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「3 11・ 東日本大震災」 あの日から2年 

2013-03-11 | Weblog




2012/8/14 宮城県名取市閖上 日和山

  
震災前の閖上

昨年 夏

盆の8月14日 宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)を訪ねた


かっての閖上は仙台市の極々近郊の

長閑で小さな漁村だった


近年 港の背後に住宅地が新たに造成されるようになってから

著しく発展を遂げた町である

車で5~6分も走ればもう仙台市内に入れるほどの至近距離にある

仙台市内の中心部に建つ高層ビル群が

手に取るように肉眼でもはっきり見える位である
 
閖上・日和山 漁港から数百mのところにある 海抜数mの小高い丘
       
セルロイド製の黄と緑と桃色の
       何本もの三色の風車が
      カラカラと乾いた音を立て
      一斉に海に向かって
      回っていた

       
瓦礫はきれいに片づけられ
       見渡す限り一面夏草が生い茂っていた

        
   
 漁港は津波の爪痕がそのまま残っていた
     
ポツンと唯一残った建物に吊るされた
     「元気のぼり」が風を孕んで騒いでいた

震災前の人口 5612人

死者・行方不明者 合わせて1027名

なんと街全体の18,3%もの人々が

この度の東日本大震災で津波の犠牲になった


閖上を襲った黒い津波 (河北新報社掲載)

地震後30分ほどして

高さ7~8mの想像を絶するような

どす黒い津波がこの街すべてを呑み込んで行った


それまでの長閑な町が一瞬にして

まるで地獄絵そのものに変わってしまった


この辺一帯は仙台平野のほぼ中心に位置し

標高が低く(≒海抜1~2m)周りにこれといった高台がなく

車以外に逃げる手段は他になかった


加えて町の外に車で避難する為には

2本の幹線道路以外に無く

そこで大渋滞を引き起こしたのが

犠牲者を多く出してしまった理由とされている

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


2013・3・11

東日本大震災から丁度2年の月日が過ぎた

長いようでもあり 短いようでもあり

複雑な想いがする 


去年の夏 

夏草に覆い尽くされた廃墟の町(閖上)を訪れた


あえて「お盆」の時期を選んだのには

ひとつの理由があった


去年の春 風の便りで

私がかって学生時代 仙台で共に学んだ友が

この地で津波に呑まれ

亡くなったことを知った


卒業して暫くは

互いの様子を手紙でやり取りしていた時期もあったが

いつの間にかそれも途絶え

かれこれ・・・・・20年以上お互い音信不通になっていた


奥さんと子供さん そしてお孫さん達は

幸い全員無事であったらしい

そのことはせめてもの救いであった


彼は地震後も 海岸沿いにある事務所に一人だけ残って

犠牲になったとの事だった


まさかこれほどの大津波が押し寄せるとは

誰もが想像できなかったのであろう


1週間後 海岸から1kmほど離れたところで

彼の遺体が発見されたとの事


日和山に登って

彼はこの町に生まれ この町で育って

この町のどの辺りに住んでいたのだろうか・・・・・・・・

そして どんな暮らしをしていたのだろうか・・・・・・・

すべてが廃墟の町と化した閖上の今を

ただただ 呆然と眺めながら

今は亡き学生時代の友に合掌し

御冥福を祈った


2013年3月

あの大震災から丁度2年たった今も

岩手県から福島県に至る≒4~500km

に及ぶ被災地の復興は遅々として

一向に進んでいない


その典型的な被災地の例が

この閖上の現状といっていい


去年の夏訪れた時点で

街から瓦礫はきれいに姿を消していた

海岸近くに応急の瓦礫焼却施設が出来て

その後も順調に瓦礫処理が進んでいるようだ

しかし・・・・・・・・・

街全体の復興プランが今だもって決定されていない状況にある
  
 閖上 復興計画マスタープラン
  
 同上 盛土計画実物見本

名取市の最初の復興計画案は

主にこれまでの市街地を 高さ5~6m盛土

その周りに高さ7~8mの防波堤

更にその外周に高さ10mほどの防波堤を築くという

3段階の復興計画案であった

しかしこれには市民の間から賛成と反対の異論があいついだ

現在では意見を異にする十数のグループが結成され

意見の集約はますます混迷を深めている


あれから二年経った 今年の三月初め現在

閖上地区の復興計画はいまだ決まっていない


このことは単に閖上地区に限ったことではない

最大の被災地 石巻市 気仙沼市 宮古市 釜石市・・・・・・・・・etc

どこも同じような問題を抱えている

誰もが納得できるような妙案を見つけることは

この先いつまで経っても

きっと不可能なことなのかもしれない

 
南三陸町 2011・10・12

津波の高さはこの建物の屋上の上2mにまで達した
 
津波が防災庁舎を襲った様子(河北新報より転載)
 
屋上に達した津波(同上)
 
津波が引いて一夜明けた防災庁舎の生存者の様子(同上)

屋上に避難した≒30名の人のうち

助かったのは防災無線の鉄塔に登った3名と

外部階段最上部の手すりに最後までしがみついていた7名

合わせて10名であった

残りの≒20名は力尽きて津波と共に姿を消した
 
南三陸町防災庁舎

町長はじめ多くの町役場職員が犠牲となった役場庁舎

中でも防災無線で最後まで町民に対し

必死に避難を呼びかける遠藤未希さんの悲痛なまでのアナウンス・・・・・・・・・・

このアナウンスを聞いて 

いったいどのくらいの人が命を助かったか計り知れない

自分の生命を賭してまで職務を全うしたその勇気と痛ましさ

今後 東日本大震災が後世の人々に語り継がれていく限り

これから先いつまでも決して忘れられることはないであろう

 県立志津川病院

津波は4階の床まで達した
 
自力で歩く事が出来ないような

寝たきりの多くの高齢者が入院していた 

その為避難しきれず 数多くの犠牲者が出た 

また 津波が迫る中 

最後まで高齢の入院患者を避難させようとした

看護師達も悲しい犠牲者の人となった

75名の尊い命が奪われた悲劇の場所である
 
南三陸町

地盤沈下が激しく 沿岸部は7~80cmも下がり海面とほぼ同じであった

その為満潮時は足元からごぼごぼと音を立てながら

海水が湧き上がってくるのが分かった
 
 同上
 
 同上
 
 同上 

2011年10月 震災の七か月後

往復100余kmの三陸海岸被災地を巡る

一人旅をして来た

「空即是色」の過去の記事がそれである

しかし「大川小学校の悲劇」を最後に 途中で終わってしまっていた

「3・11 東日本大震災」 あの日から2年・・・・・・・

の記事を書いた機会に

改めて「空即是色」の続きに再挑戦してみることにした


  
気仙沼市 2011・10・13
  
同上
気仙沼市の美しい市街地は一変していた

海岸から数百m離れた街中

赤と青の2色に塗り分けられた

巨大な漂流船が打ち上げられていた

海沿いには焼け爛れた市街地が

見渡す限り続いていた


巨大な漂流船

後世の人々に津波の恐ろしさを

いつまでも忘れることなく伝えるために

この場所で保存しようという動きがある


しかしこれには賛否両論があり

いまだ結論は出ていない

  
同上
 
 同上
  
同上
  
同上
  
同上
  
同上
  
同上
  
同上
  
同上
  
同上
  
同上
 
 同上 (正面5階建ての白いビルに携帯電話の中継アンテナが立っていた)


川幅が100m位 

流れの少ない運河のような川を渡ると

目の前に鉄道のガードが見えて来た


ガードをくぐり終えると道はへの字に右にカーブしていた

カーブを曲がり終えると

突然目の前の視界が大きく開けて来た


そこから街の様子が一変した

川一つ隔てただけで 至るところ津波の爪痕が残っていた

住宅の外壁はいたるところ引きちぎられ

まるで臓物が内部から噴出しているかのようであった


更に車を先に進めて行くと

残っている家屋がだんだん少なくなっていった


暫くすると 魚市場の大屋根が見えて来た

観光船の発着する観光桟橋がある

港の1番奥に向かった

気仙沼の街で私が1番好きな

尖塔がある丘の上の真っ白な教会が見えて来た

ふと……被害がそれほどでもない街の様子に

内心ほっとさせられたのも束の間だった


海岸沿いの表通りを過ぎると状況が一変した

店舗という店舗のすべてのシャッターが

飴のようにグニャグニャと曲がり

瓦礫が散乱したままだった


外海に向かって湾の右側にある魚市場から先は

まさに廃墟そのものであった


地震による地盤沈下で 志津川の街と同じように

あちこちからぼこぼこ音を立てながら

海水が噴出していた


冠水を避けるため道路部分だけ

周りの部分より5~60cm嵩上げしてあり

すぐに水浸しになるような心配はなかったが

それ以上先に進むのは止めることにした


そこから先は歩いて行く事にした


暫くすると 自転車を横に並べて

手押しでこっちに向かって歩いて来る

70歳ぐらいのおじいさんと出会った


「この辺も冠水するのですか・・・・・?」

と尋ねてみた

「道路の高さまでは海水は来ないが この先は工事用ダンプの往来や危険なものがいっぱいあるのでこれ以上先には行かないほうがいい・・・・・・・」と教えてもらった

引き返す途中

40代前半ぐらいの

小奇麗な上下揃った青い作業服を着た

男性に出会った

「おはようございます・・・・・・・」

と挨拶したら 人懐こい雰囲気でこっちに近寄って来た

「山形からですか・・・・・? 山形のどちらからですか・・・・・?」

と先方からそう尋ねて来た

私の車のナンバープレートを見て知っていたのだろうと直感した

「寒河江からです」

「私も山形で 酒田からです」

ここで偶然初めて出会ったのにも拘らず

たまたま同郷だったということだけで

親しく2人で立ち話をした


なんでも仕事で来てもう4~5日になるとの事

これまでも震災後何か所か同じ仕事で

いろんなところを回ってきたと言っていた

少し先の十字路に停めてある緑の軽ワゴン車に寝泊まりしているそうだ


仕事は 目の前に建つ5階建てのビルの屋上に

携帯電話の送受しい用アンテナ設備があり

その設備に24時間仮設電気を送るための発電機の

保守にあたっているとの事

真夜中気が付くと辺り一面が海水に覆われ

あわてて少し高いところに車を移動したことがあった

とか なんでもこのビルで5人ほど津波の犠牲者が出たと聞いてから

気持ち悪くてオチオチ寝ていられなくなったとか

いくら仕事と言っても 

こんな仕事にだけはこりごりしていると嘆いていた

  
同上
  
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同上
  
同上
  
同上
  
同上
  
同上
  
同上

気仙沼市は震災前は日本一のカツオの水揚げ量を誇る

漁業の盛んな町であった

徐々に水揚げ量は回復してきているが

防災事業はまだ計画段階のままで

2年経った今現在も全く手付かずの状態にある

海岸沿いに高さ16mの防潮堤を築こうという計画は

これまで慣れ親しんで来た海の景色が

突然コンクリート5階建てほどもある異様なほどの高さの塀で

区切られてしまうのである

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

街の景観と防災

どちらを優先するか・・・・・・・?

地盤を嵩上げするにしても 防潮堤を作るにしても

選択肢は限定されている

いずれにせよ一長一短があり

なかなかそう簡単には結論が出そうもない

何処に行っても震災後の復興が進んでいない最大の原因である

陸前高田市 奇跡の1本松 2012/10/13

同上 気仙川の河口付近で行方不明者を捜索する警察官

道の駅「陸前高田」 海岸線から≒300m位のところにある
津波到達点13、7mと赤いマーカーで記されてあった
3万本の松が生えていた美しい松原は全く姿を消していた

陸前高田市

同上

同上

同上

同上

同上

気仙沼市の次は隣の岩手県陸前高田市に入った

陸前高田市は三陸沿岸にしては比較的湾口の広い

広田湾に面している


五年前に初めて訪れた時は

その緩やかに弧を描いた松原の美しさに

えらく感動させられた


街を見下ろす小高い丘の上の道路を走っていると

最初に見えて来たのが

3万本の松の木の中でたった一本残った

奇跡の一本松であった

気仙川の河口付近では

紺の制服と白いヘルメットを被った

15~6名の警察官が列をなして

行方不明者の捜索にあたっていた