音楽と映画の周辺

核心ではなく, あくまでも物事の周辺を気楽に散策するブログです。

マリア・カラスほか ロッシーニ『歌劇セビリャの理髪師からカヴァティーナ「今の歌声は」』

2011-11-27 20:51:35 | クラシック
Maria Callas- Una Voce Poco Fa


Una voce poco fa
qui nel cor mi risuonò;
il mio cor ferito è già
e Lindor fu che il piagò.
Sì, Lindoro mio sarà;
lo giurai, la vincerò
少し前に,この私の心の中に
一つの声がひびきわたったわ。
私の心はもう傷ついてしまったのよ,
傷つけたのは勿論リンドーロだわ。
そうよ,リンドーロは勿論私のものになるでしょう,
私は誓います,きっと仕遂げて見せましょう。

Il tutor ricuserà
io l'ingegno aguzzerò
Alla fin s'accheterà
e contenta io resterò...
Sì, Lindoro mio sarà;
lo giurai, la vincerò.
私の後見人は拒むでしょう。
でも私は知恵を絞りましょう。
結局,後見人はあきらめて,
私の思うようになるでしょう。
そうです,リンドーロは勿論私のものになるでしょう。
私は誓います,きっと仕遂げて見せましょう。

Io sono docile, - son rispettosa,
sono obbediente, - dolce, amorosa;
mi lascio reggere, - mi fo guidar
私は気立てもよいし,行儀もよく,
素直で,やさしく,可愛らしい。
私は思う通りにさせておきましょう。

Ma se mi toccano - dov'è il mio debole,
sarò una vipera, - e cento trappole
prima di cedere - farò giocar.
だけど,若しも私の弱みにつけこむようなら,
私は蛇になりましょう,そして負ける前に
いくらでも計略をめぐらせて見せましょう。
(訳:鈴木松子)


 表題は,グイ盤と並び,名盤の誉れ高いガリエラ盤(1957年録音)から。ロジーナは,後見人であるにもかかわらず財産狙いで彼女との結婚を目論む医師バルトロによって半ば幽閉されている。このカヴァティーナは,ロジーナが彼女に一目惚れしたリンドーロ(実は,アルマヴィーヴァ伯爵)を思って歌うというもの。

ユルゲン・ケスティングは,その著書『マリア・カラス』(鳴海史生訳,アルファベータ)の中で,ロジーナを「常に何かを期待し,夢見るタイプの女性」と言い,この魅惑的かつ威嚇的なカヴァティーナでのカラスの歌を,その装飾的表現がテキストにピタリと合っていることを理由に絶賛している。

ケスティングの言うとおり,ここでのカラスは素晴らしい。カラスのロジーナは,第4節に入る前の「Nn~~~~~~ma!」から,スピントを効かせて「夢想する女」から「妄想する女」に成り変わる。それは,さながら,テキストそのまま「鎌首もたげた蛇」といったところか。この辺り,興味がおありなら,YouTubeのライヴ映像の方もご覧いただきたい。第3節に入るところで,穏やかだったカラスの目つきが変わるのが観物。その強烈な個性故,好悪は二分されるのだろうが,マリア・カラス,やっぱり凄いと思う。
因みに,上記ケスティングの著書の「第3章 表現のパラドックス あるいは美しい声と醜悪な声」には,カラスという人の芸術性に関わるものとして,次のような記述がある。

(前略)言葉は,いわば音楽による彫刻の構成要素となり,カラスの声がその生命を呼び覚ました。彼女の声は声楽的な花火を高次の表現に高め,決して単なる装飾に堕することがなかった。テクニックは音楽表現に,声の美はドラマ上の真実に従属した。『美しい声をもつだけでは十分ではありません』- マリア・カラスはのちにそう語った。『それにはどんな意味があるというのでしょう?ある役を演じるときには,幸福,喜び,悲しみ,恐れを表現するために,無数の音色をもたなくてはなりません。ただの美しい声に,それは可能でしょうか?私がしばしばそうしてきたように,粗暴に歌うこともまた,表現のためには必要なのです。たとえ人々が理解してくれないとしても,そうしなくてはならないのです!』

最後になったが,このカヴァティーナ,ガリエラ/フィルハーモニア管が変幻自在なカラスの呼吸にピタリと付けている。素晴らしい。

ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス
カラス(マリア),ステファノ(ジュゼッペ・ディ),ティコッツィ(エベ)
EMIミュージック・ジャパン

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トゥレチェク/べーム/ウィーン・フィル モーツァルト『オーボエ協奏曲』(2)

2011-11-27 14:44:30 | クラシック
 以前,「トゥレチェク/べーム/ウィーン・フィル モーツァルト『オーボエ協奏曲』」というエントリの最後の方で次のように書いた。

 因みに,トゥレチェクは,1985年に,プレヴィン,そして他のウィーン・フィルのメンバーと共に,モーツァルトとベートーヴェンのピアノ五重奏曲を録音している。表題の録音時(1974年)に使用したオーボエがヤマハ製でないのはほぼ間違いないが,プレヴィンらとの録音にはヤマハ製のオーボエを使用した可能性が高い。こちらは現在のところ未聴だが,いつか響きを比較してみたいものだ。

少し前,念願かなって上記ピアノ五重奏曲の入ったテラーク盤を聴くことができた。結論,などと言うと大層だが,トゥレチェクが協奏曲と五重奏曲で異なるオーボエを使用しているのは誰の耳にも明らかである。「ヤマハ管楽器の歴史」によれば,ヤマハがトゥレチェクからウィンナオーボエの生産依頼を受けたのが1977年で,ウィンナオーボエ(YOB-804)の受注生産をスタートしたのが1982年。トゥレチェクが五重奏曲で使用しているオーボエは,おそらく,ヤマハ製であろう。
テラーク盤の五重奏曲も素晴らしい演奏である。特に,第2楽章ラルゲットの,Ob(トゥレチェク),Cl(シュミードル),Fg(ファルトル),Hrn(アルトマン)のフレーズの受け渡しなどは絶品。プレヴィンのピアノは,モーツァルトらしく,やや軽めの音。内田光子やシフのような際だった個性はなく,管楽器のアンサンブルの中に違和感無く溶け込んでいる。このピアノには,微温的で物足りないという人もいるかもしれないが,これはこれで十分素晴らしいと思う。

 さて,五重奏曲を聴いてしばらくしてから,表題のオーボエ協奏曲を久しぶりに聴いてみた。そして,初めてこの録音を聴いた時のことを思い出した。私は,あの時,オケの前奏の後に現れたオーボエの音に「?」と思い,次にゲラゲラ一人で笑い出し,聴き進むうち,陶然としてしまったのだ。
確かに,ヤマハによる,欠点まで共有する本物の復元 → 欠点除去 → 本物を超える品質達成,という仕事は素晴らしい。この清々しい音を耳にしていると,「痘痕(あばた)も靨(えくぼ)」ではないが,1970年代に日本人がウィーン風などといって有り難がっていたものは,ヘッケルの職人同様疲弊したオーボエの呻きや悲鳴の類のものだったかも・・・,などと思ってしまうほど。それに,何と言っても,ヤマハは,トゥレチェクから依頼があった時,タイプのいかんを問わず,未だオーボエの開発に着手していなかったのだ。これは驚くべき事だ。
ただ,一方で,2つの録音を聴き比べていた時,ふと思ったのだ。コンピュータ・シミュレーションを駆使してオミットされた「鳴りムラ」や「個体差」といったものが,ある面,魅力的なものでもあったということを。つまり,今にして思えば,それは,「欠点」の2文字で切り捨て,片付けてしまうには少しばかり惜しいものであった,ということなのだが。

 あれこれ書いたが,あのトゥレチェク盤,あらためて名盤だと思った。あれを手放すことはないだろうなぁ。柴田南雄氏を真似るなら,「小生のライブラリーでは永久保存盤扱いとしよう。」といったところか。

モーツァルト&ベートーヴェン:管楽器とピアノのための五重奏曲
プレヴィン(アンドレ)
ユニバーサル ミュージック クラシック


モーツァルト:オーボエ協奏曲
ベーム(カール)
ユニバーサル ミュージック クラシック

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