団塊の青春と昭和の東京

昭和の名残りを求めて since2007・02・10

2010 秋 六大学野球 慶-立 早-明 1回戦

2010年09月26日 | Weblog

0361 慶応のメガホンは昔より小さく、トンガリ帽子としては使えなくなった・・
    早稲田のは相変わらずダサイ! 紙の角帽やミニ番傘が懐かしい・・

9月25日、神宮球場で東京六大学野球を2試合観戦した。
一日2試合は昭和30年代のプロ野球の“ダブルヘッダー”なる言葉を思い出した。
       
      2試合で¥500円 台風一過の秋空を満喫
慶応VS 立教、早稲田VS明治 の1回戦を3塁側の応援席(旧 学生応援席席)で観戦(応援させられるので、じっくり観戦できないが・・)した。
早慶戦では、1塁側から聴く慶応の「塾歌」の気高さにいつもジーンとさせられていたので、慶応の応援席の雰囲気を味わいたいとかねがね思っていた事が実現した。

早稲田OBのボクが初めて慶応応援席で「塾歌」を歌ったが、良い歌は紺碧の秋空のごとく胸にも染み入った。
第2試合の早稲田側から聴く明治の「校歌」も同様に素晴らしい歌で心に染みるのは同じだった。  塾歌」 クリック
     
http://www.youtube.com/watch?v=w6KSif_NeQs
ボクの偏見かも知れないが、両方とも早稲田の「都の西北」よりも遙かに格調の高さを覚える名曲だ。
エール大学の学生歌を耳にした時から、母校早稲田の校歌には愛着が薄れてしまった。
この曲を聴けば、誰でも“盗作”という言葉が浮かんでくるのでは・・と思うが、まあ・・まあ・・かたい話は置いといて・・
ついつい大きな声で歌うのは学生時代からの習性だし、神宮ではこの歌がよく合っているから良しとするか・・

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信州の旅 ③馬曲温泉 (木島平村)

2010年09月25日 | Weblog

0360 馬曲温泉 (長野県木島平村)

柏原や野尻湖の近くを通り、中野市あたりから千曲川に沿って飯山まで北上すると、長野県でも北部で新潟県も近くなる。
飯山で千曲川を渡り、木島平村から山道を行くと「馬曲温泉」に達する。
温泉入口で地元野菜を売っていたので、のぞくと東京に比べ半値以下、しかも出来具合が断然よく新鮮だったので、ピーマン、オクラ、枝豆、それに茄子(信州特産の辛味大根かな?・・と思ったら白茄子だった)を買って帰った。

ここは、日本経済新聞の温泉ランキング『雪景色の素晴らしい温泉 東日本No.1』に輝いた温泉で、そのロケーションが最高であることが雪が無くとも覗える。
標高の高い所から遠くを見下ろすと、木島平のスキー場が借景となり、夕暮れ時の絶景を楽しみたくなる。
  馬曲温泉 動画 クリック
  
http://www.youtube.com/watch?v=tz7AliJGiZk

帰路はレンタカーを返すまでの約1時間、高速を使わずに千曲川に沿って信濃の秋を走らせた。
中野市あたりでは、田圃に大きな秋祭の幟旗が立ち、山車も出ていた。
着飾った子どもたちを見ると、谷内六郎の絵のような “昭和の原風景” がここに蘇っていた。
来る前は、藤村の若菜集、向井潤吉の絵、唱歌「朧月夜」、五木ひろしの「千曲川」をイメージしたのが・・

青空の下、ススキの、蕎麦の、稲の、中秋の信濃路を長野まで満喫した。

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信濃の旅 ②戸隠神社 奥社

2010年09月23日 | Weblog

0359 戸隠神社 奥社に至る 「隋神門」 
                  本来は静かで荘厳な “気”がただよう所だろうが・・
JR東日本でキャンペーン中の信州「戸隠神社」の奥社を参拝してきた。
04:41始発で3回乗り継ぎ長野に10:10着、そこからレンタカーで1時間、戸隠神社の奥社参道に着く。
1時間半くらいかけて参拝したが、JR東日本のテレビCMや駅のポスターの影響か、奥社にしては参拝する人が多すぎる。 
参拝客というより観光客で多いのは、まるで最近の高尾山のようだった。
  奥社参道 動画 クリック
  
http://www.youtube.com/watch?v=uhmSG8whnFY
最近はパワースポットとして人気が出てきているので、杉の大木にじっと手を当てて“気”を吸収している人もいる。
ボクは単に森林浴でマイナスイオンを浴びればよい・・程度に考え杉の木肌に耳をあててみたのだが、それには人が多すぎた。
むしろ、付近の小鳥ヶ池やトレッキングコースでも歩いた方が、当分の間は良いのかも知れない。

昼は戸隠蕎麦でも食べようと思って、車を走らせているうちに黒姫まで来てしまったので、“黒姫蕎麦”を食べ一茶の故郷信州柏原を経て馬曲温泉(木島平村)に向った。
戸隠へは、キャンペーンが終了し一段落した頃に再訪して、「気」をもらって来ようかと思う。

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信濃の旅 ①篠ノ井線

2010年09月20日 | Weblog

0358 冠着駅の案内板(長野県東筑摩郡筑北村)

     
篠ノ井線は鈍行にかぎると確信した。
今までの2~3回では味わえなかった車窓風景を満喫した。
長年勤めた出版社から「車窓の山旅・中央線から見える山」が出たのが20数年前で、当時は「リタイアでもしたら・・」と漠然と読んでいた。
今回、始発電車で乗車券のみで乗り継ぎ篠ノ井線経由で戸隠・木島平を目指した。
途中「姥捨駅」では数分間の通過列車待ちで、そこのホームから広がる風景に眼を奪われた。
そこまでの車窓では、収穫に入った山間風景を故郷の丹波にも置き換えて思い巡らせていたが、「姨捨」に来た途端そこで展開するパノラマに釘付けになった。
海抜547メートルから見下ろす一望は、手前の棚田からはるか続く。
刈り取る直前の黄金波、白い蕎麦の花、緑や土色で織りなすパッチワークには声もでなかった。
そのほつれ目からはキラキラと蛇行する千曲川が光っている。
煙たなびく家の屋根が茅葺なら、それはもう・・昭和20~30年代の原風景そのものだ。 「姥捨」付近の車窓からの眺め動画クリック
      
http://www.youtube.com/watch?v=UFDGwQ8OLwU
    
帰路に経験した『スイッチバック』進行は、篠ノ井方向からの列車が1000分の25という急勾配をのぼり、一旦引込み線に進入してからバックで「姥捨駅」のホームに入り、今度は先頭車から発車するという貴重な体験だった。
『スイッチバック』で、“一旦捨てた姥を若者が翌朝連れ戻しに来た”という伝説を連想したのは、場所と時期(敬老の日の直前)ゆえだったのだろうか?

近日中に今一度訪れたいし、来年の苗代の頃には“田毎の月”を姥捨山から観てみたい。

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カップヌードル タイムカン

2010年09月12日 | Weblog

0357 缶入りカップヌードル Time Can

21世紀の幕開けに記念発売した「カップヌードル Time Can(タイムカン)」が不良品だったとして、自主回収しているのは数年前から知っていた。

ガス湯沸器や、FF式石油暖房機のように人命に係わる事故には繋がらないと思い、あえて、自己責任でそのまま保管していた。
企業の社会的責任という観点から、各社の対応を一市民として観ていると面白いことがある。
ガス湯沸器のP社と、FF式暖房機のM社(現P社)の対応はまったく異なっていた。
マスコミの批判にさらされたP社と、これでもかと思えるほど回収呼びかけ告知 (結局は企業イメージを上げるのが狙い→告知に使った費用はすべてマスコミに入った) をやったM社の違いは、名古屋の田舎に本社を置く稚拙なP社と大阪・東京に本社を置く巧緻なM社の違いで、プロパガンダの差だったかも知れない。

日清食品の場合は中国産餃子などの問題が起こる以前から回収に乗り出していたのは、大正解だったし企業姿勢の良さがうかがえる。

発売10年の今年8月カップヌードルTime Canを送り返したところ、写真のような返信が来た。
     
     返信に同封された定額小為替300円と図書券500円
昭和50年前後に創業者の故 安藤百福氏に取材した事がある。
カップヌードルの大成功に続き、大きなビジネスモデルを築こうとしていた偉丈夫の氏には“企業の社会的責任”という言葉がなかった当時すでにこの意識はあったのだろう。

カップヌードルに続くカップライス(ピラフ・赤飯・白飯・雑炊・カレーなど数種類)の展開を試みたが、“米原料の製品は成功しない” というジンクス通り陽の目を見なかった。
試作品を段ボール1箱貰ったが、ハッキリ言って食えた物ではなかった。
近々、再挑戦という話もあるようだが、今度は大成功を期待する。
“企業の社会的貢献”と“社会的責任”を併せ持つ会社だから・・

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団塊世代のペコちゃん

2010年09月04日 | Weblog

0356 上野公園の骨董市でベティちゃんとともに

不二家のペコちゃんが今年還暦(昭和25年生まれ)だとか・・
という事は彼女も団塊世代という事になる。
ポコちゃんという男の子もいた記憶があるが、最近は彼の名前は聞かれない。
     
   神楽坂店だけの“ペコちゃん焼き”  銀座の不二家・・映画で良く見たものだ
ペコちゃんに初めて会ったのは、小学生の頃お土産にもらった「ミルキー」のパッケージの絵だった。
他社のキャラメル類にはない意匠で、その線の太いイラストと横文字は強烈だった。
同じ不二家のフランスキャラメルの箱には金髪の女の子のイラストがあってトラディッショナルなデザインだったが、「ミルキー」のペコちゃんは“アメリカ的”な明るさを感じさせてくれた。

そのころのキャラメルと言えば、箱に帯封の「森永ミルクキャラメル」、 赤い箱の「明治クリームキャラメル」、包み紙の両端がねじってあった「カバヤ」や「グリコ」それに「ニイタカ」などだったが、不二家のキャラメルにそれらの商品よりも都会的な雰囲気を感じたのは確かだった。
「アーモンドグリコ」が大ヒットする直前の昭和28~9年の頃の思い出だ。

訂正》 [団塊世代のペコちゃん]と表記しましたが、調べてみると、確かに生誕60年となりますが・・・生まれたとき既に6歳という設定ですから、今年66歳ということになります。
したがって、“団塊世代にはあたらないということになります。
謹んでお詫びし訂正させて頂きます。

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