羽黒蛇、大相撲について語るブログ

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北勝国 (庄内日報より引用)

2013年04月06日 | 公表原稿(羽黒蛇、読者)
無念なり  北勝国引退

将来を嘱望されていた北勝国が度重なる怪我には勝てず、この1月場所限りで引退して2月2日に両国国技館で引退断髪式を行うことになった。まさに志半ばで土俵を去る彼の無念を想うと切なるものがある。

北勝国が17歳で最少年幕下昇進と評判になった平成15年の5月場所前、八角部屋で朝稽古を見たあと私は、「林君ちょっと」と北勝国(本名・林)を呼んで、「私は加茂の生まれで南校の出身だ」と自己紹介したところ、彼は「中学(鶴岡4中)を卒業したときに私は加茂水産高校に誘われたが、八角部屋入門が決まっていたので断わりました。尾形さんは南校とは秀才ですね」と、にっこり笑った。南校出身で秀才と言われ私びっくりしたが、彼のハキハキした応対には好感をもった。

28代木村庄之助こと後藤さんに、北勝国を「押し相撲で明るい性格、久方ぶりに有望な力士が鶴岡からきましたよ」と話したところ、後藤さんは早速、荘内日報5場所評に「北勝国は相撲の質(たち)がよいから、これからが楽しみだと加茂出身の尾形昌夫氏が言っていた」と書き、在京荘内出身者による北勝国激励会に毎回参加してくれようになった。

今を時めく横綱白鵬が北勝国と同じ平成13年3月に初土俵、昨年11月場所に新横綱に昇進した日馬富士は同年1月場所入門と、当時はモンゴル有望力士の多産の時期であった。しかし相撲協会や心ある相撲ファンがもっとも待望していたのは、北勝国のような中学出力士の成長であった。平成14,5年頃、とくに注目されていた中学出の力士は、北勝国の他に、彼よりも2年前入門の鈴川(若麒麟、最高位前頭9枚目、大麻所持で検挙されて解雇)、1年前の再田(現・幕下若之島)1年後の萩原(現・大関稀勢の里)などで、各年入門の有望力士が選ばれたのか、この4力士が巡業中に親方衆の指名で、山稽古(土俵ではなく地面に適当に丸をかいて稽古をする)に励んだことが相撲雑誌で報じられたこともあった。

ところで北勝国は、平成16年11月場所後の風冨山(現・幕下)との稽古中に右手首舟骨骨折という不運に見舞われた。両国の同愛病院での診断では手術による全治は不能という大怪我で、折れた骨をつなぐボルトを埋める処置が取られた。この怪我により、それまでの頭で当たって一気に押す相撲から右差しからカイナを返して前に出る、また立ち合いからモロ差し狙いの相撲に変わった。とくに彼の立ち合い一瞬のモロ差しは天性のもので、昭和20年代後半から30年代のモロ差しの名手といわれた信夫山、鶴ヶ嶺(両力士とも最高位関脇)にも劣らぬものと褒めたものであった。

北勝国は平成20年3月、待望の十両昇進を果たした。右手首骨折という痼疾があったが、柔軟な足腰に恵まれ動きも早く、そのうえ馬力もあり、ものにこだわらない力士向きの闊達な性格から、将来は幕内上位に昇進して三役を狙える逸材と評価する声も上がってきた。

ところが初十両の場所に6勝9敗と負け越し幕下に陥落したが、これから彼の苦難の道は始まったのである。彼は私に次のように語った。

「一場所でも早く十両に復帰したい一念で稽古に励んだのですが、無理をしたためか右手首の古傷が悪化して稽古もできなくなり、親方と相談してスポーツ医学では日本の最高権威である聖マリアンナ医科大(川崎市宮前区)の別府諸兄教授の手術を受けることになりました。第一回目の手術は平成21年の5月、同医科大の登戸多摩病院で全身麻酔を要する8時間にもの大手術であった。第二回目の手術は22年1月で前腕部の靭帯を手首に移植しました」

この手術のため平成21年5月場所から22年7月場所まで連続8場所休場して番付外に転落し、北勝国は前相撲からの再出発となった。十両以上の関取経験者が前相撲を取るのは昭和以降初として話題になったのだが、序の口から三段目まで全勝で通過し幕下9枚目で5勝2敗の好成績で、3年半20場所ぶりに十両復活を果たした。そして再十両の5場所目の24年5月場所に10勝5敗の成績で、幕内を狙える自己最高位の東十両6枚目に昇進した。ところが同年7月場所の8日目に身長181センチ、体重191キロの巨漢力士天鎧鵬の土俵際の上手投げに両力士が正面土俵下に重なり合って落ち、彼は土俵生活を断念せざるを得ない重症を負った。相撲協会の正式発表による傷病名は「右膝外側側副靭帯損傷、右脛骨剥離骨折、右膝前十字靭帯断絶」であった。






北勝国に力士生活でもっとも印象に残る一番は?と聞いたところ彼は、「24年5月場所の13日目、幕内経験のある旭秀鵬を白房下に豪快に押し倒して勝ち越しの8勝目をあげた相撲」と答えた。この場所は14日目、千秋楽と連勝して10勝目をあげ、彼の最高位である十両東6枚目に昇進したのであった。

北勝国の土俵人生は11年(平成13年~24年)で、平成22年11月場所序の口、23年5月場所三段目で全勝優勝、十両在位通算7場所、最高位は東十両6枚目であったが、まだ大きく将来が期待された惜しい逸材であった。






尾形昌夫  平成25年1月

(庄内日報より引用)

2013年04月06日 | 柏戸、北勝国、大岩戸
わが愛する新入幕大岩戸

今年(平成25年)の3月場所で新入幕を果たした大岩戸は5勝10敗の成績で、十両から再出発をすることになった。新入幕の力士にとって幕内の壁は厚く、平成の大横綱といわれる貴乃花は4勝 11敗、直近では初土俵から9場所で入幕という最速記録(幕下付け出しを除く)を作った常幸龍も6勝9敗の成績で十両に落ちたことからしても、大岩戸の1場所での十両陥落もさして悲観することではない。

ところで3月場所の新番付発表の翌2月26日の新聞は、31歳9カ月の新入幕大岩戸を「30代に春来る」「遅咲きの春」と報じた。事実、大岩戸の新入幕は戦後8位の高齢昇進であり、新十両から所要46場所の入幕は戦後2位タイのスロウ出世であった。

このように大岩戸の幕内昇進の記録が特記されるほど遅れた主な理由の一つは彼の相次ぐ疾病と怪我もあったが、更には得意とする押し相撲に際立った威力が出るのに相当な日時を要したためでもあった。

平成15年全日本学生選手権個人戦を制覇した上林(実家の姓。後述するように平成23年9月場所に改名するまでのシコ名)は、翌16年3月場所に幕下15枚目格付け出しで初土俵を踏み、翌17年5月場所に十両に昇進した。平成18年の年賀状の添え書きに「今年は幕内を狙います」と張り切っていたのに、十両5場所目の18年1月場所は左足蜂窩織炎のため4勝11敗と大敗し幕下に陥落した。更には19年9月場所(東幕下13枚目)で左頭部に帯状疱疹が発生し高熱のため途中休場(1勝1敗4休)となり、11月場所の番付は幕下34枚目という入門以来の最下位で彼にとって最も苦難の時であった。この場所11日目に4勝し勝ち越しを決めた日に「やっと勝ち越しました」という彼のほっとした電話の声を聞いた。その後平成20年、21年と幕下の中・上位に低迷していたが、22年5月場所に3年半振りに3回目の十両復帰を果たした。しかし2場所で幕下に陥落してしまった。

平成23年2月初めに八百長問題が発覚して3月の大阪場所は興行中止となったが、上林は3月11日(東日本大震災の日)に左肘軟骨除去の手術をした。彼は24年9月場所(東十両6枚目)後に右肘で同じ手術を受けたが、手術前の本場所では土俵上で力水をつける軽い柄杓を持てないほどの痛みであったと言っていた。このように重症を抱える身体でありながら力士たちは土俵上で激しくぶっつかり合うわけである。

上林が十両に初昇進した平成17年頃、28代木村庄之助こと後藤悟さんと私の3人で会食の機会を持ったが、「人間としての上林は立派な男だ。しかし押し相撲の力士である彼が十両に定着し幕の内を望むには立ち合いに相手を土俵の外に一っ気に持って行く馬力が欲しい」というのが後藤さんの上林評であり私も同感であった。上林が番付を上げることが出来なかったのは病気や怪我もあったが、彼が身上とする押しに今一つ威力がなかったからでもあった。

平成23年5月場所、上林は西幕下2枚目で4勝3敗と一点の勝ち越しであったが、八百長疑惑で25人が解雇されたため7月場所には西十両8枚目と番付は大幅に上がった。ところが場所が始まるや左足の傷から黴菌が入り蜂窩織炎を発症して、高熱に苦しみながら土俵に上がる状態で3勝12敗の惨敗の成績に終りまたもや幕下に舞い戻った。

しかしこの病気療養後に体重も140キロ台に増え押しの威力も増してきた。心機一転、シコ名を大岩戸と改名(名付け親は九州で書道の先生をしておられる山岸蒼龍氏)した9月場所(西幕下筆頭)で5勝2敗の成績で5回目の十両復帰であった。この場所以来、平成25年1月場所で9勝6敗の成績を上げて入幕を果たすまで、新生大岩戸の見事な押し相撲が何番かあった。私はその中のベスト3番として平成24年3月場所の千代大龍(今場所横綱日馬富士を破った)同年7月場所の常幸龍、25年1月場所の旭秀鵬を挙げたが、大岩戸もこの3番は「(自分にとっても)快心の相撲であった」と言っていた。大岩戸の押し相撲に敗れたこの3力士は将来の角界を背負うことを期待されている力士達である。

今場所(3月)5日目のNHKTV相撲解説で大岩戸の師匠八角親方(元横綱北勝海)は「大岩戸はこれ迄おっかなびっくり相撲を取っていたが、最近は押しに威力が出できた。入幕出来たのもそのためだ。また良く稽古をする、出稽古(他の部屋に稽古にゆく)にも積極的だ」と、弟子には辛口批評の親方が珍しく弟子のことを褒めていた。

大岩戸は、後藤悟さんが言っておられたように社会人としても通用する立派な人物で指導力もある。平成22年7月6日、「28代木村庄之助を偲ぶ会」が東京第一ホテル鶴岡で開催されたとき、私が大岩戸の父上の上林哲弥さんに「上林君のような人材を日本相撲協会に残したいものだ」と言ったところ、側にいた水野尚文(元グラフNHK大相撲特集編集長)さんは、すかさず「相撲協会に残るには番付を上げることが大事だ」と付言した。

相撲界は力の社会であり、引退して協会の役職についても現役時代の番付がものをいう社会である。しかし相撲界の相次ぐ不祥事や協会の新公益財団法人への迷走ぶりをみても分かるように、いかにも人材不足である。大岩戸に1場所でも早く幕内に返り咲き、ますます押し相撲に磨きをかけて長く現役で活躍することを期待したいものである。  尾形昌夫
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無念なり  北勝国引退

将来を嘱望されていた北勝国が度重なる怪我には勝てず、この1月場所限りで引退して2月2日に両国国技館で引退断髪式を行うことになった。まさに志半ばで土俵を去る彼の無念を想うと切なるものがある。

北勝国が17歳で最少年幕下昇進と評判になった平成15年の5月場所前、八角部屋で朝稽古を見たあと私は、「林君ちょっと」と北勝国(本名・林)を呼んで、「私は加茂の生まれで南校の出身だ」と自己紹介したところ、彼は「中学(鶴岡4中)を卒業したときに私は加茂水産高校に誘われたが、八角部屋入門が決まっていたので断わりました。尾形さんは南校とは秀才ですね」と、にっこり笑った。南校出身で秀才と言われ私びっくりしたが、彼のハキハキした応対には好感をもった。

28代木村庄之助こと後藤さんに、北勝国を「押し相撲で明るい性格、久方ぶりに有望な力士が鶴岡からきましたよ」と話したところ、後藤さんは早速、荘内日報5場所評に「北勝国は相撲の質(たち)がよいから、これからが楽しみだと加茂出身の尾形昌夫氏が言っていた」と書き、在京荘内出身者による北勝国激励会に毎回参加してくれようになった。

今を時めく横綱白鵬が北勝国と同じ平成13年3月に初土俵、昨年11月場所に新横綱に昇進した日馬富士は同年1月場所入門と、当時はモンゴル有望力士の多産の時期であった。しかし相撲協会や心ある相撲ファンがもっとも待望していたのは、北勝国のような中学出力士の成長であった。平成14,5年頃、とくに注目されていた中学出の力士は、北勝国の他に、彼よりも2年前入門の鈴川(若麒麟、最高位前頭9枚目、大麻所持で検挙されて解雇)、1年前の再田(現・幕下若之島)1年後の萩原(現・大関稀勢の里)などで、各年入門の有望力士が選ばれたのか、この4力士が巡業中に親方衆の指名で、山稽古(土俵ではなく地面に適当に丸をかいて稽古をする)に励んだことが相撲雑誌で報じられたこともあった。

ところで北勝国は、平成16年11月場所後の風冨山(現・幕下)との稽古中に右手首舟骨骨折という不運に見舞われた。両国の同愛病院での診断では手術による全治は不能という大怪我で、折れた骨をつなぐボルトを埋める処置が取られた。この怪我により、それまでの頭で当たって一気に押す相撲から右差しからカイナを返して前に出る、また立ち合いからモロ差し狙いの相撲に変わった。とくに彼の立ち合い一瞬のモロ差しは天性のもので、昭和20年代後半から30年代のモロ差しの名手といわれた信夫山、鶴ヶ嶺(両力士とも最高位関脇)にも劣らぬものと褒めたものであった。

北勝国は平成20年3月、待望の十両昇進を果たした。右手首骨折という痼疾があったが、柔軟な足腰に恵まれ動きも早く、そのうえ馬力もあり、ものにこだわらない力士向きの闊達な性格から、将来は幕内上位に昇進して三役を狙える逸材と評価する声も上がってきた。

ところが初十両の場所に6勝9敗と負け越し幕下に陥落したが、これから彼の苦難の道は始まったのである。彼は私に次のように語った。

「一場所でも早く十両に復帰したい一念で稽古に励んだのですが、無理をしたためか右手首の古傷が悪化して稽古もできなくなり、親方と相談してスポーツ医学では日本の最高権威である聖マリアンナ医科大(川崎市宮前区)の別府諸兄教授の手術を受けることになりました。第一回目の手術は平成21年の5月、同医科大の登戸多摩病院で全身麻酔を要する8時間にもの大手術であった。第二回目の手術は22年1月で前腕部の靭帯を手首に移植しました」

この手術のため平成21年5月場所から22年7月場所まで連続8場所休場して番付外に転落し、北勝国は前相撲からの再出発となった。十両以上の関取経験者が前相撲を取るのは昭和以降初として話題になったのだが、序の口から三段目まで全勝で通過し幕下9枚目で5勝2敗の好成績で、3年半20場所ぶりに十両復活を果たした。そして再十両の5場所目の24年5月場所に10勝5敗の成績で、幕内を狙える自己最高位の東十両6枚目に昇進した。ところが同年7月場所の8日目に身長181センチ、体重191キロの巨漢力士天鎧鵬の土俵際の上手投げに両力士が正面土俵下に重なり合って落ち、彼は土俵生活を断念せざるを得ない重症を負った。相撲協会の正式発表による傷病名は「右膝外側側副靭帯損傷、右脛骨剥離骨折、右膝前十字靭帯断絶」であった。

北勝国に力士生活でもっとも印象に残る一番は?と聞いたところ彼は、「24年5月場所の13日目、幕内経験のある旭秀鵬を白房下に豪快に押し倒して勝ち越しの8勝目をあげた相撲」と答えた。この場所は14日目、千秋楽と連勝して10勝目をあげ、彼の最高位である十両東6枚目に昇進したのであった。

北勝国の土俵人生は11年(平成13年~24年)で、平成22年11月場所序の口、23年5月場所三段目で全勝優勝、十両在位通算7場所、最高位は東十両6枚目であったが、まだ大きく将来が期待された惜しい逸材であった。






尾形昌夫  平成25年1月