はにかみ草

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文富軾『失われた記憶を求めて 狂気の時代を考える』

2008-06-03 22:21:51 | 公開
文富軾(ムン・ムシク)『失われた記憶を求めて -狂気の時代を考える』板垣竜太訳 現代企画室2005

■著者の紹介
1959年、韓国釜山生まれ。1978年、釜山の高麗神学大学校(現・高進大)に入学。1981年に光州抗争の真相を知り、1982年3月、釜山アメリカ文化学院に放火。4月に自首し、死刑判決を受けるが、「恩赦」により無期懲役に減刑。6年半の監獄生活を送る。1993年に詩集『花々』を出版。1997年に季刊誌『当代批評』を創刊し、以後、同機関誌の編集に携わる。 

■ 光州事件とは?

1979年、朴正熙大統領が側近の金載圭に射殺される。この過程で国家保安司令官として捜査指揮権を握ったのが、クーデターを通じて軍を掌握し、民主化運動を流血鎮圧することで政権を簒奪した全斗煥である。(・・・)新軍部に権力が集中するなか、維新体制の崩壊を民主化に結びつけようとした野党や市民勢力は戒厳令の撤廃を求めて、新軍部と対立する。「ソウルの春」と呼ばれた民主化への熱望が噴出する時期に、野党や学生、労働者は大規模なデモを行った。それに対し、新軍部は圧力を行使して5月17日に非常戒厳令全国拡大措置を発表し、政治活動を禁止するとともに金大中など有力政治指導者の逮捕に踏み切る。言論・出版の自由の事前検閲が行われ、大学も閉鎖された。80年5月18日、新軍部による殺戮の嵐が全国に吹き荒れた。「華麗なる休暇」と名づけられたこの狂乱の作戦こそが、民主化を求める市民を特殊部隊を投入して無残に殺戮した「光州事件」である。軍事政権の延長を企てる全斗煥の退陣と、金大中の釈放を求める学生や市民たちの民主化要求に対して、戒厳軍は過剰鎮圧をもってこたえた。特殊部隊は棍棒でデモ隊の頭部を打撃し、学生だけでなく一般市民も血を流して倒れていった。このとき、光州では、軍隊が白昼に市民を刀剣で切り倒すことまで行われていた。        光州は孤立していた。光州市民がKBSやMBCなど放送局に火を放ったのも、光州で何が起こっているのかがまったく外部に知らされていないことのあらわれであった。そうした彼らを、メディアは暴徒として映し出した。全斗煥は市民を弾圧する戒厳軍を激励して、指揮官には慰労金を渡した。事態を収拾するために、宗教指導者などで構成された光州収拾対策委員会は、新軍部と問題解決のための対話を行う。その結果、収拾委員会は武器を回収して「平和的解決」をめざすことになる。だが、生き残ることを拒否した抗争派は道庁を死守するとして、27日の夜明け、戒厳軍の道庁進撃とともに、悲壮な最期を遂げた。
(玄武岩『韓国のデジタル・デモクラシー』(集英社新書)33―37頁からの要約)


訳者 板垣竜太さんの問題提起(訳者あとがきより)
・ 本書を日本で読むということはどういうことか(272頁)
・ 重要なのは、本書で論じられている80年代の韓国社会を同時期の日本社会と切り離し、一方は「平和な日本」、他方は「大変な韓国」としてとらえず、あらためて当時の日本社会は一体どのような時代だったのか、「平和」で「豊か」な時代として想起するときに何が忘却に追いやられているのかを問い返すような視点ではないだろうか。
 
○ 日本と朝鮮の関係
・朝鮮戦争(「朝鮮特需」)、
・文氏が放火した釜山アメリカ文化院は、日帝植民地支配下で農村搾取の手先だった東洋拓殖会社の建物を、1949年に米国が引き継ぎ、この50年間無償で使用されていた建物。(123頁)、
・大邱高等法院での文氏の最終陳述(262頁)
 「…それ以後、私は不当な権力を支える力が何であるかについて、長い彷徨と苦悩を重ねるようになりました。…間違った政権を支える最も大きな圧力は、間違った韓米関係であり、民主主義を放棄し諦めてしまう、民衆ではない大衆、即ち、この国の国民であると考えるようになりました。私はこんどの放火に私のすべて、私の生命までかけました。私の生命を投げ出してこの民族と世界とに期待をかけました。私は、私の死が韓米関係の新しい里程票となることを願います。(…)またアメリカに代わってアジアの宗主国として振舞おうとする日本政府が、アメリカの姿勢をそのまま踏襲しようとすることに対しても、この事件が一つの警鐘にならねばなりません。」

文氏の行動は、記憶をわずか2年の間に喪失し、急ぐように忘却してしまったその時代的状況にたいする抵抗であった。(80頁)

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○光州抗争の正当性と事後処理問題について
 -1995年12月21日の「5・18民主化運動等に関する特別法」の制定(62頁)
…この法に基づき、光州市民を暴徒とみなし虐殺した過去の軍事政権の首脳が「国家内乱罪と殺人罪」により法定に立たされ、抗争の犠牲者に対する名誉回復と補償が一定程度達成された。5月18日には、光州抗争の犠牲者が埋め立てられている光州の望月(マンウォル)洞(トン)墓域で政府主導の盛大な記念式を開いている。

問題点:(太字強調はぅきき)
・ 「記憶の権力」―特定の記憶を中心とし、残余の記憶を排除し周辺化することで、権威と権力を獲得していく(74頁)
・ 権力の恣意による記憶の独占 (国家によって公式化された記憶)

光州抗争が国家の「公式的な記憶」となった瞬間、危機に立たされることになる。もし現在韓国の内と外で一般的な定説として受容されている光州抗争についての言説と叙述が、この抗争と関連した数多くの記憶を排除したり省略したりするのであれば、果たしてどのような結果が起こるだろうか。記憶の「空洞化」あるいは「化石化」?(…)成功した抗争は反復的に記念されるのみであり、「遡って」記憶されることはない。
・「光州抗争の世界化」という言葉=「新自由主義世界化時代」における観光商品ブレンド化企画だとまでは酷評したくない。
・ 光州抗争の記憶がそれ自体としては既に「終結」したものであるという判断
・ それが民主主義精神であれ、博愛精神であれ、共同体的情緒であれ、(…)そうした抽象的な「精神」がとりわけ強調される現実においては、具体的な「身体の記憶」、生きている人間の恐怖や葛藤、傷跡(トラウマ)といったものは捨象されてしまう。
・ 「純潔な精神」や理念だけが強調されるとき、そのようになりえなかった人々の記憶は「光州」の記憶の外に追い出されてしまわないか。
(以上、62―65頁)
・ 彼らが標準と認める民衆の隠れた英雄にも身体障害者、精神病患者、子ども、老弱者、女性などが存在する可能性はたいへん少ないか、そもそもない。(155頁)
・ 国家権力の暴力によって死んだ人たちが国家有功者となって国立墓地に埋められれば、死んだ霊魂たちはなぐさめられるのだろうか。(161頁)
・ 歴史の犠牲者に対する補償の形式、基準と内容は、実際のところ、国家が生き残った人たちを再び国民として包摂し、管理する一形態となりうる。(161頁)

・ 物質的な補償は、個人が甘受しなければならなかった生活上の損失を一定程度補充したり、精神的な傷跡をある程度癒したりすることは出来るが、あらゆることを現状回復することはできない。(計算されえないものを計算することが出来ると信ずる物神主義から生ずる)








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光州事件を引き起こした理由
 ・暴力に対する倫理的無感覚症、物神主義(フェティシズム)に対する省察的思惟の欠如、効率性に対する過度の盲信、そして何よりも国家権力の行為に対する盲目的な追従 (103頁)
(韓国経済が1960年代後半急速に発展したのは、「ベトナム特需」と「韓日国交」の再開)

多数の同意のなかで少数の虐殺が可能になった韓国社会の抑圧的動員体制
…光州市民を助けるためにそこに駆けつけたり、暴力の不当性に抵抗したりした人は誰もいなかった。いや他の地域は奇異なくらい徹底して沈黙していた。

・ 韓国の新軍部と米国政府の緊密な協力 (82頁から)
「米国は勧告(人)」という身体にかかった「呪術」である(125頁)
新米と反米―どちらも「米国中心主義」から抜け出すものではない(70頁)

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■国家主義とは国家の正当性を動かぬ真理として受け入れることを強要する理念(32頁)
■韓国の国家主義の土台は、反共主義と近代化主義と速度主義の結合体である(36頁)
■ファシズムについて(48頁)
■韓国の軍、軍隊の神話、軍事主義にたいする批判(197,8頁)
 -「1年平均100名が自殺、精神疾患5000名!」

■ 勝利した者の歴史、華麗な経歴、粗雑で通俗的なプチ英雄主義者に対する批判(155~)

☆重要な問い☆
 歴史や過去というものは「清算」することができるのか。私たちが記憶する過去は、あたかも勘定書を作成して執行すれば消えてしまいうるような、そんなものなのか。少しでも私たちが、多くの人々が経験しなければならなかった人間的な苦痛や犠牲を真摯に記憶することができたなら、何気なく用いる化この清算ということばにも暴力がひそんでいるという事実に気づくだろう。

☆名言☆
「忘却はもう一つの虐殺のはじまり」(30頁)…光州事件だけでなく、「慰安婦」問題、
現在の日本の歴史修正主義に対する受容…いろんなことに対して!!


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