ジュリーニが亡くなったのは昨年の6月15日。あれから1年。時が経つのは本当に早い。
さて,『ショルティ自伝』(草思社)を拾い読みしていたら,こんな記述があった。
1967年に,レイヴンのあとを受けてシカゴ交響楽団の総監督に就任したジョン・エドワーズが会いにきた。彼はライナーの後継者ジャン・マルティノンが翌年交響楽団を離れるので,私に音楽監督を引き受ける意志があるかと打診した。もちろんその意志はあったが,まだコヴェント・ガーデンに関与しているので荷が重すぎる。そこで私は,シカゴでたびたび指揮をし,交響楽団と相性のいいジュリーニと仕事を分け合うことを提案した。1年間私が音楽監督で彼が首席客演指揮者になり,翌年はたがいの役割を取り替えるという案だ。あとから考えれば実際的ではなかったと思うが,そのときはいい解決策に思えた。だがジュリーニはもっと有効な案をだした。「私は運営面の仕事はだめだが,ショルティならできる」彼はエドワーズに話した。「彼を音楽監督にしたら,私は喜んで首席客演指揮者を引き受ける」
というわけで,シカゴ交響楽団にデビューしてから15年後の1969年秋に,私はその音楽監督になった。
一般に,ジュリーニが,1969年から1973年までの間,シカゴ響の首席客演指揮者に就いていたことに関しては,音楽監督ショルティの「度量の大きさ」などとして語られることが多い。もちろん,ショルティがジュリーニの才能を高く評価していたのは間違いない。言うまでもないが,才能を評価するにも才能が必要だ。タークイ著『分析的演奏論』(音楽之友社)には次のような記述がある。
ヨーロッパへ何回も足をのばしたエドワーズはショルティを説得して,ついにくどき落とした(ショルティは10年間自分のオーケストラをもっていなかった)けれども,ショルティの受諾は条件つきだった。エドワーズは,ショルティの拒否権のもとで,アソシエート・コンダクター(管理人註:「プリンシパル・ゲスト・コンダクター」の誤りと思われる)を任命しなければならないというのである。ショルティ自身は,カルロ・マリア・ジュリーニを「私とはスタイルが全くちがっている偉大な指揮者だ。聴衆とオーケストラには変化が必要だ」といって,推薦した。ジュリーニは受諾し,契約がかわされた。
ショルティも,ジュリーニ同様,プロフェッショナル・ジェラシーから自由でいられた希有なマエストロだったようだ。もちろん,両者の理由は全く異なると思われる (^^) 。
ところで,「彼を音楽監督にしたら,私は喜んで首席客演指揮者を引き受ける」はいかにもジュリーニらしいが,この言葉,シカゴ響が,マルティノン時代もまた魅力的なオーケストラだったことの証左といえそうだ。そうでなければ,「音楽が唯一の野心」というジュリーニが「喜んで」などと言おうはずがない。実際,1967年にジュリーニ/シカゴ響がルービンシュタインといれたシューマンのピアノ・コンチェルト(RCA)など,素晴らしい出来。
その意味で,マルティノンのレジームを「ライナーの遺産が一挙に瓦解した時代」と総括するのは間違いのような気がする。
1969年というと,音楽監督のショルティは57才,首席客演指揮者のジュリーニは55才。シカゴ響は,程なく,ビッグ・ファイヴ,というか,アメリカのオケのトップに立つ。それは,そうだ。これ以上ないようなコンビだもの。
1973年の『タイム』誌のオーケストラ評でシカゴ響に付されていたコメントは「シネ・カ・ノン」の一句だけ。ラテン語で「必要条件をすべて備えている」を意味するらしい。この辺りは,亡くなられた三浦淳史さんの書籍に詳しい。
さて,『ショルティ自伝』(草思社)を拾い読みしていたら,こんな記述があった。
1967年に,レイヴンのあとを受けてシカゴ交響楽団の総監督に就任したジョン・エドワーズが会いにきた。彼はライナーの後継者ジャン・マルティノンが翌年交響楽団を離れるので,私に音楽監督を引き受ける意志があるかと打診した。もちろんその意志はあったが,まだコヴェント・ガーデンに関与しているので荷が重すぎる。そこで私は,シカゴでたびたび指揮をし,交響楽団と相性のいいジュリーニと仕事を分け合うことを提案した。1年間私が音楽監督で彼が首席客演指揮者になり,翌年はたがいの役割を取り替えるという案だ。あとから考えれば実際的ではなかったと思うが,そのときはいい解決策に思えた。だがジュリーニはもっと有効な案をだした。「私は運営面の仕事はだめだが,ショルティならできる」彼はエドワーズに話した。「彼を音楽監督にしたら,私は喜んで首席客演指揮者を引き受ける」
というわけで,シカゴ交響楽団にデビューしてから15年後の1969年秋に,私はその音楽監督になった。
一般に,ジュリーニが,1969年から1973年までの間,シカゴ響の首席客演指揮者に就いていたことに関しては,音楽監督ショルティの「度量の大きさ」などとして語られることが多い。もちろん,ショルティがジュリーニの才能を高く評価していたのは間違いない。言うまでもないが,才能を評価するにも才能が必要だ。タークイ著『分析的演奏論』(音楽之友社)には次のような記述がある。
ヨーロッパへ何回も足をのばしたエドワーズはショルティを説得して,ついにくどき落とした(ショルティは10年間自分のオーケストラをもっていなかった)けれども,ショルティの受諾は条件つきだった。エドワーズは,ショルティの拒否権のもとで,アソシエート・コンダクター(管理人註:「プリンシパル・ゲスト・コンダクター」の誤りと思われる)を任命しなければならないというのである。ショルティ自身は,カルロ・マリア・ジュリーニを「私とはスタイルが全くちがっている偉大な指揮者だ。聴衆とオーケストラには変化が必要だ」といって,推薦した。ジュリーニは受諾し,契約がかわされた。
ショルティも,ジュリーニ同様,プロフェッショナル・ジェラシーから自由でいられた希有なマエストロだったようだ。もちろん,両者の理由は全く異なると思われる (^^) 。
ところで,「彼を音楽監督にしたら,私は喜んで首席客演指揮者を引き受ける」はいかにもジュリーニらしいが,この言葉,シカゴ響が,マルティノン時代もまた魅力的なオーケストラだったことの証左といえそうだ。そうでなければ,「音楽が唯一の野心」というジュリーニが「喜んで」などと言おうはずがない。実際,1967年にジュリーニ/シカゴ響がルービンシュタインといれたシューマンのピアノ・コンチェルト(RCA)など,素晴らしい出来。
その意味で,マルティノンのレジームを「ライナーの遺産が一挙に瓦解した時代」と総括するのは間違いのような気がする。
1969年というと,音楽監督のショルティは57才,首席客演指揮者のジュリーニは55才。シカゴ響は,程なく,ビッグ・ファイヴ,というか,アメリカのオケのトップに立つ。それは,そうだ。これ以上ないようなコンビだもの。
1973年の『タイム』誌のオーケストラ評でシカゴ響に付されていたコメントは「シネ・カ・ノン」の一句だけ。ラテン語で「必要条件をすべて備えている」を意味するらしい。この辺りは,亡くなられた三浦淳史さんの書籍に詳しい。