
①東日本大震災前 2008/4 陸前高田市 高田の松原
「遠き浜寄せては帰す白波よ 愛しき人は海に眠らん・・・・・・・」
※ 3年半前この浜で詠んだ歌を少し読み替えてみました

①東日本大震災後 2011/10/13 同上(震災前の①と同位置 緩やかに孤を描いて伸びる砂浜と波静かな青い海 そして遥かな碧い空 明治以来 先人達に続いて市民が大切に守り育んで来た陸前高田市の名勝地であり 憩いの場所でもあった 高田の松林の面影は今はどこにも見当たらなかった)

②東日本大震災前 2008/4 陸前高田市
街道筋の旧市街地 古い町並み

②東日本大震災後 2011/10/13 同上(震災前の②と同位置 T字路の道路と正面の山と杉木立を見比べてください)

③東日本大震災前 2008/4 陸前高田市
蔵屋敷が立ち並ぶ古い町並み

東日本大震災後 2011/10/13 同上

東日本大震災後 2011/10/13 同上

東日本大震災後 2011/10/13 同上

東日本大震災後 2011/10/13 同上 (市の中心部にある 学校 市庁舎 病院 商店街 住宅街・・・全ての建物が津波の被害に見舞われた 被災前人口≒23000人 街は壊滅状態に等しい 被災された多くの市民はいったいどこで暮らしているのだろうか・・・? 東日本大震災で最大の被害を出した街のような気がした)

東日本大震災後 2011/10/13 同上 (姉羽橋 橋脚のみが残り橋桁はすべて流失 遠くに高田の松原で唯一残った一本松が見える)
十月十一日 以前から計画していた
東日本大震災の被災地を訪ねる旅に出た
3年半前に旅したコースと同じ道を辿ってみたかった
(2008年4月16/17日のブログに掲載)
10月に入ってすぐにでもと 思っていた
しかし いざ出発となると
1週間もの長き間 家を空けるチャンスは
なかなかそう簡単には 巡って来てはくれなかった
十月十一日 朝十時出発
震災から丁度7ヶ月目を過ぎた日であった

2011/10/11 東松島市

同上

同上
今回の震災で 大勢の犠牲者を出した東松島市
6月 仙台市近郊の蒲生地区の被災地
を初めて訪れた時に目にした状況
とよく似ていた
住宅の外形はそのまま残っていたが
誰一人住民を見かけることは出来なかった
地盤沈下が激しく
おそらくほとんどの家は修復不可能であろうと思われた
いや・・・・・・・
例え修復出来たとしても
人々がこの惨禍を目の当たりにして
再びいつ襲ってくるかも知れぬ津波の恐怖に
きっと耐え切れないであろうと確信した
仙台と石巻を結ぶJR仙石線
レールはすべて撤去
この度の津波に襲われた地域から
ルートを外す検討がされているそうだ
いまだ復旧のめどが全く立っていない
バスによる代替輸送が続いている
開通まで おそらく数年は掛かるだろうと云われている

2011/10/12 石巻市の旧北上川河口付近

同上 旧北上川河口中ノ島付近

津波と火災に見舞われ黒焦げになった学校

河口南側の住宅地

同上

同上 河口北側の工業団地内バイパス

同上
小高い日和山の山裾から海までの
幅≒1km 長さ≒2~3km
人気の無い 津波で荒廃したままの
広大な大地が拡がっていた
廃墟と化した街・・・・・・・・・・
そこに生ける物はと云えば
時折 砂埃を撒き散らして
アスファルトの舗装道路を
足早に駆け抜けて行く車のエンジン音
と雑草を揺らす浜風だけだった
所々ポツンポツンと 津波から流失を免れた
赤錆びた骨組みをむき出しにした鉄骨の建物や
鉄筋コンクリートの建物が目に映った
津波に命を奪われた死者の叫びだろうか・・・・・・
それとも遺された人々の吐く
虚ろな弔いの叫びであろうか・・・・・・・
吹き抜ける風の唸り声が
あちこちから聞こえてくる
山陰に沈み行く真っ赤な夕陽
大地がオレンジ色に染まった
振り向けば私の影が
黒く 長く 寂しく
夕陽に映えていた
震災から半年が経って
ほとんどの瓦礫は撤去されていた
石巻市は
この度の東日本大震災で最も多くの犠牲者を出した(≒3000名)
そしてこの住宅地辺りが
より多くの犠牲者を出した所である
そこにはモザイク模様をした
主を失った無機質なコンクリート造の
家屋の基礎が
幾つも幾つも折り重なるよう
辺り一面 無数に拡がっていた
枯れかけた褐色の雑草が
かっては住宅の床下部分であった所にまで
我が物顔に蔓延っていた

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く
震災の爪痕をこの目で実際に確かめ
己の心の内に
強く惨禍の姿を刻み込み
長く 正確に記憶に留めることが
今求められているであろう
そして生涯 職として
街造りの一端を担って来た
名も無い一建築家として
又 学生時代に都市計画(都市防災)を学んで来た者として
後世にこの震災の記禄と
震災から学んだ警鐘を伝え遺す事も
私に課せられた
大切な使命のような気がする
もしかして74名の尊い幼子の命を奪った
大川小学校の悲劇は
建築家として 都市デザイナーとして
学校建築が持つシェルターとしての重要な機能を
最大限考慮していたとするならば
この悲劇は回避できていたかも知れなかった
そんな事も私なりに検証していきたいと思っている
空即是色・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この度幾多の被災地を訪ね
私が犠牲者の御霊に捧げた
鎮魂の言葉であった
万物はいろいろ形を備えているが
全ては現象であって
永劫不変の実体などというものはない
本質は空である
物質的存在は全て仮の姿であり
存在そのものが
初めからむなしい存在である
実体のない空がそのまま万物の姿でもある
しかしながら
空とは一方的に全ての命の営みを否定する
虚無ではない
知覚しているこの世の現象の姿こそが空である
だからこそ全ての生命の営みは
刹那さであり
崇高な誇りでもある
この度の大震災は人間の情念を遥かに超えている
だとすれば・・・・・・・・・
もはや誰もが この惨禍に怨念を抱く事等
出来る筈がない
色即是空
空即是色
・・・・・
・・・・・
・・・・・
合掌