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音楽と映画の周辺

核心ではなく, あくまでも物事の周辺を気楽に散策するブログです。

ジャクリーヌ・デュ・プレ/ダニエル・バレンボイム ベートーヴェン『チェロ・ソナタ第5番』

2012-08-26 20:50:43 | クラシック
 オリンピック期間中に大竹まこと「ゴールデン・ラジオ!」を聴いていたときのこと。サッカーの審判員が全員長袖を着ていたという話から,「向こう(GBのこと)は涼しいらしい。」という話になったとき,ジャッキーとバレンボイムのベートーヴェンのチェロとピアノのための作品全曲演奏会のライヴ録音のことを思い出した。1970年の8月25日,26日の両日,エジンバラのアッシャー・ホールで行われた演奏会の模様を収録したBBCの放送用音源である。
以下は,EMIグランドマスター・シリーズ盤の三浦淳史氏のライナーノーツの中で引用されているペンギン・ガイドブックからの抜粋。

 スコットランドの聴衆はしばしば腹だたしいほど気管支炎的であるけれども,規律をもたらすバレンボイムと叙情的な個性を引き出す彼の妻による演奏は総体的に感嘆しないではいられないものがある。

ジャッキーを捉まえて「彼の妻」は無いと思うのだが,それはさておくとして,咳やくしゃみが出るのも無理はない。この書きぶりからして該ガイドブックの評者はご存じないようだが,この年のエジンバラの天候は,8月というのに日中でも気温が8℃までしかあがらなかったというくらい異常だったのだ。これは,同じ年の8月23日にエジンバラ,同24日にリースに滞在していたという柴田南雄氏が著書の中でお書きになっていることである(『名演奏家のディスコロジー』所収の「デュ・プレのベートーヴェン/チェロ・ソナタ全集」)。35℃には参ってしまうけれど,8月に8℃もねぇ・・・。
1970年はベートーヴェンの生誕200年にあたるアニヴァーサリー・イヤー。C.イーストン『ジャクリーヌ・デュ・プレ』(青玄社)によれば,ジャッキーと彼女の夫は,8月までに,ベートーヴェンのソナタを,トロント,ロサンゼルス,オックスフォード,ブライトン,テル・アヴィヴ,ロンドンの各地で演奏。これに続くエジンバラ音楽祭での演奏はツアーの締め括りにあたっていたものと思われる。演奏は全て手の内に入っているという感じ。柴田氏も,ジャッキーの美質を「真に女性ならではの魅力的な歌い方に尽きる」と誉めあげ,2人の演奏を絶賛している。
ところで,柴田氏は「この楽器は例の,匿名の人からのストラディヴァリウスであろう。」とお書きになっている。「匿名の人からのストラディヴァリウス」は,言うまでもなく,「イスメナ・ホーランド夫人から貸与された名器ダヴィドフ」のことである。もちろん,その可能性は否定できないのだが,ジャッキーは,1968年か1969年には,コンディションの悪くなったダヴィドフの代わりに,これまた名器のゴフリラーを楽器商のチャールズ・ベアから入手している。バレンボイムは,音がはっきり聞こえないことがあると言ってダヴィドフを気に入っていなかったという話もある。碩学に異を唱えるようで恐縮だが,この録音での使用楽器,ゴフリラーの可能性もあると思う。この第5番のソナタには,1965年12月録音のコワセヴィチとの共演盤(これがまた名演)もある。これにダヴィドフを使用しているのはほぼ間違いないのだが,1970年のライヴ録音に使用している楽器はこれとはちょっと響きが異なるような気がするのだ。どうだろうか。デリケートなダヴィドフを長いツアーに持って歩くのも避けたいところでは。
因みに,ジャッキーがペレッソンを最初に手にするのは1970年の11月。この録音より後である。

 表題は,連続演奏会の掉尾を飾る42年前のまさに今日行われた第5番の演奏。柴田氏は,連続演奏のせいか2日目はやや疲労気味のように思えるとその印象をお書きになっているが,いやいや,沈潜した第2楽章の緊迫感,素晴らしいではないか。

 そう言えば,ベートーヴェンのチェロ・ソナタは,彼女がスタジオで録音しようとした最後の曲であった。ショパンのチェロ・ソナタとフランクのチェロ・ソナタ(ヴァイオリン・ソナタの編曲版)の録音が予定より早く終了。ジャッキー本人が第1番の録音を希望したので録音を開始したものの,急に疲れを覚え,第1楽章でほどなく中断と相成った。ジャッキーはこの時,「今日はこれでおしまい。」と言いながら,ペレッソンをチェロケースに納めたという。1971年12月11日のことである。この日を最後に彼女がチェロを持ってスタジオに現れることはなかった。

ベートーヴェン:チェロ・ソナタ全集
クリエーター情報なし
EMIミュージックジャパン

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マリア・カラスほか ロッシーニ『歌劇セビリャの理髪師からカヴァティーナ「今の歌声は」』

2011-11-27 20:51:35 | クラシック
Maria Callas- Una Voce Poco Fa


Una voce poco fa
qui nel cor mi risuonò;
il mio cor ferito è già
e Lindor fu che il piagò.
Sì, Lindoro mio sarà;
lo giurai, la vincerò
少し前に,この私の心の中に
一つの声がひびきわたったわ。
私の心はもう傷ついてしまったのよ,
傷つけたのは勿論リンドーロだわ。
そうよ,リンドーロは勿論私のものになるでしょう,
私は誓います,きっと仕遂げて見せましょう。

Il tutor ricuserà
io l'ingegno aguzzerò
Alla fin s'accheterà
e contenta io resterò...
Sì, Lindoro mio sarà;
lo giurai, la vincerò.
私の後見人は拒むでしょう。
でも私は知恵を絞りましょう。
結局,後見人はあきらめて,
私の思うようになるでしょう。
そうです,リンドーロは勿論私のものになるでしょう。
私は誓います,きっと仕遂げて見せましょう。

Io sono docile, - son rispettosa,
sono obbediente, - dolce, amorosa;
mi lascio reggere, - mi fo guidar
私は気立てもよいし,行儀もよく,
素直で,やさしく,可愛らしい。
私は思う通りにさせておきましょう。

Ma se mi toccano - dov'è il mio debole,
sarò una vipera, - e cento trappole
prima di cedere - farò giocar.
だけど,若しも私の弱みにつけこむようなら,
私は蛇になりましょう,そして負ける前に
いくらでも計略をめぐらせて見せましょう。
(訳:鈴木松子)


 表題は,グイ盤と並び,名盤の誉れ高いガリエラ盤(1957年録音)から。ロジーナは,後見人であるにもかかわらず財産狙いで彼女との結婚を目論む医師バルトロによって半ば幽閉されている。このカヴァティーナは,ロジーナが彼女に一目惚れしたリンドーロ(実は,アルマヴィーヴァ伯爵)を思って歌うというもの。

ユルゲン・ケスティングは,その著書『マリア・カラス』(鳴海史生訳,アルファベータ)の中で,ロジーナを「常に何かを期待し,夢見るタイプの女性」と言い,この魅惑的かつ威嚇的なカヴァティーナでのカラスの歌を,その装飾的表現がテキストにピタリと合っていることを理由に絶賛している。

ケスティングの言うとおり,ここでのカラスは素晴らしい。カラスのロジーナは,第4節に入る前の「Nn~~~~~~ma!」から,スピントを効かせて「夢想する女」から「妄想する女」に成り変わる。それは,さながら,テキストそのまま「鎌首もたげた蛇」といったところか。この辺り,興味がおありなら,YouTubeのライヴ映像の方もご覧いただきたい。第3節に入るところで,穏やかだったカラスの目つきが変わるのが観物。その強烈な個性故,好悪は二分されるのだろうが,マリア・カラス,やっぱり凄いと思う。
因みに,上記ケスティングの著書の「第3章 表現のパラドックス あるいは美しい声と醜悪な声」には,カラスという人の芸術性に関わるものとして,次のような記述がある。

(前略)言葉は,いわば音楽による彫刻の構成要素となり,カラスの声がその生命を呼び覚ました。彼女の声は声楽的な花火を高次の表現に高め,決して単なる装飾に堕することがなかった。テクニックは音楽表現に,声の美はドラマ上の真実に従属した。『美しい声をもつだけでは十分ではありません』- マリア・カラスはのちにそう語った。『それにはどんな意味があるというのでしょう?ある役を演じるときには,幸福,喜び,悲しみ,恐れを表現するために,無数の音色をもたなくてはなりません。ただの美しい声に,それは可能でしょうか?私がしばしばそうしてきたように,粗暴に歌うこともまた,表現のためには必要なのです。たとえ人々が理解してくれないとしても,そうしなくてはならないのです!』

最後になったが,このカヴァティーナ,ガリエラ/フィルハーモニア管が変幻自在なカラスの呼吸にピタリと付けている。素晴らしい。

ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス
カラス(マリア),ステファノ(ジュゼッペ・ディ),ティコッツィ(エベ)
EMIミュージック・ジャパン

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トゥレチェク/べーム/ウィーン・フィル モーツァルト『オーボエ協奏曲』(2)

2011-11-27 14:44:30 | クラシック
 以前,「トゥレチェク/べーム/ウィーン・フィル モーツァルト『オーボエ協奏曲』」というエントリの最後の方で次のように書いた。

 因みに,トゥレチェクは,1985年に,プレヴィン,そして他のウィーン・フィルのメンバーと共に,モーツァルトとベートーヴェンのピアノ五重奏曲を録音している。表題の録音時(1974年)に使用したオーボエがヤマハ製でないのはほぼ間違いないが,プレヴィンらとの録音にはヤマハ製のオーボエを使用した可能性が高い。こちらは現在のところ未聴だが,いつか響きを比較してみたいものだ。

少し前,念願かなって上記ピアノ五重奏曲の入ったテラーク盤を聴くことができた。結論,などと言うと大層だが,トゥレチェクが協奏曲と五重奏曲で異なるオーボエを使用しているのは誰の耳にも明らかである。「ヤマハ管楽器の歴史」によれば,ヤマハがトゥレチェクからウィンナオーボエの生産依頼を受けたのが1977年で,ウィンナオーボエ(YOB-804)の受注生産をスタートしたのが1982年。トゥレチェクが五重奏曲で使用しているオーボエは,おそらく,ヤマハ製であろう。
テラーク盤の五重奏曲も素晴らしい演奏である。特に,第2楽章ラルゲットの,Ob(トゥレチェク),Cl(シュミードル),Fg(ファルトル),Hrn(アルトマン)のフレーズの受け渡しなどは絶品。プレヴィンのピアノは,モーツァルトらしく,やや軽めの音。内田光子やシフのような際だった個性はなく,管楽器のアンサンブルの中に違和感無く溶け込んでいる。このピアノには,微温的で物足りないという人もいるかもしれないが,これはこれで十分素晴らしいと思う。

 さて,五重奏曲を聴いてしばらくしてから,表題のオーボエ協奏曲を久しぶりに聴いてみた。そして,初めてこの録音を聴いた時のことを思い出した。私は,あの時,オケの前奏の後に現れたオーボエの音に「?」と思い,次にゲラゲラ一人で笑い出し,聴き進むうち,陶然としてしまったのだ。
確かに,ヤマハによる,欠点まで共有する本物の復元 → 欠点除去 → 本物を超える品質達成,という仕事は素晴らしい。この清々しい音を耳にしていると,「痘痕(あばた)も靨(えくぼ)」ではないが,1970年代に日本人がウィーン風などといって有り難がっていたものは,ヘッケルの職人同様疲弊したオーボエの呻きや悲鳴の類のものだったかも・・・,などと思ってしまうほど。それに,何と言っても,ヤマハは,トゥレチェクから依頼があった時,タイプのいかんを問わず,未だオーボエの開発に着手していなかったのだ。これは驚くべき事だ。
ただ,一方で,2つの録音を聴き比べていた時,ふと思ったのだ。コンピュータ・シミュレーションを駆使してオミットされた「鳴りムラ」や「個体差」といったものが,ある面,魅力的なものでもあったということを。つまり,今にして思えば,それは,「欠点」の2文字で切り捨て,片付けてしまうには少しばかり惜しいものであった,ということなのだが。

 あれこれ書いたが,あのトゥレチェク盤,あらためて名盤だと思った。あれを手放すことはないだろうなぁ。柴田南雄氏を真似るなら,「小生のライブラリーでは永久保存盤扱いとしよう。」といったところか。

モーツァルト&ベートーヴェン:管楽器とピアノのための五重奏曲
プレヴィン(アンドレ)
ユニバーサル ミュージック クラシック


モーツァルト:オーボエ協奏曲
ベーム(カール)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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カール・リヒターほか J.S.バッハ『マタイ受難曲から第45曲「バラバを!」』(1971年)

2011-09-10 20:56:23 | クラシック
Bach - St. Matthew Passion BWV 244 (Karl Richter, 1971) - 14/22


45a. Recitative (T-B-S & Chorus I & II)

Evangelist:
Auf das Fest aber hatte der Landpfleger Gewohnheit, dem Volk einen Gefangenen loszugeben, welchen sie wollten. Er hatte aber zu der Zeit einen Gefangenen, einen sonderlichen vor andern, der hieß Barrabas. Und da sie versammlet waren, sprach Pilatus zu ihnen:
福音書記者:
ところで総督は祭の際に民衆の望む囚人のひとりを釈放する習いだった。彼のもとには当時並み外れた囚人がいて,その名をバラバと言った。民衆が集まってきたとき,ピラトは彼らに言った。

Pilate:
Welchen wollet ihr, daß ich euch losgebe? Barrabam oder Jesum, von dem gesaget wird, er sei Christus?
ピラト:
どちらの釈放を望むか,バラバか,それとも,キリストだと言われるイエスか。

Evangelist:
Denn er wußte wohl, daß sie ihn aus Neid überantwortet hatten. Und da er auf dem Richtstuhl saß, schickete sein Weib zu ihm und ließ ihm sagen:
福音書記者:
なぜなら彼は,イエスがねたみのために渡されたことをよく知っていたからである。ピラトが裁きの席に座っていると,彼の妻が人をやって,こう言わせた。

Procula:
Habe du nichts zu schaffen mit diesem Gerechten; ich habe heute viel erlitten im Traum von seinetwegen!
ピラトの妻:
この正しい人とかかわりませぬように。この人のことで,今日夢でずいぶんうなされました。

Evangelist:
Aber die Hohenpriester und die Ältesten überredeten das Volk, daß sie um Barrabam bitten sollten und Jesum umbrächten. Da antwortete nun der Landpfleger und sprach zu ihnen:
福音書記者:
しかし祭司長たちと長老たちは民衆を説得して,バラバの釈放とイエスの処刑を求めさせた。そこで総督は答えて言った。

Pilate:
Welchen wollt ihr unter diesen zweien, den ich euch soll losgeben?
ピラト:
この二人のうちどちらを釈放しろと言うのか。

Evangelist:
Sie sprachen:
福音書記者:
彼らは言った。

Chorus:
Barrabam!
合唱:
バラバを!

Evangelist:
Pilatus sprach zu ihnen:
福音書記者:
ピラトは彼らに言った。

Pilate:
Was soll ich denn machen mit Jesu, von dem gesagt wird, er sei Christus?
ピラト:
では,キリストだと言われるイエスは,いったいどうしろろ言うのか。

Evangelist:
Sie sprachen alle:
福音書記者:
彼らはこぞって言った。

45b. Chorus I & II:
Laß ihn kreuzigen!
合唱:
十字架につけろ!
(訳:礒山雅)


 笠原潔著『音楽家はいかに心を描いたか バッハ,モーツァルト,ベートーヴェン,シューベルト』(左右社)に,「マタイ受難曲」中,イエスを罪に陥れるために現れた男女2人の証人が偽証する場面に関する記述がある。ご存じのとおり,この場面では技法としてカノン形式が用いられている。以下はその引用。

 《マタイ受難曲》では,カノン形式(同じ旋律を複数の声部が異なる時点から開始し演奏する形式)が,無定見な発言や同調的発言,付和雷同や異口同音に発言する様を描くのに用いられる。ここもそうした例の一つである。

この記述を読んだ時,「なるほどなぁ。」と思い,該当頁の端を少しだけ折り返しておいた。これは,本を傷めることは知りつつも,ついしてしまう私の癖である。そして,そのまま読み進め,程無く読了。結局,上記記述については特に読み返すようなことはしなかったと思う。

 さて,それからしばらく経って,リヒター/ミュンヘン・バッハ管弦楽団・同合唱団他による『マタイ受難曲』(旧録音)を聴いていた時のこと。曲が第45曲から第46曲のコラール「なんと驚くべき刑罰だろう」に入りかけたところで,突然,件の記述が脳裏に浮かぶと共に,何故「バラバを!」でこれほど衝撃を受けるのか,その理由が漸く分かったような気がした。
マタイ福音書には,民衆は,釈放すべき罪人を選ぶにあたり,祭司長らからバラバを選ぶよう説得されたというくだりがある。「説得」という表現からは,イエスの釈放に与する人々も少なからずいたことや,バラバという選択が必ずしも自律的なものではなかったことがうかがえる。とすれば,この場面にはカノン形式が相応しいようにも思えてくる。そもそも,「民衆」という括りはカノン形式と親和的である。しかし,バッハはそれは用いず,ただ一度叫ばせる方法を選んだ。しかも,強烈な不協和音に乗せて。つまり,バッハは,カノン形式なら上がり調子の「バラバの方が良くね?」,「だよね。」みたいになるところ,それを避け,一度だけ叫ばせることによって,無定見や付和雷同とは対極にある「断じてバラバを!」としたのだ。これにより,聴く者は,弱々しい個々が一瞬にして暴力的なマスに成り変わる様を目の当たりにすることになる。「バラバを!」を聴く時に覚える衝撃はここから来るものであろう。
一方,テキストの持つ意味合いからすれば,直後の「十字架につけろ!」の方が遙かに衝撃的なはず。実際,ミュンヘン・バッハ合唱団の歌は迫力に充ちているが,こちらはカノン形式のため却ってその衝撃は弱められている。この辺り,なんとも興味深い。もし,カノン形式の採否が逆ならどうなっていただろう。おそらく,現在聴くような劇的な効果は生まれなかったと思うのだが。

 上記YouTubeは,1971年5月収録の映像。第45曲は7:40~9:46の部分である。合唱による「バラバを!」の前,それまで精力的だったエヴァンゲリストのシュライヤーが,「Sie Sprachen(彼らは言った。)」の後,合唱の入りを待たず,肩を落としながら目を伏せてしまう様子が印象的だ。

バッハ:マタイ受難曲
ゼーフリート(イルムガルト),ミュンヘン・バッハ(合),テッパー(ヘルタ),ヘフリガー(エルンスト)
ポリドール


J.S.バッハ マタイ受難曲 BWV244 [DVD]
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ユニバーサル ミュージック クラシック


音楽家はいかに心を描いたか--バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト (放送大学叢書)
笠原潔
左右社

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フォン・シュターデほか ロッシーニ『歌劇チェネレントラから「悲しみと涙のうちに生まれて」』

2011-09-04 18:02:43 | クラシック
Nacqui all'affanno... Non piu mesta: Frederica von Stade


Nacqui all'affanno...Non piu mesta

Nacqui all'affanno e al pianto,
Soffri tacendo il core;
Ma per soave incanto
Dell'eta mia nel fiore,
Come un baleno rapido
La sorte mia, la sorte mia cangio.
悲しみと涙のうちに生まれて
じっと黙って耐え忍びましたが,
うっとりするような魔法によって
私の年頃の花盛りに
さっと稲妻が射すように
私の運命は一変しました。

No, no! tergete il ciglio :
Perche tremar, perche?
A questo sen volate,
Figlia, sorella, amica,
Tutto, tutto, tutto, tutto trovate in me.
Padre, sposo, amico, oh istante!
いいえ,どうか涙をお拭きなって。
どうして震えるのです?
この胸に飛んでいらっしゃい。
娘です,妹です,友だちです。
私はそれ以外の何者でもありません。
お父様,貴方,友だち,ああ,今この時!

Non piu mesta accanto al fuoco
Staro sola a gorgheggiar, no!
Ah fu un lampo, un sogno, un gioco
Il mio lungo palpitar.
もう炉端でひとり悲しげに
おずおず歌っていたりしないでしょう。
私の長い苦しみも,ああ,
一瞬のことに,夢に,戯れになりました。


 先のエントリで,生意気にも,バルトリのチェネレントラについて「これは,私の中にイメージとしてあるチェネレントラとは少し違う。」などと書いた。
「私の中にイメージとしてあるチェネレントラ」とは,ポネル演出,アバド/ミラノ・スカラ座歌劇場管弦楽団・同合唱団の映像でフレデリカ・フォン・シュターデが歌い,演ずるチェネレントラである。

フリッカの歌は,ウォブルと言ったらいいのか,声の震えが気になるものもないではない。彼女のカントルーブ『オーベルニュの歌』はそのようなもののひとつ。冒頭の「バイレロ」を聴いた時はちょっとがっかりしたっけ。
しかし,表題映像のフリッカは実に素晴らしい。歌も,そして,その輝くような美貌も。
亡くなった三浦淳史さんのお書きになった「琥珀色のラヴリー・ヴォイス:フレデリカ・フォン・シュターデ」に,彼女がマネス音楽カレッジの入学試験を受けた時のエピソードが載っている。美しい声質に惚れ込んだ試験官たちは即座にフリッカの入学を許可。それに対し,彼女,音符が全然読めないと告白したところ,試験官たちは,それを貴方に教えることこそ自分たちの仕事であると答えたのだそうな。彼らが惚れ込んだのは本当に声質だけだったのだろうか? まぁ,冗談は止めておこう。いずれにしても,彼女にはその美貌について負うべき責任は何もないのだから。

 この映像,ポネルの演出が実に細やか。観ていて楽しい。
謝罪しようと思いつつも恥辱からそれができない姉たち,王妃になることに恐れを抱くアンジェリーナと彼女を支えようとする王子ドン・ラミーロ。ポネル演出では,終幕だけでも,こういった登場人物の心の動きがユーモラスかつ的確にとらえられている。最後,「ああ,去りゆけ憂いよ」で,フリッカがロングに引いていったカメラに歌いながら近づいてくるところなど,何度観てもウットリしてしまう。

 この映像は脇役陣も素晴らしい。
姉クロリンダ役のマルゲリータ・グリエルミ。もう少し丈(たけ)があれば・・・,と思わずにはいられないほどの声,そして演技力。次に,継父ドン・マニフィコ役のパオロ・モンタルソロ。この人は,ご存じのとおり,ロッシーニのオペラのブッフォ役では欠かすことの出来ない名歌手であった。この『チェネレントラ』でも彼の国宝級のがに股(?)が堪能できる。
しかし,この映像で一番の脇役といえば,従者ダンディーニ役のクラウディオ・デズデーリではなかろうか。娘たちの心を試すためにと,王子ドン・ラミーロから王子役に仕立てられたダンディーニは,登場時の,シルクハットに黒マント,片眼鏡に深紅のバラという出で立ちからして可笑しさ一杯,怪しさ一杯。それにしても,主君を差し置いてこのお腹はないなぁ。これだと,間違いなく「経過観察」,いや,「要精検」だ。

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エリーナ・ガランチャほか ロッシーニ『歌劇チェネレントラから「悲しみと涙のうちに生まれて」』

2011-08-11 22:37:13 | クラシック
Elina Garanca - Nacqui all'affanno...Non piu mesta - La Cenerentola


Nacqui all'affanno...Non piu mesta

Nacqui all'affanno e al pianto,
Soffri tacendo il core;
Ma per soave incanto
Dell'eta mia nel fiore,
Come un baleno rapido
La sorte mia, la sorte mia cangio.
悲しみと涙のうちに生まれて
じっと黙って耐え忍びましたが,
うっとりするような魔法によって
私の年頃の花盛りに
さっと稲妻が射すように
私の運命は一変しました。

No, no! tergete il ciglio :
Perche tremar, perche?
A questo sen volate,
Figlia, sorella, amica,
Tutto, tutto, tutto, tutto trovate in me.
Padre, sposo, amico, oh istante!
いいえ,どうか涙をお拭きなって。
どうして震えるのです?
この胸に飛んでいらっしゃい。
娘です,妹です,友だちです。
私はそれ以外の何者でもありません。
お父様,貴方,友だち,ああ,今この時!

Non piu mesta accanto al fuoco
Staro sola a gorgheggiar, no!
Ah fu un lampo, un sogno, un gioco
Il mio lungo palpitar.
もう炉端でひとり悲しげに
おずおず歌っていたりしないでしょう。
私の長い苦しみも,ああ,
一瞬のことに,夢に,戯れになりました。


 曲は,ロッシーニの歌劇「チェネレントラ」終幕の「悲しみと涙のうちに生まれて」。サレルノの王子ドン・ラミーロから花嫁に選ばれたチェネレントラ(灰かぶり姫)ことアンジェリーナが,彼女にひどい仕打ちをし続けた継父や姉たちを逆にいたわる場面で歌われる。

 ネット上では,メトのライヴ映像で,バルトリのチェネレントラを観ることができる。バルトリのチェネレントラは実に明るく逞しい。このチェネレントラには,継父らの邪険な扱いも「柳に風」と受け流すしたたかさがある。超絶技巧を自在に操るバルトリは確かに凄い。しかし,これは,私の中にイメージとしてあるチェネレントラとは少し違う。もちろん,素晴らしいには違いないけれど。
彼女にはマリナーと共演している映像もあるが,そちらは演奏会におけるもの。歌に集中できることもあってか,メト以上にコロコロコロラトゥーラが全開。とにかく,はち切れんばかりの自信,そして収縮色のドレス。指揮のマリナーなんか見向きもしない様子は,メッゾとはいえ,まさにディーヴァそのものだ。

 メトのライヴ映像では,同じ演出で,ガランチャのものもある。テクニックはバルトリが上かもしれないが,私はガランチャの方が好きだな。スラヴ系のちょっとクールな感じがまたいい。
この映像で驚くのは,歌の合間に,彼女が口元に差し出されたケーキを結構な量食べてしまうところ。初め観たとき「大丈夫?」と思ったが,案の定,ガランチャ本人も「やばい!食べ過ぎちゃった。」みたいに,口元に手をやり,口をモグモグさせている。この後客席に背を向けるのは元々演出にあるのかもしれないが,その間に態勢を整えているのは間違いない。彼女,何事もなかったように振り返り「Non piu mesta・・・」と続けるのだが,ここはちょっとした観どころ。
いずれにしても,メッゾのためにロッシーニは良い曲を書いてくれた。ロッシーニ万歳!!

追記 歌劇「チェネレントラ」は序曲がすごくいい。1枚物のロッシーニ序曲集だと入っていたりいなかったりだが,大好きな曲。

アリア集 (Arie Favorite)
クリエーター情報なし
Ondine

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ナタリー・デッセーほか バーンスタイン『キャンディードからアリア「着飾って,きらびやかに」』

2011-07-18 19:19:15 | クラシック
Natalie Dessay - Glitter and be gay


Glitter and Be Gay

Glitter and be gay,
That's the part I play;
Here I am in Paris, France,
Forced to bend my soul
To a sordid role,
Victimized by bitter, bitter circumstance.
Alas for me! Had I remained
Beside my lady mother,
My virtue had remained unstained
Until my maiden hand was gained
By some Grand Duke or other.

Ah, 'twas not to be;
Harsh necessity
Brought me to this gilded cage.
Born to higher things,
Here I droop my wings,
Ah! Singing of a sorrow nothing can assuage.

And yet of course I rather like to revel,
Ha ha!
I have no strong objection to champagne,
Ha ha!
My wardrobe is expensive as the devil,
Ha ha!
Perhaps it is ignoble to complain...
Enough, enough
Of being basely tearful!
I'll show my noble stuff
By being bright and cheerful!
Ha ha ha ha ha! Ha!

Pearls and ruby rings...
Ah, how can worldly things
Take the place of honor lost?
Can they compensate
For my fallen state,
Purchased as they were at such an awful cost?
Bracelets...lavalieres
Can they dry my tears?
Can they blind my eyes to shame?
Can the brightest brooch
Shield me from reproach?
Can the purest diamond purify my name?

And yet of course these trinkets are endearing,
Ha ha!
I'm oh, so glad my sapphire is a star,
Ha ha!
I rather like a twenty-carat earring,
Ha ha!
If I'm not pure, at least my jewels are!

Enough! Enough!
I'll take their diamond necklace
And show my noble stuff
By being gay and reckless!
Ha ha ha ha ha! Ha!

Observe how bravely I conceal
The dreadful, dreadful shame I feel.
Ha ha ha ha!


 アリソン・ハグリーを聴こうと某所から借りてきた『EMI 100周年グラインドボーン・ガラ・コンサート』だったが,ナタリー・デッセーの歌うクネゴンデのアリア「着飾って,きらびやかに」が聴いていて実に楽しい。オケは,アンドリュー・デイヴィスとLPO。
このアリア,彼女の十八番(おはこ)のようで,ネット上では,表題以外にもいくつか違う映像を観ることができる。中に,フランスのテレビ局で放映されたと思しきものがあった。舞台袖の司会者から「どうぞ,こちらへ」と促されたデッセーが,ステージ中央で「私の方がそっちへ行くの?スターの私が?マジ?」みたいな仕草をしているところがあって,笑ってしまった。若いのに,なかなかだな,デッセー。

 「着飾って,きらびやかに」は,ダムラウの映像もあるが,あれには違和感を覚える。クネゴンデは元を正せば男爵家の令嬢。いくら身を持ち崩したという設定でも,あそこまで擦れっ枯らしに演られるとね・・・。
その点,デッセーは良いな。ちょっとした身のこなし,目の動きでこれだけ笑いを取るのだから,大したコメディエンヌだ。LPOのトップサイドの男性ヴァイオリニストなどは途中から可笑しくて堪らぬといった様子。ソロもあって大変そうなコンミスとは好対照。演奏後,取り澄ました表情でポーズを取るデッセーに,聴衆,デイヴィス,LPOの楽員らがやんやの喝采を送っている。

 デッセーが声帯の故障とかで不調に陥るのはこのガラ・コンサート(1997年4月27日)から数年後のこと。今は,これだけのパフォーマンス,難しいかな?

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ポマリコ/WDRケルン放響 ノーノ『進むべき道はない,だが進まねばならない』

2011-03-20 20:17:00 | クラシック
Luigi Nono : No hay caminos, hay que caminar ... (1/3)


 我が身は安全な所に置いて,勝手なことばかり言う一群の人たちがいる。
説明を聞いたにもかかわらず,何かにつけ,「わかりにくい。」と言う。しかし,もしそれが,「衆愚の後見人」を任じての物言いであるのなら,「どうかお気遣いなく。」と申し上げたい。我々の愚かさは,おそらく,あなた方が考えているほどではない。
とにかく,我々の名義を用いて,各所で賢明な努力を続けている人たちを悪し様に嵩にかかって責め立てるのはやめて欲しい。「情報のようなもの」や「バイアスのかかった意見」をもっともらしく流して我々の不安を煽り立てることもだ。

 さて,今は,一人一人が,自分にできることは何か,自分に求められているのは何かを考えることが大切だ。様々な事情から,直ぐには直接的な行動を起こせないという人もいるだろう。かく言う私もその一人だ。そういう人は,節電,公共交通機関や徒歩による通勤・通学等から始めることで先ずは良いのではないか。ささやかかもしれないが,そのことに負い目や引け目を感じる必要は全くないと思う。
さぁ,分かち合おう。絶望の淵にいる人たちの痛みを共に。

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ロストロポーヴィチ J.S.バッハ『無伴奏チェロ組曲第2番から「サラバンド」』

2011-03-18 23:14:20 | クラシック
Rostropovich Plays Bach 2-iv: Sarabande


 「今,私は喜びと悲しみが交じった複雑な心境です。小澤征爾やN響と協演できるのは非常にうれしいのですが,今回の地震(註:5日前に起きた「阪神・淡路大震災」のこと)で亡くなられた方々のことを思うと,実に悲しいのです。
 これは,この国に与えられた試練です。
 テレビで見ましたが,人々はパニックにも無秩序な事態にもなっていません。こうした日本の人々に,私は改めて敬意を評します。」

- 平成7年1月22日,傷病音楽家のためのチャリティー・コンサートのリハーサル時におこなわれたインタビューで語ったロストロポーヴィチの言葉 -


 「親愛なる皆さん,今日は私にとって特別な日です。私は,大変幸せです。今宵,征爾,そしてN響といっしょに演奏できたのですから。
しかし,今日,私たちには,皆さんを幸せにするだけの力はありません。というのは,この日本で大惨事が起きてしまったからです。世界中が心配しています。私たちは,亡くなった5千人の方々に思いを致さなければなりません。
 私は,皆さんのお許しを得て,亡くなった方々のご冥福を祈り,バッハのニ短調のサラバンドを演奏したいと思います。
お願いです。どうか,演奏が終わっても拍手はなさらないでください。亡くなった方々のために。その静寂によって,私たちの祈りがこのホールから彼らの元に届くことでしょう。ですから,どうかお静かに。(日本語で)ドウモ アリガトウ。」

- 平成7年1月23日,ドヴォルザークのチェロ協奏曲演奏後,万雷の拍手に応え,アンコールとしてバッハの『無伴奏チェロ組曲第2番』からサラバンドを演奏する前におこなわれたロストロポーヴィチのスピーチ -

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A Far Cry + ジョン・ラッセル オネゲル『「交響曲第2番」から第3楽章』

2011-03-17 20:17:12 | クラシック
A Far Cry - Arthur Honegger: Symphony no.2 for Strings & Trumpet, H.153 III. Vivace, non troppo


 「(第3楽章)コーダは,アド・リブのトランペットが第1ヴァイオリンにかさねられ,48小節のコラール風旋律を朗々とうたってゆく。この旋律は暗鬱なこの曲のなかでただひとつの光明のように鳴りわたる。」

-「最新名曲解説全集3」のオネゲル『交響曲第2番』の解説より -

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カラヤン/ベルリン・フィル オネゲル『Dona nobis pacem(われらに平和を与え給え)』

2011-03-16 22:07:05 | クラシック
Arthur Honegger - Symphony No. 3 " Liturgique" - III. Dona nobis pacem 2/2


 「町は焼け落ち,瓦礫はなおもくすぶっているが,夜が明けると,何も知らない鳥たちが廃墟の上で楽しげにさえずりはじめる。フルートが短くそれを表現したあと,沈黙が訪れる。すべてが語りつくされたからだ。」

- 交響曲第3番「典礼風」の第3楽章「Dona nobis pacem(われらに平和を与え給え)」についてのベルナール・ガヴォティの言葉 -

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ボニー/ルグラン/フィルハーモニア管 フォーレ『Pie Jesu』

2011-03-13 20:11:32 | クラシック
Barbara Bonney " Pie Jesu" Gabriel Fauré

Pie Jesu

Pie Jesu,Domine,dona eis
requiem;
dona eis requiem,sempiternam
requiem.

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ベリンガー/ヴィンツバッハ少年合唱団ほか J.S.バッハ『クリスマス・オラトリオ』

2011-02-27 19:50:23 | クラシック
Windsbacher Knabenchor: Weihnachtsoratorium IV


 モンサンジョン著『リヒテル』(筑摩書房)の第2部「音楽をめぐる手帳」を読み直していたとき,クルト・トーマス/聖トーマス教会合唱団ほかのバッハ『クリスマス・オラトリオ』がリヒテルの愛聴盤だったことに気づき,ちょっと驚いた。以前同著を読んで,デゾルミエール/チェコ・フィルのドビュッシー『海』が彼のお気に入りだったのは知っていたが,クルト・トーマスらの『クリスマス・オラトリオ』もそうだったとは。

 私が最初に聴いた『クリスマス・オラトリオ』の全曲盤は,このクルト・トーマス盤。
どうやら,リヒテルがクリスマスの時期にお客を招いてみんなで該盤を鑑賞するのは恒例の行事だったようで,例えば,1970年のクリスマスから年明けにかけては,全6部を6日間にわたって鑑賞している。しかも,第1部~第4部及び第6部は,わざわざ初演の日に合わせるという懲りよう。この人,風貌からは想像できないが,芝居気があるというか,遊び心旺盛な人だったようだ。だからこそ,面倒な音楽祭の主催といったこともしていたのだろう。
この時,リヒテルは,音楽手帳に次のような感想を書いている。

 演奏はこの上なく真摯で誠実だ。そのため,すべての部分が望ましい形で鳴り響き,この曲の演奏にとってはもっての外の浅薄なところなど微塵も見られない。ふたりの男性の歌唱(トラクセルとフィッシャー=ディースカウ)は,同じくふたりの女性のそれに劣らず見事だ。
 クルト・トーマスは合唱とオーケストラを完全に同等にかつ単純この上ないやり方で操る。彼は実に説得力に溢れたやり方で自らの気高い使命を遂行している。


 このクルト・トーマス盤,古楽器演奏が定着した現時においては古めかしさも感じられないではないが,奇を衒わないいい演奏だ。以前聴いたとき,ソリストではトラクセルが少し弱いかなと思ったが,第4部第41曲「われ主のためにのみ生きん」など,落ち着いたテンポでじっくり聴かせる。あらためて聴いてみて,技巧を誇示するせかせかした歌い方よりこちらの方が好ましく思えてきたほど。
ただ,このクルト・トーマス盤,不満もある。忌憚なく言うと,聖トーマス教会合唱団の少年合唱が粗いのだ。これは,シンフォニアで始まる第2部は除くとして,各部の幕開きの合唱曲,つまり第1曲,第24曲,第36曲,第43曲,第54曲で特に目立つ。これらは重要な曲なのだが・・・。
このクルト・トーマス盤,これからこの曲を聴こうという方にファースト・チョイスとしてお奨めできるかと問われた場合,上記の点を考えるとちょっと躊躇を覚える。

 さて,少年合唱団の入った『クリスマス・オラトリオ』では,ヴィンツバッハ少年合唱団を起用した表題のカール=フリードリッヒ・ベリンガーらによる演奏が素晴らしい出来。収録は1991年で,ロケーションはハイルスブロンのミュンスター。なお,私が聴いたのは,全部ではなく第4部から第6部までである。
ベリンガーは,柔らかく大きな身振りで,ひと目で合唱畑の出身とわかる指揮ぶり。その指揮から紡ぎ出される音楽は神経質なところが少しもないおおらかなもの。アーノンクールらの演奏も良いけれど,私には少しエネルギッシュに過ぎ,聴いていて疲れてしまう。どうやら,このベリンガーらの演奏の方が私の性には合っているようだ。

 ソリストは,ユリアーネ・バンゼ(S),コルネリア・カリッシュ(A),マルクス・シェーファー(T),ロバート・スウェンセン(T),トーマス・クヴァストホフ(B),マルティン・デュル(ボーイS)。
どのソリストもいいが,とりわけ,バンゼが素晴らしいと思う(贔屓し過ぎかな?)。彼女は,収録時,芳紀まさに22歳。第4部第39曲「わが救い主よ,御名を歌え」や第6部第57曲「主の御手の前では」の歌唱は出色の出来だ。気の毒なのは,光彩の加減か,彼女の顔色がやや浅黒く映っていること。
オケは,ミュンヘン・バッハゾリステン。2番オーボエは,現N響主席の青山聖樹氏。トランペットは,ロイビン三兄弟。終曲で1番トランペットを吹いているのは長男ハネス(ハンネス)。映像では,背景のソリストや子供たちが時々羨望の眼差しで彼を見つめているのが微笑ましい。
そして,ビシッ,ビシッ,と決まるティンパニは,ペーター・ザードロ。ザードロは,終曲の第64曲の終わり近くで,「ようやくここまで来たか」といった風情で,口元にほんの少し笑みを浮かべて叩いている。ここはご愛嬌。
この演奏,是非全曲通して聴いてみたいところだが,密林で入手するとなると結構なお値段のよう。

追記 ヴィンツバッハ少年合唱団の詳細は彼らのHPなどで確認していただくとして,YouTube の「Leben mit Musik」という彼らに関するドキュメンタリーをご覧いただきたい。
開始から1分12秒あたりで,リハーサル中,ベリンガーが突如指揮を止め,合唱の子供達に向かって何かを怒鳴り,年少の子供達に詰め寄るシーンがある。前から何を言っているのか気になっていたのだが,ドイツ語に堪能な方にお尋ねしたところ,「Herrschaft noch mal !(おまえらなにやってんだよ、ったく!)」と怒鳴っているのだとか。どうやら,子供達の集中力の無さに雷を落としたようだ。ベリンガーの怒りようは,クリスマス・オラトリオでの指揮ぶりからは想像できないほど激しいもの。この修練があってこそ,ということなのだろうが・・・。カール=フリードリッヒ・ベリンガー,指導者としてなかなか厳しい人のようだ。
因みに,ドキュメンタリー制作時の1992年といえば,ベリンガー44歳。まだまだ血気盛んな頃だ。彼の最近の活躍ぶりは,少しだが,ヴィンツバッハ少年合唱団HP掲載のビデオで見ることができる。

Xmas Oratorio [VHS] [Import]

Teldec

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マゼール/フランス国立放管ほか ラヴェル『子供と魔法』

2011-02-20 11:02:50 | クラシック
L'Enfant et les sortiléges pt. 1


 コレットによる台本の筋を書くとすれば,次のようになろうか。

 舞台はノルマンディーの田舎の一軒家。
6,7歳の子供が,言うことを聞かないので母親から叱られる。しかし,子供は,叱られて意気消沈どころか,動物をいじめ,暖炉をかき回し,壁紙や本をボロボロに破くなど,やりたい放題。
悪戯に飽きた子供がソファーに座ろうとすると,なんと,ソファーが後ずさり。ここから舞台は幻想の世界に入り,件の子供は,家具,食器,暖炉の火,お姫さま,小さな老人,木,昆虫,動物といったものから追い回され,あるいは,非難される。
ついに,動物たちはこの残酷な子供を罰してやろうと決心。だが,動物たちが子供そっちのけで取っ組み合いをしている最中,一匹のリスが怪我をしてしまう。その時,思いがけないことに,当の悪戯っ子が,身につけていたリボンを外して怪我をしたリスを介抱してあげる。そのまま気を失ってしまった子供を前に困惑する動物たち。動物たちは「あの子はいい子。賢い子だ。」と口々に言い,子供を支えて家まで連れて行ってあげる。子供は両手を伸ばし,最後に或る言葉を口にした後,幕が下りる。


 音楽はオーボエによる穏やかな節で始まる。これは,言ってみれば,「ところはノルマンディーの片田舎。ここに6歳か7歳くらいでしょうか,悪戯好きな子供がおりました。」という前口上。冒頭に1分強にも及ぶオーボエ2本による節を持ってくるラヴェルの着想の素晴らしさについてはどう表現したらよいだろう。聴く者は,この節があるおかげで摩訶不思議な世界に自然と入っていくことができる。
上記 YouTube の舞台は,先に幕が開いてから音楽が始まる。しかし,ここは,先ず音楽が始まり,子供の歌が始まる少し前に幕を開けるべきではなかろうか。ラヴェルはそのように始めるためにこの節を書いたと思うのだが。

 さて,手元にある『子供と魔法』は,聴いた順にあげると,マゼール/フランス国立放管(現 フランス国立管)盤,プレヴィン/ロンドン響盤(新),アンセルメ/スイス・ロマンド管盤,の以上3種。
歌手陣は,マゼール盤とアンセルメ盤はフランス語圏の人が主体だが,プレヴィン盤はそうではないようだ。
私はフランス語は皆目わからないので,発音の観点からの比較はできようもない。しかし,ディクションとでも言うのか,台詞回しも含めたもう少し広い観点からの比較なら,私にもできないことはない。私が見事だと思うのはマゼール盤だ。
上記,YouTube は,イリ・キリアン演出のネーデルランド・ダンス・シアターの『子供と魔法』の舞台。ここで使われているのがマゼール盤である。先ずは,以下に示す,冒頭の子供役のフランソワーズ・オジュアの歌をお聴きいただきたい。訳は岡本和子氏によるもの。

J'ai pas envie de faire ma page,
J'ai envie d'aller me promener.
J'ai envie de manger tous les gâteaux.
J'ai envie de tirer la queue du chat
Et de couper celle de l'écureuil.
J'ai envie de gronder tout le monde!
J'ai envie de mettre Maman en pénitence...

宿題なんかやりたくない,
お散歩に行きたい。
お菓子を全部食べてしまいたい。
猫のしっぽを引っぱって
リスのしっぽをちょん切ってやりたい。
みんなを叱りつけたい!
ママに罰を与えたい・・・。

最後の「pénitence」は,何気ないようでいて,この子の利かん気の強さを見事に表している。「始めに終わりありき」とはよく言ったもの。聴く者は,始めにこの「J'ai envie de mettre Maman en pénitence...(ママに罰を与えたい・・・)」を聞いているからこそ,最後の台詞,つまり「Maman!(ママ!)」に深い感動を覚えると思うのだが,どうだろう。プレヴィン盤のパメラ・ヘレン・スティーヴンもアンセルメ盤のフロール・ヴァンも良い。ただ,パメラ・ヘレン・スティーヴンの歌い方はいささか朗々とし過ぎているし,フロール・ヴァンのそれはやる気の失せた子のよう。ここは,オジュアのようにアクセントをつけた歌い方の方がずっといい。声質も,前記メッゾの2人よりソプラノのオジュアの方がこの子供役に合っていると思う。ソプラノの起用は作曲家の指定には反しているのかもしれないけれど・・・。
マゼール盤は,オジュアだけでなく他の歌手も素晴らしい。子供に振り子を外されて鐘が鳴りやまなくなった時計役のカミーユ・モラーヌ。教科書から飛び出してきて子供に算数の問題を矢継ぎ早に出す小さな老人役のミシェル・セネシャル。そして,火やお姫さま役のシルベーヌ・ジルマ。彼らは声がいいだけでなく,役者としても一流だ。
そして,もちろん,マゼールの指揮も素晴らしい。「羊飼いの男たち」を初めて聴いた時,その幻想性にはぞくぞくしてしまった。1960年録音というから,彼はこの時未だ30歳! 録音も,今から50年前のものとは思えないほど鮮やか。これはお奨め盤だ。

 オペラというと,話しの筋を掴むまで対訳と睨めっこ,ということになりがち。しかし,この『子供と魔法』については,先ずは,訳など気にせず,音楽を楽しむところから入っていいのではなかろうか。時間も2幕40数分と,ワーグナーなどのように長くはないし,これだけ楽しく,また,美しい音楽。自然と何を言っているのか気になってくる。訳をひろげるのはそれからで十分だと思う。

追記 開始から8:39のあたりで,カップが「ハラキリ(腹切り),セッシュー・ハヤカワ(雪洲・早川)」と歌っている。この後,「ハー! ちょっと中国語っぽくて,いい感じ。」と続く。コレットさん・・・。

Ravel: L'enfant Et Les Sortileges・L'heure Espagnole
Ravel,Maazel
Deutsche Grammophon

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アバド/ロンドン響 ストラヴィンスキー『春の祭典』

2011-02-11 20:59:50 | クラシック
 三浦淳史「ストラヴィンスキー:”三大バレエ”考」や柴田南雄「マゼール,アバドの「春の祭典」」の再読をきっかけに,昨日今日と,何種類か「春の祭典」を聴いてみた。

 表題のアバド/ロンドン響盤だが,手元にあるのはDGのガレリアシリーズ中の一枚。
表記によれば,用いたスコアは1947年版。しかし,柴田氏指摘のとおり,一部1967年版を採用している部分もある。例えば,「春のロンド」にある練習番号48の6小節目の最後の音(0:27)など。小クラとバスクラはここを,1967年版にしたがい,(同じ部分のコーダの音(3:39)にあわせるかのように)装飾音なしで吹いている。
なお,「敵の都の人々の戯れ」にある練習番号58の最後の4小節の全音符・付点全音符の部分(0:16~0:21)では,金管はスフォルツァンド・ピアノからフォルテッシモまでクレッシェンドで吹いている。この部分は1947年版も同じと聞くが,同版の表記がありながら,1965年版などと同様,フォルテのまま吹き切っているゲルギエフ/キーロフ歌劇場管盤のようなものもある。
余談だが,このゲルギエフ盤,「誘拐の遊戯」にある練習番号40冒頭の金管は,まるで厚手のカーテンの向こう側から吹いているように聞こえる。いや,むしろ,ホルンなど,本来のソリスティックな扱いからすれば,ほとんど聞こえないと言っていいくらいだ。これはどうしたことだろう。編集ミスだろうか。

 ゲルギエフ盤はさておき,さぁ,アバド/ロンドン響盤。この「ハルサイ」は素晴らしい。41歳のアバドが創り出す音楽は,筋肉質で実にシャープだ。
この録音にはこれまで多くの讃辞が寄せられている。例えば,そのうちのひとつに次のような一節がある。これは,『クラシック不滅の名盤1000』(音楽之友社)にある満津岡信育氏の該盤に対するもの。

 筋金入りの職人集団であるロンドン響のアンサンブルが実に見事であり,なかでも管・打楽器奏者の健闘ぶりが光っている

多くの評者が褒め称えるのも,詰まるところ,管・打,とりわけ打楽器の素晴らしさ。私も全くそのとおりだと思う。ということで,ここでは重複を避け,健闘ぶりが光っている管・打楽器以外,つまり弦について一言したい。
ブーレーズ/クリーヴランド管盤(旧)などを聴いた後,アバド/ロンドン響盤を聴いていた時のこと。音楽が「春の兆し」の冒頭の弦のトゥッティにさしかかった時ふっと思ったのだ。「弦が軽い・・・」と。
いやいや,そんなことはないという声が聞こえてきそうだ。なるほど,ここで聞く弦は強靱だ。加えて,正確でもある。でも,やはり,重さが少し足りない。「春のロンド」のsostenuto pesante で弦の引き摺るような感じが今ひとつなのも,「敵の都の人々の戯れ」で弦にゴリゴリした押しの強さが足りないのも,多くはこの弦の軽さに起因しているような気がするのだが,どうだろうか。
「もしかしたらCDのせい?」と思い,ボックスで持っていたはずのLPを探したのだが,見つけられなかった。処分したのかもしれない。あぁ,残念。
しかし,考えてみれば,アバドの真骨頂は軽快なリズムが生み出す躍動感や深い叙情性を湛えた歌にこそある。邪教だ,バーバリズムだと,これらを殊更に強調して重々しくいくのは彼の流儀ではない。おそらく,LPを聴いて受ける感じもCDと大差はないだろう。

 最後になったが,腐したように思われると困るので,これだけは言っておきたい。アバド/ロンドン響の「ハルサイ」は名演である。録音の良さやデジタル・マスタリングの魔法を頼りに命脈を保ち続けているような演奏では決してない。この点は強調しておかなければならない。これに「弦が軽い」とばかり言うのは,やはり,「木を見て森を見ず」の誹りを免れないな。

ストラヴィンスキー:春の祭典、火の鳥
ロンドン交響楽団 アバド(クラウディオ)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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