団塊の青春と昭和の東京

昭和の名残りを求めて since2007・02・10

銀座の恋の物語

2007年12月31日 | Weblog

0174

中高年がカラオケでデュエットといえば、『 銀座の恋の物語 』 がダントツであることに異論を挟む人はいない。 カラオケ好きな中年サラリーマンなら、だれでも一度ぐらいは、お店や会社の女の子と一緒にマイクを持って ♪こころの~そこ~まで~♪とやったはず。
この歌が昭和36年に石原裕次郎と牧村洵子で大ヒットしてから、半世紀近い。

裕次郎が亡くなって20年が過ぎたが、『 銀座の恋の物語 』は不滅のナンバーで、平成2年には数寄屋橋公園に歌碑が建立されたというが、毎日のようにここを歩いていても、気付かなかった。
サラリーマンを辞めたとたん同じ処でも見る目線が異なって来たので、捜してみようと思って出かけた。

“銀恋”の歌碑を捜し回っていると、ガードマンから 「 どの列でも同じですよ、短い列にお並び下さい 」 と言われた。 どうやら、年末恒例の 『 ジャンボ宝くじ 』 を買い求める人に間違えられたようだった。
日本で最も多く1等賞が出るこの 西銀座デパート“ チャンスセンター ”は ⑦番の列が圧倒的に長く、④番と⑥番は欠番となっている。 と言うことは、実質⑤番が⑦番窓口となっている・・ゲン担ぎに意味があるのだろうか?
それにしても、 “ 西銀座 ” とは古い昭和30年代の響きがする。

「銀恋」 「数寄屋橋」 「有楽町」 と昭和のロマンが平成の現実に埋もれていたので、結局 “銀恋” の歌碑は撮れなかった。 皆さんご多幸を! お祈りします。
   (写真) 西銀座デパート宝くじチャンスセンター

       ~ 銀座の恋 千金の夢に かき消され ~

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ホーロー看板 オロナミンC

2007年12月30日 | Weblog

0173

ホーロー看板を、店のアイキャッチのために使うという利用法は、昭和を懐かしむ世代には、相当な効き目があるらしい。
このゴチャゴチャしたガード下(多分ここだけは終戦直後と変わっていないであろう)のビジュアルの中で、よく効いている。                 
大村 崑ちゃんが鼻メガネで「おいしいですよ」といっているようだ。
この店の中、外には昔の映画ポスターが所狭しと貼ってある。 これを見るだけでも楽しいが、ホーロー看板もかなり貼ってあるので、それを見ながら一杯飲るのもまた楽しい。

歳のせいか、最近はこんな場末のような居酒屋が、妙に懐かしいような気がして落ち着く。 若い頃はそんなに馴染んでいなかったのだが・・傍から見ると、たそがれたオヤジが、安酒をくらっているとしか思えない・・というより、事実そうか(笑)
   (写真)有楽町 ガード下

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ホーロー 看板

2007年12月29日 | Weblog

0172

年末になると、恒例はNHK紅白、レコード大賞など・・

第一回 (昭和34年) のレコード大賞は 『黒い花びら』 で、永 六輔・中村八大コンビで、写真の殺虫剤を持っている男、水原 弘 が唄った。
子どもだった我々の世代もみんなこの歌を唄っていたような気がする。

この看板が出回ったのはいつの頃からか知らないが、大塚のタレント起用には反アノマリーなものが感じられる。
浪花千栄子の 「オロナインH軟膏」、松山容子の 「ボンカレー」、大村 崑の 「オロナミンC」 など・・
「オロナイン軟膏」は発売当初の昭和28年頃は、当時、「君の名は」で
人気絶頂の佐田啓二がCFをやっていたというから、これもまた反アノマリーだ。

大体、この手の看板は昔、ローカル線に乗って旅をすると、車窓からの視野の中に発見することが普通だった。 大阪から故郷の丹波へ向かう福知山線では、沿線の民家の壁に貼ってあって、それが妙に風景に溶け込んでいたものだ。
最近も丹波に行く機会があったので、デジカメ持参だったが、この手の看板は皆無だったのがさびしい気がした。

写真の看板は、銀座に程近い有楽町のガード下にあったが、飲み屋のアイキャッチチャーとして、利用されているみたいだ。 大体、有楽町にあること自体がアノマリーではない。
   (写真)ハイアース:水原 弘

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銀座のクリスマス 2

2007年12月24日 | Weblog

0171

クリスマスの時期でも、殊更飾りつけしないのが、銀座の良さかと思っていたら、最近は電飾を(他の繁華街程じゃないが)つけるようになった。
年中華やかな、灯りの海であるからして、この時期だけ飾り付けてもあまり、意味がないと思う。 
確かに他の繁華街のように、只どぎついだけの灯りではないところが銀座の良さだ。

4丁目の交差点の 「和光」 の素敵なところは、シンプルな色と、まったく変わらない外観が年配者のこころを和ませている。
この時計の塔を持つ和光は、教会のようなやすらぎを覚える。

 「和光」 だけは、昔の映画に出てくるままの姿であって、都電が走り、交差点の中心で白いヘルメットにサングラスのMPが交通整理をやっていた頃とまったく変わらない。 何十年と同じ色・形で佇む姿は建物の中に入っても、昔と変わらない。
時計台の針は正確に現在を刻んでいるが、店内の昭和の記憶の針は止まったままである。
   (写真) 銀座4丁目交差点

 

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銀座のクリスマス

2007年12月23日 | Weblog

0170

近年、この季節になると電飾が各地で見られ冬空を飾ってくれる。
夜景が年中ステキな銀座でも、ニューヨークのロックフェラーセンターのツリーに優るものが、近年、御木本の前で見られるが、確かに素晴らしい。

でも、銀座はことさら普段以上に飾る必要はないような気がする。
写真は、いつもどおりの街に歩行者天国がタイムアウトした途端、クリスマスを意識したコカ・コーラの宣伝カーが通ったときの撮影。
これだけで、十分クリスマスの華やかさが出ている。 
あとは、人々が幸せそうな顔で銀ブラを楽しんでいれば、それで良いのであって、これ以上の装飾はどぎつく品がなくなる恐れがある。

温暖化に警鐘が鳴らされる中、銀座の夜景だけはいつまでも続いて欲しい。
   (写真) 4丁目交差点を望む

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鈴木オート 付近?

2007年12月22日 | Weblog

0169

昭和レトロを満喫させてくれる映画・・「 三丁目の夕日 」 & 「 続・三丁目の夕日」 の舞台である鈴木オートのある場所はこの辺ではないか? と想いつつ東京タワーを狙ったのがこの一枚、港区の三田辺りではないかと想った。
違っていても、東京タワーまでを半径として、大体同じ距離のところではないだろうか・・映画を観ると、そう思える。
品川から泉岳寺へ回り、札の辻の二又を左に進み、慶応大学の東門近くから撮ったのが、この一枚だが、道路の真正面に東京タワーが足元から見られるのはこの辺り以外は知らない。
道路の両側のビルを昔の木造家屋や商店街にしたら、まさに「三丁目の夕日」そのものではないか! この道路を一本入ると、鈴木オートがあって64~65歳の六ちゃんがいるような気がする。

東京タワーも最近は新東京タワーの話題が有るゆえ、妙に愛着が湧く。
あと、30年もすれば、西郷さんや、通天閣のような名物になってしまうのか・・
映画の時代背景である昭和33~4年頃、ボクは、夏休みの工作で、マッチ棒をたくさん使ってセメダインで組み上げてエッフェル塔と区別のつかない東京タワーを完成させたのが懐かしい。
   (写真) 鈴木オート があった辺り?からの東京タワー

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青梅市の映画看板 22 眼下の敵

2007年12月21日 | Weblog

0168

ロバート・ミッチャム演じる米駆逐艦艦長とクルト・ユンゲルスのドイツ潜水艦Uボート艦長の息詰まる戦いを描いたフィルムで、何度となくテレビで観た。

お互い顔が見えない所での心理戦が描かれ、戦う内に相手に対し敵ながら畏敬の念を抱くようになる。
ラストシーンでは、お互いを認識し合ったと思うが、記憶が明確ではないのが、残念だ。 このラストシーンはその後、東宝製作の潜水艦戦の映画(題名は忘れた)で、池辺良演じる潜水艦長を観たとき、パクリだな・・と思うほどいい場面だった。

この頃の映画は、敵国兵の役も、その国の役者が演じることが多かったので、変な雰囲気は当たり前だった。アメリカ映画では日本兵役を中国人や韓国人が演じ、アメリカ人がドイツ兵を演じ英語の台詞で違和感があったが、ロバート・ミッチャムは見るからに、アメリカ人、相手のクルト・ユンゲルスは雰囲気も名前からしてもドイツ人に間違いないだろう。
こういったところに手抜きのないのが、良かったと思う。

「 眼下の敵 」 は、グレゴリーペック主演の 「 頭上の敵機 」 とともに、モノクロ戦争映画のMyベスト10に入る作品だ。 グレゴリーペックはローマの休日やオーメンそれにアラバマ物語など傑作もあるが、ナバロンの要塞などの戦争映画や、西部劇が印象的だし、彼が、この映画 「 眼下の敵 」 で駆逐艦長を演じていても面白かったと思う。
   (写真) 眼下の敵


 

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鈴木真砂女の店 「 卯波 」

2007年12月17日 | Weblog

0167

昨日の朝日新聞 「 家族 」 の欄に “ 銀座・卯波の3代  真砂女と孫つないだ店 ”という記事が出た。   俳人 鈴木真砂女の店 『卯波』 が来年1月25日で閉店するとあった。

10年以上前、兵庫県丹波市柏原の料亭『喜作』の女将(高校の同級生)から、ぜひ母親(大女将)を真砂女に会わせてやって欲しいと頼まれ、『卯波』へ連れて行ったことがある。
アメリカ帰りのお孫さんが板前として立った頃で、カウンターには俳句や文芸の大先生方や、東大の総長までもが事も無げに呑んでいるのには、気後れしてしまった。
この頃、真砂女はNHK俳句の選者だったと思う。
隣の魚屋から刺身を持ってきて、出してくれたり、俳句の解らないボクに気さくな心遣いも見せてくれた。
真砂女に会えて、満足した大女将と店を出る際、初対面のボクに 「 ツケで良いから,いつでも呑みに来なさい 」 と言ってくれたのだが、その後は畏れ多くて、とても店には足を運べなかった。

『卯波』は勤めていた会社のすぐ近くだったので、たびたび見かけると会釈を交わすようになった。
小柄で凛とした着物姿は80歳代半ばとは思えぬ女の色香があり、遠くからでもオーラを放っていた。
銀座・松屋デパートに着物姿の彼女の大垂れ幕が架かったり、新聞の全ページ広告のモデルになった時は90歳ぐらいだったと思う。
瀬戸内寂聴が彼女をモデルした 『 いよよ華やぐ 』 を日経に連載したのはその頃で、新潮社からは単行本が刊行された。

真砂女が亡くなって数年経つ。
先月通りがかったら、隣の魚屋は閉店、『物干し』(寿司屋)は移転していた。
色気ない話だが、またぞろ、地上げが来たそうな・・
『ひょうたんや』の旨い鰻はどうなるのだろう・・?
路地の入り口のお稲荷さんも可哀想な気がする。
   (写真) 卯波 
 

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銀座ライオン

2007年12月16日 | Weblog

0166

銀座ライオンは日本各地に店舗を構えるが、やはり、銀座5丁目角の地下と7丁目店が雰囲気に優る。
30数年間に何度ここで昼飯を食ったか・・夜は殆ど行ったことがない。
平日、一人で昼飯を食べるとき大抵は大ジョッキ付でパターンが決まっていた。
時折、同じ業界の顔見知りに出くわすことも多かった。 大ジョッキ
先日、4年ぶりに行くと、(感激!)×(感激!)、メニューも、店の雰囲気も、何も変わっていなかった。 
ウエイトレスのファッションもチロル風?のダサさがなんとも言えず昭和を感じさせてくれる。

グループで行くと良いかも知れないが、カップルでも、一人でも良し。
平日の昼下がり一人悠々と牡蠣フライと牛スジの煮込みか何かで、ジョッキを空けたあと、熱燗で仕上げるのも多分この店の通の飲り方だろう。
でも、そんなタイプはいなくなってしまったと思いつつ、そのパターンでオーダーしたら『 白鶴 』 の大徳利が出てきた。それを見た初老の客にマネされた。
   (写真) サッポロ ライオン 銀座7丁目店

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青梅市の映画看板 21 新撰組

2007年12月15日 | Weblog

0165

「新撰組」・・このタイトルも年末になるとよく出くわす。 赤穂浪士ほどではないが、日本人の心の何かに訴えるものがあるのだろう。
実は、三船敏郎の近藤勇は観ていないが、新撰組のあらすじと三船のキャラクターからして、観ずとも分かる気がする。
拙宅から自転車で行ける距離に近藤勇の墓があり、この夏にお参りしたが、常に数人は訪れる人がいるようだ。

片岡千恵蔵の近藤も印象に残る作品だったが、最近では、NHKの大河ドラマの香取慎吾が時間が経っていないせいか、眼に浮かぶ。

新撰組も勤皇方(ボクの先祖は薩摩藩の下級武士)から観ると、京都を荒らした悪役でしかないが、現在多摩地区に住むボクは少々複雑な気もする。
幕府方にしろ、勤皇方にしろ、社会の行く末を憂えたことに関しては、何処かの国の与野党よりも純粋だったと思う・・
   (写真) 新撰組 の映画看板

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赤穂浪士 (四十七士)の墓

2007年12月14日 | Weblog

0164

12月14日は播州赤穂浪士の吉良邸討入りの日とか・・
泉岳寺には12月9日のブログで書いた通り、ウン十年ぶりに行って、赤穂浪士の墓参りをしてきた。
お年寄りばかりかと思っていたら、若者や、外人までいて、正直ビックリした。
外人は “ 討入り ” をどう思っているのか・・聞いてみたい気もする。
まさか、“ 武士道  ” とか “ サムライ ” と捉えているとしたら、ボクは、こわ~い・・が、
むしろ、  『 葉隠 』や『 菜根譚 』  は外人の方が研究していて、武士道に関しては日本人よりも理解しているから、日本に来て日本文化を研究している外人に関しては、杞憂だろうが・・

歴史のイメージは時代と共に変わるので、ひょっとすると “ 忠臣蔵 ” などという題名は消失してしまうかも知れない。
兵庫県出身のボクとしては、複雑である。
吉良上野介は愛知県あたりでは、名君と言われているのも確かであるし・・
などと思いながら、神崎与五郎の墓(写真:左手前)の脇を通り、右手奥の大石内蔵助の墓までお参りした。
   (写真) 赤穂浪士の墓

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有楽町で逢いましょう・・イトシア

2007年12月12日 | Weblog

0163

昨夜、ケーブルTVで昭和33年作品・大映映画 「有楽町で逢いましょう」 を観た。
川口浩、野添ひとみ、菅原謙二、京マチ子らが顔をそろえるが、この頃小学生だったボクはフランク永井の唄が大ヒットしたのは覚えているが、映画の印象はなかった。
この時代の歌謡曲は三橋美智也や春日八郎らの田舎・ふるさと路線歌謡が全盛だった中で、吉田正による、この都会的な唄は記憶にのこる。 昭和33年とは、まさに 「 三丁目の夕日 」 の時代だから尚更だ。

この映画は、デパートの十合(そごう)が東京に進出したタイミングで作られたようだ。 道理で有楽町駅前のそごう(現在はビックカメラ)がよく出てくる。 東京駅に大丸もこのころ進出したはずだが、先月再開発ビルに移転した。 有楽町駅前には歌にちなんで、イトシアが先月オープンして、歌の名残を残してくれた。

それにしても、有楽町駅の(昔から)汚いこと・・なんでこんな所が映画の舞台になるのか・・? 答えは銀座・数寄屋橋・日比谷に近いからだろう。
数寄屋橋は松竹「君の名は」の舞台、銀座は東映本社、日比谷は東宝があったことに大映が張り合ったのか?
撮影にも苦労していたのが窺える。日劇や数寄屋橋、東映本社ビルが映らないようにかなり無理したアングルで ( 最近まで営業していたビヤホールのレバンテあたり・・ここのビールの泡は最高だった、食べ物は最低 ) 撮っていた。 定番のビジュアルなら、この時代この辺りなら、日劇、数寄屋橋、銀座4丁目、森永ミルクキャラメルのネオンが出てくるはずだが・・この映画では何と大阪 ( 通天閣・大阪城 ) がよく出てくるのには驚いた。
(写真) 有楽町駅とイトシアの入り口

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忠臣蔵 赤穂浪士

2007年12月09日 | Weblog

0162

昔から、年末になると、映画・TVは「忠臣蔵」や「赤穂浪士」など播州赤穂の四十七士の討ち入り物語が必ず登場する。
日本人の心を奪う何かがあるのに違いない。 
30年ほど前一度だけ高輪の泉岳寺へ行ったことがあるが、よくは思い出せない。
品川から歩くとなると、かなり遠い。途中お年寄りのグループとすれ違った時、線香の匂いがしたので、道は間違っていないことが判った。
以前行った時は、かなり殺風景な境内だったのを覚えているが、今回訪れてみると、最近整備されたばかりのようで、以前のイメージとは違っていた。

不謹慎かも知れないが、冷静に考えてみると、あの討ち入りの浪士達はテロ軍団そのモノではないだろうか? 
時の体制に不満を持っていたからといって、許される事ではない気がするが・・昔も今もその時代のジャーナリズムによるプロパガンダに踊らされるのはこの国の民衆の常なのだろう・・
今でもこの国には、そのような世論誘導するところがあるが、もっとも北の方の某国よりはマシかも知れない。

赤穂浪士の墓には、線香が絶えることはないと聞いていたが、なるほど、物すごい香が立ち込めていた。浅草の浅草寺の何十倍もの煙ではないだろうか・・それほど、日本人の心に染みているヒーロー達だったのだろう。 ボクには煙が眼に染みた。
   (写真) 泉岳寺

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青梅市の映画看板⑳ 凱旋門

2007年12月08日 | Weblog

0161

イングリッド・バーグマン・・この多分、北欧系の美人はアメリカでは相当な人気だったに違いない。 ドイツかスウェーデンあたりの金髪美人系だと思うが、この手の女性は、すぐ太りそうな感じだ・・あのスウェーデンの女子プロゴルファーのリサロッテ・ノイマンも同じタイプの女性だが、最近見ないのが寂しい。
バーグマンほど白黒映画に合う女優はいないだろう・・ソフトフォーカスで撮った横顔には誰も寄せつけない美しさがある。

バーグマンの出演作はあまり観ていないが、ベスト出演作は何といってもハンフリー・ボガートとの 「カサブランカ」 がくる。
あのゲーリー・クーパーと共演 した 「誰がために鐘は鳴る」 も強く印象に残る作品だった。 「黄色いロールスロイス」 は確かオムニバスだったと思うが、全然記憶にない。
この看板の 「凱旋門」 にいたっては観ていないが、子どもの頃、家に本があって、レマルクという人の作品ということぐらいしか分らなかった。

ヒチコックなみのサスペンス 「ガス燈」 では、夫からのメンタル攻撃を受ける若妻役を演じているが、ハリウッド映画のイメージはまったくない。 やはり、ヨーロッパから来たばかりで、アメリカに馴染んでいないのだろう。 むしろ、共演していた映画初出演17歳のアンジェラ・ランズベリー(ジェシカおばさん)の方がアメリカ的だった。

あの、アガサ・クリスティーの 「オリエント急行殺人事件」 と 「秋のソナタ」 はもう一度観ておきたいが・・
   (写真) 凱旋門

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青梅市の映画看板⑲ 「太平洋のかつぎ屋」

2007年12月07日 | Weblog

0160

この映画は間違いなく観ているが、筋などはまったく記憶にない。
マイトガイ旭といえば、あの大長老議員 原健三郎 先生 原作の無国籍映画と言われた 「渡り鳥シリーズ」や「銀座旋風児」シリーズ、それに昭和40年代以降のやくざ映画のイメージが強い。
高校生の頃は石原裕次郎の映画よりも数多く観ていた。とにかくカッコよくて、
浅丘ルリ子との共演は何本観たことか・・あやかって、ギターを買ったりした。 

                                                                    
10年ほど前、横浜の戸塚カントリーで仕事がらみのゴルフコンペがあり、コース貸切の大会に参加した。
参加者200人前後の中で、50歳以上のシニアでは、午前中のハーフを終わって、ボクがドラコンを確保していたが、午後の第1組を見ていたら、自分の立てたフラッグを誰か大きな男が変則スウィングで簡単に抜いてしまった。
なんとそれが、中年太りのマイトガイだった。主催者がこのコースのクラチャンとして、招待したらしかったが、相当な飛ばし屋だったのを覚えている。
この、コンペでホールアウトしたときに背筋力コンテストがあって、200Kg以上を記録していたら、何と、50歳以上の部でマイトガイを抑えて、僕が優勝してしまった。優勝賞品を貰う時に第2位の彼と眼が合ったのは、今でも忘れられない。ドラコン賞をとられたリベンジが果たせた良い思い出となった。

だけど、やっぱりマイトガイはスマートでカッコ良くて、かん高い歌声でなくてはいけないと思うのは、ボクだけか?
マイトガイ旭にゴルフのイメージは合わないのは、確かだと思う・・絶対に!
   (写真) メタボじゃない小林 旭

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