表題のディスクは,『マイスターコンツェルトBOX-100枚組』の1枚で,某オークションサイトで分売されていたもの。
カップリングは,ハスキルとアンダのソロ,ガリエラ指揮のモーツァルトのピアノ協奏曲第10番。目当ては表題曲だが,どちらかと言えば,ゼルキンのピアノよりオーマンディの付けの方に興味があった。
管理人はセル親派。件のディスクはリベラ33さんのブログに触発されて落札したのではあるが,正直なところ,さほど期待はしていなかった。しかし,この録音で聴く演奏は,管理人の抱くオーマンディのイメージを大きく揺るがすものであった。いやはや,好き嫌いはあるとしても,これは大変な演奏である。以下,簡単に感想を書き留めておきたい。
第1楽章冒頭から,そのテンポの速さに驚いてしまう。この第1楽章の所要時間は,12’33。61年のセルとの録音では14’23,81年のアバドとの録音では14’46。レコードプレーヤーで鑑賞していた時代なら,先ず,ほとんどの人が「回転数を間違えた」と勘違いしそうなテンポだと思う。因みに,カーゾン/ブリテン盤は15’05。名盤の誉れ高いグルダ/アバド盤は15’30。以前管理人が聴いてかなり速いと感じたアルゲリッチ/ラビノヴィチ/パトヴァ・ヴェネト管の演奏でも13’33だから,12’33がいかに速いかおわかりいただけると思う(以上あげたものは,いずれも,ベートーヴェン作のカデンツァを使用している)。
ただ,オケは,名にし負う,フィラデルフィア管。このテンポでも「いっぱい,いっぱい」といった感じはなく,余裕綽々。全く危なげがない。また,テンポが速い分,上滑りするような演奏かといえば,そんなことばない。情念に突き動かされたかのような激しさはちょっと尋常ではない。「ボンの作曲家がカデンツァまで物したのももっともと思わせる演奏」と言えば,その劇性のいくばくかは伝わるだろうか。
それにしても,20年を措いたセルとの録音とアバドとの録音とでは第1楽章の所要時間にほとんど変わりがないのに,何故,51年のオーマンディとの録音はこうまで違うのか。
ゼルキンは1903年生まれだから,51年録音時は48歳。61年録音時は58歳だが,ピアニストとして老けこむ年齢ではないから,技術が落ちて遅くなったというのは考えにくい。そうなると,51年のテンポはオーマンディ主導のものということになるが,「それにしても,この直情径行,「トスカニーニ指揮」でも十分通用するなぁ。」と思った瞬間,謎が解けたような気がした。何のことはない,このテンポは,ゼルキンでも,オーマンディでもなく,トスカニーニのそれではないのか。いや,それがあまりに具体に過ぎると言うのなら,時代のテンポと言い換えてもいい。
オーマンディがアカデミックな教育を受けたのはブダペスト。しかし,やはり,彼が早くにアメリカに渡り,彼の地で新即物主義の洗礼を決定的に受けたという事実は重いのではなかろうか。何より,51年と言えば,トスカニーニはまだ現役であった。また,オーマンディが31年に初めてフィラデルフィア管の指揮台上に立ったのは,他でもない,トスカニーニの代役としてだった。これも無視できない事実のような気がする。オーマンディがトスカニーニから負うたところは相当に大きかったと想像するのだが,どうだろう。このディスクで聴かれる速めのテンポと激情のほとばしりはその傍証,というのは穿ち過ぎだろうか。
因みに,トスカニーニのディスコグラフィーを覗くと,モーツァルトのピアノ協奏曲では,第27番があるだけで第20番は見あたらない。諦念(あるいは,定年)なきマエストロには20番がより相応しい気も,というのは冗談だが,オーマンディの付け方は「トスカニーニも斯くや」と思わせるほど激しいものである。
ゼルキンについても触れておかなければ。何と言っても,これはピアノ協奏曲。主役は彼なのだから。
さすがに,壮年期の演奏。技術的には,まずは安心して聴くことができる。アバドとの録音も素晴らしいけれど,あの盤の第3楽章ではピアノに容易に弾き進まない「もたつき」のようなものをどうしても感じてしまう。管理人は,81年時のゼルキンは,27番ならともかく,20番を演奏するには少し枯れ過ぎていたようにも思うのだが,どうだろうか。
もし,管理人が3枚のうち「ゼルキンの20番」として取るならどれかと問われれば,現在のところは,セルとの録音と答えることになると思う。アバドとの録音との比較であれば,躊躇なくそう答える。アバドとロンドン響も良い。しかし,セルとコロンビア響(実体はクリーヴランド管)の付け方は完璧だ。第3楽章冒頭,ピアノ独奏から引き継いだオケの素晴らしさといったらちょっとない。
オーマンディとの録音は,演奏の性質が違うだけに優劣を決めるのは難しいけれど,上記のとおり,こちらはテンポの設定を含め表現が相当にドラマティック。20番は21番ではないとしても,これは,気安く「ちょっと聴いてみよう」といった気にはなれない演奏である。また,鑑賞には全く支障はないものの,モノラルというのも選択を躊躇する理由のひとつになろうか。第2楽章中間部でのピアノと木管の絡み合いでは,キンケイドらの名人芸を堪能したいところだが,分離が今ひとつ。何とももどかしい。やはり,どれかひとつとなれば,セルとの録音ということになりそうだ。
なお,ゼルキンの20番の正規録音には,上にあげた3種のほか,シュナイダー/マールボロ祝祭管との57年録音もあるようだ。どのようなテンポ設定かなど興味深いが,現在のところ未聴である。
いずれにしても,この演奏は,巷間言われる,「豪華絢爛(にして,内容空疎)」,「耳に心地良い(だけ)」,「感覚的な洗練(のみ)」,「(ホームミュージックなら)一家に一枚オーマンディ」といった,オーマンディとフィラデルフィア管に対する含みのある評価を動揺させるに十分なもののように思われる。リベラ33さんの表現をお借りするなら,まさに「ハイドン94」といったところ。
ただ,数は少ないけれど,管理人所有のオーマンディのディスクからは,いつの時代も彼のマエストロが表題ディスクにあるような演奏をしていたとはとても思えないのだ。あるいは,トスカニーニという強烈な個性の照射を受けていたこの時期(だけ)の彼の演奏の特徴なのだろうか。
カップリングは,ハスキルとアンダのソロ,ガリエラ指揮のモーツァルトのピアノ協奏曲第10番。目当ては表題曲だが,どちらかと言えば,ゼルキンのピアノよりオーマンディの付けの方に興味があった。
管理人はセル親派。件のディスクはリベラ33さんのブログに触発されて落札したのではあるが,正直なところ,さほど期待はしていなかった。しかし,この録音で聴く演奏は,管理人の抱くオーマンディのイメージを大きく揺るがすものであった。いやはや,好き嫌いはあるとしても,これは大変な演奏である。以下,簡単に感想を書き留めておきたい。
第1楽章冒頭から,そのテンポの速さに驚いてしまう。この第1楽章の所要時間は,12’33。61年のセルとの録音では14’23,81年のアバドとの録音では14’46。レコードプレーヤーで鑑賞していた時代なら,先ず,ほとんどの人が「回転数を間違えた」と勘違いしそうなテンポだと思う。因みに,カーゾン/ブリテン盤は15’05。名盤の誉れ高いグルダ/アバド盤は15’30。以前管理人が聴いてかなり速いと感じたアルゲリッチ/ラビノヴィチ/パトヴァ・ヴェネト管の演奏でも13’33だから,12’33がいかに速いかおわかりいただけると思う(以上あげたものは,いずれも,ベートーヴェン作のカデンツァを使用している)。
ただ,オケは,名にし負う,フィラデルフィア管。このテンポでも「いっぱい,いっぱい」といった感じはなく,余裕綽々。全く危なげがない。また,テンポが速い分,上滑りするような演奏かといえば,そんなことばない。情念に突き動かされたかのような激しさはちょっと尋常ではない。「ボンの作曲家がカデンツァまで物したのももっともと思わせる演奏」と言えば,その劇性のいくばくかは伝わるだろうか。
それにしても,20年を措いたセルとの録音とアバドとの録音とでは第1楽章の所要時間にほとんど変わりがないのに,何故,51年のオーマンディとの録音はこうまで違うのか。
ゼルキンは1903年生まれだから,51年録音時は48歳。61年録音時は58歳だが,ピアニストとして老けこむ年齢ではないから,技術が落ちて遅くなったというのは考えにくい。そうなると,51年のテンポはオーマンディ主導のものということになるが,「それにしても,この直情径行,「トスカニーニ指揮」でも十分通用するなぁ。」と思った瞬間,謎が解けたような気がした。何のことはない,このテンポは,ゼルキンでも,オーマンディでもなく,トスカニーニのそれではないのか。いや,それがあまりに具体に過ぎると言うのなら,時代のテンポと言い換えてもいい。
オーマンディがアカデミックな教育を受けたのはブダペスト。しかし,やはり,彼が早くにアメリカに渡り,彼の地で新即物主義の洗礼を決定的に受けたという事実は重いのではなかろうか。何より,51年と言えば,トスカニーニはまだ現役であった。また,オーマンディが31年に初めてフィラデルフィア管の指揮台上に立ったのは,他でもない,トスカニーニの代役としてだった。これも無視できない事実のような気がする。オーマンディがトスカニーニから負うたところは相当に大きかったと想像するのだが,どうだろう。このディスクで聴かれる速めのテンポと激情のほとばしりはその傍証,というのは穿ち過ぎだろうか。
因みに,トスカニーニのディスコグラフィーを覗くと,モーツァルトのピアノ協奏曲では,第27番があるだけで第20番は見あたらない。諦念(あるいは,定年)なきマエストロには20番がより相応しい気も,というのは冗談だが,オーマンディの付け方は「トスカニーニも斯くや」と思わせるほど激しいものである。
ゼルキンについても触れておかなければ。何と言っても,これはピアノ協奏曲。主役は彼なのだから。
さすがに,壮年期の演奏。技術的には,まずは安心して聴くことができる。アバドとの録音も素晴らしいけれど,あの盤の第3楽章ではピアノに容易に弾き進まない「もたつき」のようなものをどうしても感じてしまう。管理人は,81年時のゼルキンは,27番ならともかく,20番を演奏するには少し枯れ過ぎていたようにも思うのだが,どうだろうか。
もし,管理人が3枚のうち「ゼルキンの20番」として取るならどれかと問われれば,現在のところは,セルとの録音と答えることになると思う。アバドとの録音との比較であれば,躊躇なくそう答える。アバドとロンドン響も良い。しかし,セルとコロンビア響(実体はクリーヴランド管)の付け方は完璧だ。第3楽章冒頭,ピアノ独奏から引き継いだオケの素晴らしさといったらちょっとない。
オーマンディとの録音は,演奏の性質が違うだけに優劣を決めるのは難しいけれど,上記のとおり,こちらはテンポの設定を含め表現が相当にドラマティック。20番は21番ではないとしても,これは,気安く「ちょっと聴いてみよう」といった気にはなれない演奏である。また,鑑賞には全く支障はないものの,モノラルというのも選択を躊躇する理由のひとつになろうか。第2楽章中間部でのピアノと木管の絡み合いでは,キンケイドらの名人芸を堪能したいところだが,分離が今ひとつ。何とももどかしい。やはり,どれかひとつとなれば,セルとの録音ということになりそうだ。
なお,ゼルキンの20番の正規録音には,上にあげた3種のほか,シュナイダー/マールボロ祝祭管との57年録音もあるようだ。どのようなテンポ設定かなど興味深いが,現在のところ未聴である。
いずれにしても,この演奏は,巷間言われる,「豪華絢爛(にして,内容空疎)」,「耳に心地良い(だけ)」,「感覚的な洗練(のみ)」,「(ホームミュージックなら)一家に一枚オーマンディ」といった,オーマンディとフィラデルフィア管に対する含みのある評価を動揺させるに十分なもののように思われる。リベラ33さんの表現をお借りするなら,まさに「ハイドン94」といったところ。
ただ,数は少ないけれど,管理人所有のオーマンディのディスクからは,いつの時代も彼のマエストロが表題ディスクにあるような演奏をしていたとはとても思えないのだ。あるいは,トスカニーニという強烈な個性の照射を受けていたこの時期(だけ)の彼の演奏の特徴なのだろうか。