ちょっと秦野の校区を離れたお話を一つ。
今日は、池田北高等学校の第32回卒業式&閉校式でした。池田市は10万人規模の市ですが、高校は5つあります。池田高校、園芸高校、渋谷高校、池田北高校、宣真高校です。5つの高校のうち、一番新しく今から34年前にできたのが池田北高校でした。これまで9000人を超える卒業生を輩出してきました。秦荘の卒業生でも、池北を卒業した生徒は多数います。保護者の方々にも池北出身の方も少なくないことでしょう。
その池北が今年度末で閉校になります。今日は89人の卒業を祝う最後の卒業式でした。卒業証書授与、お祝いの言葉、送辞、答辞とプログラムが進みます。在校生がいないため、送辞は担任の先生方が読みました。
卒業式答辞が終わり、サプライスは、卒業生から先生方への卒業証書の授与でした。感激のあまり、代表で生徒からの証書を受け取った校長先生の瞳からは感激の涙・・・・・その後、閉校式で校旗返納があり池北34年の歴史に終止符がうたれました、池北ファイナルに向けて生徒、教職員の皆さんがこの一年駆け抜けてこられました。その姿に敬意を表したいと思います。その姿はこれからDVDで紹介されるそうです。また、この卒業式&閉校式は朝日放送などで放映される予定です。
「旅立ちの日に」
小嶋 登作詞・坂本 浩美作曲
白い光の中に 山並みは萌えて
はるかな空の果てまでも 君は飛び立つ
限りなく青い空に 心ふるわせ
自由をかける鳥よ 振り返ることもせず
勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して
懐かしい友の声 ふとよみがえる
意味もないいさかいに 泣いたあの時
心通った嬉しさに 抱き合った日よ
みんな過ぎたけれど 思い出強くだいて
勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して
今 別れの時 飛び立とう 未来信じて
はずむ 若い力 信じて
この広い この広い 大空に
今 別れの時 飛び立とう 未来信じて
はずむ 若い力 信じて
この広い この広い 大空に
送別の歌は「旅立ちの日に」でした。この歌は、秦小の卒業式でも歌われますが、名曲です。プロによる作詞作曲ではなく、関東地方のある中学校の校長先生と音楽の先生の手によって生まれた歌です。この歌を聞くと毎年じ~んときます。6年生まであと卒業まで14日です。
影森中学校の校長だった小嶋は当時、荒れていた学校を矯正するため「歌声の響く学校」にすることを目指し、合唱の機会を増やした。最初こそ生徒は抵抗したが、音楽科教諭の坂本と共に粘り強く努力を続けた結果、歌う楽しさによって学校は明るくなった。
「歌声の響く学校」を目指して3年目の1991年2月下旬、坂本は「歌声の響く学校」の集大成として、「卒業する生徒たちのために、何か記念になる、世界にひとつしかないものを残したい‼︎」との思いから、作詞を小嶋に依頼した。その時は「私にはそんなセンスはないから」と断られたが、翌日、坂本のデスクに書き上げられた詞が置いてあった。その詞を見た坂本は、なんて素適な言葉が散りばめられているんだと感激した、とラジオ番組への手紙で当時を振り返っている。その後、授業の空き時間に早速ひとり音楽室にこもり、楽曲制作に取り組むと、旋律が湧き出るように思い浮かび、実際の楽曲制作に要した時間は15分程度だったという。
出来上がった曲は最初はたった1度きり、「3年生を送る会」で教職員たちから卒業生に向けて歌うためのサプライズのはずであったが、その翌年からは生徒たちが歌うようになった。ちなみに、初めて披露した年度をもって校長の小嶋は41年に及ぶ教師生活の定年を迎えて退職したため、小嶋が披露したのはこれが最初で最後となった。
それ以後しばらくは影森中学校だけで歌われた合唱曲であったが、次第にまわりの小中学校でも歌われるようになった。当時東京都の中学校で音楽教論を務めていた作曲家の松井孝夫は、この曲を知ると混声三部合唱への編曲を行った。これが雑誌『教育音楽』に取り上げられたことで[3]、1998年頃までに全国の学校で歌われるようになった。さらには、小中高の卒業式で定番のように歌われていた『仰げば尊し』や『巣立ちの歌』、『贈る言葉』などに代わり、全国で最も広く歌われる卒業式の歌となった[4]。
作詞者の小嶋登は2011年1月20日に80歳で急逝した[5]が、同年11月14日に「旅立ちの日に」が誕生から20年の節目となることを踏まえ、作曲者の坂本浩美と共に、埼玉県より「彩の国特別功労賞」(同賞創設以来4番目)が贈呈された[6]。(Wikipediaより)