ひろさちや氏は言う、ホンモノ宗教のホンモノ性は、
――わたしひとり――
ということである、と。
つまり「私」より、教団・共同体・国家等々が優先されるのは、皆インチキ宗教なのである。
釈迦は入滅の直前、弟子のアーナンダに<アーナンダよ、それ故に、自分自身を灯明とし、自分自身をよりどころとするがよい。他のものにたよってはいけない。法(真理)を灯明とし、法をよりどころとするがよい。他のものにたよってはいけない>(『大般涅槃経』二、渡辺照宏訳)と遺言したという。
これが有名な――自灯明・法灯明――の言葉である。
信仰の拠り所として、法よりも前に、「自分自身」が強調されているのだ。
つまり、教えをただ受動的に守るのは本当の信心ではなく、主体性をもった信仰をするのが本当の信者の在り方だと、釈迦は語っているのである。
これは戦前の「滅私奉公」を謳った「国家神道」が、実はインチキ宗教だったことを物語るものだ。
ホンモノ宗教においては、大事なのは己自身なのである。
己を虚しゅうして集団のために尽くせ、などというのは、インチキ宗教だと考えて差し支えなかろう。
またインチキ宗教は、信心すれば「病気が治る」・「金儲けができる」・「人間関係のトラブルが解消できる」等々と現世利益を強調する。
そして多額の寄付金を要求してくるのだ。
全くばかばかしい限りだ。
ホンモノ宗教における「ご利益」とは、この世=此岸の価値観を超越した、彼岸の物差しで計った幸福=心の平穏なのである。
ホンモノ宗教における信者とは、世間の物差しや「尊師」の権威等々に振り回されない、主体性をもった自由人なのである。
――わたしひとり――
ということである、と。
つまり「私」より、教団・共同体・国家等々が優先されるのは、皆インチキ宗教なのである。
釈迦は入滅の直前、弟子のアーナンダに<アーナンダよ、それ故に、自分自身を灯明とし、自分自身をよりどころとするがよい。他のものにたよってはいけない。法(真理)を灯明とし、法をよりどころとするがよい。他のものにたよってはいけない>(『大般涅槃経』二、渡辺照宏訳)と遺言したという。
これが有名な――自灯明・法灯明――の言葉である。
信仰の拠り所として、法よりも前に、「自分自身」が強調されているのだ。
つまり、教えをただ受動的に守るのは本当の信心ではなく、主体性をもった信仰をするのが本当の信者の在り方だと、釈迦は語っているのである。
これは戦前の「滅私奉公」を謳った「国家神道」が、実はインチキ宗教だったことを物語るものだ。
ホンモノ宗教においては、大事なのは己自身なのである。
己を虚しゅうして集団のために尽くせ、などというのは、インチキ宗教だと考えて差し支えなかろう。
またインチキ宗教は、信心すれば「病気が治る」・「金儲けができる」・「人間関係のトラブルが解消できる」等々と現世利益を強調する。
そして多額の寄付金を要求してくるのだ。
全くばかばかしい限りだ。
ホンモノ宗教における「ご利益」とは、この世=此岸の価値観を超越した、彼岸の物差しで計った幸福=心の平穏なのである。
ホンモノ宗教における信者とは、世間の物差しや「尊師」の権威等々に振り回されない、主体性をもった自由人なのである。
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