団塊の青春と昭和の東京

昭和の名残りを求めて since2007・02・10

「 地下鉄(メトロ) に乗って」・・・タイムスリップポイント ②

2008年06月29日 | Weblog

 0244 地下鉄新中野駅 3番出口付近

  映画 「地下鉄(メトロ)に乗って」(浅田次郎 原作)では、主人公が永田町駅ホームから地上に出ると、そこは青梅街道にそった新中野駅で東京オリンピック目前の昭和 39年の鍋屋横丁付近だった。
 そこでは地上に出て左隣が映画館(オデオン座)で『キューポラのある街』と『上を向いて歩こう』が架かっていた。 右隣が八百屋であることも判る。
  
 ここから降りると永田町駅ホーム  地上に出ると昭和39年の「鍋横」付近
  ふと、現在の新中野駅付近に実際に行って見たい衝動にかられ昨日行ってきた。
  新中野駅の地上出口は上下線とも前後に2箇所づつあるが、主人公が都心から乗車しているので下り線ホームに下車したはずだ。
   前の方は中野通りに出るので、後方の新宿よりの改札(現在の3番出口)から昭和 39年の地上に出たのだろう。

  昭和 83年 6月 28日午前11時・・つまり昨日、ボクは3番出口の左隣はオデオン座ではなくインナーウエアの店で、また八百屋のはずの右隣は美容院であることを確認した。

  やはり、他の出口だったか・・? と思いつつ地元のおばあちゃんに聞いてみた。
  昭和 30年以来ここに住んでいるという彼女が教えてくれたのは、「オデオン座は鍋屋横丁の信号を北に数十メートルのところの左側だった、3番出口の右側は八百屋であったことはない」 ということで、連れの老女もうなずくばかりだった。
  行ってみると、そこにはマンションが建っていたし、近くに八百屋も確かにあったが、青梅街道沿いではなかった。 地下鉄出口がオデオン座と八百屋に挟まれているのは浅田次郎の創作イメージなのだろう。
    オデオン座 跡に建つマンション
  鍋屋横丁を歩いてみると、和風の生活様式色のための商店が多いのが目立つ。
だんだん廃れているのだろうが、蕎麦屋、和菓子屋、和装、雑貨など歩いていて心が和む商店街だった。 
  土曜日の昼前、子ども達の声は聞こえないが、昭和があたたかく迎えてくれているのを実感した。

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神田鍛冶町 三州屋と小鍛冶

2008年06月28日 | Weblog

0243 三州屋 と 鍛冶町交番

神田鍛冶町は神田駅近くで、食事・喫茶・居酒屋などこと欠かない土地柄だ。
昭和の名残りがそのまま包んでくれる町で、行くたびに暖かさを感じる。
「 三州屋 」 は昼飯のメニューが多い店で、ボクが通ったのは、鈴木真砂女の店  「卯波 」 や鰻の美味しい「ひょうたんや」の近くにあった銀座1丁目店と 「 並木座 」 のそばの2丁目店だった。
両店とも時代劇に出てくる居酒屋のようで、マゲを結った親爺こそいないが、怖ろしく愛想のない数人のババァ達が割烹着姿で、とても熱くて口をつけられないほどの湯呑を大きな音をたててテーブルに叩きつけながら大きな声で 「 何にするの!」 と注文をとる。 これもこの店の営業パフォーマンスだとわかるのに10年は要した。
客は怒られているように見えるが、昼飯の旨さゆえ文句もいわずに 「 刺し盛 」 とか「 フライ盛合わせ」 とかを注文する。
お椀の 「 なめこ汁 」 がやけどするぐらい熱く、三十数年間に何度唇をやけどしたことか・・値段もけっして安くはない。 それでも多くの常連客がおし寄せる隠れた名店だろう。
「 三州屋 」 の鍛冶町店では食ったことないが、どの店でも同じ味を出しているので、鍛冶町店でも味は評価できるはずだ。
    名店 「 小鍛冶 」 がドトールに・・・
神田駅周辺で昼飯を食った後、必ずお茶したのが「小鍛冶」だった・・・が、去年行って見るとなんと、ドトールになっていた。
この「小鍛冶」は知る人ぞ知る洋菓子店で、淹れるコーヒーも旨くファンも多かった・・ボクはこのビルになる前の時代から通っていた・・なのに・・ 「 小鍛冶 お前もか!」 と心の中で叫んだが、時代の波は確実に昭和を消し去ろうとしているようだ。
「 並木座 」 も 「 卯波 」 も 「 ひょうたんや 」 も 「 物干し鮨 」 も消えた今「 三州屋 」 の看板だけは残ってほしい。

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大久保駅

2008年06月22日 | Weblog

 0242 大久保駅ガード下・チンドン屋・フェンダーミラーの車

大久保駅を利用したのは卒業までの半年と、社会人になって転勤するまでの一年強だった。
当時、まだ柏木と呼ぶ人もいた北新宿の酒屋 ( この駅から徒歩10分 ) の二階に住んでいて、通勤にはひとつ先の東中野駅から乗ることもあった。
コンビニがない時代でも大久保や東中野は、食べる、呑むことには不自由しない独身者には便利な街だった。
新宿で呑んだくれても、京王プラザホテルだけが威容を誇る開発前の副都心を横目に、30分も歩けば帰ることができたので便利だった。

先週、地下鉄副都心線の開業初日に新駅 東新宿から、→ 新大久保 → 大久保 と歩いた。 途中のコリアンタウンの賑わいは、聞いてはいたが活気にあふれ、日本とは思えない熱気がみなぎっていた。 インターナショナルな雰囲気は海外旅行にきていると錯覚しかねないほどだった。
    
    大久保駅ガード下の見事なペイント 「 江戸幕府鉄砲組百人隊 」
外国のような街を抜け、大久保駅にたどり着いてやっと昔の街を思い出した。
改札から見るガード下は、地元百人町由来の 「 江戸幕府鉄砲組百人隊 」 のペイントが描かれている他は昔のままで、何かホッとするものを感じさせてくれた。

新大久保の方から聞こえてくる音に聞き耳たてると、チンドン屋が大久保通りを西に過ぎていった。 放置してある自転車を縫っていくチンドン屋、フェンダーミラーの車、ガード下の喫茶店、赤坂ほどではないが焼肉店の目立つ街、駅名表示看板は国鉄ではなくJRだが、確かに昭和は残っているようだ。

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レトロポスター キリンビール

2008年06月21日 | Weblog

 0241 キリンビール ポスター

たまに、吉祥寺の 「 千尋 」 という居酒屋で呑む。
店内はカウンターが続き、テーブルは奥に2~3卓だけだが、居心地が良い。
       「 千尋 」 店内
奥の方にビールのレトロポスターが貼ってあるが、復刻版のようだ。
昔の石版印刷ではなく、オフセット印刷の光沢が少しあるが、暗めの店内になじんでいる。 他にもポスターや写真が貼ってあるが、ビールポスターにだけ眼を奪われる。
やはり、この手のポスターは、額などに入れて架けるよりも、そのまま貼ってあるのが、すこぶる雰囲気が出ていてうれしい。

TVやネットがなく、屋外広告も民放ラジオも発達していない時代は、飲食店向のポスター宣伝に各社とも力が入っていたようだ。
だから、いま時を経て眺めると、それなりの美術的価値が成り立つのだろう。

このポスターを暗めの店内で観たとき “ モガ ” が大きな扇を持つ構図かと思ったが、よく観ると、パラソル ( というよりも番傘 ) と海水浴をする女性だということが判る。 パラソルの図柄が  “ 麒麟 ” であることに凄さを感じる。 
一見、中国のファッションを想い浮かべるが、描かれた女性はたしかに  “ やまとなでしこ ” の顔立ちだ。 当時の女性誌の表紙にもイケたのではないかとさえ思う。 

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桜桃忌 禅林寺

2008年06月19日 | Weblog

 0240 禅林寺 ( 太宰治 と 森鴎外 の墓所 )

 三鷹市の「禅林寺」は、その名前と黄檗山万福寺のような門構えから、禅宗の寺だとすぐ判る。
自転車で通りかかったとき、サドルに跨ったまま撮ったのがこの写真だ。 暇にまかせて境内をいくと、太宰治と森林太郎(鴎外)の墓があることが案内してあった。
裏手にまわると、太宰治の墓があり、森鴎外の墓とは斜めに向い合っていた。

桜桃忌(6月19日)は玉川上水で太宰の遺体があがった日(誕生日でもある)で、没後60年を経ても彼を偲んで各地からこの禅林寺に集うファンが多いらしい。

普段でも墓参りする人が多そうで、ボクが訪れたときも酒・ビール・たばこ ( ゴールデンバット ) が供えてあった。 鴎外の墓には何も供えてなかったので、没後は太宰の方が人気があるらしい。
  
「人間失格 」 初版  奥付と解説       酒・ビール・ゴールデンバット
太宰の作品を読んだのは2~3作ぐらいしかない。
にもかかわらず、彼が没した直後に出た『人間失格』の初版本(筑摩書房刊)を所持しているのは、我ながら不思議というほかはない。
学生時代に一度、古本屋に持っていって、金に換えようと思ったが、幸いにもまだ所有している。 奥付には、太宰の著者印があり、対向は臼井吉見の解説ページで 、「 この作品は彼の自画像であり、遺書である 」 としている。 ボクが一歳の頃から家にあったこの本は何度か読もうとしたが、途中でやめてばかりで未だに読了に至ってはいない。
とにかく、最初の数ページで毎回挫折して中断しているのは、どこかで読んでしまうことを恐れている自分がいるのでは・・・と、いつも思っていた。

彼が没した翌月(昭和23年7月)にこの本がでているが、ボクが長年勤めた出版社から同月に 『 桜桃 』 という作品が出版されていることが、今日偶然社史をみて判った。 これも何かの縁か?
これを機に読んでみようかと思うが、はたして・・・

 

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「 地下鉄(メトロ)に乗って 」・・・タイムスリップ ポイント

2008年06月15日 | Weblog

 0239 雑司が谷駅 付近  新駅と都電とサンシャイン60

浅田次郎の 『 地下鉄(メトロ)にのって 』 をTVで観た。
主人公が、東京メトロ 「 永田町駅 」 から地上に出ると、タイムスリップした昭和の光景で、営団地下鉄丸の内線の 「 新中野 」 の駅前だった。
  
 副都心線 急行の明るい車内      凸型鋏が入った開業初日の切符

昨日(6月14日)ボクはそれと似た体験をした。
東京メトロ副都心線の開業初日で、「 新宿三丁目駅 」 から急行の新車両で 「 池袋駅 」 まで乗り、そこから一駅手前の 「 雑司が谷駅 」 へ各駅停車で戻った。
開業初日の日付入り切符を記念に貰って、新駅のエスカレーターで地上に出たとき、まさに “ 地下鉄(メトロ)にのって ” 昭和にタイムスリップした・・・
「 鬼子母神前 」 から発車したばかりのチンチン電車が、眼の前をゆったり通過しているではないか!
昭和のランドマーク 『 サンシャイン60 』 と、昭和に建てられたはずの家々を借景として、三ノ輪橋に向かって都電は急ぐことなく消えていった。
この都電荒川線は「早稲田」→「面影橋」→「学習院下」→「鬼子母神前」・・・→「三ノ輪橋」とつづくが、停車場名からしてレトロで、よく知らなくてもなつかしさを覚える。

鬼子母神へ参拝したかえりに、古い商店街の新しいコンビニでおにぎりとお茶を買って、「 鬼子母神前 」 のホームのベンチで食べながら、電停前の豆腐屋の店先風景を観ていたら、あきらかに30年ぐらいはスリップしていた。

帰りは、再び副都心線で 「 雑司が谷駅 」 から 「 東新宿駅 」 まで乗り、話題の大久保コリアンタウンを歩き、「 大久保駅 」 から帰宅して現実にもどった。

昭和と平成が入り混じった不思議な一日に思えたが・・記念に貰ってきた切符に凸型の鋏を入れられたのを見ると、本当にタイムスリップしていた証拠かも知れない。

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中央線快速電車 201系

2008年06月14日 | Weblog

   0238 中央線新旧快速電車  上右:旧型201系  下右:新型E233系
                                                     
  神田川を渡る 東京メトロ丸の内線02系も、JR中央線新型E233系も判りづらい・・・昔は鮮やかだった。
   中央線電車は新型車(E233系)の編成がほとんどで、鮮やかなオレンジ1色の旧型車両(201系)がこのところ見られなくなった。
三鷹 ⇔ 国分寺 間の高架工事にともなって、各駅の構内の雰囲気も同じで、駅名表示がなければ見分けがつかないほどになっている。
     
   ボクは、ずっとこの201系電車で通勤してきたので、1979(昭和54)年のデビュー以来の付き合いとなっている。 デビュー時は“省エネ電車”というふれこみで、ブレーキをかけた際にでるエネルギーを電気に変え、2~3割の省電力という画期的なものだった。 今では、1日2~3本の運行だと三鷹駅の駅員が言っていたが、消えて行くとなると本当に寂しいものだ。 しばらくは線路際で “ 俄かテッチャン ” がデジタル1眼をかまえる光景がつづくのだろう。
        
     左 : JR 201系 と 地下鉄 02系  右 : JR E233系 と 地下鉄 02系
   このところ車両の塗装は経費節減のためか、簡素化されて軽合金の地金むき出しが多いので、遠くからは見分けが付きづらくなってきた。写真の神田川を渡る東京メトロ丸の内線の車両も赤1色から、簡素化された塗装で特徴がなくなってきた。 もっとも、飛行機も地金むき出しで塗装の簡素化による軽量化、経費節減をねらう動きがあるようなので、これも時代の流れか・・?

   昭和から平成を走った中央線201系が、団塊の世代とともにリタイアするのは象徴的に思えるが・・・センチメンタルか?

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懐かしいキャラメル

2008年06月08日 | Weblog

 0237 懐かしいキャラメル

6月10日が“キャラメルの日”というのは、今日初めて知った。

METRO’S(東京メトロの売店)で懐かしいキャラメルが売られているが、中でも「森永ミルクキャラメル」は想い出が深い。
日本初のキャラメルだったと少年雑誌で読んだことがある。 森永太一郎が日本の子どもの発育・栄養補給を願い作ったとされている。 日本のキャラメルの代名詞的商品だったこの黄色い箱はほとんど意匠を変えていない。
 “ 滋養豊富・風味絶佳” と筆で書いたような四字熟語が並べられていて、100年以上の歴史を感じる。 ボクが小学生だった昭和30年代は写真の16粒入り20円、8粒入り10円だった。 外装のフイルムは無く、ピンクの帯封が縦にかけられていた記憶がある。 遠足や運動会での定番で、明治製菓の「カルミン」というタブレットとともに必ず携行したものだ。
映画の中でも、銀座のビルの屋上にこの「森永ミルクキャラメル」の地球儀型ネオンや不二家の「フランスキャラメル」がよく出てきたのもこの時代だった。

“ 1粒で 2度おいしい ” というキャッチの 「 アーモンドグリコ 」 は、それまでのグリコキャラメル(オマケ付きの赤箱)が飴玉のように丸みがあって包んだ紙の両端をねじってあったもの ( 不二家のミルキーのように ) から森永や明治のように四角い粒になった江崎グリコ最初の商品だったと思う。
この商品も10円と20円で、箱には、「はじめはミルクキャラメルの味を、後半はアーモンドのテイストを味わうように・・」というような意味の説明が書かれていたことを思い出す。 箱の中には各国の切手が入っていて、爆発的人気の切手蒐集ブームに一役かった。

「 ボンタンアメ 」 は今では日本中で見かけるが、昭和30年代はそうではなかった。 しかし、幸運にも鹿児島にボクの親戚筋が多く、この柔らかい餅のようなキャラメル菓子?の味を当時からお土産にもらって知っていた。
                  明治のクリームキャラメル
明治製菓の 「 クリームキャラメル 」、不二家の 「 ミルキー 」、「 カバヤキャラメル」、「 フルタ 」、「 ニイタカ 」、「 センタ ン」、「 松永 」・・・だんだん昭和の味が浮かび上がってくる。 

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新宿コマ劇場

2008年06月01日 | Weblog

 0236 新宿コマ劇場

新宿コマ劇場が年内で閉館するらしい。  
        
        最終公演は 北島三郎 の 「 国定忠治 」
舞台がコマのように廻るのでコマ劇場と名づけられたとか・・
コマ劇場といえば、関西人のボクの意識の中では新宿よりも梅田の方が早かった。

大阪転勤時代は梅田に勤務先があり、学生時代は新宿歌舞伎町と・・いずれもコマ劇場の近くは酒の思い出が多い。
六大学野球の早慶戦で早稲田が勝ち点をとると、神宮から歌舞伎町まで 『 都の西北 』 と 『 紺碧の空 』 の大合唱が続いた。
今日、ホームスチールで第一戦を早稲田が取ったので、明日連勝すると歌舞伎町の新宿コマの前は騒乱状態に ( 昔なら ) なるはずだが、果たして今の学生はそれほど騒ぐのか、どうか・・

梅田も新宿もコマ劇場の中は入った事はなかったが、3年ほど前に 『 前川清ショー 』 のチケットをもらって行ったのが初めてだった。
新宿コマ劇場がなくなるというので、調べたら梅田コマ劇場はすでに無くなっていた。心斎橋ソニービルしかり、このところ昭和の足跡が大阪からも多く消えている。

新宿コマ劇場の後の開発利用はまだ未定というのも寂しい気がする。 
コマ劇場といえば演歌歌手の歌謡ショーのメッカという印象が強いが、ファンはさぞかし残念なことだろう。
新宿といえば歌舞伎町、歌舞伎町といえばコマ劇場だったが、このところの秋葉原と同様に街の性格がよくも悪くも昭和から遠ざかっているようだ。

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