chargeのブログ

人のブログを見て真似して書いていきます。似たブログを見つけたら教えてください。

チューリップがなぜ幼稚なイメージを持つようになったのか

2014-05-06 08:06:45 | 日記

 先ほど庭に出た所、庭で野生化した紫色のチューリップの花が咲いていた。黄色や赤のものもあるが時期は終わっていて花は見ることができない。以前に自己紹介の際にあった好きな花の欄にチューリップと書いた時に幼稚なイメージを持ったことを告白され、そういう感じは幼稚と呼ばれて否定されてしまうものだということを感じ取って立ち直りができ無い感じの苦しさを感じたことがあるのだが、そのようなイメージを多くの人が持つようになったのは最近のことかもしれない。元々の原産地はアフガニスタンなどの乾燥地帯であり、現地では赤いチューリップは人民の戦いや労働で流された尊い血のイメージをもってとらえられて国花とされ、その乾燥した地面と相反するみずみずしさをたたえた力強い存在に気高さを感じている場合が結構あるようだ。また、チューリップを熱心に品種改良した貴族たちもその花の姿かたちにはどちらかといえば成人的な感じを持っていたようなのだ。

 春の花壇に植えるものといえば栽培の手間・見栄え・時期などからチューリップという選択肢が最適であることが多く、同じ理由で幼稚園の花壇に植えたり、小学生が栽培をして観察したりしていて親しんでいるわけだが、それが複合して、花のイメージ自体が幼稚に変化してしまったのだと思われる。しかし、ネットで複数のチューリップを幼稚とみなす発言は見つかるのだがいったいどのくらいの頻度で人間がそう感じているのかはよくわからない。私の周りでたまたま多く見えただけかもしれない。

 私がいまだに持っている幼稚園の時に描いた母の絵にははっきりとチューリップの絵が描かれている。童謡であるチューリップの影響や周囲に多数のチューリップが植栽され、名札もチューリップの形をしていたのが影響しているように思われるのだが、今、見てみるとどうして多くの子供がチューリップを絵にかいてしまうのかなぜか不思議な感じがしなくもない。そして、成人になりたいと願った時に子供のころ絵に頻繁に描写していたチューリップを愛でる行為を放棄してしまっていたりしていないかという感じがする。

 チューリップの花言葉は色ごとに異なっているが赤のチューリップの花言葉は『愛の告白』である。思えば、元々、大人になるための入り口に近かった愛の告白も幼稚な行為とみなされようになってきた感じがあるのだが、場所によっては違うのかもしれない。作法や認識が色々と異なる人間の混ざったカオスな状況に置かれるとしくじりが多くなるのだが、しくじらないようにするために意図的にイメージを変えずに意志や感性の疎通が図れるようにする工夫をメディアの人間にとって必要なものを手に届かないようにして買わせて補償させる戦略に対抗して本当は行うべきなのかもしれないと少しだけ思う。

 前にチューリップの根茎を大きくするために、花が終わった実を刈り取って他人のために正しいことをしていると感じていたことで怒られた事について書いたときににもなぜか同じ動画を使った気がするのだが、最近何も見ていないので同じことしかできないのだと思ってほしい。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿