有楽町
山手線にのりかえて有楽町駅下車よ。

お店着きまして「Cafe&Meal MUJI」で朝ごはん~、
パン(チキンとバナナ・チョコ)と珈琲おいしかったぁ!
それから店内をめぐりながらひろくってなんでもあって、
「MUJI BOOKS」でのたくさんの本とか、、、
もういくらでも居ることができてしまいそうだった。
「Found MUJI」のお豆のお菓子を購入してお昼ごろ出発っ。

日比谷駅まで歩き千代田線で大手町のりかえ、
半蔵門線で清澄白河駅へ、東京都現代美術館へと。
このさ、日比谷駅まで歩いてゆくのにちょっと迷い、
前日に地図で見てたしスマホのナビもあるから大丈夫!
て簡単に思っていたけれど実際現地で動いてみると、
なかなかそーもいかんことに気がついた。
距離感とか土地勘とかやっぱり行ってみんとわからんだわ。

前々回エントリでも申しましたが、
じぶんは2007年以来で東京都現代美術館をおとずれて。
こんかいはオノ・ヨーコさん『私の窓から』展を鑑賞。
しずかな館内を歩きながらヨーコさんの一見しずかな作品を
観ながら、そのしずかさの奥に何がある?!
みたいなことをすこしじぶんなりに考えながら‥‥

同美術館で開催中のもうひとつの展覧会、
"TOKYO"-見えない都市を見せる』も
めっちゃおもしろそうだったけれど。
時間がなくってあきらめて。つぎのばしょへと出発よ!!

次回につづくよ。)

2015年11月28日 @ We're All Water

「案」を見てもらうとき。

2015年09月22日 | デザイン/芸術
じぶんが考えてきた「案」を、あいてに見てもらうとき、
その「案」をさ、
【最初の「案」ができたのでどうかご意見お願いします。】
と言いながら見てもらうのか。
【完璧の「案」ができたのでこれで宜しくお願いします。】
と言いながら見てもらうのか。のどちらかによって、
その先のコトが変わってくるんではないかとおもったの。

前者の
【最初の「案」ができたので…】って言う場合ですと、
あいてに「案」はどう見えるのか? ていうよーな、
あいての「意見」を求めてる。

後者の
【完璧の「案」ができたので…】って言う場合ですと、
あいての「意見」は求めていなくって
あいての「理解」を求めてて。
つまり、「案」は「完璧」なのだから、
後はこの「案」にあいてが従うのか従わないのかみたいな
雰囲気になってしまう。

考えてきた「案」がね、
(これしか無い)みたいな想いを持っちゃうと
後者のようになってしまうのかもしれない。ておもって。。

‥‥と、かと言って前者の
【最初の「案」ができたのでどうかご意見お願いします。】
って言えばもうそれだけでよいか?!
と申しあげますと、たぶんそうでもなくって。
「意見」を実際に「聞く」むつかしさもあれば、
「意見」を「どう反映させたらよいのか?」のような
たいへんさもあったり。
たとえば、辛辣なご意見をいただいた場合に、
そこで心が折れてしまって計画が頓挫するコトになったり…

でもなんかそういう「企画」のすすめかたって、
みなさん、どうなされておるのだろうと少し想像してた~!

2015年9月22日 @ ワンルーム・ディスコ

たとえば、3つの審美眼。。。

2015年08月23日 | デザイン/芸術
たとえば、電化製品を購入しようと電器店へゆき、
製品を選びながら製品の「デザイン」のことも考えながら、
最終的に(よし!)と思って購入をするとき‥‥

たとえば、美術館等にて「絵画作品」を鑑賞していて、
たった一目見るだけでその「作品」を
(後世にまで残るような価値のある芸術だ!)と思えるか‥‥

たとえば、「ロゴタイプ」や「シンボルマーク」や
「エンブレム」を見れば、これは、よいものであり、
これは、わるいものである。と言い切れるのか‥‥

‥‥と、これら3つのことで申しあげますと、
ぼくは、さいしょの「電化製品のデザイン」の場合では、
機能と照らし合わせながら店員さんの説明も聞きながら、
じぶんの価値観ですきかきらいか判断し決断をしたい。
にばんめの「絵画作品」の場合では、
たぶんぼくにはわかりません。今、ゴッホの作品を見れば
やはり(すばらしい!)と思えても、ゴッホがまだ
生きている間には(これは歴史に残る…)とは言えなそう。

そして問題はみっつめの「エンブレム」でございまして。。。

ぼくはさ、なかなか言い切れない、
言い切るのはむつかしい、と感じていて。
真の意味での「エンブレム」の価値って、なんだろう?!
のように考え込んでしまうタチなんだわね。

もしも、1960年代にネットやTwitterがあって、
亀倉雄策さんが制作なさった「エンブレム」発表の瞬間、
また発表の後には、
みなさんのつぶやきはどのようになっていたのか。
賛否両論・大激論になってたかどうか。
また、そのときに、ぼくは、どう想っただろうか。。。

つぎに現代へと戻りまして。仮に、
この現状の「エンブレム」が使われると致しまして。
2020年、日本のコトをよく知らない何処かの外国のかたが
テレビで「東京オリンピック」を観ながら、
【このエンブレムには一切の価値も無い、単なる恥だ!】
とパッと見で思われるかどうか。

そして、時は2070年代、
もしもみたび東京でのオリンピック開催が決まり、
さて「エンブレム」をどーするか?? となったときには、
1964年のデザイン・2020年のデザイン、ともに
その時代のかたがたにはどのように映るんだろうか。

他の案に「エンブレム」が変更された場合はどうか???

ぼくではさ、それをはっきり言い切ることができません。
それはたぶん、ぼくには「見る目」が無くってさ、
審美眼がもうぜんぜんダメだから!!
の可能性はじぶんでも否定できなくて。
でもやっぱり、わかるひとにはわかるものなのでしょうか。
あれは、ダメだ。って。。。

ぼくには、たとえば「電子レンジ」を選ぶときに、
どの製品の「デザイン」を自宅のキッチンへ置きたいか?!
を、じぶんなりに判断することくらいしか、できません。

2015年8月23日 @ シャ・ラ・ラ

似てる問題のこと。

2015年08月22日 | デザイン/芸術
まったく見当はずれかもしれませんが、
「似てる」問題について考えたことを申しあげます。

豊橋駅って、改札が「JR」と「名鉄(私鉄)」とが共通で、
「JR」のキップも「名鉄」のキップも
おなじ改札にくぐらせホームへと入るのですが。
そのときに間違えちゃいかんのが、
購入するキップと、乗る電車。。。

豊橋駅のキップ自動販売機コーナーでは、
「JR」と「名鉄」が並び(←左が「JR」、右が「名鉄」)
きちんと見定めながら
目的の鉄道会社のキップを購入するですが。
ぼくは地元なので知ってるから間違いがなくても、
はじめて訪れるかたにとってはどうなのだろう??
間違いはなくとも少しばかり混乱等をするものかどうか…
詳しいことは、ぼくは、よくわかりません。

んでも、そのときに、
たぶん重要なのは「デザイン」だとおもいまして。
示す「デザイン」があるおかげで、
お隣り同士の「JR」と「名鉄」とを判別でき、
いくらかの間違いは仮にあったとしても、混乱は減る。
そんなとき「デザイン」が「似てる」としたら、
間違いはとっても多くなってしまう。。。

かと言って、「電車」の持つイメージと、
あまりにもかけ離れたような「デザイン」であれば、
そもそも「電車」なのかどうかわからなくなる。

また、自動販売機の機械が全く「同じ」でありますと、
もしも「JR」か「名鉄」かの販売機のほうに
間違って入ってしまった場合、
その機械を見ても間違いが推測できにくくって。
でも何もかも全く「違う」機械だとしたら、
今度は操作方法がわけわからなくなってしまう。

「デザイン」がまったく「同じ」では混乱するけど、
「似て」いなければ果たされない役割、
「似てる」ことによって果たされる機能がある。
ということも、ある。。。

「似てる」問題【だけ】のコトで申しますと、それが
「似てる」ことによってどれだけの混乱や弊害があるか?!
を考えないとフェアで無いような気がしたの。

感情的になり過ぎると
複数の問題が 複雑に融合してしまい どれが本質なのか
本質が見えなくなってしまうことに 気づかされ‥‥

2015年8月22日 @ 憂いのGYPSY

デザインの判断?!

2015年08月20日 | デザイン/芸術
あらゆる場所の、あらゆる方々がされておられる
あらゆる「仕事」のおかげで、
じぶんのいまの暮らしは成り立っていて。
感謝、なのですが。

それは、「デザイン」についても言えると想いました。

すぐれた「デザイン」とは、たぶん、
とくには(あのデザインすぐれてるよねぇ。)と
おもわれることもなく知らぬまに生活へ浸透していて。

もしも、その「デザイン」が無かったならば、
本当なら迷ったり解らなかったり混乱したりしてた場面でも
いつのまにやらスムーズなコミュニケーションに
なっていたのかもしれないし、
「デザイン」によって知ることできたお店や商品やサービス、
「デザイン」のおかげで生活が華やかになっていたり
楽しくなっていたり心地よくなっていたり。。。

そういう「無いと不便だけど、有ると便利なもの」って、
無いときには(こういうのが有るといいんだけれど…)とは
想像することができにくく。でも、
有るときには、それが有るのが当然のように感じてしまう。

そのようなことを考えるとさ、
素人であるぼく個人といたしましては、
ある「デザイン」が、ある「エンブレム」が、
【好きなのか嫌いなのか】・【よいのかわるいのか】等を
すぐには判断ができない。
ぼく個人が、ぼくひとり分の判断を下してしまうことが、
どうなのかどうか? がわからない。

糾弾できるある正しい理由をもって
その正しい理由を元に「デザイナー」のかたを激しく追及し
「デザイン」の叡智のようなものを破壊しようとするのは、
どうなのかどうか?! その行為によっては、
見えない場所の見えない事柄がどうしようもなく崩れ去り、
もしかしたら巡り巡って数年後のじぶんたちの生活を、
じぶんたちの首を絞めることにも成りかねない。

それこそが、正義なのかどうか、ぼくにはよくわからない。

やわらかいものこそ脆くて壊れやすくて、そして、
あとかたも亡くなったあとで
再生させるのも困難なような気がした。

2015年8月20日 @ Flavor Of Life -Ballad Version-

「思うこと」のこと。

2015年08月03日 | デザイン/芸術
前回エントリでは、
「ことばにする」ことにおける
懸念や留意点みたいなのについてすこし申しましたですが。

「ことば」にしなければ何も決まらないので
物事がさきに進んで行かない。けれど、
いちど「ことば」にしてしまえば、
もう「ことば」に引っ張られて行ってしまう。。。

そのむつかしさ‥‥。

のことを思っていたときに思い出しましたのが、
雑誌『SWITCH』映画監督・是枝裕和さん特集号
掲載されておりました、
アートディレクターのおふたり
森本千絵さん×葛西薫さん対談の記事でございます。





申しあげました「ことばにする」のことと、
ちょっと関係しているのかも知れないと存じまして。
すこし長くなりますが
誌面(155頁)より引用を申します。





森本 葛西さんは仕事はどこからはじめるんですか?

葛西 森本さんはどこからはじめますか?

森本 私は、どこからだろう。
アイデアを先に考えるんですけど、
「思うこと」からですね。


葛西 そうだね。僕は真剣に考えると怖いから、
おそるおそる思い出すということから
やっているかもしれない。


森本 おそるおそる思い出すという感覚、
すごくわかります。だいたいの仕事がそうです。


葛西 着手してしまうと今度はそこに縛られていく、
その怖さがちょっと後回しにしてしまうというところがある
と思うんですよ。着手してしまうとおしまいというか。
でもそれがスタートでもあるから。






葛西さんの仰る
「おそるおそる思い出す」のこと、、、
そしてそのあと

"いい原稿を書く秘訣は着手することである"

という
野口悠紀雄さんの著書(『超文章法』)より、
葛西さんが引用をなさって。さらにそこから
おふたりのお話はひきつづき「思うこと」について……





森本 締め切りからすると
つくっていなくてはいけない時期なのに
つくれていない自分がいて、
「どうやったらつくりはじめられるのか」という相談を
葛西さんにした時に、
「思うことからはじまる。つくるの中に
 思うことも入ってるから」と言われたんですよね。


葛西 相手に
「あの仕事どうなってますか?」と言われた時に
「いつも思ってますよ」と伝えるんです。
それで安心してくれて、その後
「どうなってますか」と訊かれたら、
「いま、考えてます」と言って、
もうすぐ締め切りになったら、
「どうなってますか」「いま、つくってます」と言う。
そうやって言い訳しながらも、でも
ものをつくっていくというのは、
本当にそういう思考過程なんですよね。


森本 どうしても締め切りに近いものを
手では動かしているけれど、実際、
まだ先の締め切りのものでも
「思って」いますよね。それがそれぞれの仕事に影響する。


葛西 火事場の馬鹿力というけれど、
突然馬鹿力が生まれるわけではなくて、
普段思っていないと馬鹿力は出てこないですよね。






葛西さん、森本さん、おふたりのおっしゃる
「思うこと」のこと、、、
をいつも思っておきたいな。と思いました~!!

暑いですが、どうぞ、おからだのお見舞いを申しますっ。

2015年8月3日 @ 真夏の夜の夢

おばの「絵」よりおもったこと。

2015年07月01日 | デザイン/芸術
ぼくの母親は、6人兄弟のすえっこで、
いちばんうえのおねえさん、そして
そのつぎの長男・次男がふたごのおにいさん、
三男、四男、とひきつづいての妹なんでして。

おねえさんと次男おにいさん、
ぼくにとってのおば・おじのおふたりは
もうすでに亡くなっているのですが。
次男おじさんの奥さんはご存命で「絵」を描いておりまして。
きょうのブログはね、おじの奥さんおばの
「絵」よりおもったことを申したくぞんじます。

おばの「絵」はこれまで何度観たことあったかやー。
市の美術館での公募展へ出展された作品を、
ぼくはこれまでに何回か拝見したことがございまして。
大臣賞であるような賞を取られていたり、また、
それら作品がどこかポジティブですてきだなぁとおもって。

たとえばさ、ある年の作品では、
お正月のとある港で「大漁旗」をなびかせた沢山の船々が、
ちから強く描かれていてかっこよかったり!!

またある年では、山中でのなにか発電所的な施設(?!)、
よくわからないんだけれどその場所の、
建物についた苔の感じと周りの森林の緑が綺麗だったり……

……そのね、山中の「絵」はいちど出品されて、
でもまた後年になり新しく書き直されての再びの展示で、
その「リメイク」の「絵」がとってもすばらしかったの。
どういうことかと申しあげますと、
「リメイク」作品では、「絵」の全体が、
どこか立体的で浮き出てくるように見受けられ。。

それはさ、たとえば施設へ通じる道が橋になっていて、
その橋の欄干のすぐしたには
欄干の「影」が映っている。

いちどめの作品ではあまり無かった「影」を、全体に
つよく描くことによって「絵」に奥行きがうまれた。。。

つまりはね、いちどめの作品では「曇天」だったのが、
こんどは「晴天」になった!!
てゆうことなのだとおもったんだよねぇ。
いちどめでも素敵だった「絵」をさらによくするために、
おばは「影」をつけようと「光」を求めて、
そのアイディアとして「天気」を晴らさせた。

ぼくはそこにとてもポジティブさを感じてその「絵」と、
そして「絵」を描いた「おば」のことを
(好きやわぁ!)とおもったんよ~。

2015年7月1日 @ July 1st

「鑑賞」と「観光」と。

2015年06月18日 | デザイン/芸術
実際における意味あいとしての「額縁」も、
比喩における意味あいとしての「額縁」も、
どちらともがぼくには計り知れずに、よくわからない。

「額縁」に囲まれた「絵」をぼくは
「額縁」の「外」からただ眺めているだけで、
鑑賞ができるのか。であっても、それもよくわからない。

考えても、考えても、よくわからない。でも、、、

例えば、ぼくがじぶんの家より美術館へゆくとして、
館内の展示室の中でぼくは「作品」を鑑賞する。
のときに、「作品」の「核」までの道中には
やはりいくつかの隔たりがあって。

まず、最初の関門は美術館の「壁」。
その「壁」を超えないことには、
「作品」の飾られた展示室に入れないし~。

だからぼくはその「壁」を越えるため、
美術館の入り口を探し見つけてそこから内に入り、
このつぎは、受付カウンターを探し始めるのだろう。
受付のおねえさんにあいさつをし、
チケット購入のためおねえさんにお金を手渡す。

そこで受け取ったチケットが「通行証」となって、
ぼくは展示室の中へ入れるようになったわけだけれど。
展示室に入ったからと云って、
それだけで「作品」を鑑賞できるのかっ?!

いやいや「作品」は「額縁」とゆう城壁に囲まれてるから、
その城壁を超えないかぎり、
ぼくは、「作品」の「核」まではたどり着けない。
一見低く見えるその城壁は、んでも、
「お金」をどれだけ払っても「通行証」をひらり見せても
ルールを侵し手をのばし「作品」に触れちまったとしても、
それじゃあ渡ることはできない。

じぶんから「鑑(かんが)みる」ことによってしか、
「作品」の屋根箇所に設けられた見えない「膜」は、
開かないんだわ……

「賞」を「鑑みる」ことが「鑑賞」だとおもうし、
「光」を「観にゆく」ことが「観光」なのだとおもう。
その「賞」は、その「光」は、
どうにかして鑑みようとなんとかして観ようとしない事には
ぜったいに感じられはしなくって。

ならばぼくはそれが少々困難だったとしても、
すこしでもすこしだけでも感じられるようになりたい。
っておもいながら。。。

「賞」は、「光」は、ぼくに、なにかを叫んでいるんだ!

2015年6月18日 @ Starting Over

「壁」のせいか、「壁」のおかげか。

2015年06月11日 | デザイン/芸術
なんでいまこんなにも「額縁」のコトが気になるんか、
じぶんでも理由さっぱりわかりませんが、
今回もその「額縁」についてもうすこし考えてみたいのね。

「絵」と云う場所とはさ、
約束事とか、ルールとか、成り立ちとか、温度感みたいな、
そーいうものがもうかんぜんに
つうじょうの場所と一線を画していて。それがねっ、
「額縁」によって分け隔てられている。
とゆうのがいまのじぶんの解釈なんだけれど。

「額縁」ってのはつまり「城壁」であり、
それをもうちょっと申しあげますと、
「壁」だわね。

もしも「壁」がなかったのならば、
そんなような「一線を画す」こともできなくって。だから、
「なか」をつくることができない。
「なか」での独自ルールを創作することができずに、
「そと」と地続きな場所のみの
のっぺりとした空間が世界にはただひろがる。

でも、そんな「壁」が存在することによって、
「そと」からはまったく見えない空間が生まれて。
その空間内では、もしかしたら、暴力が、
ドメスティックな暴力的の行為が、
はびこってしまっている。のかもしれない。。。

(ドメスティックの暴力も、ドメスティックの愛も、)

だからと云って、
「すべての『なか』の空間を監視します。」とか、
「すべての『壁』を取り払ってしまおう。」ってなると、
すべての「なか」は破壊されすべてが「そと」になり、
そして最終的には「なか」が無くなると同時に
「そと」とゆう「ことば」すら次第に無くなってゆく。

「壁」のおかげで、の面もあれば、
「壁」のせいで、の面もある。

「壁」によって、「城壁」によって、「額縁」によって、
一線が画された世界とは???

のコトをおもっていたらね、
ブラタモリ』の「京都編」をみてはじめて知りました
京都の「御土居」をおもいだした~!!

2015年6月11日 @ 街

額縁ヘリコプター(後編)

2015年06月10日 | デザイン/芸術
【本日ブログも前回から引き続きのエントリです。】

美術館やギャラリー等の展示室を、
鑑賞者は「ヘリコプター」へ乗り込みながら、
「額縁(城壁)」に囲まれた「作品」を眺め進んでゆく。

‥‥とゆう喩えはさ、これまでに
じぶんがしてまいりました「鑑賞」の感覚を、
結構現しているのかも、ってじぶんの中ではおもっていて。

ぼくの場合だけかもしれないけれども、
やっぱりなかなか「鑑賞」ってむつかしくってさ。
じぶんは無知だし、教養もぜんぜん無いので、
美術館を訪れても本当にちゃんと「鑑賞」出来ているか?
ってのは、いつも、かなり怪しく。。。

それとはつまり、じぶんと「作品」とのあいだには、
地上から「ヘリコプター」までくらいの距離感があって、
しっかり観ようとしてもなかなか見られない。
また、なんにもとっかかりがなければ、
「作品」に気づかずに素通りしてしまうかも、だし。
(ほんでさ、たとえば、
 ちょいと疲れたら椅子やソファでひとやすみ。であっても、
 それは「ヘリコプター」の「燃料補給」的な??)
ぼくにとっての「鑑賞」ってば、なんか、
そーいう問題を少なからず孕んでいるんだよね。

と、本日の前置きだいぶ長くなってしまったけれど。
前回エントリの末尾で申しあげました、
「ふとおもいついたこと」なのですが。それはねぇ、
「ヘリコプター」に代わる
じぶんの「鑑賞」におけるあたらしい概念のコト。。

えーと、なんて申しますか、、、




↑こんなかんじで、




↑スススススーーッッ♪ って、




↑接地するかのごとく‥‥

そんなよーな、
「作品」の「うえ」まで想像上の「虹」を架け、
そうすれば実際には着かずとも「作品」の内部に入れて
今までよりもっと「鑑賞」が出来るのではないか??

って、おもったの。

そーであるならばっ、
もう雨だって降ればよいじゃん!!
雨上がり、ぼくの胸のなかと「対象」とのあいだに
想像上の「虹」が架かるように……

2015年6月10日 @ RAINBOW RAINBOW (陽気なアインシュタインと80年代モナリザの一夜)

額縁ヘリコプター(中編)

2015年06月09日 | デザイン/芸術
【ほんじつのエントリ、前回からのつづきです。】

‥‥とゆうのをさらにまた比喩的に申しますれば、
美術館やギャラリー等を歩くぼくら鑑賞者は、
「城壁(額縁)」に囲まれた「作品」をうえより眺める
スカイウォーカーなのではないか?! っておもいました。

まぁ、じっさい、
空を歩くことはふつうの人間にはできないコトだから、
なにかの乗り物にと乗るんだけれど。

たとえば、
飛行機であったり飛行船であったり、
気球とか、グライダーとか、凧や、オスプレイ、UFO、
最近でございますと「ドローン」で撮影する、などなど。。

じぶんのなかではさ、なんとなく
「ヘリコプター」の感覚が強かったので、、、




↑こんなかんじで、




↑バババババッッ! って、




↑飛び去り、またつぎの。。。

と、こんなように、
「ヘリコプター」に乗り込みながら、
「作品」をうえより観て眺めてゆく雰囲気???
なんか、そんな感じがしたのよ、「鑑賞」ってさ。

そーなりますと、
どのような気持ちで「ヘリコプター」に乗っているか?!
が、けっこう大事になってきて。

それとはつまり、
(なにごとも見逃すまい!)とおもいながら、なのか、
(はやく目的地に着かないかなぁ…)みたく
ただ単に移動をしているようにおもいながら、なのか。

そして「城壁」の内部である「絵」のうえには、
「ヘリポート」的な場所はございませんので
(←「作品」のうえに、ぼくらは、降りられない。)
鑑賞者はそのまま「ヘリコプター」で進んでゆくだけ。。。

その状況下でぼくら鑑賞者はどれだけ「鑑賞」できるか?!
ってゆうのを考えてるときにふとおもいつきましたことっ、
また次回に申しあげたいとぞんじます~!!

2015年6月9日 @ ひこうき雲

額縁ヘリコプター(前編)

2015年06月08日 | デザイン/芸術
【「額縁」についてかんがえちゅうであります。】

昨日のエントリでは、
「文章」を「記す」ときにおける
「額縁(のようなもの)」について、
もう完全にめっちゃ抽象的に申しあげまして。

えーっと、
「制作」とか「創作」とかのコトになると素人なじぶんでは
やっぱりよくわからんだもんで、ほんじつは逆に、
「絵」の「鑑賞」について書きます~。

さて、この以前エントリでぼくは、
「絵」における「額縁」とは、
「絵」を囲む「城壁」なのだと申しあげました。

たとえば、こんな感じ↓でさ。





白いところが「絵」で、
段ボール部分は「城壁」である「額縁」、
つくえを「絵」を飾る美術館の「壁」だと致しまして。

その「城壁」で囲まれた「作品」を観る。とすれば、、、

比喩でない実際のお城でございますと、
「城壁」とは言ってもどこかに「入り口」は存在してて、
そこから入城をするとおもうんだけれど。
「作品」の「城壁(額縁)」ですとそーもいかない。

「額縁」とゆうものには、
どこにも「入り口&出口」のような「門」は無いからさ。
となれば、どうするのか??

それはやっぱり、
「作品」の「内部」には入れないのだから、
「作品」を「上」から眺めるしか方法はないんだよね‥‥

(次回へつづく。)

2015年6月8日 @ 街の風景