団塊の青春と昭和の東京

昭和の名残りを求めて since2007・02・10

銭湯 3

2007年07月29日 | Weblog

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昭和28年2月といえばボクが小学校に入学する直前だ。 
団塊の世代はまだ、4~5歳位のクリクリ坊主だ。
このころ夕方になると、女湯が空ッポになるという現象があったらしい。 
NHKのラジオドラマ 「君の名は」 で日本中のお姉さん、お母さん、お婆ちゃんまでもがラジオにしがみついて涙したとか・・TV放送が始まる直前の世相だった。

大人の入浴料金が15円、子供が12円・・湯上りに飲む牛乳は6~7円位だろう。
この時代はまだ、湯桶は「ケロリン」のプラスチック製ではなく、木製のものだろう。
石鹸箱も木製か、せいぜいセルロイド製の軽いもので、フタでない方の底には小さな水抜き穴が5~6つあって、そこから湯を落として遊んでいたら、石鹸がふやけてしまった記憶がある。 
スポンジもそれほどはなく、「へちま」 の果肉を除いた本物で洗っていたのだと思う。
中には、亀の子束子で坊主頭をガシガシ洗っている爺さんがいたりして・・浴槽の中で浪花節を唸れば、ガキも聴いているから、おもしろい風景だった。
   (写真) 昭和28年当時の銭湯 「入浴料金表」

 

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銭湯 2

2007年07月28日 | Weblog

0094

銭湯のペンキ絵には大概は「富士山」それも伊豆の戸田あたりからの風景が多かった気がする。 あとは「三保の松原」とか・・「我は海の子」を連想させる白砂青松の景色といったところか・・もっとも男湯がこんなであったら、女湯は別の景色になっていたはず。 
何処かの灯台とか・・
写真でも女湯は多分信州あたりの山の中の景色か・・?
いずれにしても、まだ、男の方が優遇されていた時代だったのだろう。

洗い場には、「ケロリンの湯桶」があったりして、ひとつを使い、ひとつを腰掛代わりに使ったら、尻に丸い跡がついたりして・・

浴槽では、関西人のボクは熱い湯が苦手で、水を廻せば、爺さん連中に怒られたりしたものだ。 多くの子ども達の声が響きわたり、手桶の音とともに活気がみなぎっていた。
そんな様子を思い浮かべながら、シャッターを押してみたら、湯気の立ち込める中にそんな音、声、が聴こえてくるような気がした。
   (写真) 男湯の中

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銭湯

2007年07月22日 | Weblog

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東京に出てからは、多くの銭湯に浸かった。
今でこそ、都内の各地に温泉が掘られ、渋谷で天然ガス事故が最近発生したばかりだが、下町の方の銭湯はコーヒー色というか・・醤油色の独特の地下水を汲み上げているのには、ビックリした。 
まるで、あの、東京の立ち食い蕎麦の割下に入っているがごときだった。 
土地のお年寄りによると、薬効があるとのことだが・・どう考えても、太古の植物が炭化する初期のプロセスに過ぎないと思ったけれど・・

山の手の方の銭湯は地下水も透明で、お風呂やさんらしい気がした。

いずれにしても、伝統的に造りは 「唐破風様式」 の重厚な造作で、東京の場合は左男、右女が多かった気がする。 
残念なことに、今残っている銭湯には、あの堂々たる構えはあまり見受けない。 
今では営業中の銭湯は殆どが 「コインランドリー」 を併設しているため、殺風景な入り口付近となってしまった。 
昔は入り口の左右の塀越しに見越しの松などが見られ、立派な和風庭園となって石灯籠が据えてあったりして、それを観ながら、夏の夕方フルーツ牛乳を飲んだりしたものだ。

写真は足立区に昭和4年にできた 「子宝湯」 移築の為か煙突がないのが不自然だが、宮大工でも入ったのかと思わせるほど立派だ。
アニメの 「千と千尋の神隠し」 はこの 「子宝湯」 を参考にして作られたそうな・・ 
自販機もコインランドリーも見当たらないのが良い。

   (写真) 子宝湯

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京王プラザホテル

2007年07月21日 | Weblog

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京王プラザホテル」 が建ったのは昭和45~6年頃だったか? 北新宿のアパートへほろ酔い気分で帰る時、いつも淀橋浄水場跡付近を通って、この高層ビルを見上げながら歩いた。 当時は東京タワーと共にランドマークになっていたが、高層ビルの林立と共にその役割は薄れていった。

この頃、既に住居表示が変更されていたが、北新宿は「柏木」で通っていたし、中には 「東京市淀橋区」 と書かれた戦前のものとおぼしき表札も架かっていた。 「角筈」や「木挽町」「明石町」といった味のある地名もたくさん使われていた。

最近は東とか、西とか、南とか、北とか、中央とか、安直な呼び名が多い。 大阪市北区に「梅ヶ枝町」や「真砂町」は残っているのか? 神戸市中央区なんて・・「生田区」に「葺合区」で良いのに・・大学時代の3年をすごした「保谷市」も「西東京市」などとわけのわからぬ名前になった。 東京がそもそも「東の京」なのに、そのまた西とは? 地図で見るとこれがまた東京の西ではなく真ん中程に位置するから訳が分らぬ。   四国中央市、つくばみらい市、みどり市、南アルプス市・・?
さすがに、中央アルプス市、南セントレア市、ひばり市、太平洋市は実現しなかったが・・驚きを超えて、笑えてくる。

「柏木」や「角筈」、「淀橋」を見おろしていた京王プラザホテルを見ると、青春のホロ酔い気分と、古きよき時代の由緒ありそうな地名を連想させてくれる。
   (写真) 京王プラザホテル

   ~ 高層の ホテルの先に 我棲みし 

 

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石原裕次郎 の ビールCM

2007年07月07日 | Weblog

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団塊世代がイメージするサッポロビールのCMタレントといえば・・
絶対 「男は黙ってサッポロビール」 だから、三船敏郎 のはずだが、何と!
あの 石原裕次郎 もやっていたとは・・
確かに記憶をたどれば、そうだったかも・・? とうなずける。

「本場の味」 とは何とも、また、つまらないキャッチだと思うが・・
昭和40年代半ばだから、、ビールメーカーも フランキー堺 がCMをやった 「タカラビール」 が消え、大橋巨泉のCMで、今でいう発泡酒のような軽くて薄い 「サントリービール」 が北欧系の味として売り出された頃か?
サッポロは赤い星の熱処理ビールと 「黒ラベル」 の頃だろう・・

 この時代は今ほど銘柄が多くなく、ビールとはこんな味ということで、銘柄にうるさくなかった。 麒麟は苦いとか、朝日は苦くないとか、温度を違えれば銘柄なんて判定できなかったのだが・・サントリーの味と色の薄さは別として・・
むしろ、「吾妻橋の朝日」 と、帰省したときに飲んだ 「吹田の朝日」 では、味が異なっていた気がしたのはボクだけだったのか?

今は 「アサヒ」 も 「キリン」 も 「サントリー」 も 「サッポロ」 も 「オリオン」 までも、みんな旨いのは各メーカーの努力がよく伺える。
夏場に旨いビールと、冬でもいけるビールと本当に選択肢が多い。
昔のように 「朝日党」 とか 「麒麟党」 とはいわなくなったのも分かる。

昔の味が懐かしくて、キリンのクラシックラガーというのを飲んでみたが、絶対に昔の味ではない! 忠実に再現して欲しいものだ。
   (写真)石原裕次郎  サッポロビールCMポスター

   ~ 麒麟さん 俺は待ってるぜ むかし味

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松本楼

2007年07月01日 | Weblog

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日比谷の松本楼 100年以上の歴史を誇る店だ。
今は9月に10円でカレーライスを提供するので、あまりにも有名だ。
残念ながら、1度もこの10円カレーのために並んだことは無い。
この10円カレーも、30年以上は続いているはず。
多分、戦前戦後の、カレーが豚カツとともに庶民にとって、年に何度かかしかありつけないご馳走だった時代の味がするのだろう・・
カレーライス というより ライスカレー が正しいのだろうか。

松本楼もまた歴史を見続けて1世紀・・東京の代表的西洋料理店としての地位は不動のものだったはず。
戦前はこの店のにくるのに、正装で着飾って来店したのでは・・と想像できる。
森の中のレストランとして、都心とは思えぬほどの静かさは、流石に東京のセントラルパーク日比谷公園の格に華を添えている。
   (写真) 松本楼 日比谷公園内

コメント (2)
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