音楽と映画の周辺

核心ではなく, あくまでも物事の周辺を気楽に散策するブログです。

小澤征爾/ボストン響 ラヴェル『ボレロ』

2009-11-30 20:42:47 | クラシック
 先日,或るオークションサイトを覗いたところ,小澤指揮の『ボレロ』が出品されているのに気付いた。タイトルをクリックすると,ライナーの表紙にはえび茶のフィリップスカラーが。瞬時に「あぁ,いれ直してたんだ」と思ったが,そうではなく,それは1970年代にDGにいれたボストン響との録音であった(出品されていたのは,BELARTのオムニバス盤。ライナーの表紙の基調がフィリップスカラーだったのは偶然)。

 小澤は,スタインバーグの後任として,1年間の音楽顧問を経て,1973年のシーズンからボストン響の音楽監督に就任。ボストン響との録音としては既にベルリオーズ『ファウストの劫罰』等もあったが,作曲家の生誕100周年を記念した『ラヴェル管弦楽集』はこのコンビにとって最初の大きなプロジェクトだった。『ボレロ』は,その第1段として,『スペイン狂詩曲』『ラ・ヴァルス』の2曲と共に,1974年の3月から4月にかけて録音されたものである。
さて,私がその存在を知りながら何故この録音に思いが至らなかったのかについては理由がある。ちょっと書きにくいのだが,この『ボレロ』には,有り体に言って,「瑕(きず)」があるのだ。そう,第3部のトロンボーンのソロ。これはプロとしてはどうかと思うほどの不出来。この種の企画ものでは各レーベルの選りすぐりの名演がセレクトされるのが常。言ってみれば,私の中では,小澤の『ボレロ』は当然の如くその選から外れていたのだ。
いずれにしても,このソロには,初めて聴く人なら誰しも「ボストン響でこんなことが・・・」と驚かれるに違いない。

 この録音を初めて聴いた時は,今のようにネット上で縦横無尽に情報が行き交う時代ではなかった。しかし,その瑕は,若手有望株がビッグファイヴの一角を担うオケとメジャーレーベルにいれた録音に在るというもの。瑕の程度も決して小さくはない。当時,このソロを云々する評に何故出会さないのかと不思議でならなかった。それだけに,柴田南雄著『名演奏家のディスコロジー』(音楽之友社)の「小沢とマルティノンのラヴェル」で,そのことに直截に言及する一文に接した時は溜飲が下がる思いがしたものだ。以下,そこから少し引用。

 さて,かんじんのラヴェルだが,レコードの順序通り「ボレロ」から針を下ろす。まあ,この曲は予期したようにどうということもなく,無難にまとまっているのだが,ただ,意外だったのは曲の第3段目の後半のテナー・トロンボーンのソロ(ポケット・スコア第28ページ以下)がボストンらしくもないことで,すでに第1小節で走るし,第2小節のグリサンドや第7小節の装飾音等がぜんぜん生きていない。どうしたことか。ここは全曲の中心部のきわめて目立つ箇所なのに。(中略)マルティノン=パリ管も,まずふつうに吹いているのに,ここのボストンは惜しかった。

 重箱の隅をつつくような言い方になるが,「ここのボストンは惜しかった」は表現として如何なものか。これはスタジオ録音。時間さえゆるせば録り直しが可能なのだから。それに,『ボレロ』という曲の位置付け,重みからしてもそうするのが自然だ。
まぁ,それは措くとして,柴田さんの文章からは,トロンボーン奏者がグリッサンドや華やかな装飾音付きで吹いてはいるが,その効果があがっていない,というように読める。しかし,実際の演奏はそうではない。このトロンボーン奏者は,そもそもグリッサンドで吹いていないし,装飾音も施してはいない。そして,ここからが重要なのだが,メロディーを奏する他のソロもまた万事同じ調子なのだ。トロンボーンは,技術の拙さからそれが「ぎこちなさ」というかたちで突出しているに過ぎない。
以上は,今回偶々カラヤンとベルリン・フィルの録音をあわせて聴いてはじめて気付いたこと。カラヤン盤では,サクソフォーンやトロンボーンが各ソロの箇所でここぞとばかりにたっぷりとした演奏を繰り広げる。もちろん,カラヤンのリズムの刻みは厳格だ。しかし,そのカラヤン盤においてさえ,スネアドラムは,自分の世界に入りかけているサクソフォーンなどに引き摺られまいと必至に堪えているのがよくわかる。一方,小澤盤では,そのような「メロディーとリズムの微妙なせめぎ合い」はほとんど感じられない。というのは,小澤盤では,メロディーを奏するソロ奏者がスタンドプレイにならないよう自制しているからである。これは,ソロ奏者らがそのように申し合わせをしているからでも,テレパシーを交感しているからでもない。ひとえに,小澤から楽員全員に向けて「グリッサンド禁止令」や「ポルタメント禁止令」が出ていることによる。そうでなければ,『ボレロ』のメロディーのソロが,終始,これほどまでに禁欲的なはずがない。
この『ボレロ』の特徴は,詰まるところ,メロディーを奏するソロ奏者の手足を縛ったストイックさにこそあるといえる。「『ボレロ』はもともとストイックな曲」と言われればそのとおりだが,この盤のようにメロディーがリズムに譲歩している演奏もあまりないような気がする。
録音も,アンビエンスが浅いせいか,リズムを刻む管楽器が少しうるさく感じられるほど。これも,バランスが悪いわけではなく,技術陣もまた演奏のコンセプトを理解している証左,と言えば言えないこともない。
いずれにしても,華麗な名人芸だけを追って聴いた場合は,この小澤盤,(大きな度量でトロンボーンの瑕に目をつむったとしても)全体として「地味で印象の薄い一枚」で終わってしまうような気がする。

追記 実は,私は以前,上記の柴田氏の書籍のほか,もうひとつだけ,直接このトロンボーンのソロに触れた文章を読んだことがある。しかし,それが誰の手になるもので何に書かれていたのかどうしても思い出せない。
その内容は,概略,「『ボレロ』の録音時,ボストン響のトロンボーンの首席奏者は休暇中。この録音のトロンボーンのソロは(エキス)トラが吹いている。」というもの。
因みに,小澤がボストン響の音楽監督に就任した当時のトロンボーンの首席奏者はミュンシュ時代と同じW.G氏。ヒューエル・タークイは,その著書『分析的演奏論』(音楽之友社)の中で,この時期のボストン響について,「ボストン響は,主として,金管部門に悩みをもっている。トロンボーンはだらしなくなりがちだし,楽団ではいま首席ホルン奏者と首席トランペット奏者を捜している。他の点では,いぜんと変わらぬ偉大なオーケストラである。(新しい金管奏者たちの選考は小沢が最終的な断を下すことになっている - それゆえ,楽団の運命は文字通り小沢の耳にかかっている。)」と書いている。
本当のところ,小澤の『ボレロ』でトロンボーンのソロを吹いているのは一体誰?

ラヴェル:ボレロ
小澤征爾
ユニバーサル ミュージック クラシック

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マゼール/クリーヴランド管 ガーシュウィン『パリのアメリカ人』

2009-11-15 20:58:38 | クラシック
 『パリのアメリカ人』は私が最初に購入したクラシック音楽のレコード。同じ時,ヘンデルの『水上の音楽』も購入した。
どちらも,オーマンディ指揮のフィラデルフィア管による演奏である。そう,鈍色がかったゴールド地に抑えたグリーンの縁取りという「オーマンディ「音」の饗宴1300」というシリーズの1枚。これは,英語のリーダーの教科書にガーシュウィンに関する章があり,英語の先生から「○○君,この次までガーシュウィンについて調べてきてください。」と言われ,「なら,音楽も聴かずばなるまい。」と思い,秋田駅近くの某電気店で購入したものだった。オーマンディ盤を選んだのは一番安かったからであろう。
つい最近,このオーマンディの『パリのアメリカ人』をCDで買い直したが,あらためてその素晴らしさに感じ入った。落ち着いたテンポ,そして,弦と管の艶やかで豊かな響き。管の上手さは半端ではない。ドラムのブラッシュワークもジャジーな雰囲気をよく出している。何でもござれのフィラデルフィア管ではあるが,ここでは心置きなく(借り物ではない)自分達の音楽をしているのがよくわかる。オーマンディ盤は今もってこの曲の最高の演奏のひとつに数えられるものだと思う。

 さて,表題のディスク。こちらは,マゼールがクリーヴランド管弦楽団の音楽監督に就任して間もない頃に録音したもの。管によるちょっとしたフレーズを大胆に強調するところなど,「バランスを蔑ろにしている」「あざとい効果狙い」などと言われそうだが,いや,どうせやるならこれくらいやってもらった方が爽快というもの。とにかく,聴きどころ満載。好き嫌いは分かれるとは思うが,私は大好き。齢79の大巨匠にこんなことを言うのは失礼だし,お笑いになる方もおられると思うが,今改めて「鬼才マゼール」を実感。
それにしても,『パリのアメリカ人』ってこんなに楽しい曲だったっけ。知らないうちに,普段聴く音楽,相当偏っていたようだ。眉間に皺を寄せて聴くばかりが音楽じゃないなぁ,とあらためて思った次第。「ガーシュウィンをクリーヴランド管で」=「鶏を割くに・・・」,などと思った自分が馬鹿だった。

ガーシュイン:パリのアメリカ人/ラプソディ・イン・ブルー 他
オムニバス(クラシック)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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ガーシュウィン:ラプソディ・イン・ブルー,グローフェ:グランド・キャニオン
フィラデルフィア管弦楽団
ソニーレコード

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ヴェデルニコフ J.S.バッハ『パルティータ第4番』

2009-11-15 18:15:40 | クラシック
 第1曲「序曲」をこれほどの強打で始めるピアニストが他にいるだろうか。少なくとも,シフ,グールド,グードらはこのような弾き方をしていない。初めて聴いたときは一瞬何が起きたかと本当にびっくりしてしまった。
表題の録音を聴いた時の私の驚きが第4番に対する馴染みの薄さからきているということはあろう。しかし,それは,それまで印象に残るような形でこの曲を提示してくれる演奏に出会わなかったということでもある。ヴェデルニコフ盤は,第4番が第1番や第2番に劣らない名曲であることを私に気付かせてくれたという意味で忘れがたい1枚。

 ヴェデルニコフの特徴がテクニックの確かさにあるというのはよく言われること。しかし,彼の特徴は,俗な言い方をすれば,そのテクニックに裏打ちされた「勿体付けたところのない率直さ」にこそあると思う。そのことは,バッハのパルティータ全集で言うなら,この第4番,とりわけ第3曲のクーラントなどで強く感じる。ここでの彼は,湧き上がる衝動に突き動かされたかのように,装飾音など一切付けず小細工なしで弾いている。このクーラントは実に素晴らしく,何度聴いても飽くということがない。
穏やかながら,奈落の底を覗き込むような怖さも感じる第2曲アルマンド,そして,しみじみとした味わいの第5曲サラバンド等々,これは傑出した第4番の演奏だと思う。

 ひとつ,ヴェデルニコフに明らかな弱点があるとすれば,音にやや魅力を欠くところ。メロディアの録音のせいもあるかとは思うが,響きが総じて硬いのだ。モンサンジョン著『リヒテル』にも,同門のリヒテルの言として,ヴェデルニコフはその点を指摘する師ネイガウスとたえず言い争っていた,とある。このあたりは,ヴェデルニコフの「ピアノは打楽器以外の何ものでもなく,歌わせることはできない」という考え方とも深く関係しているように思われる。
なお,私はヴェデルニコフの演奏に「熱気」や「微笑み」といったものをあまり感じたことがない。ときどき,これを彼の生い立ちや彼ら家族を襲った悲劇などと関連づけて考えたりもするのだが,穿ち過ぎだろうか。
後先逆になったが,1920年生まれのヴェデルニコフは1935年に来日して,1年ほど日本に滞在していた。吉澤ヴィルヘルム著『ピアニストガイド』によれば,このとき,ヴェデルニコフは,名ピアニストのレオ・シロタから,ニューヨークに行ってホフマンの指導を受けるか,モスクワに行ってネイガウスの指導を受けるかしてみては,と勧められたのだという。ヴェデルニコフ一家の選択はモスクワ行き。ヴェデルニコフ自身は,結果的に,当初の目論みどおりネイガウスの指導を受けることができた。しかし,この選択は一家に取り返しの付かない災厄をもたらすことにもなった。もし,ニューヨーク行きを選んでいたら,ヴェデルニコフのキャリア,いや,彼を含めた家族らの人生が全く違ったものになったのは間違いない。

バッハ:パルティータ全曲
ベデルニコフ(アナトリー)
BMGメディアジャパン

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アドリヤン/シュタットルマイヤー/ミュンヘン室内管 モーツァルト『フルート協奏曲第1番』

2009-11-11 23:58:38 | クラシック
 アンドラーシュ・アドリヤンは1974年から,イレーナ・グラフェナウアーは1977年から,バイエルン放響の首席フルーティストを務めていた。この2人,一聴して,タイプの異なるフルーティストとわかる。その2人が同時期に同じオケの首席というのは不思議な気もするが,よくよく考えれば,不思議どころか,理にかなっている。「何でもできます」,「何でもやります」こそ,他にはない放送局付きオケの特徴なのだから。
そう言えば,かって,某有名オーケストラの少なからぬ団員が或るクラリネット奏者の「該オケの音色に合わせる能力」に疑念を抱いて一大騒動にまで発展したことがあった。あの種のゴタゴタは,歴史も浅く色の付いていない(また,付いていては,ある意味,支障のある)放送局付きオケではあまり起きないことかもしれない。実際,試用期間後のグラフェナウアーの入団は,彼女自身の言によれば,全員一致の決定だったようだ。
因みに,グラフェナウアーはバイエルン放響で最初の女性管楽器奏者。彼女,「異例なグラフェナウアー」と云われたとか,云われなかったとか。

さて,グラフェナウアーがマリナーらと録(い)れた表題曲の演奏も素晴らしいのだが,フレーズの端々を崩して吹いているのが,正直なところ,気にならないでもない。
一方,表題ディスクで聴くアドリヤンの演奏は実に端正。響きも冴え冴えとして,良く通る。ライナーにある村瀬一淑氏の,概略,アドリヤンはニコレとランパルの美質を受け継ぎ,ひとつに統合したという点で独自性を獲得した,との讃辞は簡にして要を得ている。なるほど,クーベリックがバイエルンの首席に招いたのももっとも。
ミュンヘン室内管も好演。シュタットルマイヤーの棒の下,弦がよく歌っている。

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シャハム/ワーズワース/ニュー・クィーンズ・ホール管 RVW『揚げひばり』

2009-11-10 21:44:21 | クラシック
 原題は『The Lark Ascending』。しかし,このエントリは,たばこ税の引き上げとも,ビールのつまみとも一切関係はない。

さて,藤野竣介氏のお書きになったライナーにはアーロン・コープランドのRVW評が載っている。曰く,「ローカルな作曲家としてイギリス音楽への貢献は大だったが,輸出に耐える代物ではない。それは田舎者の音楽であり,高貴な霊感は認められても,なまくらである」。一面モダニストでもあったコープランドの気概を示す言葉だが,その「なまくら」の何たる美しさよ。
実を言うと,ディスク上のタイトルは,珍しいことに,『ひばりは昇る』となっているのだが,これでは曲の持つ詩的でパストラールな雰囲気が幾分削がれてしまうような気がする。やはり,一般的な『揚げひばり』がしっくりくるということで,勝手ながら,タイトルを置き換えて紹介する次第。
邦題が幾つかある例としては,他に,ディーリアスの『春初めてのカッコウを聞いて』がある。ディスクによっては『春を告げるカッコウ』としているものもあるが,これには全く賛同できない。訳として原題の『On hearing the first Cuckoo in Spring』に忠実ではないし,何より,この曲の「(単なる描写音楽ではなく)春を待ちわびた人の心の動きを描いている」という本質を見落としていると思う。
なお,付け足しのようで恐縮だが,ハゲイ・シャハムのソロ・ヴァイオリンは実に美しい。

Fantasia on Greensleeves
Academy of St Martin in the Fields,London Philharmonic Orchestra
Decca

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ボールト/ロンドン響 ブラームス『交響曲第3番』

2009-11-09 22:30:26 | クラシック
 ボールトのブラームスの交響曲全集は,第1番,第2番及び第4番のオケがLPOで,第3番だけが何故かLSO。このあたり,前から不思議に思っていたのだが,ヘレナ・マテオプーロス著・石原俊訳『マエストロ第3巻』(アルファベータ)のボールトの項を読んで謎が解けた。
1970年の8月,ボールトがLSOとエルガー『エニグマ』等を録(い)れた時,クリストファー・ビショップ(EMIのプロデューサー)が「ブラームスの交響曲はどうですか?」と,余った2日間分のセッションの有効活用(?)を持ちかけたことからこの録音が始まったのだそうだ。第3番は当時のボールトのお気に入りの曲だったとか。これが商業的に当たった → それでは全集にしましょう → ついては,オケはマエストロとより縁の深いLPOで,というのはもう自然の成り行き。いや,最後の部分は当方の勝手な想像だけれど。
さて,以前聴いた時,第3番の出来は他の3曲に比べると若干落ちるような気がしたのだが,それはおそらく,知識として入った前記の事情に引きずられたのだろう。今聴き直してみると,こちらも素晴らしい演奏。
何方だったか,ボールトのブラームスを評して「素のブラームス」とお書きになっていた。しかし,第4楽章などそうだが,楽想の切り替わりで大きくテンポを動かすなど,「素のブラームス」という言葉から想起されるほど,この演奏,朴訥とは思わない。

 最後に前記の著作で印象に残ったボールトの言葉を。

 ディテールを大切にしすぎるのは禁物。本当に重要なのは作品の様式や構造である。したがって,本番が近づいたら,作品の成り立ちにより目を向けるべきで,しかるべき距離をもって,可能なかぎり幅広く,作品を眺めるようにしなければならない。大切なのは,聴衆が,あたかもめくる手間のいらない巨大な2ページのスコアを一目で見られるような状態にもっていくこと。

何という含蓄のある言葉。最後の一文,とりわけ,「めくる手間のいらない巨大な2ページのスコア」は,このマエストロの音楽性を通貫する実にユニークな表現だと思う。どうだろうか。

ブラームス:交響曲第3番&第4番
ボールト(サー・エイドリアン)
EMIミュージック・ジャパン

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グレニーほか 三木稔『マリンバ・スピリチュアル』

2009-11-08 17:49:07 | クラシック
 三木稔の『マリンバ・スピリチュアル』は,1984年前後にアフリカを襲った飢饉による犠牲者の死を悼み,同時に,その魂の再生を祈る音楽。曲は「魂鎮め」と「魂振り」の2部から成る。「ゲンダイオンガク」の範疇に入るとはいえ,「魂振り」は秩父屋台囃子のリズムをベースにしているから,日本人には聞き易い曲だと思う。
グレニーらの演奏は実に見事。しかし,その演奏には,日本人が「鎮魂」や「呪術」に対して抱く感覚とは微妙に違うものも少し感じた。
例えば,「魂鎮め」のウィンド・チャイムの響き。これは鎮魂の曲にしては少しきらびやかに過ぎるような気がする。
また,「魂振り」での賑々しい中国あるいは東南アジア風のパーカッションの響き,そして,いささか威勢の良すぎるかけ声。特に,かけ声の方は,初め聴いた時,まとわりついて離れないストリート・ギャングか何かの威嚇のように聞こえてしまった。いや,再生の祈りも国によって様々。日本(人)の専売特許のように言うのは間違いではあるけれど・・・。
しかし,これらは,端的に言って,グレニーのというより,プロデューサーの音楽的センスに因るところが大きいのかもしれないなぁ。
なお,敢えて書くまでもないが,ここではグレニーの聴覚障害を絡める意図は全くない。誤解を招くと困るのでこの点は明記しておきたい。

グレイテスト・ヒッツ
グレニー(エベリン)
BMGメディアジャパン

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ジャクリーヌ・デュ・プレ/バレンボイム/フィラデルフィア管 エルガー『チェロ協奏曲』

2009-11-05 19:19:30 | クラシック
 秋。しかも,晩秋である。そして,晩秋とくれば,エルガーのチェロ協奏曲である(いえ,ご異存のある方もいらっしゃるでしょうが,今日のところはそういうことにして下さい)。
現在,レコード芸術誌で企画進行中の「新編 名曲名盤300」で取り上げられたエルガーの曲は『威風堂々』1曲。チェロ協奏曲は選から外れている。300曲でクラシック音楽を概観するものとなれば,その選択は自ずと窮屈なものになる。くわえて,英国作曲家の手になるものは西欧クラシック音楽のメインストリームにあるとは言い難い。同企画でのチェロ協奏曲の選外はやむを得ないかもしれない。因みに,ブリテンも,同企画で選ばれたのは『青少年のための管弦楽入門』1曲である。

 エルガーのチェロ協奏曲の代表盤には,言わずと知れた,ジャクリーヌ・デュ・プレの独奏,サー・ジョン・バルビローリの指揮するロンドン響の録音(1965年8月19日録音)がある。この録音は,『クラシック不滅の名盤800 -20世紀を感動させた21世紀への遺産800タイトル』(音楽之友社,1997年刊)の第1項「究極の100タイトル」にも選ばれている。膨大な音盤の中から選ばれたものには,トスカニーニのレスピーギ『ローマ3部作』,カザルスのバッハ『無伴奏チェロ組曲』,リヒターのバッハ『マタイ』,ショルティのワーグナー『リング4部作』などがある。それらと同じ扱いというのだから,その重みたるや相当なものである。
これは,エルガーのチェロ協奏曲の声価を格段に高めただけではなく,(誤解を恐れずに言えば)演奏が曲そのものを乗り越えてしまった(あるいは,置いてきぼりにしてしまった)感さえある録音である。

 前置きが長くなったが,ヒラリー・デュ・プレ&ピアス・デュ・プレ著『風のジャクリーヌ-ある真実の物語』(原題『A genius in the family』,ショパン刊,高月園子訳)のP220以下には,弟ピアスの回想として,この録音に関し次のような記述がある。

 1965年8月19日,ジャッキーはEMIとの契約で,ジョン・バルビローリ卿の指揮でロンドン交響楽団とエルガーのチェロ協奏曲をキングスウェイ・ホールでレコーディングした。
 レコーディングに際しては,3回のセッションが予定された。レコーディングを終えて夕方帰宅したジャッキーは大いに興奮していた。
「どうだった?」
ジャッキーがドアから飛び込むなり,僕は尋ねた。
「驚くほどのできばえ・・・と,これはプロデューサーの台詞だけどね。そのプロデューサーだけど,なぜ30分しかかからなかったのか,わからなかったみたい。彼,早く終わったのは私のおかげだと思ったらしく,お礼ばかり言ってたわ。おまけに,『オーケストラを2日間も予約してしまった』って悔しがってたわ」


このとき,「驚くほどのできばえ」と語り,余計にオーケストラを予約して(経費を無駄にしたことを)悔やんだプロデューサーというのは,バルビローリの録音を多く手がけたロナルド・キンロック・アンダーソンである。ピアスの回想からは,レコーディングは何の問題もなく終わったように読める。しかし,キャロル・イーストン著『ジャクリーヌ・デュ・プレ』(青玄社,木村博江訳)P135には,意外な事実が書かれている。以下,その引用。太字は管理人によるものである。

 つづく数年のあいだに,ジャクリーヌのレコードと彼女の世界各地での演奏のおかげで,この協奏曲(管理人註:エルガーのチェロ協奏曲のこと)は一気に有名になり,エルガーの楽譜出版社は彼女に優美な金文字を箔押しした青い革張りの楽譜を贈った。23年間,レコードは廃盤になることもなく,現在では古典とみなされている。だが,エルガーはたしかにジャクリーヌにとって大きな意味を持ってはいたが,その演奏は決して気に入っていなかった。彼女が録音を初めて試聴した場に同席した音楽評論家のロバート・アンダースンは書いている。「彼女はわっと泣き出すと,こう言った。『わたしがやりたかったことと,全然ちがうわ!』」。

全体の書きぶりからして,ここでの「試聴」は,セッションの最中のテイクの試聴ではなく,ベスト・テイクをつないでトラック・ダウンの作業を経たものの試聴だと思われる。いやはや,何ということだろう。現在「不滅の名盤」と誉れ高い録音を独奏者が試聴したとき,やりたかったこととあまりに違うので泣き出したというのだ。演奏者は不満足だが時間切れでやむなく・・・,というのではない。ピアスの回想にもあるとおり,時間を余して録音は終わったのだから。
この日のセッションを撮影したものに,デイヴィッド・ファーレルの写真がある。有名な写真なのでご覧になった方も多いと思う。左腕で支えたスコアをじっと見やるバルビローリと,横からそれを覗き込むジャッキー。セッション当日のひとこまだが,ジャッキーは弓を持った手を口元にやり,薬指の爪を噛んでいる。上記事実を知ってからこの写真を眺めると,気のせいか,彼女の表情はどことなく不安げに見える。2人の表情は背後でくつろぐロンドン響のメンバーとは好対照だ。
それでは誰がこの録音にゴー・サインを出したのか。もちろん,最終的なそれは責任者たるプロデューサーのキンロック・アンダーソンが出したのだろうが,それは,詰まるところ,バルビローリが満足したからに他ならないと想像するのだが,どうだろう。バルビローリは,イーストンの著作に「サー・エドワード・エルガーの音楽を骨の髄まで知りつくしていた。」とあるとおり,エルガーの演奏にかけては一家言持っていた音楽家。また,チェリストでもあった彼は,自身,エルガーのチェロ協奏曲を独奏者として演奏したこともある(初演のフェリックス・サルモンドに続く2人目の独奏者)。
協奏曲での主役は独奏者。その独奏者の不満足な録音がそのままリリースされたというのは不可解だが,考えてみれば,この録音当時ジャッキーはまだ二十歳。「全然ちがう」といったところで,巨匠バルビローリらの意見の前では,レコード製作の何たるかを知らないねんねの我が儘ととられたとしても不思議ではない。いずれにしても,セッションは既に終わっていた。録音技術でいかようにもとは言っても限界はあろう。

 ところで,管理人が最初に聴いたエルガーのチェロ協奏曲はこの録音なのだが,当時は,何度聴き返しても,曲の良さ,演奏の素晴らしさというのがよくわからなかった。
今考えれば,この曲の持つ憂愁,諦観といったものは,音楽鑑賞歴,人生経験とも浅い管理人が共感を抱くにはいささか無理があった。感情過多で好き嫌いがわかれるバルビローリも,ここではおかしな粘り方はせず,曲想に完全にはまった老獪なサポートぶり。因みに,ジャッキーのチェロも巷間言われているほど主情に流れたものではない。
人も音楽も出会いや第一印象が重要。芳しくない印象を持ったまま,この曲,そして,この録音は,これまで意識的に遠ざけてきた。

 ところが,である。3年前の夏,ジャッキーを描いたアナンド・タッカー監督の映画 『Hilary and Jackie』をビデオで観たことをきっかけに,ジャッキー熱に火がついてしまった。ビデオを観終えた管理人は,近くのブックオフに映画の原作(上記のヒラリーらの著作)があったのを思い出して早速買いに走り,数日後には,サントラのCDまで注文してしまった。
表題の演奏は,この時購入したサントラのCDに余白を埋めるように収録されていたもの(以下,この1970年11月のフィラデルフィアでのライヴ録音を「新録音」と呼び,件のバルビローリ/ロンドン響と協演したものを「旧録音」と呼ぶ)。これを知らずに注文した管理人は,「全編サントラ」ではないこと,次いで,演奏が(レコードでしか持っていなかった旧録音ではなく)新録音であることに少しがっかりしてしまった。しかし,落胆は,この新録音を聴き終わった時,驚嘆に変わっていた。5年の歳月がながれているとはいえ,2つの録音の間には,音楽家としての成長,ライヴ特有の高揚感といったことだけでは説明のつかない質の違いのようなものを感じたからである。少し具体的に書いてみる。
第1楽章冒頭には表題記号として「Nobilmente(気高く,高貴に,気品をもって)」とある。旧録音ではチェロのレチタティーヴォが,その表題記号そのまま,じっと悲しみに耐える風であるのに対し,新録音ではまるで辺りを憚らない号泣のように聞こえる。
軽いスケルツォ風の第2楽章でも,2つの録音の違いは明確。新録音では,急速調の16分音符の動機の後に入るカデンツァの終わりの部分が,溜めに溜められた後,強烈なアクセントをもって不自然なほど跳ね上げられる。ここは聴いていて非常に印象に残る。
第3楽章は緩徐楽章。緩徐楽章が遅すぎると批判されることのあったジャッキーだが,新録音では旧録音以上に時間をかけてじっくりと歌い上げる。
第4楽章では,冒頭直ぐのレチタティーヴォとカデンツァの後,チェロが第1主題を提示する際,フレーズ最後で,第2楽章と同様の,いや,それ以上の異常な強調と跳ね上げがある。
新録音は情熱的というよりは激情に走った演奏。ときに怒りのようなものさえ感じられる。

 さて,ここで気になるのは,新録音で聴く演奏の特徴が,5年前にジャッキーの言った「わたしがやりたかったこと」なのかどうか,ということである。
ジャッキーのエルガーのチェロ協奏曲には,他に,1967年1月3日録音のバルビローリ/BBC響との東欧ツアーのライヴ盤や,同年のバレンボイム/ニュー・フィルハーモニア管と協演した映像もある。旧録音とは録音時期も近いから,ジャッキーの言った「わたしがやりたかったこと」を知るにはともに必聴・必見だが,管理人は今のところ『ジャクリーヌ・デュ・プレの想い出』の中で後者の映像の第2楽章と第4楽章の一部をかいま観たにとどまる。判断材料はあまりに少ないが,管理人は,新録音の特徴こそ彼女がやりたかったことと断ずるのは勇み足という気がしている。ジャッキーにMS(多発性硬化症)の兆候が顕著に現れ始めたのは新録音がおこなわれた翌年から。しかし,姉ヒラリーが著作の中で推測しているように,そのかなり前から発症していた可能性もある。それがジャッキーの身体面や情緒面に様々に作用し,ひいては,いろいろなかたちで当時の演奏に影響を与えていたというのは大いにあり得る話しである。
なお,使用したチェロの響きの相違が聴く者にかなり違った聴後感を与えている点は指摘しておきたい。旧録音に使用したのは同じ年に後援者イスメナ・ホーランド夫人から提供された「ダヴィドフ」だと思うが,新録音に使用したのはこの直前に製作された「ペレッソン」である。この事実は,前記イーストンの著作の「このとき彼女は,特製の真新しいチェロを使った。」(P239参照)によって確認できる。ヒラリーらの著作には,バレンボイムがジャッキー(とダヴィドフの響きに不満を持っていた自分自身)のためにフィラデルフィアの楽器制作者セルジオ・ペレッソンにチェロの製作を依頼したのは1971年とあるが,イーストンの著作には,前記のほか,「ペレッソンは(中略)エルガーの録音に間に合うように楽器を仕上げた。」とあるなど記述が具体的。こちらの方の信憑性が高いと思われる。
繊細な「ダヴィドフ」と違い,後に「戦車のように頑丈」と賛美した「ペレッソン」の出来に気をよくしたジャッキーが,この楽器の限界に挑戦するかのように,いつもならず意欲的な表現に出たというのも十分考えられる。
ダヴィドフの音色は確かに深い。しかし,エルガーのチェロ協奏曲では,それがある種の重苦しさを生む原因になっているような気もする。どうだろうか。

 新録音はこの曲のオーソドックスな演奏とは必ずしも言えない。しかし,この後間もなくジャッキーを襲った急激な体の変調,そして,早過ぎた引退に思いを致したとき,これは,「不滅の名盤」と呼ばれる旧録音をもってしても代替できない価値を持っていると思う。イーストンの著作には,ジャッキーが,指導していたマルシア・ジーヴィンらとこの録音を聴いた後,「これは私の白鳥の歌だった。」と語るシーンがある。ジャッキーのファンで新録音は未聴という方には一聴をおすすめしたい。
また,この曲自体やジャッキーの旧録音にはどうも馴染めないという方にもこの新録音などどうであろうか。案外,新録音,この曲とジャッキーを知るには福音になるような気がする。

追記 本文に書き漏らしたので,ここで。旧録音で聴くジャッキーらの演奏が卓抜したものであることを否定するつもりは全くない。しかし,管理人は,常日頃,各所で見聞きする「競合盤など存在しないが如き評」はこの曲にとって実に不幸なことだと思っている。アルト・ノラスとサラステ/フィンランド放響の演奏など,実に素晴らしいと思うのだが・・・。

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