坂道をのぼりながら

感じたこと、考えたこと、などなど。

ほっとできる場所

2007-11-30 01:25:48 | Weblog
大学から帰る途中、
夜の11時くらいなのだけど、
ラーメン屋に立ち寄った。

今日で2回目。

雪がパラパラと降っていて、
体がとても冷えているので、
ついついラーメン屋の熱気に
魅かれてしまうのだ。
ラーメン屋には、
スーツを着た仕事帰りの人が
3人くらいいた。

店内のテレビにはニュースが
流れていて、あの野球選手が
大リーグに行くだの、
サッカーの試合結果だの、
スポーツニュースの時間だった。

600円の
「とんこつ塩ラーメン」を食べた。

ぼくは、九州の宮崎県出身なので、
とんこつラーメンを食べると、
なんだかほっとするのだ。

ラーメンを食べ終えた
スーツを着た2人組みが店を出て行くと、
ラーメンを食べに来た
スーツを着た2人組みが店の中に入ってきた。

雪の街でのラーメン屋というものは、
街の人にとって、ほっとできる場所なのかも
しれない。

ぶつぶつ

2007-11-26 01:09:56 | Weblog
昔から、背中の肩に近いところに、
ふきでものというか、
小さなぶつぶつが少しあったんだけど、
今日、お風呂上りに、
鏡で背中を見てみたら、
小さなぶつぶつが、かなり増えていた・・・。

とくに痛かったりしみたりするわけではないので、
あんまり心配はしていないんだけど、
ぶつぶつが急激に増えたような気がしたので、
ちょっと不安。

どうしよう、
病院に行ったほうがいいのかな・・・。

困ったときはYoutube

2007-11-26 00:28:20 | Weblog
「フッサール哲学における発生の問題」より引用。
(著者:ジャック・デリダ(Jacques Derrida)、
訳者:合田正人、荒金直人)

「まず、発生というものを素朴かつ可能な限り形式的に検討すると、その概念は二つの矛盾する意味を兼ね備えている。起源(origine)という意味と生成(devenir)という意味である。というのも、一方で発生とは誕生であり、先行する審級に還元できないある瞬間もしくはある「審級」の絶対的な立ち現れであり、創造であり、根本性であり、己以外のものとの関係を絶つ自律である。要するに、絶対的起源----それを存在論的あるいは時間的に検討するのであれば起源性(originarité)、それを価値論的に検討するのであれば独自性(originalité)----なしに発生というものはなく、一切の発生的生産は、当の生産でないものに対する超越性(transcendence)によって現出し、意義をえるのである。
 しかし、それと同時に、発生を包含する存在論的で時間的な全体性の内部でしか、発生というものはない。一切の発生的所産はそれ自身以外のものによって生産され、ある過去によって懐胎され、ある未来によって要請され導かれるのである。この発生的所産は、ある文脈のなかに組み込まれてのみそれ特有の意味となり、独自の意味を持つ。そしてその文脈とは、一方でこの所産自身のもの、すなわちこの所産がそこに属し、関与し、それと連続しているところのものであり、ある意味でこの所産から帰結し、極限的にはこの所産に含まれ、この所産が内包・理解し、熟知しているところのものである。しかし他方では、この文脈はその所産を超過し、あらゆる側面からそれを包み込んでいる。発生とは包摂、内在性(immanence)でもある。」(p.8、発生の諸矛盾)

なんか、すごい文章だなあと思った。

この本、デリダの修士論文の訳だそうで、
デリダが20代前半のころに書いたものらしい。

それはさておき、2つ目の段落に書いてあることは、
ふつうの感覚ではなかなか理解しにくいよね・・・。

「ある未来によって要請され導かれるのである」という
表現が象徴的だけど、
ふつう、「いま、現在」に起こっていることというのは、
過去にどういうことが起こってきたかによって決まるわけで、
「未来が現在に何かを要請する」ということは、
一体何を意味してるんだろう・・・。

ふつうの過去、現在、未来という時間の感覚が
通用しない。

う~む・・・。

困ったときはYoutube(笑)

http://jp.youtube.com/watch?v=Ti_O5jbaD34

「論理的に考える」

2007-11-25 20:56:42 | Weblog
なんか、こういうことを言うと、
怒られそうな気がするんだけど(誰から?)、
「論理的に考える」ってことは、
何かを見ないようにすることというか、
それ以上考えないようにすることというか、
うーん、なんだろう、
切り捨てられていることもたくさんあるというか。

いや、べつに、
「論理的に考える」ってことが
悪いって言ってるわけじゃないです。

現に、最近のぼくの目標は、
「論理的に考える」ことなので。

「論理的な人」、怒らないでね(汗)

今日の一曲は、
竹内まりやの「人生の扉」。

http://jp.youtube.com/watch?v=aM1zhKD1KaM


お椀の形

2007-11-24 02:01:14 | Weblog
お茶漬けを食べていたら、
お椀が暑かったので、
お椀の底のほうの、
出っ張った部分を握った。

お椀の底のほうは、
円形をして、すこし出っ張っている。

この出っ張りがあるおかげで、
テーブルの上にお椀を
安定して置くことができる。

たぶん、安定して置けるということが、
出っ張り部分のふつうの役割だと思う。

でも、お茶漬けを食べているとき、
お椀が暑かったので、
その出っ張り部分を持った。

その部分は暑くないので、
ちゃんとお椀を手に持って、
お茶漬けを食べることができる。

つまり、お椀の底にある
円形の少し出っ張った部分は、
そういうことにも役立つわけだ。

もともと期待されたような役割とは
違う役割を持つようになったのだろうか。

期待するのは人間であって、
お椀の「形」そのものは、
特に何も期待するわけではない。

見て、選ぶ。賢い。

2007-11-24 01:49:49 | Weblog
少し前のことになるけど、
カラスにお菓子をとられてしまった。

自転車のカゴに、
お菓子と文具の入った
ビニール袋を入れたまま、
自転車を止めた。
そして、図書館に入った。

本を返すだけだったので、
5分くらいして自転車のところに
戻ってきたら、なんとカラスが
ビニール袋をあさっているでは
ありませんか。

2秒ほど思考が停止する。

ぼくが自転車に近づくと、
カラスくんは自転車のカゴから
飛び去って、すぐ近くの芝生の
上に降り立った。

しばらく、カラスくんを観察。

口先で器用に袋を開けて、
中に入っているグミを
袋から取り出し、
一つずつパクパク食べ始めた。

しばらくすると、
仲間がやってきて、
グミを食べ始めた。

いやはや。

グミを取られたことよりも、
カラスくんの一連の行動のほうに
興味津々。

図書館に入る前に、
お菓子をカゴに入れたままだと、
誰か(ヒト)に盗られたりしないかなと
一瞬思ったのだけど、
まあ大丈夫だろうと思って、
そのままにしておいた。

大丈夫じゃなかったですね。

木の上からカラスくんに
見られていたみたいです。
まさかカラスくんに
見られていたなんて、
まったく思いもしませんでした。

それにしても、
すごい「視力」ですよね。

しかも、ビニール袋の中には、
お菓子だけじゃなくて、
文具も入っていたわけで、
カラスくんは、その2つを
ちゃんと区別して、
お菓子だけを選んだみたいだし。

見て、選ぶ。賢い。


Noism07新作講演「W-view」

2007-11-18 19:59:58 | Weblog
11月17日、土曜日。

札幌市教育文化会館まで、
Noism07新作講演「W-view」を見に行った。

「芸術の神様が降りてくる瞬間」
(茂木健一郎×町田康/金森穣/山下洋輔/
立川志の輔/荒川修作)を読んで、
「金森穣」という人の存在と、
「Noism」というダンスカンパニーの存在を知る。

ネットで「金森穣」を検索したら、
なんと近々札幌で講演をやるという
情報が出てきたので、
昨日その講演を見に行ってきたのである。

いやはや、すごかったです。

いきなり、不気味にうごめいている
色のかたまりがスクリーンに表れて、
何がなんなのかよく分からない
認識状態に陥った。

舞台のいろんな場所で、
並列してたくさんのダンサーが
踊っている。

よく動いている人、そして、
止まっている人。

気が付くと、
音のない空間のなかで、
ダンサーたちの踊る息づかいとか、
足と舞台の触れ合う音、
身体の動作に伴う音が聞こえてくる。

まるで、舞台の上にいる
ダンサーたちが、
一つの大きな身体のように見えた。

舞台が終わると、
金森穣さん、ダンサーたちとの
質疑応答の時間が設けられた。

こういう場って、すごいよね。

「見るものと見られるものの関係」とか、
「金森穣さんってどんな人」とか、
「キレイに踊れるようになるには
どうすればいいですか?」(小学生の女の子)とか、
いろいろな質問に、
金森穣さんやダンサーたちが丁寧に応えていた。

会場を後にして、
ぼくも質問したいことが
いろいろと頭に浮かんできた。

舞台の上で踊っているダンサーたちは、
他人の存在をどうやって感じているんだろう?

前を向いていると後ろは見えないわけで、
でも、舞台の上のダンサーたちは、
他の人がどこにいるかを、
それなりに把握しているように見えたのである。
(ちなみにぼくは、2階席の真ん中だった。
2階席の真ん中は、専門的な人がよく座るらしくて、
周りの人達の会話を聞いていたら、金森穣さんや
Noismのことにかなり精通しているようだった。)

また、複数のダンサーの
連動した動きは、すごく興味深い。

各人各人の身体感覚や時間の流れ方は
違うと思うんだけど、それにもかかわらず、
みごとに動きや位置が連動される。

もしかして、他人の身体も
自分の身体のように感じているのだろうか?

質疑応答のとき、金森穣さんが、
「これからは地方ですよ!」と
言っていたのが、とても印象的だった。

インターネットを通して
「架空の他人」(by金森穣)に
慣れすぎている僕たちにとって、
「コミュニケーション」というのは、
とても大きなテーマ問題だと思う。

街の明かりの少ないところで

2007-11-13 08:53:25 | Weblog
昨日の夜は、
星がすごくきれいだった。

大学から帰る途中に、
街明かりの少なくなる場所があって、
そのあたりに来ると、
星たちが急に輝きを増し始める。

空気は、寒くて透き通っていて。

オリオン座とか北斗七星とかを
発見することができた。

北斗七星をこんなに
はっきりと見ることができたのは、
初めてだと思う。

自転車を降りる。

街の明かりの少ないところで、
しばらくのあいだ耳をすませてみたら、
いろいろな音がきこえてきた。