はたしょう日誌

しぶたに学園 池田市立秦野小学校の
“今”をお伝えしています。

40年前の秦小

2016年06月02日 | 日記

これは、1970年代前半の卒業アルバムの写真です。南校舎と東校舎です。実は、昨日、秦小から緑小が分離する前の卒業生の方とお話しする機会がありました。「もう、北校舎は跡かたがなくなりました。」「エー! 本当ですか? 時々、横を通るのに知りませんでした。僕らが、小学校の時は全校児童が1900人くらいで、まだ西校舎が古いころでした。」「1975年前後くらいですか?」「そのころです。その当時は、秦野幼稚園が今の河野医院のあたりにあって、それが1974年に今のあおぞら幼稚園の場所に移って、そこにプレハブが立っていました。西校舎も古いままで、石炭ストーブの煙突の穴がありました。」「道を挟んで校舎があったわけですね。」「そうです。当時は、今の緑小校区の子どもたちも通っていて、尊鉢の友達は、秋になると神社のお祭りのときには早引きして祭りに参加していたような記憶があります。」そういえば、秦野校区でも昔の学校日誌を見ていると天満宮のお祭りが平日にあるときは、学校あげてお祭りに参加していた記述があったように思います。「北校舎には七不思議伝説がありましたし、戦争のときは米軍機に狙われるので屋上から墨を流していたそうです。」「いろいろな歴史があるんですね。」

これは、昭和36年の卒業アルバムの写真です。わかりにくいですが、奥の建物が北校舎、右の日本家屋が今の東校舎です。白くおおっている部分は、卒業生のクラス写真が写っています。当時は、南校舎と東校舎だけで、今の南校舎、西校舎、体育館、幼稚園はまだなくそこが運動場であったと聞いています。

今日も中庭では解体工事が続いています。昭和13年から秦野の地にそびえたっていた白亜の殿堂は、貴重な歴史遺産でした。残念ながらこのような状況ですが、秦野の在校生・卒業生の皆さんの記憶に永年に残っていくことでしょう。ぜひ本HPの学校概要>沿革」>写真でつづる秦小の歩みをご覧ください。

 ・梅の里白亜にそびゆる北校舎  ・懐かしの暴れん坊も夢の跡  ・歯科検診みんなほめられ夏は来ぬ