Maria Callas- Una Voce Poco Fa
Una voce poco fa
qui nel cor mi risuonò;
il mio cor ferito è già
e Lindor fu che il piagò.
Sì, Lindoro mio sarà;
lo giurai, la vincerò
少し前に,この私の心の中に
一つの声がひびきわたったわ。
私の心はもう傷ついてしまったのよ,
傷つけたのは勿論リンドーロだわ。
そうよ,リンドーロは勿論私のものになるでしょう,
私は誓います,きっと仕遂げて見せましょう。
Il tutor ricuserà
io l'ingegno aguzzerò
Alla fin s'accheterà
e contenta io resterò...
Sì, Lindoro mio sarà;
lo giurai, la vincerò.
私の後見人は拒むでしょう。
でも私は知恵を絞りましょう。
結局,後見人はあきらめて,
私の思うようになるでしょう。
そうです,リンドーロは勿論私のものになるでしょう。
私は誓います,きっと仕遂げて見せましょう。
Io sono docile, - son rispettosa,
sono obbediente, - dolce, amorosa;
mi lascio reggere, - mi fo guidar
私は気立てもよいし,行儀もよく,
素直で,やさしく,可愛らしい。
私は思う通りにさせておきましょう。
Ma se mi toccano - dov'è il mio debole,
sarò una vipera, - e cento trappole
prima di cedere - farò giocar.
だけど,若しも私の弱みにつけこむようなら,
私は蛇になりましょう,そして負ける前に
いくらでも計略をめぐらせて見せましょう。
(訳:鈴木松子)
表題は,グイ盤と並び,名盤の誉れ高いガリエラ盤(1957年録音)から。ロジーナは,後見人であるにもかかわらず財産狙いで彼女との結婚を目論む医師バルトロによって半ば幽閉されている。このカヴァティーナは,ロジーナが彼女に一目惚れしたリンドーロ(実は,アルマヴィーヴァ伯爵)を思って歌うというもの。
ユルゲン・ケスティングは,その著書『マリア・カラス』(鳴海史生訳,アルファベータ)の中で,ロジーナを「常に何かを期待し,夢見るタイプの女性」と言い,この魅惑的かつ威嚇的なカヴァティーナでのカラスの歌を,その装飾的表現がテキストにピタリと合っていることを理由に絶賛している。
ケスティングの言うとおり,ここでのカラスは素晴らしい。カラスのロジーナは,第4節に入る前の「Nn~~~~~~ma!」から,スピントを効かせて「夢想する女」から「妄想する女」に成り変わる。それは,さながら,テキストそのまま「鎌首もたげた蛇」といったところか。この辺り,興味がおありなら,YouTubeのライヴ映像の方もご覧いただきたい。第3節に入るところで,穏やかだったカラスの目つきが変わるのが観物。その強烈な個性故,好悪は二分されるのだろうが,マリア・カラス,やっぱり凄いと思う。
因みに,上記ケスティングの著書の「第3章 表現のパラドックス あるいは美しい声と醜悪な声」には,カラスという人の芸術性に関わるものとして,次のような記述がある。
(前略)言葉は,いわば音楽による彫刻の構成要素となり,カラスの声がその生命を呼び覚ました。彼女の声は声楽的な花火を高次の表現に高め,決して単なる装飾に堕することがなかった。テクニックは音楽表現に,声の美はドラマ上の真実に従属した。『美しい声をもつだけでは十分ではありません』- マリア・カラスはのちにそう語った。『それにはどんな意味があるというのでしょう?ある役を演じるときには,幸福,喜び,悲しみ,恐れを表現するために,無数の音色をもたなくてはなりません。ただの美しい声に,それは可能でしょうか?私がしばしばそうしてきたように,粗暴に歌うこともまた,表現のためには必要なのです。たとえ人々が理解してくれないとしても,そうしなくてはならないのです!』
最後になったが,このカヴァティーナ,ガリエラ/フィルハーモニア管が変幻自在なカラスの呼吸にピタリと付けている。素晴らしい。
Una voce poco fa
qui nel cor mi risuonò;
il mio cor ferito è già
e Lindor fu che il piagò.
Sì, Lindoro mio sarà;
lo giurai, la vincerò
少し前に,この私の心の中に
一つの声がひびきわたったわ。
私の心はもう傷ついてしまったのよ,
傷つけたのは勿論リンドーロだわ。
そうよ,リンドーロは勿論私のものになるでしょう,
私は誓います,きっと仕遂げて見せましょう。
Il tutor ricuserà
io l'ingegno aguzzerò
Alla fin s'accheterà
e contenta io resterò...
Sì, Lindoro mio sarà;
lo giurai, la vincerò.
私の後見人は拒むでしょう。
でも私は知恵を絞りましょう。
結局,後見人はあきらめて,
私の思うようになるでしょう。
そうです,リンドーロは勿論私のものになるでしょう。
私は誓います,きっと仕遂げて見せましょう。
Io sono docile, - son rispettosa,
sono obbediente, - dolce, amorosa;
mi lascio reggere, - mi fo guidar
私は気立てもよいし,行儀もよく,
素直で,やさしく,可愛らしい。
私は思う通りにさせておきましょう。
Ma se mi toccano - dov'è il mio debole,
sarò una vipera, - e cento trappole
prima di cedere - farò giocar.
だけど,若しも私の弱みにつけこむようなら,
私は蛇になりましょう,そして負ける前に
いくらでも計略をめぐらせて見せましょう。
(訳:鈴木松子)
表題は,グイ盤と並び,名盤の誉れ高いガリエラ盤(1957年録音)から。ロジーナは,後見人であるにもかかわらず財産狙いで彼女との結婚を目論む医師バルトロによって半ば幽閉されている。このカヴァティーナは,ロジーナが彼女に一目惚れしたリンドーロ(実は,アルマヴィーヴァ伯爵)を思って歌うというもの。
ユルゲン・ケスティングは,その著書『マリア・カラス』(鳴海史生訳,アルファベータ)の中で,ロジーナを「常に何かを期待し,夢見るタイプの女性」と言い,この魅惑的かつ威嚇的なカヴァティーナでのカラスの歌を,その装飾的表現がテキストにピタリと合っていることを理由に絶賛している。
ケスティングの言うとおり,ここでのカラスは素晴らしい。カラスのロジーナは,第4節に入る前の「Nn~~~~~~ma!」から,スピントを効かせて「夢想する女」から「妄想する女」に成り変わる。それは,さながら,テキストそのまま「鎌首もたげた蛇」といったところか。この辺り,興味がおありなら,YouTubeのライヴ映像の方もご覧いただきたい。第3節に入るところで,穏やかだったカラスの目つきが変わるのが観物。その強烈な個性故,好悪は二分されるのだろうが,マリア・カラス,やっぱり凄いと思う。
因みに,上記ケスティングの著書の「第3章 表現のパラドックス あるいは美しい声と醜悪な声」には,カラスという人の芸術性に関わるものとして,次のような記述がある。
(前略)言葉は,いわば音楽による彫刻の構成要素となり,カラスの声がその生命を呼び覚ました。彼女の声は声楽的な花火を高次の表現に高め,決して単なる装飾に堕することがなかった。テクニックは音楽表現に,声の美はドラマ上の真実に従属した。『美しい声をもつだけでは十分ではありません』- マリア・カラスはのちにそう語った。『それにはどんな意味があるというのでしょう?ある役を演じるときには,幸福,喜び,悲しみ,恐れを表現するために,無数の音色をもたなくてはなりません。ただの美しい声に,それは可能でしょうか?私がしばしばそうしてきたように,粗暴に歌うこともまた,表現のためには必要なのです。たとえ人々が理解してくれないとしても,そうしなくてはならないのです!』
最後になったが,このカヴァティーナ,ガリエラ/フィルハーモニア管が変幻自在なカラスの呼吸にピタリと付けている。素晴らしい。
ザ・ベスト・オブ・マリア・カラス | |
カラス(マリア),ステファノ(ジュゼッペ・ディ),ティコッツィ(エベ) | |
EMIミュージック・ジャパン |