団塊の青春と昭和の東京

昭和の名残りを求めて since2007・02・10

昭和の音風景③ 剣道審査会場の熱気

2012年06月16日 | Weblog

0370 剣道昇段審査

剣道の稽古風景を観るのは、大概の人にとっては騒音以外の何者でもない。
しかし、経験者にとっては懐かしい声(音)であり、時には血が騒ぐのを覚えることがある。
この騒ぎを40年ぶりに覚えたのが去年の春だった。
まず、素振りからはじめたのが剣道再開の第一歩だった。
半年後には防具を着けて相手と打ち合いをやり始めた。

やっている内にだんだんと面白くなり、相手を叩くことが出来るようになってきた。
こうなると周りは稽古の成果を確認するためにも昇段審査を受けてみては・・? と勧めてくれるようになった。
ボクのように社会人になった途端にやめてしまった者は、今更昇段なんて・・と思った。
何しろ、続けてやっている剣友はほとんどが七段ぐらいになっているので、今更段に拘っていられないと自分に言い聞かせていた。

しかし、周りは修業・上達の区切りとして次の段に挑戦すべきだと煽ってきた。
自分でも65歳で40年ぶりにしては良い線いっていると思うようになり、受験する気になり、挑戦した。
結果、43年ぶりの審査は“五段最高齢一発合格”だった。
これには周りもさる事ながら、当の本人が驚いた。
何しろ、五段の合格率は18%位だったが、ボクが受験した第五会場(最年長者G)に関しては74人中6人しか合格しなかったのだから・・
                

この時、奮い立つボクを包んだ気合・掛け声・雰囲気は43年前のそれと同じだった・・女性の声の鋭さが耳に刺激的なこと以外は・・
  剣道昇段審査風景 ↓クリック
  http://www.youtube.com/watch?v=KApHdx2cK60&feature=plcp
平成の審査会場から女性のそれを省けば、ボクにとって“懐かしき昭和の音風景”そのものだった。
それにしても女性の各方面への進出はすごい!

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昭和の音風景 ②早稲田大学剣道部の大太鼓と稽古音

2012年02月12日 | Weblog

     

0369 早大剣道部の大太鼓(昭和8年製作)

     平成24年寒稽古と大太鼓の音風景 ↓クリック↓
      http://www.youtube.com/watch?v=JIOP3VVbj5E    
剣道の稽古というものは、やらない人にとっては騒音以外の何物でもない。
あまたの競技の中、これほど声と音が強烈な種目はまず見当たらない。

学生時代この中に身をおいてきたボクが、竹刀を置いて久しかったが、昨年40年ぶりに再開した。
この正月には、早大剣道部の寒稽古に参加し、皆勤賞の竹刀も獲得した。

そこでは40年ぶり見る剣友の顔よりずっと懐かしい物に対面してきた。
それは、道場に80年近く鎮座する大太鼓である。
現在の師範(ボクの一年先輩)から、「一年ほど前に大太鼓の皮を張り替えた」と聞いたが・・・

この大太鼓は確か昭和45年、当時学生だったボクが近くの八百屋でトラックを借り、浅草の老舗『宮本卯之助商店』(文久元年創業)へ運び、昭和8年の新調以来37年目にして初めての張り替えに出した物だ。
店に運び込むと、女将さんとおぼしきが胴の内側に記されている銘を発見し、「おじいさんの名前だ!」と感激していたのを思い出してしまった。
今では、さらにそのお孫さんの代くらいになったのではないだろうか?
と・・するとこの大太鼓は『宮本卯之助商店』の五代に渡りお世話になっていることになる。

一度目から40年後に二度目の張替え修理を施したのだから、皮は大体40年前後は持つようだ。
今回の張替えは一回目より長く持ったようだが・・・色々推理すると、
一度目の張替えは、戦後GHQの“剣道禁止令”による8年間の空白期間が含まれるにも関らず37年で修理したことになる。
ボクが入部したとき既に真ん中は破れて継ぎが施されていたので、相当回数多く叩き込んでいたと思われる。
今回の二度目張替えが41年後と、前回よりも長いのは、一回あたりの稽古で叩く回数が少なかったと思われる。
昔は稽古の始まりと終わりは、初めゆっくり、だんだん早く一度に30~40回くらい連打していたが、今ではそんな叩き方はしないようだ。
最近は付近の住人から、太鼓と稽古音がうるさいと苦情が出るため、窓を閉め切ってやっているのだとか・・
そのため空調完備で夏は熱中症もなく、寒稽古も裸足の冷たさなど全く感じないようだ。
一年を通し快適で、剣道の稽古にも季節感が感じられないのも今の時代を反映しているようだ。

叩く回数が減って長持ちする大太鼓・・・道場の窓を閉め切っているため昔よりくぐもった音で響くけれど、ボクにとっては懐かしき “昭和の音風景” の一つだ。

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昭和の音風景①有楽町マリオンのからくり時計

2011年12月18日 | Weblog

 


0368 有楽町マリオンのからくり時計

久しぶりに銀座へ出てみた。
休日の銀座は2~3年前とは少し様子が違っていた。
東日本大震災前は、銀座大通りのホコ天は中国、台湾、韓国などアジア系の観光客が多く圧倒されたものだが、今は日本人のほうが存在感があるので、ある意味ホッとする。
年末のイルミネーションも、けばけばしさが薄れシンプルでスッキリしている。
40年近く銀座で働いたボクはずっとこんな“銀座”を望んでいたが、今頃になって念願が叶った気がする。

それでも、この数年で高級ブランド店がやたらと増え、ニューヨークのような雰囲気が増えたことが確かで、ボクにとっては困ったことになってしまった。
というのもボクが擁いている理想の“銀座”イメージは、こんな洋風の高級感ではなく日本橋や京橋、神田などと同じ“和風の響き”の粋なところなのだが・・
こんな考えを日本橋三越前で話しかけられたお年寄りに話したら、「江戸っ子はそう思っているよ」と言われた。
銀座は本来、“下町”なのだから、高級ブランドなどは丸の内か赤坂、表参道あたりに行ってしまえば良いと思えるのだが・・ここらには既に進出済み・・東京は広い!

銀座で“昭和”がだんだん薄れてきているのを寂しがる“団塊オヤジ”のノスタルジーなのか・・?
それでも有楽町マリオンの前に来てホットした。
“昭和”といっても、ほとんど平成に近い1982年(昭和57年)に旧日劇跡地に出来たのだが、映画『ゴジラ』のリメイク版ではゴジラによって外装が粉々に破壊されてしまう。
このマリオンの数寄屋橋側の外壁にあるからくり時計が師走の時を打ち出したので、しばし立ち止まって聞いてみた。
12月ということで選曲はクリスマスヴァージョンとなっていたが、ボクの心に“昭和”の和みを思い出させてくれた。  マリオンのからくり時計クリスマスVER. ↓クリック↓
     http://www.youtube.com/watch?v=J_iOzWzp_lA

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40年ぶりの剣道

2011年03月28日 | Weblog

0367  () 学生時代(44年前)  () 稲門剣友会(新調)のゼッケンと稽古着・竹刀

早稲田大学剣道部が男女とも全日本学生優勝大会を制覇し、1月16日の祝勝会には日本中からOBが馳せ参じた。
40年ぶりに眼が合っても、先輩か後輩かも判らない顔も多い。
大方は後輩よりも先輩の方をよく覚えていて、ボクも先輩方に挨拶して、後輩たちには挨拶される事が多かった。

ずっと竹刀を握っている人たちは、段・段になり、中には段まで昇りつめた人もいる。
昔話をしているうちに、何人かの先輩・同輩・後輩から 「もう一度竹刀を握ったら・・・?」 と勧められた。
自身、この40年間、夢の中で剣道を何十回やったことか・・・
それ程、自分なりに懸けていたのだろう・・・何か、この歳になってムラムラと来てしまった。
間髪を入れず同期の君から 「もう一回やろうよ」 と再三の誘いがあり、40年ぶりの再開決意に大きく前進した。
浪人中だった昭和40年、早稲田の初優勝 (明治との大将戦)をNHK-TVで観て感激したのが早稲田を志望するキッカケだったが、この時の早稲田の大将先輩からも 「仲間だからやろうぜ!」 と言われ決断した。

段の先輩や段の君、そして先輩たち・・・師にこと欠かない恵まれた環境で励むことが出来そうだ。

再開祝いとして、君から稲門剣友会 (早大剣道部OB会) のゼッケンが届いた。
今はまだ素振り段階だが防具を着用したら、『稲門〇〇』 の白文字が眼に沁みそうだ・・・

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サンシャイン60

2011年01月29日 | Weblog

0366 チケットのレトロさがたまらない・・

昭和の東京のシンボル建築『サンシャイン60』から平成23年の東京を展望した。
かつて一度だけ経験あるが、その時は来場者でごった返していた記憶がある。
今回は、休日の昼頃というのに人が少なく、東京の観光スポットとして心配になるほどで、無料の招待券だから気が引ける思いだった。
招待券もなんだかレトロなデザインで、“昭和の良き時代”から変っていないのでは・・と思えるほどだった。
 サンシャイン60からスカイツリー&東京タワーを展望
 
http://www.youtube.com/watch?v=z9i_Kjp4wlQ←クリック

かつての『巣鴨プリズン』の跡地という戦後の昭和が染み込んだ所に建てられた『サンシャイン60』は、完成した時点で霞ヶ関ビルや、京王プラザビルを抜いて日本一の高さを誇った。
今でも池袋方面では群を抜いている高さで、都電「荒川線」との組み合わせで撮ったら、昭和の絵葉書になる。

東京では・・いや日本では、人は何でも少し話題になるとドッと押し寄せる傾向があるが、取り残されたスポットには寂しさよりも哀しさを覚える。
取り残されたスポット専門のガイドがあれば面白いと思うが、今は自助努力の時代だから『サンシャイン60』も頑張ってほしい。

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昭和八十六年元旦

2011年01月01日 | Weblog

0365 高尾山から見る東京都心
   
   地平線中央は都心の高層ビル群 スカイツリーが見えるが、東京タワーは要拡大
今年も初日の出は高尾山から眺めた。
最近の高尾山人気で今年も人出が増えているだろうと思いきや・・
ここ数年で最も空いていたようだ。
   高尾山 初日の出 2011年 動画クリック
   
http://www.youtube.com/watch?v=fRX8WDQzjD4
   高尾山 初日の出 2010年 動画クリック
      
http://www.youtube.com/watch?v=BjjVya0trkk
それにしても、年長者の健脚ぶりには驚かせられる。
登り始めは賑やかな若者が途中で休んだり、ダウンしているのが目立つ。
ボクも去年は2回休憩したが、今年は無休憩で登りきろう思い超スローペースでスタートした。
その作戦が成功して、無休憩で登りきった。
去年から一人で登ることにしているが、マイペースが一番だと実感する。
その気分たるや、爽快そのものだった。
この一年の幸せを祈念して手を合わせ山の空気を吸うとことさら旨かった。

奥の院は人で溢れ危険な状態だと警備の警官が放送していたが、行って見ると逆に人が少なく最高だった。
下山途中で東の方向を見ると、何と! 539mに達したスカイツリーが肉眼でハッキリと見えた。 (帰宅してPCで拡大してみると東京タワーに比べ圧倒的に存在感を示している)

下山して麓の蕎麦屋で待ち合わせていた人達と合流し例年通り酌み交わす。
このグループは毎年元旦の同時刻この蕎麦屋に来るが、蕎麦を食ったことは唯の一度もない。
お新香と、せいぜいおでんでお銚子を何本も空けるのが慣わしになっている。
だから、この蕎麦屋は例年元旦から迷惑?な数人の常連に居座られる。

帰りの中央線の電車の中がまた気持ち良い。
普段とは逆方向で車窓の外は明るいのだから勝手が違う・・この眠気がまた格別!
ウッカリ乗り越さないように・・

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羽田発7時50分

2010年12月19日 | Weblog

0364 “羽田着7時50分”は松山空港(台北)からの便だった

昨夜、NHK BSで昭和33年を扱った番組を観た。
フランク永井が『羽田発7時50分』をヒットさせたのがこの年だったとのこと。
昭和33年といえば、50年以上前で当時6年生だったボクは隣家のお兄さんがレコードを持っていたのを記憶している。
 さよなら さよなら 俺を急かせる最終便 ああ 羽田発7時50分
歌の“羽田発7時50分”とは、多分国内線でどこかの空港に向かう便のことだろう。

成田が開港してからは、国内線のイメージが強くなっていた羽田だが、最近、国際線の新ターミナルが開業した。
これが話題となり、見物客が殺到しているというので、野次馬気分で見てきた。
なるほど、評判の『江戸小路』の見物客の多いことと言ったら、休日のためか旅行客の10倍ぐらいはいると思えた。
 旅行者よりも見物客が圧倒的に多い国際線ターミナル『江戸小路』
 http://www.youtube.com/watch?v=bv1uiy1dxSs ←動画クリック

学生のころはまだ、プロペラ機(YS11など)も就航していたし、海外に出かける人を見送りに行ったりしたのを思い出す。
タラップを昇る人を手を振って見送ったりするのは、昔の映画で見るぐらいで、今ではローカル空港でさえ見ることはできない。
そんな昭和の昔のことを考えていると、あのフランク永井の歌が浮かんでくる。
ちなみに、『羽田発7時50分』というのは実際にあるのだろうか?
と思って発着案内板を見たら、『羽田着19時50分』松山空港(台北)からの便があったが、“羽田発”は存在しなかった。

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後輩達がやった!

2010年11月03日 | Weblog

0363 

勝てば優勝の東京六大学野球早慶一回戦敗北で、元気が萎えていた日曜日の夜、ビッグニュースが飛び込んだ。

早稲田大学剣道部からOB宛のメールは、「第58回 全日本学生剣道優勝大会」で見事45年ぶりに優勝したというものだった。
45年前の昭和40年、当時浪人中のボクはNHKのTV中継で観戦して興奮した事を今でも鮮烈に思い出す。
この中継を観戦した事が早稲田で剣道をやろうというキッカケになった。
浪人して入部した剣道部では、その時活躍した先輩達のレベルの高さと、大学トップレベルの剣道環境に感激した。
入学当初は同好会でも良いか? ・・とも思ったが、やはり体育局の“剣道部”にして本当に良かった。

113年の歴史をもつ早稲田の剣道部は、常に上位の成績を挙げてはいたが、優勝はその時(昭和40年)以来となる。
実に45年の間隔となるのだから、喜びもひとしおだ。

昨夜の優勝祝賀会にOBとして道場に馳せ参じることが出来なかったのは残念だが、あの頃の道場風景が昨日のごとく浮かんでくる。
  
  学生時代 使っていた一刀流の木刀 (普通のものより太く、短く、重い)
今日は、野球部が慶応との50年ぶりの優勝決定戦で勝利し、神宮から早稲田までパレードをやっているようだ。
今週はボクにとって“昭和”のあの頃が鮮烈によみがえる週になっている。
現在の早稲田の野球部寮は、当時は剣道部寮でボクが住んでいた場所だから、野球部にはとりわけ親しみがわく。
(東京都保谷市東伏見3-5-25から東京都西東京市東伏見3-5-25に地名こそ変わってはいるが・・)      早稲田の野球部だと!?  ↓クリック
       http://blog.goo.ne.jp/gooyokoh1919/d/20070311

剣道も野球も、後輩達が伝統をさらに積み上げた事を実感せずにはいられない。
このあと剣道は早慶戦、野球は明治神宮大会・・どちらも頑張れ!
※ 何と!剣道部は二週間後の11月14日に女子も全日本女子学生剣道優勝を成し遂げて、男女とも栄冠を手にした。

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東大 早稲田から歴史的逆転勝利!

2010年10月02日 | Weblog

0362 神宮のスコアボード 早稲田先発の斉藤祐樹の名前はなく、大石の名前が・・

先週に引続き六大学野球を観戦した。
第一試合 法政VS慶応、第二試合 早稲田VS東大 の1回戦、先週にも増しての秋空の下、神宮の外野席で半日過した。
学生時代は外野は芝生席で寝っ転がって観戦したが、現在は内野席よりもゆったりした椅子席で快適だ。
外野に陣取ると学生時代、田淵が、山本浩二が、矢沢が、荒川がホームランを打ち込んだのを思い出す。

六大学野球は何十回と観ているが、昨日は歴史的試合だった。
何と!東大がリーグ戦連敗を35でストップする勝利を早稲田から挙げた。
早稲田が2点先制したその裏、一高寮歌“ああ玉杯に花受けて” を大合唱のあと、すぐ追いつき6回には勝ち越し、8回にダメ押し点を挙げた。 
現在勝ち点トップの早稲田から4対2の逆転勝利で、最初から東大を応援するつもりで東大側(一塁側)で観戦していたのだが・・
早稲田が追いつかれた時、何だか胸騒ぎがして三塁側へ移動した。
東大が6回に逆転、8回にダメ押し点を取り最後はダブルプレーで勝利した。
 早稲田 斉藤・大石に襲いかかる東大打線 動画クリック
   http://www.youtube.com/watch?v=1KkWnXreO78   

それにしても早稲田の斉藤は調子が良くない。
2点先行しながら3失点で敗戦投手となり、リーグ戦30勝はお預けとなった。
ドラフト1位候補の真のエース大石もノーヒットで1点取られるというお粗末さで完全に東大デーになってしまった。
もう一人の4年生ピッチャーで甲子園優勝投手 福井の投球を一度見たかったのだが・・
東大の1年生投手鈴木(170cm 65キロ)に完投勝利を挙げられたが、今日と明日は勝たないと優勝は危ういかも知れない。
勝った東大鈴木の奪三振0という珍しい勝利は、被安打9、与えた四球7、2失点という常識外の内容だった。
今日は母校早稲田を応援することにしよう・・
だが・・早稲田も東大に負けて記者会見を拒否する(社会面に書かれてしまった)ようでは情けない。

 

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2010 秋 六大学野球 慶-立 早-明 1回戦

2010年09月26日 | Weblog

0361 慶応のメガホンは昔より小さく、トンガリ帽子としては使えなくなった・・
    早稲田のは相変わらずダサイ! 紙の角帽やミニ番傘が懐かしい・・

9月25日、神宮球場で東京六大学野球を2試合観戦した。
一日2試合は昭和30年代のプロ野球の“ダブルヘッダー”なる言葉を思い出した。
       
      2試合で¥500円 台風一過の秋空を満喫
慶応VS 立教、早稲田VS明治 の1回戦を3塁側の応援席(旧 学生応援席席)で観戦(応援させられるので、じっくり観戦できないが・・)した。
早慶戦では、1塁側から聴く慶応の「塾歌」の気高さにいつもジーンとさせられていたので、慶応の応援席の雰囲気を味わいたいとかねがね思っていた事が実現した。

早稲田OBのボクが初めて慶応応援席で「塾歌」を歌ったが、良い歌は紺碧の秋空のごとく胸にも染み入った。
第2試合の早稲田側から聴く明治の「校歌」も同様に素晴らしい歌で心に染みるのは同じだった。  塾歌」 クリック
     
http://www.youtube.com/watch?v=w6KSif_NeQs
ボクの偏見かも知れないが、両方とも早稲田の「都の西北」よりも遙かに格調の高さを覚える名曲だ。
エール大学の学生歌を耳にした時から、母校早稲田の校歌には愛着が薄れてしまった。
この曲を聴けば、誰でも“盗作”という言葉が浮かんでくるのでは・・と思うが、まあ・・まあ・・かたい話は置いといて・・
ついつい大きな声で歌うのは学生時代からの習性だし、神宮ではこの歌がよく合っているから良しとするか・・

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信州の旅 ③馬曲温泉 (木島平村)

2010年09月25日 | Weblog

0360 馬曲温泉 (長野県木島平村)

柏原や野尻湖の近くを通り、中野市あたりから千曲川に沿って飯山まで北上すると、長野県でも北部で新潟県も近くなる。
飯山で千曲川を渡り、木島平村から山道を行くと「馬曲温泉」に達する。
温泉入口で地元野菜を売っていたので、のぞくと東京に比べ半値以下、しかも出来具合が断然よく新鮮だったので、ピーマン、オクラ、枝豆、それに茄子(信州特産の辛味大根かな?・・と思ったら白茄子だった)を買って帰った。

ここは、日本経済新聞の温泉ランキング『雪景色の素晴らしい温泉 東日本No.1』に輝いた温泉で、そのロケーションが最高であることが雪が無くとも覗える。
標高の高い所から遠くを見下ろすと、木島平のスキー場が借景となり、夕暮れ時の絶景を楽しみたくなる。
  馬曲温泉 動画 クリック
  
http://www.youtube.com/watch?v=tz7AliJGiZk

帰路はレンタカーを返すまでの約1時間、高速を使わずに千曲川に沿って信濃の秋を走らせた。
中野市あたりでは、田圃に大きな秋祭の幟旗が立ち、山車も出ていた。
着飾った子どもたちを見ると、谷内六郎の絵のような “昭和の原風景” がここに蘇っていた。
来る前は、藤村の若菜集、向井潤吉の絵、唱歌「朧月夜」、五木ひろしの「千曲川」をイメージしたのが・・

青空の下、ススキの、蕎麦の、稲の、中秋の信濃路を長野まで満喫した。

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信濃の旅 ②戸隠神社 奥社

2010年09月23日 | Weblog

0359 戸隠神社 奥社に至る 「隋神門」 
                  本来は静かで荘厳な “気”がただよう所だろうが・・
JR東日本でキャンペーン中の信州「戸隠神社」の奥社を参拝してきた。
04:41始発で3回乗り継ぎ長野に10:10着、そこからレンタカーで1時間、戸隠神社の奥社参道に着く。
1時間半くらいかけて参拝したが、JR東日本のテレビCMや駅のポスターの影響か、奥社にしては参拝する人が多すぎる。 
参拝客というより観光客で多いのは、まるで最近の高尾山のようだった。
  奥社参道 動画 クリック
  
http://www.youtube.com/watch?v=uhmSG8whnFY
最近はパワースポットとして人気が出てきているので、杉の大木にじっと手を当てて“気”を吸収している人もいる。
ボクは単に森林浴でマイナスイオンを浴びればよい・・程度に考え杉の木肌に耳をあててみたのだが、それには人が多すぎた。
むしろ、付近の小鳥ヶ池やトレッキングコースでも歩いた方が、当分の間は良いのかも知れない。

昼は戸隠蕎麦でも食べようと思って、車を走らせているうちに黒姫まで来てしまったので、“黒姫蕎麦”を食べ一茶の故郷信州柏原を経て馬曲温泉(木島平村)に向った。
戸隠へは、キャンペーンが終了し一段落した頃に再訪して、「気」をもらって来ようかと思う。

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信濃の旅 ①篠ノ井線

2010年09月20日 | Weblog

0358 冠着駅の案内板(長野県東筑摩郡筑北村)

     
篠ノ井線は鈍行にかぎると確信した。
今までの2~3回では味わえなかった車窓風景を満喫した。
長年勤めた出版社から「車窓の山旅・中央線から見える山」が出たのが20数年前で、当時は「リタイアでもしたら・・」と漠然と読んでいた。
今回、始発電車で乗車券のみで乗り継ぎ篠ノ井線経由で戸隠・木島平を目指した。
途中「姥捨駅」では数分間の通過列車待ちで、そこのホームから広がる風景に眼を奪われた。
そこまでの車窓では、収穫に入った山間風景を故郷の丹波にも置き換えて思い巡らせていたが、「姨捨」に来た途端そこで展開するパノラマに釘付けになった。
海抜547メートルから見下ろす一望は、手前の棚田からはるか続く。
刈り取る直前の黄金波、白い蕎麦の花、緑や土色で織りなすパッチワークには声もでなかった。
そのほつれ目からはキラキラと蛇行する千曲川が光っている。
煙たなびく家の屋根が茅葺なら、それはもう・・昭和20~30年代の原風景そのものだ。 「姥捨」付近の車窓からの眺め動画クリック
      
http://www.youtube.com/watch?v=UFDGwQ8OLwU
    
帰路に経験した『スイッチバック』進行は、篠ノ井方向からの列車が1000分の25という急勾配をのぼり、一旦引込み線に進入してからバックで「姥捨駅」のホームに入り、今度は先頭車から発車するという貴重な体験だった。
『スイッチバック』で、“一旦捨てた姥を若者が翌朝連れ戻しに来た”という伝説を連想したのは、場所と時期(敬老の日の直前)ゆえだったのだろうか?

近日中に今一度訪れたいし、来年の苗代の頃には“田毎の月”を姥捨山から観てみたい。

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カップヌードル タイムカン

2010年09月12日 | Weblog

0357 缶入りカップヌードル Time Can

21世紀の幕開けに記念発売した「カップヌードル Time Can(タイムカン)」が不良品だったとして、自主回収しているのは数年前から知っていた。

ガス湯沸器や、FF式石油暖房機のように人命に係わる事故には繋がらないと思い、あえて、自己責任でそのまま保管していた。
企業の社会的責任という観点から、各社の対応を一市民として観ていると面白いことがある。
ガス湯沸器のP社と、FF式暖房機のM社(現P社)の対応はまったく異なっていた。
マスコミの批判にさらされたP社と、これでもかと思えるほど回収呼びかけ告知 (結局は企業イメージを上げるのが狙い→告知に使った費用はすべてマスコミに入った) をやったM社の違いは、名古屋の田舎に本社を置く稚拙なP社と大阪・東京に本社を置く巧緻なM社の違いで、プロパガンダの差だったかも知れない。

日清食品の場合は中国産餃子などの問題が起こる以前から回収に乗り出していたのは、大正解だったし企業姿勢の良さがうかがえる。

発売10年の今年8月カップヌードルTime Canを送り返したところ、写真のような返信が来た。
     
     返信に同封された定額小為替300円と図書券500円
昭和50年前後に創業者の故 安藤百福氏に取材した事がある。
カップヌードルの大成功に続き、大きなビジネスモデルを築こうとしていた偉丈夫の氏には“企業の社会的責任”という言葉がなかった当時すでにこの意識はあったのだろう。

カップヌードルに続くカップライス(ピラフ・赤飯・白飯・雑炊・カレーなど数種類)の展開を試みたが、“米原料の製品は成功しない” というジンクス通り陽の目を見なかった。
試作品を段ボール1箱貰ったが、ハッキリ言って食えた物ではなかった。
近々、再挑戦という話もあるようだが、今度は大成功を期待する。
“企業の社会的貢献”と“社会的責任”を併せ持つ会社だから・・

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団塊世代のペコちゃん

2010年09月04日 | Weblog

0356 上野公園の骨董市でベティちゃんとともに

不二家のペコちゃんが今年還暦(昭和25年生まれ)だとか・・
という事は彼女も団塊世代という事になる。
ポコちゃんという男の子もいた記憶があるが、最近は彼の名前は聞かれない。
     
   神楽坂店だけの“ペコちゃん焼き”  銀座の不二家・・映画で良く見たものだ
ペコちゃんに初めて会ったのは、小学生の頃お土産にもらった「ミルキー」のパッケージの絵だった。
他社のキャラメル類にはない意匠で、その線の太いイラストと横文字は強烈だった。
同じ不二家のフランスキャラメルの箱には金髪の女の子のイラストがあってトラディッショナルなデザインだったが、「ミルキー」のペコちゃんは“アメリカ的”な明るさを感じさせてくれた。

そのころのキャラメルと言えば、箱に帯封の「森永ミルクキャラメル」、 赤い箱の「明治クリームキャラメル」、包み紙の両端がねじってあった「カバヤ」や「グリコ」それに「ニイタカ」などだったが、不二家のキャラメルにそれらの商品よりも都会的な雰囲気を感じたのは確かだった。
「アーモンドグリコ」が大ヒットする直前の昭和28~9年の頃の思い出だ。

訂正》 [団塊世代のペコちゃん]と表記しましたが、調べてみると、確かに生誕60年となりますが・・・生まれたとき既に6歳という設定ですから、今年66歳ということになります。
したがって、“団塊世代にはあたらないということになります。
謹んでお詫びし訂正させて頂きます。

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