先日,或るオークションサイトを覗いたところ,小澤指揮の『ボレロ』が出品されているのに気付いた。タイトルをクリックすると,ライナーの表紙にはえび茶のフィリップスカラーが。瞬時に「あぁ,いれ直してたんだ」と思ったが,そうではなく,それは1970年代にDGにいれたボストン響との録音であった(出品されていたのは,BELARTのオムニバス盤。ライナーの表紙の基調がフィリップスカラーだったのは偶然)。
小澤は,スタインバーグの後任として,1年間の音楽顧問を経て,1973年のシーズンからボストン響の音楽監督に就任。ボストン響との録音としては既にベルリオーズ『ファウストの劫罰』等もあったが,作曲家の生誕100周年を記念した『ラヴェル管弦楽集』はこのコンビにとって最初の大きなプロジェクトだった。『ボレロ』は,その第1段として,『スペイン狂詩曲』『ラ・ヴァルス』の2曲と共に,1974年の3月から4月にかけて録音されたものである。
さて,私がその存在を知りながら何故この録音に思いが至らなかったのかについては理由がある。ちょっと書きにくいのだが,この『ボレロ』には,有り体に言って,「瑕(きず)」があるのだ。そう,第3部のトロンボーンのソロ。これはプロとしてはどうかと思うほどの不出来。この種の企画ものでは各レーベルの選りすぐりの名演がセレクトされるのが常。言ってみれば,私の中では,小澤の『ボレロ』は当然の如くその選から外れていたのだ。
いずれにしても,このソロには,初めて聴く人なら誰しも「ボストン響でこんなことが・・・」と驚かれるに違いない。
この録音を初めて聴いた時は,今のようにネット上で縦横無尽に情報が行き交う時代ではなかった。しかし,その瑕は,若手有望株がビッグファイヴの一角を担うオケとメジャーレーベルにいれた録音に在るというもの。瑕の程度も決して小さくはない。当時,このソロを云々する評に何故出会さないのかと不思議でならなかった。それだけに,柴田南雄著『名演奏家のディスコロジー』(音楽之友社)の「小沢とマルティノンのラヴェル」で,そのことに直截に言及する一文に接した時は溜飲が下がる思いがしたものだ。以下,そこから少し引用。
さて,かんじんのラヴェルだが,レコードの順序通り「ボレロ」から針を下ろす。まあ,この曲は予期したようにどうということもなく,無難にまとまっているのだが,ただ,意外だったのは曲の第3段目の後半のテナー・トロンボーンのソロ(ポケット・スコア第28ページ以下)がボストンらしくもないことで,すでに第1小節で走るし,第2小節のグリサンドや第7小節の装飾音等がぜんぜん生きていない。どうしたことか。ここは全曲の中心部のきわめて目立つ箇所なのに。(中略)マルティノン=パリ管も,まずふつうに吹いているのに,ここのボストンは惜しかった。
重箱の隅をつつくような言い方になるが,「ここのボストンは惜しかった」は表現として如何なものか。これはスタジオ録音。時間さえゆるせば録り直しが可能なのだから。それに,『ボレロ』という曲の位置付け,重みからしてもそうするのが自然だ。
まぁ,それは措くとして,柴田さんの文章からは,トロンボーン奏者がグリッサンドや華やかな装飾音付きで吹いてはいるが,その効果があがっていない,というように読める。しかし,実際の演奏はそうではない。このトロンボーン奏者は,そもそもグリッサンドで吹いていないし,装飾音も施してはいない。そして,ここからが重要なのだが,メロディーを奏する他のソロもまた万事同じ調子なのだ。トロンボーンは,技術の拙さからそれが「ぎこちなさ」というかたちで突出しているに過ぎない。
以上は,今回偶々カラヤンとベルリン・フィルの録音をあわせて聴いてはじめて気付いたこと。カラヤン盤では,サクソフォーンやトロンボーンが各ソロの箇所でここぞとばかりにたっぷりとした演奏を繰り広げる。もちろん,カラヤンのリズムの刻みは厳格だ。しかし,そのカラヤン盤においてさえ,スネアドラムは,自分の世界に入りかけているサクソフォーンなどに引き摺られまいと必至に堪えているのがよくわかる。一方,小澤盤では,そのような「メロディーとリズムの微妙なせめぎ合い」はほとんど感じられない。というのは,小澤盤では,メロディーを奏するソロ奏者がスタンドプレイにならないよう自制しているからである。これは,ソロ奏者らがそのように申し合わせをしているからでも,テレパシーを交感しているからでもない。ひとえに,小澤から楽員全員に向けて「グリッサンド禁止令」や「ポルタメント禁止令」が出ていることによる。そうでなければ,『ボレロ』のメロディーのソロが,終始,これほどまでに禁欲的なはずがない。
この『ボレロ』の特徴は,詰まるところ,メロディーを奏するソロ奏者の手足を縛ったストイックさにこそあるといえる。「『ボレロ』はもともとストイックな曲」と言われればそのとおりだが,この盤のようにメロディーがリズムに譲歩している演奏もあまりないような気がする。
録音も,アンビエンスが浅いせいか,リズムを刻む管楽器が少しうるさく感じられるほど。これも,バランスが悪いわけではなく,技術陣もまた演奏のコンセプトを理解している証左,と言えば言えないこともない。
いずれにしても,華麗な名人芸だけを追って聴いた場合は,この小澤盤,(大きな度量でトロンボーンの瑕に目をつむったとしても)全体として「地味で印象の薄い一枚」で終わってしまうような気がする。
追記 実は,私は以前,上記の柴田氏の書籍のほか,もうひとつだけ,直接このトロンボーンのソロに触れた文章を読んだことがある。しかし,それが誰の手になるもので何に書かれていたのかどうしても思い出せない。
その内容は,概略,「『ボレロ』の録音時,ボストン響のトロンボーンの首席奏者は休暇中。この録音のトロンボーンのソロは(エキス)トラが吹いている。」というもの。
因みに,小澤がボストン響の音楽監督に就任した当時のトロンボーンの首席奏者はミュンシュ時代と同じW.G氏。ヒューエル・タークイは,その著書『分析的演奏論』(音楽之友社)の中で,この時期のボストン響について,「ボストン響は,主として,金管部門に悩みをもっている。トロンボーンはだらしなくなりがちだし,楽団ではいま首席ホルン奏者と首席トランペット奏者を捜している。他の点では,いぜんと変わらぬ偉大なオーケストラである。(新しい金管奏者たちの選考は小沢が最終的な断を下すことになっている - それゆえ,楽団の運命は文字通り小沢の耳にかかっている。)」と書いている。
本当のところ,小澤の『ボレロ』でトロンボーンのソロを吹いているのは一体誰?
小澤は,スタインバーグの後任として,1年間の音楽顧問を経て,1973年のシーズンからボストン響の音楽監督に就任。ボストン響との録音としては既にベルリオーズ『ファウストの劫罰』等もあったが,作曲家の生誕100周年を記念した『ラヴェル管弦楽集』はこのコンビにとって最初の大きなプロジェクトだった。『ボレロ』は,その第1段として,『スペイン狂詩曲』『ラ・ヴァルス』の2曲と共に,1974年の3月から4月にかけて録音されたものである。
さて,私がその存在を知りながら何故この録音に思いが至らなかったのかについては理由がある。ちょっと書きにくいのだが,この『ボレロ』には,有り体に言って,「瑕(きず)」があるのだ。そう,第3部のトロンボーンのソロ。これはプロとしてはどうかと思うほどの不出来。この種の企画ものでは各レーベルの選りすぐりの名演がセレクトされるのが常。言ってみれば,私の中では,小澤の『ボレロ』は当然の如くその選から外れていたのだ。
いずれにしても,このソロには,初めて聴く人なら誰しも「ボストン響でこんなことが・・・」と驚かれるに違いない。
この録音を初めて聴いた時は,今のようにネット上で縦横無尽に情報が行き交う時代ではなかった。しかし,その瑕は,若手有望株がビッグファイヴの一角を担うオケとメジャーレーベルにいれた録音に在るというもの。瑕の程度も決して小さくはない。当時,このソロを云々する評に何故出会さないのかと不思議でならなかった。それだけに,柴田南雄著『名演奏家のディスコロジー』(音楽之友社)の「小沢とマルティノンのラヴェル」で,そのことに直截に言及する一文に接した時は溜飲が下がる思いがしたものだ。以下,そこから少し引用。
さて,かんじんのラヴェルだが,レコードの順序通り「ボレロ」から針を下ろす。まあ,この曲は予期したようにどうということもなく,無難にまとまっているのだが,ただ,意外だったのは曲の第3段目の後半のテナー・トロンボーンのソロ(ポケット・スコア第28ページ以下)がボストンらしくもないことで,すでに第1小節で走るし,第2小節のグリサンドや第7小節の装飾音等がぜんぜん生きていない。どうしたことか。ここは全曲の中心部のきわめて目立つ箇所なのに。(中略)マルティノン=パリ管も,まずふつうに吹いているのに,ここのボストンは惜しかった。
重箱の隅をつつくような言い方になるが,「ここのボストンは惜しかった」は表現として如何なものか。これはスタジオ録音。時間さえゆるせば録り直しが可能なのだから。それに,『ボレロ』という曲の位置付け,重みからしてもそうするのが自然だ。
まぁ,それは措くとして,柴田さんの文章からは,トロンボーン奏者がグリッサンドや華やかな装飾音付きで吹いてはいるが,その効果があがっていない,というように読める。しかし,実際の演奏はそうではない。このトロンボーン奏者は,そもそもグリッサンドで吹いていないし,装飾音も施してはいない。そして,ここからが重要なのだが,メロディーを奏する他のソロもまた万事同じ調子なのだ。トロンボーンは,技術の拙さからそれが「ぎこちなさ」というかたちで突出しているに過ぎない。
以上は,今回偶々カラヤンとベルリン・フィルの録音をあわせて聴いてはじめて気付いたこと。カラヤン盤では,サクソフォーンやトロンボーンが各ソロの箇所でここぞとばかりにたっぷりとした演奏を繰り広げる。もちろん,カラヤンのリズムの刻みは厳格だ。しかし,そのカラヤン盤においてさえ,スネアドラムは,自分の世界に入りかけているサクソフォーンなどに引き摺られまいと必至に堪えているのがよくわかる。一方,小澤盤では,そのような「メロディーとリズムの微妙なせめぎ合い」はほとんど感じられない。というのは,小澤盤では,メロディーを奏するソロ奏者がスタンドプレイにならないよう自制しているからである。これは,ソロ奏者らがそのように申し合わせをしているからでも,テレパシーを交感しているからでもない。ひとえに,小澤から楽員全員に向けて「グリッサンド禁止令」や「ポルタメント禁止令」が出ていることによる。そうでなければ,『ボレロ』のメロディーのソロが,終始,これほどまでに禁欲的なはずがない。
この『ボレロ』の特徴は,詰まるところ,メロディーを奏するソロ奏者の手足を縛ったストイックさにこそあるといえる。「『ボレロ』はもともとストイックな曲」と言われればそのとおりだが,この盤のようにメロディーがリズムに譲歩している演奏もあまりないような気がする。
録音も,アンビエンスが浅いせいか,リズムを刻む管楽器が少しうるさく感じられるほど。これも,バランスが悪いわけではなく,技術陣もまた演奏のコンセプトを理解している証左,と言えば言えないこともない。
いずれにしても,華麗な名人芸だけを追って聴いた場合は,この小澤盤,(大きな度量でトロンボーンの瑕に目をつむったとしても)全体として「地味で印象の薄い一枚」で終わってしまうような気がする。
追記 実は,私は以前,上記の柴田氏の書籍のほか,もうひとつだけ,直接このトロンボーンのソロに触れた文章を読んだことがある。しかし,それが誰の手になるもので何に書かれていたのかどうしても思い出せない。
その内容は,概略,「『ボレロ』の録音時,ボストン響のトロンボーンの首席奏者は休暇中。この録音のトロンボーンのソロは(エキス)トラが吹いている。」というもの。
因みに,小澤がボストン響の音楽監督に就任した当時のトロンボーンの首席奏者はミュンシュ時代と同じW.G氏。ヒューエル・タークイは,その著書『分析的演奏論』(音楽之友社)の中で,この時期のボストン響について,「ボストン響は,主として,金管部門に悩みをもっている。トロンボーンはだらしなくなりがちだし,楽団ではいま首席ホルン奏者と首席トランペット奏者を捜している。他の点では,いぜんと変わらぬ偉大なオーケストラである。(新しい金管奏者たちの選考は小沢が最終的な断を下すことになっている - それゆえ,楽団の運命は文字通り小沢の耳にかかっている。)」と書いている。
本当のところ,小澤の『ボレロ』でトロンボーンのソロを吹いているのは一体誰?
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