はにかみ草

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『幻視するアイヌ』

2010-03-30 17:06:31 | 公開
いま読んでる本です。

これは・・!と思ったところを引用しようと思ったけど、すでに引用されていました。

「『アイヌ』なる状況」 与論島クオリア
http://manyu.cocolog-nifty.com/yunnu/2010/03/post-59e0.html

このブログを書いてるひとは『奄美自立論』という本の著者です。
奄美自立論も途中まで読んだけど、途中でとまってます。
わりとすぐ読めるので電車のなかでいつか読むか・・と思って。

佐々木昌雄『幻視するアイヌ』では、

民族の幻想性や、日本の同化政策の一番おそろしいところは、民族対民族というやりかたで支配者のやりかたを模倣してしまうところ(と言葉を変えて書いたのは私です。134ページ)という点などがするどく追及されています。しかも1970年代に。アイヌ解放運動の結城庄司(ゆうきしょうじ)さんもかなり批判されている。

あと文化の「継承・保存」というときの問題点など。

「「継承」したのはせいぜい文化の形骸である」112ページ
「もはや「アイヌの文化」は埋れた死体である」114ページ

と言い切ってる・・。それを滅ぼさせたのはもちろん和人なのだけど。
この「和人」の「和」ってのもアイロニカルだと指摘されている。
支配と収奪の歴史を見れば、何が「和」なのかと。

まだちょっとしか読んでないけど、この本はすごい。

上のブログから、佐々木さんの発言だけを引用します。

「「アイヌ」なる者が生み出す共同的意識、つまり「アイヌ」なる者の自らの内にある〈日本〉とは何か? それは例えばしばしば耳にする「アイヌであることに誇りを持とう!」という類の発想にも潜んでいる。

 誤解を避けるために、敢えて言っておこう。「アイヌであることに誇りを持とう!」と叫ばざるをえない心情がどのようなものか、私は知っている。否、知っているというよりも、その心情はむしろ私の心情である。「おまえはアイヌである」という宣告によって、自分の全ての性向・所作・容姿・能力等が予め決められており、遂に人々に伍すことは不可能だ、と思い込んでしまった者が、たとえそれがどんなものであっても、誇りとなりえそうなものが提示されれば、一気にそれへ雪崩れてしまうのを、私の心情から遠いものであるかのようには振舞えない。

 けれども、ある主張の底にある心情が尤もなものだからという理由で、その主張の当否を不問に付したり、かえって心情を宜しとするが故に、その主張を積極的に肯定するとしたら、私は無限にセンチメンタルな、被害者意識の怪物にならざるをえないだろう。「アイヌ」に関わる発言が、己れが「アイヌ」であるということにだけ正当性を確保していたり、「シャモ」であるということだけで罪責を担っていたりするのを、非としなければならない。今や徐々に声高に発言する者が増えてきているが、少なからぬ者たちの発言には、単純な被害←→加害の図式が潜んでいる。それこそ、断罪←→贖罪という、素朴であるが故に模糊たる心情レベルへ、質されるべき問いと解かれるべき答えとを、移し消してしまうものであろう。

 さて、「アイヌであることに誇りを持とう!」という言いかたに潜む発想とは何か?一言で言えば、己れが所属する血統集団に何らかの価値を付与して、己れがそれに所属するというそのことだけで、己れの存在に価値を付託せんとする発想である。これはこの〈日本〉の根幹的な発想の一つと全く同じである。よしや、この発想が、所謂人種差別・民族差別のどの場合にも見られ、必ずしも〈日本〉独自のものでないとしても、発想の具現のしかたー例えば政治制度の権威の頂点に天皇を乗せ続けていることや、天皇の権威牒由来の説かれかたのように-は、〈日本〉の〈日本〉たる所以であると言ってよいはずであろう。

 だから、「アイヌ」であるそのこと自体は、別段誇るべきことでも卑しむべきことでもない、ということを確保しておかない限り、「シャモ」であるそのこと自体を「アイヌ」に誇り続けてきた〈日本〉の側にある人々と、「誇り高い」「アイヌ」とは、全く同じ列に組みするのであって、遂には血統の優劣を競いあうことでしか、相互の関係を整えてゆけなくなるに至るだろう。そのとき、「アイヌ」は「シャモ」の発想-この〈日本〉の発想をもった「アイヌ」でしかない。

 このような〈日本〉の発想を不知不識に抱え込んでいる者こそ、〈日本〉の意識へ同化しつつある者である。この〈日本〉の施政者たちが推し進めてきた同化政策の真底の恐ろしさは、ここにあるのだ。この〈日本〉に屈服せず、抵抗し、打倒しようという意図の下に、様々のことばで「アイヌの復権」が叫ばれているが、自らの内に浸透している〈日本〉を対自化できない限り、それらの主張は、敵とみなしている当の相手の裏返しにすぎない論理だということを知りえない。例えば、「アイヌ共和国」という轟感的なアドバルーンを掲げた者へ追従する「アイヌ」なる者たちには」次のように言っても何のことかわからないだろう。即ち、君たちの「アイヌ共和国」にも必ず「異民・異族」は創り出されるだろう、と。



感想を書いてくれといわれて急いで書いてしまった。

「民族は幻想」と書いたところで、もちろん差別という現状はあるけど、それに対抗するところで著者は「血」や「血縁」などを持ち出さない。

(↑「「民族性」というものすら、実体のはっきりしない、妄想ではないか、と疑うべきなのだ。」116頁)

162頁「自らの存在理由を問い、自らの在り方を問うて、答えを<異族>なる<血>のうちに見出さんとしても徒労である。答えがあるとすれば、自らの在り様がこの<日本>の在り様と異なり、対立し、その構造を揺さぶることにあるだろう。」とある。

また、この本で北海道旧土人保護法の存続要求があることを知った。奪われた土地を補償せよ、という観点から存続要求が出てるらしい。(141頁)

あと、生物学的な本質主義に陥らずに「アイヌ」を定義しているところ。重要だと思ったので引用します。


「結局、現在、「アイヌ」と言われる者は誰なのか?「アイヌ」が生物学的な意味で「アイヌ人種」なのではない。この<日本>と名乗る共同体が、「アイヌ」と呼ぶから、「アイヌ」なのだ。」

これを読んで、liangさんのブログに書いてあったことを思い出した。
一部引用します。

「呼びかけ」
http://ameblo.jp/tajitajir/entry-10209417331.html

「ところで、はじめに「呼びかけ」があった、というのは、アルチュセールの「国家のイデオロギー装置」を想起させる。「おい、そこのお前」と、警官に呼びかけられることを例に挙げているが、主体とは、そのように外部からの呼びかけによって立ち上げられるものだと、アルチュセールは考えた。」

 「「在日朝鮮人」という存在も、自体的存在ではなく、日本社会(との関わり)の中で生産されるものだ。同様に「日本人」もそう。中国人でも、朝鮮人でもない存在として「日本人」が立ち上げられる。」

 「人種や民族に対する差別の闘いは、この生産装置(の結果/効果)を自覚しておかないなら、必ずや排他的な「民族主義/人種主義」に陥り、権力(支配)の側と同じ排除の構造を模倣する結果となるだろう。」

著者の佐々木さんも、このことを強く主張している。
「日本人」というのを問い直す上で、この本は重要だと思う。
佐々木さんって他にも著作ないか調べてみよう。
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