1912年、薬店老板の黄楚九と不動産ブローカーの経潤三の二人が、南京路と西蔵路の角に「新世界」という娯楽施設を開業しました。
南京路を跨ぐ施設は地下道で繋がっており、雑技や演芸などで賑わっていました。
経潤三が死去した後、その妻がやり手で、黄楚九を追い出し「新世界」の経営実権を握ってしまいました。
怒った黄楚九は、南側のフランス疎開の荒れ地に15,000m2の土地を入手し、新しく娯楽施設を建築しました。
それが「大世界」の前身です。
1917年の7月14日の日曜日。ちょうどフランス革命記念日の提灯祭りに開業した「新世界」は大勢の人出で賑わったそうです。
当時は東側の雲南路が繁華街でしたが、風水の大家の助言に従い西側の西蔵路を正面とし、大いに繁盛したとか。
1924年には現存の建物に建て替え、入り口には高さ55mの塔楼を建てました。
経営の手を広げすぎた黄楚九は、1931年には事業に行き詰まり、「大世界」は上海青幇の大ボス黄金栄に身売りされました。
後日談として、フラン祖租界の警察署長として昼と夜の世界を牛耳っていた黄金栄は、新中国建国後も上海に残り租界時代の断罪を受けました。
かつて「魔都上海」の代名詞だった「大世界」の前を掃除させられる姿が新聞で報道されたとか。
応援ポチを宜しくお願いします。---> にほんブログ村
南京路を跨ぐ施設は地下道で繋がっており、雑技や演芸などで賑わっていました。
経潤三が死去した後、その妻がやり手で、黄楚九を追い出し「新世界」の経営実権を握ってしまいました。
怒った黄楚九は、南側のフランス疎開の荒れ地に15,000m2の土地を入手し、新しく娯楽施設を建築しました。
それが「大世界」の前身です。
1917年の7月14日の日曜日。ちょうどフランス革命記念日の提灯祭りに開業した「新世界」は大勢の人出で賑わったそうです。
当時は東側の雲南路が繁華街でしたが、風水の大家の助言に従い西側の西蔵路を正面とし、大いに繁盛したとか。
1924年には現存の建物に建て替え、入り口には高さ55mの塔楼を建てました。
経営の手を広げすぎた黄楚九は、1931年には事業に行き詰まり、「大世界」は上海青幇の大ボス黄金栄に身売りされました。
後日談として、フラン祖租界の警察署長として昼と夜の世界を牛耳っていた黄金栄は、新中国建国後も上海に残り租界時代の断罪を受けました。
かつて「魔都上海」の代名詞だった「大世界」の前を掃除させられる姿が新聞で報道されたとか。
応援ポチを宜しくお願いします。---> にほんブログ村
かっての警察署長として昼と夜のボスが大世界の前を掃除させられる姿は惨めそのものでかわいそうですね。
上海のゴッド・ファーザーの一人が黄金栄ですが、「上海灘」という題名でで当時の裏社会がTVドラマ化され、上海でも人気を博しました。
黄金栄の子分で、後に義兄弟となった杜月笙も有名です。
(有名なレストランに行くと、彼らの写真が飾ってある)
新中国建国時、杜月笙は香港へ逃避しましたが、黄金栄は高齢のため上海に残留しました。
彼らの豪邸跡は今や公園になって残っていませんが、賭博場の跡や表の商売だったホテルや銀行なども残っています。
当時の彼らの足跡を探索するのも、上海街歩きの面白さです。
この建物は見たことがあるのですが、近くに寄れなかったです。(*_*)
黄金栄の話は鳥肌が立ちそうですね。よく掃除くらいで済んだものだと思います。
この建物も上海ドリームの夢の跡ですね。
物語としては面白いですね。
想像ですが、極刑にならなかったのはあまりにも関係者が多かったからではないでしょうか。
当時上海の人口は300万人位だったが、その1/4が何らかの関係が有ったそうです。
ブログのシリーズとしても面白そうです。