0355 日本陸軍の墓標?
江戸では愛宕山に次いで標高が高く水も出るこの土地を伊達政宗が欲しがったが、
家康は外様には与えず、御三家の水戸に与えた。
江戸城を攻めるのに最高の高台だからとか・・
「市ヶ谷 亀ヶ岡八幡宮」は、大田道灌が鎌倉の鶴岡八幡宮から勧進したという。
江戸時代、隆盛を究めていたことが、古地図上の面積の広さでうかがえる。
古地図を見ると、壮大な当時の境内は現在の数十倍の広さだったことがわかる。
明治になって陸軍に接収され随分と狭くなったらしい。
そのあげく宮司(現在の宮司とは無関係)が博打好きで神社の土地を巻上げられた・・という話も付近の古老から聞く事ができた。
この「市ヶ谷 亀ヶ岡八幡宮」の裏手に写真の境界標識が無造作に存在している。
地中に埋められているべき下部が露出しているのもあり、その姿に、参る人もいない放置された無縁仏の墓標を連想してしまった。
でも、まあ・・日本陸軍の墓標といってもいいかも知れないが、頂部の赤い塗料が妙に生々しく感じられた。
境内の西側隣地は、陸軍から引続き現在は防衛省が使用しているのだが、今なおこんなものが転がっている事を知っている自衛官などいないだろう。
昔、この神社は陸軍軍人が参拝することで有名だったとか・・
我ながら、もの凄い“昭和の名残り”を見つけてしまったものだ。
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