はたしょう日誌

しぶたに学園 池田市立秦野小学校の
“今”をお伝えしています。

秦野の歴史と民俗1~戦前の秦小校舎

2017年08月03日 | 日記

今日は4年生登校日。ドッジボール大会やプールでひさびさに仲間とともに歓声を上げていました。「宿題できてる?」「もうだいたいできた!」「自由研究は?」「今、考え中。」

さて、これはたぶん、昭和13年~20年までの時期の秦小です。手前の道が、今の正門前の道です。つまり、写真の左が北、右が南です。これは運動会の写真のようで、ハタノという人文字が描かれています。左の建物が完成したばかりの北校舎。北校舎の左に広がっているのはみかん畑、上の方(今の運動場)は梅林が広がっています。北校舎の右上の建物は昭和9年にできた講堂です。この講堂は、地域の方々の寄付で建てられました。たとえば、東畑では持ち山を売って寄付金を作っていただいたそうです。北校舎の南の平屋は、左端から理科室、工作室、裁縫室、用務員室、職員室、校長室が設けられていました。北校舎の前はあるのは、おそらくプールであったと思われます。というのも昨日紹介した学校日誌にも学校で水泳指導をしたという記事が載せられているからです。

これは当時の校区の様子を聞き取って作った地図です。上が北、下が南です。白い部分が家があったところ、黒い部分は田畑です。田より畑が多かったといわれています。左上に渋中とありますが、まだ渋中は建っていません。また箕面につながる中央線も山手線もありません。秦小の南側には藪があり狐藪と呼ばれていました。また、西畑の西端部の女郎ガイチと呼ばれる場所や上渋谷の水神さんが祀られている場所にも狐がよく出てきて、人間が騙されたという昔話もあります。また、騙す騙される関係ではなく狐に感謝する行寒センギョという行事も行われていたそうです。次回は、昔の秦野の人間と狐の交流についてお話しましょう。