モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房)のP162には,リヒテルが最初のアメリカ演奏旅行の際に自身についた監視役について語るくだりがある。
たとえば,ある日,ボストン交響楽団とベートーヴェンの第1協奏曲のリハーサルを終えたときに,伴奏のすばらしさに感極まってシャルル・ミュンシュの手に接吻しました。ベロツェルコフスキーは私の態度に憤慨し,叱責しました。 - 「どうしてソ連の芸術家が,外国の指揮者の手に接吻するまでへり下れるのだ。」
リヒテルの西側への演奏旅行はこのときが初めてのはずだが,彼は,この2年前,訪ソしたオーマンディ/フィラデルフィア管とプロコフィエフの5番を共演している。上記のエピソードは,アメリカのトップクラスのオケのレヴェルを知らないわけではないリヒテルが聴いても,ミュンシュ/ボストン響の素晴らしさは別格だったという証である。
因みに,リヒテルは,10月17日にラインスドルフ/シカゴ響とセッション録音したブラームスの2番の協奏曲については「これは,私のレコードとしては最も出来の悪いもののひとつ」と語っている。当初の予定どおりライナーが指揮をしていれば,また違うものになっていたであろうに・・・。もちろん,こちらには,リヒテルがラインスドルフにキスをしたがためにベロツェルコフスキーなる者から叱責されたといった話しはない。
さて,表題は,ボストン・デビューの翌日(11月2日)にセッション録音されたもの。リヒテルのピアノはまずは標準といったところだが,独奏者が「感極まっ(た)」と言うだけあって,オケが素晴らしい。
一例をあげれば,この曲の第1楽章冒頭のオケの序奏。ここは,ピアノが登場するまで105小節もあることで知られる。あのブラームスのヴァイオリン協奏曲でさえ90小節というから,その長大さがわかろうというもの。欠伸のひとつでもしてピアノの出を待つというのが普通だが,この録音のミュンシュとボストン響は,ゆるゆると始める第1主題の提示部から聴く者を掴んで放さない。このような演奏,そうそうあるものではない。
金管の音色が明るいのはアメリカのオケならではだが,ミュンシュとボストン響の特徴は張りのある弦の響きにある。とりわけ,適度な重さと力強さを兼ね備えたバスが実にいい。生命力に満ち溢れるミュンシュの音楽はこのボストン響の弦があってこそだが,「弦のボストン」に磨きをかけたのは他でもないミュンシュその人ともいえる。そもそも,この人は,フルトヴェングラーやワルターの棒の下,ゲヴァントハウス管でコンマスを務めたヴァイオリニストだった。
竹内貴久雄氏は,その著書『コレクターの快楽』』(洋泉社)の「「自由」を求めた名指揮者の軌跡」というミュンシュの項で,「ミュンシュとボストン響との相性の良さは,戦後アメリカで重要なポストに就いた指揮者のなかでも,最良の成果を双方にもたらした。」とお書きになっている。なるほど,これはよくわかる。ミュンシュはボストン響に清新さと生命力を吹き込み,ボストン響はミュンシュに破天荒な音楽を盛り込むフォルムと緻密を与えたのだ。竹内氏は,「ミュンシュは,ボストン交響楽団と出会ったことで大きく変わった指揮者なのだと思う。」ともお書きになっているが,これも納得。このあたりは,ミュンシュが,同時期に同じアメリカで一時代を築いたとはいえ,セルやライナーとは決定的に違う点だと思われる。俗な言い方をすれば,1949年,ひとりの有能な指揮者としてボストン響の音楽監督に就任したミュンシュは,1962年,名指揮者としてその任を降りたのだ。
最後に,リヒテルの話し。リヒテルが表題の録音をした最初のアメリカ訪問の際,彼は彼に会うためにドイツからはるばるやって来た母親と19年ぶりに再会している。この時母親は2度目の夫セルゲイ・コンドラチェフを同伴していた。真偽のほどは定かではないが,リヒテルの父親テオフィルが1941年に逮捕,銃殺されたのは,この人が書いた匿名の手紙のせいだとも云われる。モンサンジョンの『リヒテル』には,リヒテルの言として,カーネギー・ホールでの最初のコンサートの折りに,母親が会場に来ていると聞かされた時のことが書かれている。
あまりに動揺してコンサートの前には会えませんでした。 - 会ったら演奏などできなかったでしょう。終演後も会いませんでした。自分の出来に不満だったからです。ミスタッチがたくさんありました。
ところで,吉田秀和氏が,『世界のピアニスト』(新潮社)のリヒテルの項で,同時期のカーネギー・ホールのライヴ盤について評をお書きになっている。吉田氏は「これは,1960年,リヒテルがアメリカ合衆国に出かけていった時(アメリカ・デビューの年?),ニューヨークのカーネギー・ホールで行った実況録音らしい。」と書くだけで,初日かどうかははっきりしないのだが。
ここには,ベートーヴェンの『熱情』について触れる冒頭に「この日,リヒテルは何かの理由でよほど神経質になっていたのではあるまいか?」とあり,作品26の第12番のソナタについては「こちらは最初から最後まで気ののらない演奏,何か別のことを考えながらひいている恰好の演奏である。」とある。
『世界のピアニスト』が最初に刊行されたのは1976年。モンサンジョンの『リヒテル』が刊行される20年以上前のことである。私はこのライヴ盤は聴いたことはない。しかし,リヒテルの項を何気なく読み直していた際,このくだりにはちょっと興奮した。
なお,この評の終わりの方で吉田氏は,「ずっと後になって,私は,誰かからリヒテルが日本に来た時,このレコードが発売されているのを知って,それを差しとめたという話をきいた。もっともだと思う。」とお書きになっている。やはり,件のライヴ盤,初日のものではなかろうか。
たとえば,ある日,ボストン交響楽団とベートーヴェンの第1協奏曲のリハーサルを終えたときに,伴奏のすばらしさに感極まってシャルル・ミュンシュの手に接吻しました。ベロツェルコフスキーは私の態度に憤慨し,叱責しました。 - 「どうしてソ連の芸術家が,外国の指揮者の手に接吻するまでへり下れるのだ。」
リヒテルの西側への演奏旅行はこのときが初めてのはずだが,彼は,この2年前,訪ソしたオーマンディ/フィラデルフィア管とプロコフィエフの5番を共演している。上記のエピソードは,アメリカのトップクラスのオケのレヴェルを知らないわけではないリヒテルが聴いても,ミュンシュ/ボストン響の素晴らしさは別格だったという証である。
因みに,リヒテルは,10月17日にラインスドルフ/シカゴ響とセッション録音したブラームスの2番の協奏曲については「これは,私のレコードとしては最も出来の悪いもののひとつ」と語っている。当初の予定どおりライナーが指揮をしていれば,また違うものになっていたであろうに・・・。もちろん,こちらには,リヒテルがラインスドルフにキスをしたがためにベロツェルコフスキーなる者から叱責されたといった話しはない。
さて,表題は,ボストン・デビューの翌日(11月2日)にセッション録音されたもの。リヒテルのピアノはまずは標準といったところだが,独奏者が「感極まっ(た)」と言うだけあって,オケが素晴らしい。
一例をあげれば,この曲の第1楽章冒頭のオケの序奏。ここは,ピアノが登場するまで105小節もあることで知られる。あのブラームスのヴァイオリン協奏曲でさえ90小節というから,その長大さがわかろうというもの。欠伸のひとつでもしてピアノの出を待つというのが普通だが,この録音のミュンシュとボストン響は,ゆるゆると始める第1主題の提示部から聴く者を掴んで放さない。このような演奏,そうそうあるものではない。
金管の音色が明るいのはアメリカのオケならではだが,ミュンシュとボストン響の特徴は張りのある弦の響きにある。とりわけ,適度な重さと力強さを兼ね備えたバスが実にいい。生命力に満ち溢れるミュンシュの音楽はこのボストン響の弦があってこそだが,「弦のボストン」に磨きをかけたのは他でもないミュンシュその人ともいえる。そもそも,この人は,フルトヴェングラーやワルターの棒の下,ゲヴァントハウス管でコンマスを務めたヴァイオリニストだった。
竹内貴久雄氏は,その著書『コレクターの快楽』』(洋泉社)の「「自由」を求めた名指揮者の軌跡」というミュンシュの項で,「ミュンシュとボストン響との相性の良さは,戦後アメリカで重要なポストに就いた指揮者のなかでも,最良の成果を双方にもたらした。」とお書きになっている。なるほど,これはよくわかる。ミュンシュはボストン響に清新さと生命力を吹き込み,ボストン響はミュンシュに破天荒な音楽を盛り込むフォルムと緻密を与えたのだ。竹内氏は,「ミュンシュは,ボストン交響楽団と出会ったことで大きく変わった指揮者なのだと思う。」ともお書きになっているが,これも納得。このあたりは,ミュンシュが,同時期に同じアメリカで一時代を築いたとはいえ,セルやライナーとは決定的に違う点だと思われる。俗な言い方をすれば,1949年,ひとりの有能な指揮者としてボストン響の音楽監督に就任したミュンシュは,1962年,名指揮者としてその任を降りたのだ。
最後に,リヒテルの話し。リヒテルが表題の録音をした最初のアメリカ訪問の際,彼は彼に会うためにドイツからはるばるやって来た母親と19年ぶりに再会している。この時母親は2度目の夫セルゲイ・コンドラチェフを同伴していた。真偽のほどは定かではないが,リヒテルの父親テオフィルが1941年に逮捕,銃殺されたのは,この人が書いた匿名の手紙のせいだとも云われる。モンサンジョンの『リヒテル』には,リヒテルの言として,カーネギー・ホールでの最初のコンサートの折りに,母親が会場に来ていると聞かされた時のことが書かれている。
あまりに動揺してコンサートの前には会えませんでした。 - 会ったら演奏などできなかったでしょう。終演後も会いませんでした。自分の出来に不満だったからです。ミスタッチがたくさんありました。
ところで,吉田秀和氏が,『世界のピアニスト』(新潮社)のリヒテルの項で,同時期のカーネギー・ホールのライヴ盤について評をお書きになっている。吉田氏は「これは,1960年,リヒテルがアメリカ合衆国に出かけていった時(アメリカ・デビューの年?),ニューヨークのカーネギー・ホールで行った実況録音らしい。」と書くだけで,初日かどうかははっきりしないのだが。
ここには,ベートーヴェンの『熱情』について触れる冒頭に「この日,リヒテルは何かの理由でよほど神経質になっていたのではあるまいか?」とあり,作品26の第12番のソナタについては「こちらは最初から最後まで気ののらない演奏,何か別のことを考えながらひいている恰好の演奏である。」とある。
『世界のピアニスト』が最初に刊行されたのは1976年。モンサンジョンの『リヒテル』が刊行される20年以上前のことである。私はこのライヴ盤は聴いたことはない。しかし,リヒテルの項を何気なく読み直していた際,このくだりにはちょっと興奮した。
なお,この評の終わりの方で吉田氏は,「ずっと後になって,私は,誰かからリヒテルが日本に来た時,このレコードが発売されているのを知って,それを差しとめたという話をきいた。もっともだと思う。」とお書きになっている。やはり,件のライヴ盤,初日のものではなかろうか。
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