先日,図書館に行ったおり,久しぶりに『レコード芸術』の収納ボックスからバックナンバーを取り出したところ,表紙に「新編 名曲名盤300」の文字が。「新味の無いお遊び」と言えばそれまでだが,ついつい手にとってしまった。内容は,10人の評論家諸氏が,各有名曲毎に,評価するディスクを3枚選び,1位には3点,2位には2点,3位には1点をそれぞれ配し,これをディスク毎に加算集計し,順位をつけるというお馴染みの企画。
ドビュッシーの『海』の項には,「ブーレーズの新盤首位奪還」と,どこかのスポーツ新聞のようなキャッチーなフレーズが。同曲の今般の順位は,第1位がブーレーズ指揮クリーヴランド管(93),第2位がマルティノン指揮フランス国立放送管(73),第3位がサロネン指揮ロスアンジェルス・フィル(96),ということのようだ。
一覧にひと亘り目を通すと,先ず,かつて定盤中の定盤と言われたアンセルメとスイス・ロマンド管の名がないことに気付く。若い方からは「何時の話し?」と失笑を買いそうだが,赫々たるマルティノン盤はあるものの,やはり時の流れを感じてしまった。
「後は・・・」と再び一覧に目をやると,草野次郎氏が,ただひとり,カラヤンとベルリン・フィルの録音を3位に選んでいるのが目についた。草野氏が1点を献上したのは,64年にベルリン・フィルと録(い)れたDG盤。
カラヤンは,映像を除くと,『海』を4回録音している。1回目が53年にフィルハーモニアと録れたEMI盤で,続く3回は,いずれも,手兵のベルリン・フィルと録れたもの。ベルリン・フィルとの録音には,最後期とはいえ,このコンビの黄金時代にあたる77年に録音したEMI盤(以下,この盤を単に「EMI盤」と省略)がある。何故,草野氏の選択は,黄金時代のEMI盤ではなかったのか?
音楽の趣味は人それぞれ。本当のところは氏におうかがいするほかないけれど,EMI盤を聴いたことがある人なら,おおよその見当はつくと思う。該盤には,カラヤンの他の3回の録音と比べ,際立った特徴があるからだ。選択にあたり,比較対照の結果,EMI盤にはその特徴がマイナスに作用したということは考えられる。いや,そもそも,EMI盤は氏の脳裡にあがらなかった可能性すらある。それでは,EMI盤の特徴とは何か。
EMI盤を聴いた者は誰しも,第1楽章が始まって間もなく,チェロのオスティナート,ホルンのユニゾン,共に,相当に抑え気味であることに気付く。前者は寄せては返す波の音型を,後者は見晴るかす海の気分を表す。時に,チェロのオスティナートがあまりに説明的でうるさく感じる演奏もあるが,このカラヤンのEMI盤は,それとは逆に,あまりに抑えが効き過ぎている。この後の,立ち上がる白い波頭を表すというヴァイオリンのスフォルツァンドも,何とも弱々しい。描写音楽そのものではないとしても,この第1楽章からは,躍動感を欠くベタ凪の『海』という印象を受けてしまう。
また,ホルンのユニゾンも,弱音の指定はわかるけれど,海の象徴的表現としてはいかにも物足りない。確かに,この「超」の付く弱音は,一方で,夜明け前のほの暗さの表現としてかなりの効果をあげている。しかし,この後は,それが却って災いして,金管,ハープなどが加わっても,なかなか曲全体の明るさが増してこないというマイナス面が勝ることになる。第1楽章のタイトルは,知ってのとおり,「海の夜明けから真昼まで」だが,終結部のあの素晴らしく壮麗な循環コラールの後も,「本当に明けたの?」と思わず問い返したくなるほど,「暗さ」が全体を覆っている。この調子は,軽いスケルツォ風の第2楽章においても変わらない。
この演奏については,その「粘液質」を言う人もいるようだ。確かに,通常8分半から9分程かかる第1楽章を,ここでは9分40秒かけている。第3楽章も通常の演奏よりはやや長目。しかし,管理人は,遅さはさておき,これまで殊更に「粘液質」といったものを感じたことはなかった。言われて初めて「そうかな・・・」と思った程度。やはり,この演奏の最大の特徴は,(陰鬱というよりも,字義そのまま)「暗さ」にあると思う。
この録音を聴く者は,海を前にした時の開放感の不足,そして,時間の経過と照度の上昇との間の位相のズレのようなものを感じずにはいられない。それは,詰まるところ,第1楽章開始間もなくにあるチェロとホルンの扱いに問題があるからではなかろうか。
管理人はEMI盤を失敗作などと呼ぶつもりはない。EMI盤にはEMI盤なりの面白さがあるとは思う。しかし,「カラヤンの『海』」として今後とも語られるものは何かと問われれば,64年録音か85年録音かはひとまず留保するとしても,「DG盤では」と答えるのが穏当なところだと思う。因みに,DGの2つの録音の距離は,EMI盤の特徴を考えれば,さほど大きくはないように思われる。換言すれば,それくらい,77年録音のEMI盤は独特なのだ。EMI盤の録音はDGの両盤のそれに挟まれた時期におこなわれている。よって,この違いを,カラヤンの『海』に対する解釈の変遷で片付けるのはやや難がある。EMIの録音のなせる技というのも,答えとしてはあり得るが,これとて,演奏時間の長さの説明としてはたちまち綻びが出てしまう。いずれにしても,このEMI盤がカラヤンの『海』の中で独自の地位を占めているというのは間違いない。
なお,データとして記しておくと,EMI盤も,DG盤同様,練習番号59(練習番号60-8小節)の金管群の合いの手は「有り」,練習番号63番のコルネットパートの三連音符のフレーズは「無し」,である。このあたりの詳細は,熊蔵さんの刮目すべきHP「海のXファイルへのエスキース」を。
ドビュッシーの『海』の項には,「ブーレーズの新盤首位奪還」と,どこかのスポーツ新聞のようなキャッチーなフレーズが。同曲の今般の順位は,第1位がブーレーズ指揮クリーヴランド管(93),第2位がマルティノン指揮フランス国立放送管(73),第3位がサロネン指揮ロスアンジェルス・フィル(96),ということのようだ。
一覧にひと亘り目を通すと,先ず,かつて定盤中の定盤と言われたアンセルメとスイス・ロマンド管の名がないことに気付く。若い方からは「何時の話し?」と失笑を買いそうだが,赫々たるマルティノン盤はあるものの,やはり時の流れを感じてしまった。
「後は・・・」と再び一覧に目をやると,草野次郎氏が,ただひとり,カラヤンとベルリン・フィルの録音を3位に選んでいるのが目についた。草野氏が1点を献上したのは,64年にベルリン・フィルと録(い)れたDG盤。
カラヤンは,映像を除くと,『海』を4回録音している。1回目が53年にフィルハーモニアと録れたEMI盤で,続く3回は,いずれも,手兵のベルリン・フィルと録れたもの。ベルリン・フィルとの録音には,最後期とはいえ,このコンビの黄金時代にあたる77年に録音したEMI盤(以下,この盤を単に「EMI盤」と省略)がある。何故,草野氏の選択は,黄金時代のEMI盤ではなかったのか?
音楽の趣味は人それぞれ。本当のところは氏におうかがいするほかないけれど,EMI盤を聴いたことがある人なら,おおよその見当はつくと思う。該盤には,カラヤンの他の3回の録音と比べ,際立った特徴があるからだ。選択にあたり,比較対照の結果,EMI盤にはその特徴がマイナスに作用したということは考えられる。いや,そもそも,EMI盤は氏の脳裡にあがらなかった可能性すらある。それでは,EMI盤の特徴とは何か。
EMI盤を聴いた者は誰しも,第1楽章が始まって間もなく,チェロのオスティナート,ホルンのユニゾン,共に,相当に抑え気味であることに気付く。前者は寄せては返す波の音型を,後者は見晴るかす海の気分を表す。時に,チェロのオスティナートがあまりに説明的でうるさく感じる演奏もあるが,このカラヤンのEMI盤は,それとは逆に,あまりに抑えが効き過ぎている。この後の,立ち上がる白い波頭を表すというヴァイオリンのスフォルツァンドも,何とも弱々しい。描写音楽そのものではないとしても,この第1楽章からは,躍動感を欠くベタ凪の『海』という印象を受けてしまう。
また,ホルンのユニゾンも,弱音の指定はわかるけれど,海の象徴的表現としてはいかにも物足りない。確かに,この「超」の付く弱音は,一方で,夜明け前のほの暗さの表現としてかなりの効果をあげている。しかし,この後は,それが却って災いして,金管,ハープなどが加わっても,なかなか曲全体の明るさが増してこないというマイナス面が勝ることになる。第1楽章のタイトルは,知ってのとおり,「海の夜明けから真昼まで」だが,終結部のあの素晴らしく壮麗な循環コラールの後も,「本当に明けたの?」と思わず問い返したくなるほど,「暗さ」が全体を覆っている。この調子は,軽いスケルツォ風の第2楽章においても変わらない。
この演奏については,その「粘液質」を言う人もいるようだ。確かに,通常8分半から9分程かかる第1楽章を,ここでは9分40秒かけている。第3楽章も通常の演奏よりはやや長目。しかし,管理人は,遅さはさておき,これまで殊更に「粘液質」といったものを感じたことはなかった。言われて初めて「そうかな・・・」と思った程度。やはり,この演奏の最大の特徴は,(陰鬱というよりも,字義そのまま)「暗さ」にあると思う。
この録音を聴く者は,海を前にした時の開放感の不足,そして,時間の経過と照度の上昇との間の位相のズレのようなものを感じずにはいられない。それは,詰まるところ,第1楽章開始間もなくにあるチェロとホルンの扱いに問題があるからではなかろうか。
管理人はEMI盤を失敗作などと呼ぶつもりはない。EMI盤にはEMI盤なりの面白さがあるとは思う。しかし,「カラヤンの『海』」として今後とも語られるものは何かと問われれば,64年録音か85年録音かはひとまず留保するとしても,「DG盤では」と答えるのが穏当なところだと思う。因みに,DGの2つの録音の距離は,EMI盤の特徴を考えれば,さほど大きくはないように思われる。換言すれば,それくらい,77年録音のEMI盤は独特なのだ。EMI盤の録音はDGの両盤のそれに挟まれた時期におこなわれている。よって,この違いを,カラヤンの『海』に対する解釈の変遷で片付けるのはやや難がある。EMIの録音のなせる技というのも,答えとしてはあり得るが,これとて,演奏時間の長さの説明としてはたちまち綻びが出てしまう。いずれにしても,このEMI盤がカラヤンの『海』の中で独自の地位を占めているというのは間違いない。
なお,データとして記しておくと,EMI盤も,DG盤同様,練習番号59(練習番号60-8小節)の金管群の合いの手は「有り」,練習番号63番のコルネットパートの三連音符のフレーズは「無し」,である。このあたりの詳細は,熊蔵さんの刮目すべきHP「海のXファイルへのエスキース」を。
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