はにかみ草

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米山リサ『戦争・暴力・リドレス』

2008-06-25 17:49:41 | 公開
米山リサさんの本、『戦争・暴力・リドレス 多文化主義のポリティクス』(岩波書店)を読み終えました。一番心に残った一節をメモします。


ノラ・オクジャ・ケラーの『慰安婦(なぐさめる女)ーある小説』という作品について書かれた部分です。アメリカに移住したコリアン・アメリカンの2人の女性の話です。(母は「慰安婦」にされた女性です)

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 真実を先送りにすることの不可避性と、正義を追求することの可能性とが、このテキストにおいて同時に示唆されていることは、リドレスの政治にとってきわめて重要な点である。テキストがベッカの母親の最終的な真実を少なくともベッカに対して明らかにしないことは、想起とリドレスの正統な主体が、直接の生存者やその後継者でなくてもよく、オリジナルの時と空間を超えた共同参加性(コミュニティ)によって構築されていてもよい、ということを示している。正義を追求し、死者を哀悼するために必要なのは、オリジナルの真正さの回復や、究極の犠牲者への感情移入や無批判な同一化ではない。植民地主義によってもたらされた生、言葉、身体、名前の一切性に対してなされた暴力を認知し、これに対する憤りに自らを「感染」させることなのである。『慰安婦』は、テキスト全体をつうじて、表象の不可能性、意味の不安定性、オリジナルの回復不可能性、といったことをを示唆しつづける。それと同時に、ケラーのテキストは、このポスト構造主義的な認識があるからこそ可能となる、正義のための有効なアクションの可能性を模索するのである。
 テキストは、字義的な民族性を超え、母親と死者へとベッカを結びつけるリドレスの主体の根本的な再編成を示唆している。それは、リドレスの主体が所属する共同参加性は、リドレスという正義を追求するために積極的に関与しはじめる以前に、あらかじめそこに存在していなければならないものではない、ということを指し示している。そしてこの共同参加性は、生者ばかりでなく、名も無く、出自も定かでない、無数の存在・非存在の群れとしての死者たちからも成っているのである。(179-180頁)


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この文章が一番感動しました・・・。


近いうちに、金富子編著 中野敏男編著『歴史と責任ー「慰安婦」問題と一九九〇年代』(青弓社)を読もう。それと、東京裁判ハンドブック編集委員会 (編集) 『東京裁判ハンドブック』(青木書店)も卒論のために。。

どっちとも早く読みたい!

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