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黒川紀章&岡本太郎・・・・(3/3)

2008-07-03 | Weblog





今日、寒河江市役所に行ってきた。

農業者年金現況届を農業委員会に提出、そして妻の住民票を取りに住民課へ。

暫らく振りの市役所、ふと先日発表された市役所の耐震診断の結果を思い出した。そして私のブログの「黒川紀章&岡本太郎」が2/3で終わっている事を思い出した。そんな訳で今日はその続きを・・・・・。

今から約40年前、新進気鋭の建築家、黒川紀章は自宅兼事務所のマンションの一室で設計事務所を開設したが、現実の設計の仕事となると、ほとんど依頼がなく、著作活動などに時間を費やしていたが、寒河江市のN食品社長が黒川紀章の力量を見込んで自社工場の設計を依頼した。

前回はそこ迄・・・・。


  岡本太郎 「生誕」

さてそこから、丁度同じ時期、寒河江市は新庁舎の設計を誰に依頼するかでいろいろ模索していたが、なかなか決めかねていた。
そんな時、同じ寒河江市で工事が始まっていたN食品工場の設計者が、著名な建築家黒川紀章と知り、急遽新庁舎の設計を依頼することに決まった。

実はこの寒河江市庁舎の設計が黒川紀章にとっては初めての公共建築物の設計依頼であった。そして以後、彼が第一線で華々しく活躍していくスタートでもあった。



黒川紀章と岡本太郎との関係の発端は定かではないが、黒川が東大丹下健三研究室時代、岡本と一緒に撮った写真が残っているところからすると、すでに名声を博していた岡本は、丹下健三の仲介で黒川と親交を持っていたようだ。

そんな黒川のデビュー作に自分の「生誕」と名付けたモニュメントを寄贈。
実際、寒河江市と岡本太郎は何の関係もなく、寒河江市ではなぜ岡本太郎の作品が市庁舎ホールにあるのか、いまもその正確ないきさつを知らない。

ごく最近になって知ったことだが、岡本太郎は自分の作品を売買し、金銭に換えることは生涯なかった。そうだとするとこのモニュメントもやっぱり無料なのだろう。

その後、大阪万博で丹下は総合プロデュースを、岡本は太陽の塔、そして黒川はT社パビリオンなど数件を設計し、大阪万博は成功裡に終わった。以後黒川は日本を代表する建築家へと成長していったのである。

ここまでが「黒川紀章&岡本太郎・・・3/3」。

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そして四十年の月日が流れた・・・・・・・・・・。

寒河江市庁舎は日本近代建築100選に選ばれ、丹下健三、岡本太郎、そして設計者黒川紀章のいずれの巨匠も、すでに故人となってしまった。

今年、寒河江市庁舎の耐震診断結果が発表された。結果は震度7規模の地震で崩壊するとの耐震診断であった。

当時の手計算による2次元的構造解析の限界と、新耐震による耐震構造指針の強化があって、現在の新耐震基準からすると大地震時には1階コア部分でせん断破壊が発生し、庁舎は崩壊するとのレポートが発表された。

地震に対する構造計算の検証も重要であるが、当時の工事監理体制、施工精度なども本来は検証してみる必要があると思われる。

しかしながら財政難のこの時期、寒河江市としては書類等を庁舎外に移動するなどして積載荷重を低減し、建物の軽量化を図る地震対策にとどめ、当面構造的補強はせず、そのまま使用を続ける。



そんな意味を含めて今日エレベーターに乗る際、開口部周りを凝視してみたが、開口部亀裂特有の4隅に見られる斜めのヘアークラックはまったく見られなかった。コーナー部の補強筋がしっかり施工されているからだろうと思った。

寒河江市民の1人として、日本の設計界の一時代、その先端を走った建築物として歴史に残るこの建物の美しさに、今でも訪れる度に見入ってしまい、自慢に思っている。
この建物には、一時代を駆け抜けたメタポリズム思想がまさに生きている。
地球の重力に抗うような力強い躍動感に溢れ、他に類を見ない明快さと黄金比のリズムを持つディティール。

40年たった今も尚、山形県で寒河江市庁舎を越える現代建築物は皆無に思える。