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なら斬り開く?!

アジもホッケも、物事さえをも、斬り開く。

モニター位置とキーボード

2016年03月29日 | 読書
石川善樹さん著『疲れない脳をつくる生活習慣』を
読みまして。
なにか実践しようと思い83頁より書かれております、
Macのモニター位置をすこし上にあげてみた。



アイディアが出るように。と願をかけまして、
載せる雑誌は家にあった『アイデア』にしたよ。
なにげに雰囲気が変わる~。

そしてまたキーボードは、



同じく著書のなかで記されております
「膝の上」にしてるだよん。
そーいえばちょっと肩こりがなくなっているような、
そんな気がするっ。
モニターが顔の下側にあるとどうしても目線が下がって、
前かがみになってしまい、姿勢が悪くなる。
また、机に置きながらのキーボードだと腕と肩を
あげて打つことになるので体に負担をかけやすいらしく、
「膝の上」なら自然に作業できる。とのことで。。。

【第4章 血糖値を制する者は仕事を制す】(103頁)での、
「食べ物」や「食事」のことは、
なにかすこしずつでも意識してみたいっす。

2016年3月29日

無限ループのマトリョーシカ人形?!

2016年02月12日 | 読書
古賀史健さん
『20歳の自分に受けさせたい文章講義』読了。
著書を読みながらぼくはじぶんの文章のダメさ加減と、
書くことのむつかしさを痛感し、おののいていた。



記されていることを実際にやろうとするのは、
とってもむつかしそうなのだけれど、
できるようになりたい!!
とおもいながら。。。 古賀さんの著書を読みまして、
ぼく自身がこれまでちょっと間違えて思ってたことについて
ブログ書こうとおもいます。

それは「マトリョーシカ人形」のことです。
「マトリョーシカ人形」とは、
ある人形のなかにはひとまわり小さい人形が入っていて、
その人形のなかにもひとまわり小さい人形が入り、
この人形のなかにもまた人形が‥‥ という、
つまり「入れ子構造」であります。

先日まで何度かシリーズでブログ書いておりました、
「『【考える】とは、なにか?』を考える。」のことをね、
ぼくは最初「マトリョーシカ人形みたい」と申しまして。
それは、カッコの中身が「入れ子構造」になっている、
ていうよーな意味だったけれども。

「『【考える】とはなにか?』を考える」のなかには、
『【考える】とはなにか?』が入っていて。さらにまた、
【考える】が入ってる状態。

「『【】』」 ←この感じです。

ぼくが当初に思っていたのはさ、
これはどこまで行っても「考える」が、
永遠にループしてゆくイメージだったんだよねぇ。
「考える」を『考える』を【考える】を「考える」的な。
マトリョーシカ人形に当てはめれば、
どれだけ開けても同じ顔の人形が無限に出てくる、よーな?
でもそういうのって真のマトリョーシカではない。

著書の129頁から記されております
「論理展開のマトリョーシカ人形」の段落では、
論理的な文章とは3層構造のマトリョーシカになっている。
と説明がございまして。つまり引用いたしますと、、、





さて、論理的な文章のマトリョーシカは、
次の3層になっている。

(1)大マトリョーシカ
主張……その文章を通じて訴えたい主張

(2)中マトリョーシカ
理由……主張を訴える理由

(3)小マトリョーシカ
事実……理由を補強する客観的事実

いちばん大きな「主張」の人形を開けると、
なかにはちゃんと「理由」が入っている。
そして「理由」の人形を開けると、
そこには小さな「事実」が入っている。


(書籍131頁より引用です。)





これを図解いたしますと、
「主『理【事実】由』張」
っていうような感じなのかな。
古賀さんがここで例えておられるマトリョーシカには、
人形ひとつずつにそれぞれ異なる「顔」が描かれてて。
そして、マトリョーシカ人形の「入れ子構造」が、
効果的に使われている。

逆に、ぼくの場合はよ、
同じ顔がまさに「無限ループ」になってしまっていて。
不恰好だなーとおもったの。

「入れ子構造」のこと、
ぼくはよくわかってなかったなーと本を読み感じた。
っていう話しでした~。

2016年2月12日

Will you marry me?

2016年01月13日 | 読書


昨年末、図書館の新刊コーナーを見ておりましたら、
光り輝いて見えたので思わず手にとって。
そして昨日、その、
岡村靖幸さん著『岡村靖幸 結婚への道』読了ー。

岡村さんが、
「結婚とは何か?」をインタビューしてゆく本なのですが。
おもしろかった~!!



ぼくはこれまで岡村さんのことよく知らなくて。
知っているとすれば、
Mr.Childrenの桜井さんが「Bank Band」でカバー、のと、
クラムボンがカバーされた『カルアミルク』。
また、漫画&ドラマ&映画『モテキ』での場面から、
のことだけぐらいなのですが。
(なので「岡村ちゃん」とはなかなかまだ呼べない…)
図書館で思わず本を手に取りましてからの数日後、
クルマに乗っててラジオつけますと、
坂本美雨さんの『ディアフレンズ』が放送されていて。
その日のゲストがちょうど岡村さんでしたので、
なんだかぐーぜん! と思ったりとか。。。

著書でのインタビューお相手の方みなさんが、
「結婚」についてとっても本音でお話されているかのようで。
それがすてきだなーと感じました。
たぶん、岡村さんのお人柄なのかも?? とも思ったり。

岡村靖幸さんの音楽聴き始めてるよ~!
あたらしい出あいが有難いです。

2016年1月13日@マシュマロハネムーン~セックス

「パンくず」をたどる。

2016年01月08日 | 読書
「口」と「からだ」がそれだけ遠いのならば、
たとえば「本」を読むときでの、
「本」と「からだ」の距離ってどんだけ離れてる?!

てゆうか、じぶんの「口」よりも近いはずがないっ。

「本」を読むときにはさ、たとえば、
その「本」の紙面を照らす「照明」が太陽で。
読者である「じぶん」は地球。「本」が月。そして、
じぶんの「腕」は月と地球とを繋ぐ万有引力となって。
月の「白黒模様」を地球から眺めるように、
「本」を読むんだとぼくは思ってるだけれど。
つまり、だいたい30cmぐらいある「本」との距離は、
約38万kmだった。みたいな。。。

の、それから、最近ちょっと考えてたのはねぇ、
「本」の文字って、
『ヘンゼルとグレーテル』の「パンくず」のようかも、と。

ヘンゼルが道に迷わないようにパンをちぎって
地面へ落としてゆく「パンくず」みたいに、
作家のかたがつけてくださった目印を見失わないように、
たどってゆくことが読書なのかも???
道順を記憶したり早く目的地へ到着したり、のことよりも、
ひとつひとつ慎重に「パンくず」をたどりながら
そこから見える風景をぼく自身も眺めたりすることが、
大事なのかなぁ。とおもったのよね。

最初のページから最後のページまでの「距離」で言えば、
もうすんごい遠い。。。
約38万km離れた場所にある「パンくず」を、
ひとつずつ細かくたどってゆくなんて、大変よ~。
でも、「じぶん」と「本」との距離感ってば、
そのぐらい離れているようにも思えるし、
そう思ってないとじぶんの読書が間違えちゃう気もするの。

たった30cmだからと言って、それが、
本当に30cmなのかどうか?! 

2016年1月8日

あったかもしれない戦後文学。(後編)

2015年12月31日 | 読書
前回エントリからのつづきです。】

それが、どういうふうに変わったのかと言えばさ、
理屈的に言ってしまえば
「見えないものだって『ある』かもしれない。」
と思えるように… みたいなことなんだけれど。
でも、そーいうのだけじゃなくってもっともっと、
ことばに成らない「なにか」だってある気がする。。。

と、そしてまた内田樹さん著書
『街場の戦争論』でのことに戻りますが。

水木しげるさんの例えば『ゲゲゲの鬼太郎』が、
世に無かったのならば? という疑問は、
ふつうに問いとして出すことはできるけれど。
そうではない別の問いについて考えてみることも、
できるのだと内田さんの著書より知って。つまり、、、





僕たちは芸術ジャンルの消長と
政治史の間には何の関係もないと思いがちですけれど、
そんなことはありません。
僕たちにとって自明の所与と思われている
戦後芸術ジャンルのかたちでさえ
「もし一九四四年以前に講和していたら」
まったく違ったものになっていた可能性がある。

僕たちは
「ないはずのものがある」ことには
比較的すぐに気づくけれど
「あってもいいはずのものがない」ことには
なかなか気づかない。


(書籍87頁より引用です。)





‥‥というような内田さんのおっしゃる、
「ないはずのものがある」のことと、
「あってもいいはずのものがない」のことについて。
ぼくが思いましたことを申します。

水木さんは戦争終わり日本へ帰還し作品を描かれたけれど。
水木さんではない別のだれかの方は、
もしかしたら戦争で亡くなられ、でも、
もしもその方が「生きておられたら」生まれていた作品が、
それは漫画や映画や音楽や本や絵画やアートやデザインや
作品の中に登場するキャラクターや、
今現在にはまったく存在しない未知なるジャンル・・・

それらだって、もしかしたら「あった」かもしれなくて。

その作品がもしも今「ある」のだとすればぼくは、
作品をとてつもなく愛してやまなかったかもしれない。
わからないけれど「その可能性は無い。」とは、
言い切れない。





「戦後すぐに執筆活動を始めて、
 戦後文学を牽引した大正生まれの作家たち」という
「あってもいいはずのもの」がない。

この人たちがもし生き延びていたら、
戦後日本の知的風景は僕たちが知っているものとは
ずいぶん違っていたものになっていたかもしれない。
そういう想像力を駆使して、
「あったはずのもの」の大きさに愕然とすることも
ときには必要ではないかと思うのです。


(88頁より。)





「『あっていいはずのもの』がない」と思えるように成る。
って、たぶんとてもむつかしい。
でも、それができなければ、
「『あったはずのもの』の大きさに愕然とする」ことも、
できない。

戦争で亡くならずもしも生きておられ、
のちに完成・発表されることと成った「作品」を、
ぼくは今、鑑賞することはできないものだろうか?!

できない。できないよ、そんなことは。
だけどもしかしたらそれが「できる」という可能性だって、
「ない」とは言い切れない、かもしれない。
水木しげるさんが描かれた「妖怪」のように、
それらはそこらに「ある」かもしれないー。

想いを、馳せたいと、存じます。。。

2015年12月31日 よいお年をっ!!

あったかもしれない戦後文学。(前編)

2015年12月30日 | 読書
今年の11月30日、
水木しげるさんご逝去のニュースを見たときにぼくは、
内田樹さん著『街場の戦争論』第二章での最初の一節
【あったかもしれない戦後文学】のことを思い出しまして。

それから、そのことは、
あたまのなかで思っていたんですが。
ちょっとまとめるためにもブログ書いてみたいと存じます。

内田樹さんの著書『街場の戦争論』での第一章には、
【過去についての想像力】という題で書かれ。
それは、かの大戦が
「もしも一九四二年にミッドウェー海戦の後に
 日本が講和を求めていたら」(36頁より引用。)
という仮説について書いておられて。
そしてつづく第二章でもその内田さんの仮定より、
文章は進められてゆくのですが。

この箇所を、まずは引用を申し上げます。





四二年に講和していたら日本はどう変わっていたか。
それについてのSF的想像をもう少し続けてみます。
その場合には、
「現実世界では起きなかった出来事」のいくつかが現実化し、
「現実世界では起きた出来事」のいくつかは
現実になっていない。

たとえば、
「戦後文学」は僕たちの知っているものとは
ずいぶん相貌を異にしていたはずです。
生きていれば「戦後文学」を担うはずだった人々が、
あるものは死に、あるものは深いトラウマ的経験ゆえに
「書けなかった」という歴史的事実を
僕は言っているのです。つまり、僕たちは
「あったかもしれない戦後文学を失った」ということです。


(書籍82頁より引用です。)





今回ぼくがブログで書きたい核心のところを、
いきなり引用してしまいなんのこっちゃかと存じますので、
これよりご説明を申しますー。

水木しげるさんのこと、
ぼくはネットでたくさんのかたが書かれていたような
ほどには存じあげなくて。
水木さんのことぜんぜん詳しくなくって。
なので、語るのは、ほとんどできないんですが。

でもこどものころにはさ、
『ゲゲゲの鬼太郎』や『悪魔くん』のアニメ観てたし。
『鬼太郎』をあたまのなかでイメージさせたり、
「鬼太郎ごっこ」であそんだりもしたとおもう。
そのことがどれだけじぶんに影響あったのか?!
を改めて考えてみると決して「無い」とは言えないし、
むしろ、とてつもなく大きかったのかもしれない。。。

たとえばぼくは「妖怪」の知識はかなり乏しいけれど、
「妖怪」の存在を「想う」ことは、
すこしだけでもできている。それってば、
もしかしたらとてつもなくでかいことかもしれない、
って思ったんだよねぇ。

もしも水木さんがマンガを描いておられなければ、
もしも水木さんが戦地ラバウルより帰還叶わなかったなら、
ぼくを含めた日本のこどもたちは、
『ゲゲゲの鬼太郎』を見ることはなかった。。。
『ゲゲゲの鬼太郎』がもしもこの世に無かったのならば、
ちょっとだけ日本の実態って、いやそれはわからないなぁ、
言い換えようかな、ぼく自身が持つ「感覚」って、
変わっていたように思うんだよね。

(後編へつづく。)

2015年12月30日

よい誤解?わるい理解?

2015年12月17日 | 読書
前回エントリでは、
「誤解を恐れずに言えば、」ということばについて、
ブログを書きましたですが。
「誤解」のことやはたまた「理解」のことを考え出すと、
ちょっと頭が混乱してくるー。

例えば、ぼくがかつてした「理解」ってじつは、
「誤解」だったかもしれないなー。とか。
「誤解」されたと思ってもその説明じゃ「誤解」されても、
しょうがなくってどちらかと言えば相手のその解釈のほうが
より「理解」には近かったり。。
「誤解された」のではなく「誤解させた」であったり?!
「理解」のことをぼくは「理解」できているか。
「誤解」のことをぼくは「誤解」してしまっていないか。

じぶんに問いかけても本当のところはよくわからない。

‥‥と考えておりましたときに、昨日読みました
みうらじゅんさん著『「ない仕事」の作り方』での第1章、
「ゆるキャラ」が生まれたおはなしの中で、
みうらさんは【ブームとは「誤解」】とおっしゃって。。。

すこし長くなりますがその場面を引用申しあげます。





「ゆるキャラだョ! 全員集合」開始当時は、
地方自治体にその連載タイトルを言って
「紹介したいので写真を借りたい」という電話をすると、
「うちのマスコットはゆるくない!」
とお叱りを受けたものです。

しかし、このように規模を大きくしつつ伝えているうちに、
面白がってくれる人は次第に増えていきます。
そして「ゆるキャラ」という言葉も浸透していきました。
やがては先方から積極的に
「うちのキャラはゆるいですよ~」
「うちのゆるキャラを紹介してください」
と頼まれるようになってきたのです。






ここでの「ゆるキャラだョ! 全員集合」とは、
週刊SPA!」で2003年1月連載スタートされました
「ゆるキャラ」を紹介するみうらさんのコラム、です。

引用つづきを申しますー。





この次に大きなブームへの転換期となるのは、
「誤解」され始めたときです。
意外と思われるかもしれませんが、
それがブームの正体でもあります。

「昨今、ゆるキャラというものをよく見かけるが、
 実に言い得て妙だ」
「日本独自の着ぐるみ文化に光を当てた」といった、
思いがけない「深読み」をしてくれる人たちが現れます。
「今まで私も気になっていたけど、確かに
 ゆるキャラはおかしいよね」
と、語り出す人たちも現れました。

ブームというのは、
この「勝手に独自の意見を言い出す人」が
増えたときに生まれるものなのです。


(書籍「28-29頁」より引用。)





「誤解」ってたいていわるい意味で使われるけれど。
もしかしたらみうらじゅんさん仰るように、
よい意味での「誤解」ていうのもあるかもしれないなー。

そしてまた。話は変わりましてそれから、
久保ミツロウさんの漫画『モテキ』最終4巻での
小宮山夏樹のセリフのことを思い出したっ。





男の人って皆勝手に
女を分析してカテゴライズするの好きよね

“本当の私”を理解したなんて
思い込みだか 思い上がりが 嫌なの
そもそも知ってもらいたい“本当の私”なんて無いし

100人いたら100人の頭の中で見える私って全部違うのよ
そんなの全部責任持てないわ
どうでもいい






というシーン。。。

「誤解」のことと「理解」のこと、もう少し知りたい~。
たぶんだけれど、もしや「誤解&理解」には、
「よい誤解」「わるい誤解」「よい理解」「わるい理解」
の4種類があるかもしれないっ。

2015年12月17日 @ 男子畢生危機一髪

まんなかである川。

2015年10月20日 | 読書
先月9月洪水災害のニュースを受けてあらためて、
ほぼ日刊イトイ新聞での「小網代と流域思考」という
岸由二さんのおはなしを読み返しまして。
それからまたすこし興味を持ち、
岸由二さんの著書『「流域地図」の作り方』と
岸さん×養老孟司さん著 『環境を知るとはどういうことか』
を読みました。

「流域思考」のこと、
ぼくにはまだなかなかむつかしいのですが、
思いました考えをブログに書いてみたいとおもいます。

以前から感じてた疑問はね、
なんで川には名前がついているか?! ていうことでして。
橋のそばでは看板に川の名称が記されてて。
それもよ、ふつうの車道だけでなく高速道路でもさ、
速く走ってるのでその場所が川か橋かよくわからなくっても
書かれているから「へぇー、ここは◯◯川か!」とは、
運転しながら思うんだけど。

一般道ならともかく、高速道路ではさ、
川の看板べつになくてもよいよーな?? とも思ったり‥‥
でも岸さんおっしゃる「流域思考」で考えますと、
川の名前なんとなく大事な気もしてきて。。
川は橋がないと越せなくてかんたんには渡れないので、
土地と土地とを分ける「境界線」みたいなふうに、
また地域の「はじっこ」のようにも思っていたのだけれど。
「流域」として見てみれば、
川って「流域」のまんなかなのよね。まんなかであり、
背骨であり、血管であり、首都のようなスポット。

川が中心となって、
上流から下流までの川の周りには「流域」がある。

…と、そういうふうに地域を見るコトだってできると知り、
そう考えれば名称だって高速道路の看板だって大事だし!
それはまたふつうに持っている地図とはちがう
別の種類の地図をこの手に入れられそうな気がしたのよー。。。
(岸さんの著書で知りました
 Yahoo!地図の中の「水域図」を眺めながら…)

改めましてご被災されたかたへお見舞いを申し上げます。

2015年10月20日 @ PEARL RIVER

コーリング

2015年10月10日 | 読書
内田樹さんの著書より、
"コーリング" という考えを知ったのですが。
せんじつの複数回エントリにてぼくが申しあげました
「神様からの声を聞く?!」のコトはさ、
もしかたしたらこの "コーリング" を聞けるようになりたい
っていうのが動機だったんじゃないかと思いまして。

その内田さんおっしゃる "コーリング" とは、
まずは、内田樹さん著『街場の戦争論』より
引用を申しあげます。。。





「仕事を探す」というのは若い人たちが
成長のきっかけをつかむ絶好の機会なわけです。
そのときにわかるはずです。
仕事というのは自分で探すものじゃなくて、
仕事のほうから自分を探しに来るものだということが。
適職、天職のことを
英語では calling とか vocation と言います。
どちらも「呼ばれること」という意味です。
仕事というのは「呼ばれる」ところから始まる。


(『街場の戦争論』174頁より。)





‥‥のところでございましたり。そしてまた別の書籍の、
内田樹さん×名越康文さん×橋口いくよさん共著
『価値観再生道場 本当の仕事の作法』からは‥‥





内田 天職とか適職のことを英語で
「コーリング」って言うんだけどもさ。コーリングって、
「呼ばれること」なんだよ。
「こっちに来てくださーい」って、向こうが呼んでる。
才能って、その呼び声が小さな声であっても
ちゃんと聞き取れる能力のことじゃないかな。


名越 僕もそれには同意。でもこういう話をしていると
「じゃあそれ証明してくださいよ」とか
「保証してくれるんですか」って言う人が
出てきてしまうのが悲しい。そういう人が納得できる
証明や保証を見せる術はないんですよね。


橋口 うーん。やっぱり、仕事って人生を
左右するものだって考えがたくさんの人にありますもんね。
言う人がいるのはわからないでもないけれど、
保証とか証明とかっていう頑なさが出てきた段階で、
このお話の要である「コーリング」が
聞こえなくなっちゃうんじゃないでしょうか。
損しちゃいそうですね。


名越 そう。頑なさは損をしちゃうんですよ。
コーリングが聞こえなくなることもそうですし、
あとは聞こえてから、
頑なに拒否してしまう人もいますしね。つまり、
こちらから訴えかけていっても、
その人が自分の枠を壊してくれないと入らない言葉って
あるんですよね。


(『価値観再生道場 本当の仕事の作法』119-120頁より。)





‥‥の、そんな "コーリング" を聞けるようになるために、
どうしたらよいか?! のコトがねぇ、せんじつ
ぼくが申しました「神様からの声を聞く?!」シリーズを
書こうって思ったきっかけとなりました、
坂口恭平さん著『幸福な絶望』より引用しましたことば…





祈るとは言葉を聞くことである。

(『幸福な絶望』284頁より。)





…というその "祈る" にあるとまずは感じているのですが。。
どーなんでしょ??
このまえは「神様から」って書いてしまったからさ、
ちょっとむつかしいことになってしまったかもとも
思うんだけども。それからそんなふうに思いましたので、
ブログに書きました~。

2015年10月9日

世界

2015年10月03日 | 読書
このまえなんかふとおもいたち、村上春樹さんの小説
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を
いまひさしぶりに読んでいる。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』で
おもいだすのはさ、学生のときにおとずれました
パリ&ロンドン研修旅行中に読んでいたことだわー。
なかでも、パリをあとにしロンドンへ着いたころ、
ちょっと体調を崩しまして。
皆が外へ出てるときにもぼくはひとり宿舎で休んでおって。

ベッドで寝て起きてそして『世界の終りと‥‥』を読み、
そしたらすこし体調よくなってきたもんでさ、
近所のスーパーでサンドイッチかサラダか何かを買ってきて
部屋で食べた。。。

それから、どこか散歩に行こうとおもって地図みていたら、
宿舎からけっこう近くの場所(歩いて20-30分くらい?)に
The Beatles『Abbey Road』のジャケットに成っている
「アビィ・ロード・スタジオ」があることを知って。
カメラを手に持ち地図を頼りにしゅっぱつした!!

無事にあの横断歩道へ到着したのだけれどひとりだからさ、
じぶんの記念写真撮れないもんでちょっと勇気をだし、
観光にきていた欧米のおにいさんに声をかけおねがいした。
(いちどカメラを渡し「あのポーズ」を取ったんだけども、
 カメラに電源入れるのをぼくが忘れてしまってて。
 オンにしてまた渡して撮影をしてもらった。
 やさしく応じてくれたおにいさんに感謝!!)

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読むと
あのときの空気とか読んでいた部屋のかんじをおもいだす。
たぶん、きょうの夜くらいに読了よてい。

2015年10月3日 @ The End

"知らずにうそをついている"

2015年10月02日 | 読書
糸井重里さんが以前におっしゃっていた
「うそ」のコトをまたちょっと思ってたのだけどね。
えーと。まずは、
糸井さんの著書よりその箇所を引用もうしあげます。





知らずにうそをついている場合があるので、
気をつけよう。
(形式や、常識、先例は、うその宝庫である)


(糸井重里さん著『ボールのようなことば。』151頁より。)





その
"知らずにうそをついている" なのですが、
じぶんの場合ではどうだろう?? っておもいながら‥‥
たぶんこれまでにもたっくさんあるかともぞんじますが。
そのなかのひとつはさ、こどものころの
小学校か中学校かなにかのアンケートで、
「尊敬するひとは誰ですか?」という問いになんとは無しに
【父】と答えていたこと、かも。。

いや、べつに父親を尊敬していないってわけじゃないけど、
たぶんそういうふうに言っておけば書いておけば
父はよろこぶかもしれない。ていう動機が主でさ。
今おもえば特に「尊敬する」のコトについて
よく考えながらの発言ではなくって、
ただ単に記してただけのような気がしたんよ。

ならばさ、たとえば当時そう訊かれたとき、
【今はまだわかりません。】とかって答えられたら、
よかったのかもしれないけれど。それもできず、、
なので今もちょっと「尊敬」ということばに、
なんかコンプレックス持っているかもしんないっす。

かつて、
そーいうふうについてしまった「うそ」ってのは、
ほかにもけっこうあるのかもな~。。。

2015年10月2日 @ I'M A LOSER

読書なお月見

2015年09月25日 | 読書
本を読んでいてふとおもったのはね、
本のことばを読んで覚えて引用したりするのはできるけど、
そのことばを、ゼロの状態からじぶんのことばで
言ったり書いたりするのはそうそうできるものじゃない。
でございまして。

本のことばを「ゴール」としまして、
じぶんのからだが「スタート」だといたしますと。
読書って「ゴール」と「スタート」がくっついている
みたいなものでよ。でもそれだとじつは、
「スタート」から「ゴール」までの道中が抜けちゃってる…

じぶんのことばで表現する。とはさ、
その道中をじぶんの足でたどるコトだとおもったんよね。
いや、それは、簡単にはできないておもうけれど。。。

‥‥と、そこからイメージしたのはっ、
まずは「本」があって、その「本」を手に持ち腕で支え、
「明かり」に照らして「本」を読む。ていうときに、
じぶんの「顔」が地球で、「本」は月、「明かり」が太陽。
なのだとおもった。

地球から、月の白黒の模様を眺めるような、読書‥‥

(さしずめ、そのときの「手」や「腕」は、
 地球と月とが引っぱりあう万有引力?!)

くっついちゃっているようにも見える
「本」と「顔」との距離ってば、
でもたぶん、だいたいそのぐらい(約38万km)あって。
そして。じぶんのことばで表現する。ていうのは、
月へとじぶんの足で到達するようなコトなのかもしれねぇ!

2015年9月25日 @ Feel So Moon ~想像してGo Round Glasses~ (MARU MEGA MIX)

教わるという希望。

2015年09月24日 | 読書
ドラッカーの
【教えることほど勉強になることはない。】
(上田惇生さん著『ドラッカー入門』128頁より。)
ということばはある種の希望だなぁと感じておりまして。

それはさ。あの、なんて申しますか、
何も経験の無い人にとっての希望。と申しあげますか。
もしかするとだよ、経験が「無い」コトが
「強み」にさえ成るかもしれない。ともぞんじまして。。

そのことを今回ブログでは申しあげます。

「何も経験の無い人」とは、もちろん、
だれかへ「教える」ことはできないのだけれど。
「教わる」ことはできる。
「教わる」とは「教えられる」ということなので、
相手である同僚や先輩や上司は「教えている」、つまり
ドラッカー曰くの
【教えることほど勉強になることはない。】であるならば、
「何も経験の無い人」でも教われば「教わる」ほど
「教えている人」側が「教える」ことにより勉強となって、
それが、その会社・組織の成長へ繋がってゆく。

「何も経験の無い人」に「教わる」気がまったく無ければ、
「教える」側も「教える」ことができないので、
それは、よくないのだけれど。

もしも「教わる」ことができたのなら、
たとえこれまでに何かの病気等で経験が無かったとしても
「教わる」力・「学ぶ」力があるならば、
もうそれだけですばらしい!! ていうような???

と。そして‥‥





人に教えることほど自らの勉強になることはないのと同様、
人の自己啓発を助けることほど
自らの自己啓発に役立つことはない。事実、人の成長に
手を貸すことなく自らが成長することはありえない。


(『マネジメント 課題,責任,実践《中》』67-68頁より。)





もしもいつか「何も経験の無い人」にも「経験」ができて、
それをまた次に入ってくる後輩へと、
「教える」ことができるようになればっ。。。

のような、流れ、みたいなことを考えておりました。

でもこの考えだとさ、とっても時間がかかるので、
「即・戦力」「即・効果」「即・成績」「即・利益」の
「即」には対応できず、現実的かどうかはわかりません~!

2015年9月24日 @ IT'S UP TO YOU!

「説教」とか「怒られる」とか

2015年09月23日 | 読書
「説教」とか「怒られる」とかってさ、
まぁイヤだと言えばイヤだけど。でももしかしたら、
とある「説教」はじぶんにとってとても大事な「説教」で。
もしも、それらをきちんと聞くことができたならば、
じぶんがいろいろとよくなる!
っていう「説教」もあるかもしれない。

とは、どことなくおもっていて。

なんか、たとえば、なんでしょう???
ぼくの場合ですとたとえば村上龍さんのエッセイや、また、
糸井重里さん仰るものづくりについてのことばを読みますと
ときにそのきびしさに「怒られた。。」とぞんじ、
でもなるべくならばそのことばから目をそらさないように、
しっかり読まなきゃいけんともおもって‥‥

そんなでも、いまだにぼくはこんなですので、
やはりあんまりそのことばを読めてないやもしれないけど。
できればちゃんと読んでほんの少しだけでも、
からだへ取り入れることができるようなふうになりたい。
とは、あたまでは、おもってる。

ぜんぜんできていないんですが、でも、
これまで読みました本の中でいちばんガーンて来ました
「怒られた(のような)」経験はね、
ドラッカー著『経営者の条件』の
「序章」に書かれておりましたこの場面↓のこと、、、





ここまで、
成果をあげるための八つの習慣について述べてきた。
もう一つおまけを加えたい。あまりに重要なことなので、
原則に格上げしたいくらいである。
聞け、話すな、である。


(著書15頁より引用です。)





というその
"聞け、話すな" をおもいだしていたら、ふと、
岩田聡さんが以前「ほぼ日」で仰っておりました





安心して「バカもん!」と言える人と、
腫れ物に触るように
叱らないといけない人がいるんですよね。
で、これはねぇ、ものすごい差なんです。


(ほぼ日、『星空の下の仕事観』第5回より引用です。)





をまたおもいだしたの。その、
岩田さんが仰る "安心して「バカもん!」と言える人" の
ような「説教しやすい人」になりたい!
とあらためておもいました。

2015年9月23日 @ プレイバック Part 2

『気仙沼ニッティング物語』

2015年09月07日 | 読書
御手洗瑞子さん著
『気仙沼ニッティング物語 いいものを編む会社』読了!
おもしろかった~。
気仙沼ニッティング」の会社創設から現在までの物語、
のあいまあいまで御手洗さんおっしゃる
気仙沼のとち、気仙沼のたべもの、気仙沼のかたがたの声、
のこと。すばらしかった。

書籍最後、「つつじ」のおはなしがすてきでしたー。

そして、いちばんじぶんが「あっ!」とおもいましたのが、
「3章 編み物の会社を起ち上げよう」より
「「編み直し」とは」のところでございます。

これより、引用を申し上げます。。。





ある日、編み手さんたちが事務所に集まって、
互いに編んだものを見せ合っていたときのことです。
あるメンバーがゆりこさんの編み上げた後身頃を見て、
「あっ!」
と声を上げました。みんな驚いて
彼女が指さす箇所をじーっと見ます。
「1目だけなんだけど、間違えている。」
(76-77頁)





ぱっと見ただけでは気がつかない間違いが見つかり、
そしてそれを見た御手洗さんも‥‥





(うわー。これはたしかに、間違えている。
 直さないとまずいなぁ。でも、ゆりこさんがここまで、
 何日もかけて編んだものだし。なんて言おう)
そう迷っていたら、ゆりこさんが、

「あらぁ。本当だ。間違えてた。
 みつけてくれてありがとー。危ないところだった」

と言うなり、しゅるしゅるしゅるーーと
後身頃をほどき始めました。
間違えていたのは最初の方に編んだところだったため、
少しほどくぐらいではすまず、
どんどん後身頃はほどかれていきます。
(77頁)





どんどんほどいていくゆりこさんの姿を見て、
間違いを見つけた方も気を遣って声をかけるも
「いいのいいの。みつかってよかった。ありがとう」
とにこにこしながら応え、そして‥‥





「たとえお客さまが気づかなくても、
 一着でも変なものを世に出してしまったら、
 きっとずっと自分の心に引っかかるでしょ。
 それに、そういうことをすると、信頼されないと思うの」

とゆりこさんは言います。
「お客さまの一生もの」を預かった
編み手さんたちのプロ意識に、頭が下がりました。
(78頁)





‥‥という、そのような「編み直し」のこと、
じぶんへの戒めの意を込めながら、
とくに、覚えておきたいっ!! とおもいましたです。

2015年9月7日 @ Oui Oui