天気 晴
相変わらずの猛暑日が続く。
明後日の右眼の手術が無事に終わるまでは無理せずに過ごそう、と決め、今日はとくに用もないので家に籠った。
今日はネットの「塗り絵」はしなかったが、かなり前に作った、今年になってから一度も見ていない海の風景。何だか、暑くなると海が見たくなる。子供の頃、庭の続きが海だった家で育ったせいかもしれない。山ばかりの見える家に住んでいて、富士山も見えるからそれはそれで満足しているけれど・・
最晩年の母は「海が見たい」とよく言っていた。海の見えない世田谷に住んでいた。
母は、ちょうど私の年齢くらいで亡くなった。当時としては平均寿命だったから、惜しい、という年齢ではなかった。進行性の不治の病で、「海が見たい」という口癖を知った長兄が家族旅行を計画してくれた。行く先は、母の故郷の房総半島の、東京湾側ではなく、太平洋側の鴨川。父母と子供たちと、孫たちの幾人か・・最初で最後の大家族旅行だった。旅館は、海岸にあって、砂浜を歩くことが出来た。
「いいねえ、海はいいねえ」と砂浜にしゃがんで、母は子供みたいに砂を手で掬ってはこぼしていた。
その翌年の冬、亡くなる何日か前、病院で看病に付き添っていた私に「もう一度海が見たいねえ」と呟いた。「行きましょう、歩けるようになったら」と答えたものの、歩けるようになる訳もなく・・
今、昼の倉本聡原作の帯ドラで「人にはそれぞれ原風景というものがある」と主人公に語らせている。
母にとって、育った故郷の海が「原風景」だったのだろうか。
私は生まれたのは東京で、終戦近くに母の実家を頼って房総へ疎開した。でも、東京の記憶はないから「原風景」は、やはりあの、海岸の家から見ていた海なのかもしれない。
とにかく、海が見たい。今のところ、去年の5月に行った宮島の風景が、最後に見た海になる。
この写真の向こうが四国になっていて(写真の陸地は島だと思う)、そこに中学3年から高校の途中まで住んだことがあった。連絡船の汽笛の聞こえる家だったから、海はすぐ近かった。いつでも海が見られる暮らしが、しきりに懐かしい・・というのも、人生の終わりが近いから?
朝凪や行きかふ船の著き水脈 KUMI
相変わらずの猛暑日が続く。
明後日の右眼の手術が無事に終わるまでは無理せずに過ごそう、と決め、今日はとくに用もないので家に籠った。
今日はネットの「塗り絵」はしなかったが、かなり前に作った、今年になってから一度も見ていない海の風景。何だか、暑くなると海が見たくなる。子供の頃、庭の続きが海だった家で育ったせいかもしれない。山ばかりの見える家に住んでいて、富士山も見えるからそれはそれで満足しているけれど・・
最晩年の母は「海が見たい」とよく言っていた。海の見えない世田谷に住んでいた。
母は、ちょうど私の年齢くらいで亡くなった。当時としては平均寿命だったから、惜しい、という年齢ではなかった。進行性の不治の病で、「海が見たい」という口癖を知った長兄が家族旅行を計画してくれた。行く先は、母の故郷の房総半島の、東京湾側ではなく、太平洋側の鴨川。父母と子供たちと、孫たちの幾人か・・最初で最後の大家族旅行だった。旅館は、海岸にあって、砂浜を歩くことが出来た。
「いいねえ、海はいいねえ」と砂浜にしゃがんで、母は子供みたいに砂を手で掬ってはこぼしていた。
その翌年の冬、亡くなる何日か前、病院で看病に付き添っていた私に「もう一度海が見たいねえ」と呟いた。「行きましょう、歩けるようになったら」と答えたものの、歩けるようになる訳もなく・・
今、昼の倉本聡原作の帯ドラで「人にはそれぞれ原風景というものがある」と主人公に語らせている。
母にとって、育った故郷の海が「原風景」だったのだろうか。
私は生まれたのは東京で、終戦近くに母の実家を頼って房総へ疎開した。でも、東京の記憶はないから「原風景」は、やはりあの、海岸の家から見ていた海なのかもしれない。
とにかく、海が見たい。今のところ、去年の5月に行った宮島の風景が、最後に見た海になる。
この写真の向こうが四国になっていて(写真の陸地は島だと思う)、そこに中学3年から高校の途中まで住んだことがあった。連絡船の汽笛の聞こえる家だったから、海はすぐ近かった。いつでも海が見られる暮らしが、しきりに懐かしい・・というのも、人生の終わりが近いから?
朝凪や行きかふ船の著き水脈 KUMI