1.「内史第」
黄炎培故居は川沙古鎮歴史文化風貌保護区にあります。入場は無料ですが身分証明書の提示が必要です。
「内史第」は元来清代1859年の挙人内閣中書「沈樹住宅」で、150年以上の歴史があります。
2.壁のレリーフ
建設当時、この地は江蘇省川沙庁城王前街内史第であったことからこの名で呼ばれているようです。
レリーフにはその当時のこの辺りの風景が描かれているようです。
3.入り口の楼門
1991年に大改修が行われ、1992年より一般公開され、2003年より上海市愛国主義教育基地に指定されています。
4.礼拝堂
入り口すぐ左手に小さな礼拝堂があります。
1890年、巡回伝道を終えこの地に宋嘉樹、倪桂珍夫婦が伝道師として赴任し「内史第」の南2階部分「沿街坊」を住居としました。
5.宗家三姉妹
1893年1月に次女宋慶齢、1894年12月に長男宋子文、1897年3月に三女宋美麗が生まれ、1904年まで幼少期を過ごしました。
6.黄炎培住居
黄炎培は1873年この地に生まれ22歳で科挙試験の地方の第一位である「秀才」、25歳で挙人となりこの地で教育家となり32歳以降上海や北京で政治家として活動しました。
7.清代の特徴を色濃く残す「雕花儀門」
正面梁に「華堂映日」と記され、左には「状元遊京城」、右には「状元献宝」、上には「鳳凰と牡丹」が精緻に彫られています。
撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS
黄炎培故居は川沙古鎮歴史文化風貌保護区にあります。入場は無料ですが身分証明書の提示が必要です。
「内史第」は元来清代1859年の挙人内閣中書「沈樹住宅」で、150年以上の歴史があります。
2.壁のレリーフ
建設当時、この地は江蘇省川沙庁城王前街内史第であったことからこの名で呼ばれているようです。
レリーフにはその当時のこの辺りの風景が描かれているようです。
3.入り口の楼門
1991年に大改修が行われ、1992年より一般公開され、2003年より上海市愛国主義教育基地に指定されています。
4.礼拝堂
入り口すぐ左手に小さな礼拝堂があります。
1890年、巡回伝道を終えこの地に宋嘉樹、倪桂珍夫婦が伝道師として赴任し「内史第」の南2階部分「沿街坊」を住居としました。
5.宗家三姉妹
1893年1月に次女宋慶齢、1894年12月に長男宋子文、1897年3月に三女宋美麗が生まれ、1904年まで幼少期を過ごしました。
6.黄炎培住居
黄炎培は1873年この地に生まれ22歳で科挙試験の地方の第一位である「秀才」、25歳で挙人となりこの地で教育家となり32歳以降上海や北京で政治家として活動しました。
7.清代の特徴を色濃く残す「雕花儀門」
正面梁に「華堂映日」と記され、左には「状元遊京城」、右には「状元献宝」、上には「鳳凰と牡丹」が精緻に彫られています。
撮影:CANON EOS5DIII + EF24-105mmF4 IS
いや~、さすがは孫文の妻、
いや、宋慶歳の生家ですね。
大きくて、きれいで、おくゆかしいです。
すてきなものを見せてくれました。
ありがたいです。
どうか、娘があやかれますように。
宋慶歳の父も秀才ということは、
私も父として、あやかりたいです。
楽しかったです。
第二回目もありもう少し詳しく説明しますが、第一回目の説明は少し不足していましたね。
宋家族はここに「間借り」していましたので当主の黄炎とは無関係です。
父親の宋嘉樹は12歳で米国に渡っていますが、1870年代の米国は大陸横断鉄道建設の盛んな頃で、奴隷解放後に大量の肉体労働者を香港からも募った時期でした。
彼は海南島出身の貧民だったようで、想像ですが中国人労働者らに混じり米国に渡ったのでしょう。
母親の倪桂珍は明代の大科学者、名門「徐光啓」の末裔となっています。
第二回目をお楽しみに。
それでも移民していったのは「稼げる」ということのはず。宋一族の祖先もそうして富を蓄積していったのでしょうね?
でも、優秀な血筋はすばらしいですね。
いろいろと、激動の辛い時代を
乗り越えているようですが。
第ニ回目、楽しみにしています。
中国人の死亡率は他の国より低かったそうです。
その理由は「生水を口にしない」習慣だったといわれています。
欧州の宣教師たちは中国語を学習し、中国人の服装をし、聖書も中国語に翻訳し布教に努めたそうです。
上海最古の松江の回教寺院は元代の創建ですが、中国建築様式でした。
宋家三姉妹の記録映画を観ていました。
(もともと、よく近代史ものをみているのですが。
haichaoluさんの解説のおかげで、予習できました。
ありがとうございます。