団塊の青春と昭和の東京

昭和の名残りを求めて since2007・02・10

高田馬場駅付近 (300回記念)

2009年05月31日 | Weblog

0300 高田馬場駅前 「TOHMONビル」

ネタ切れの心配をしながら、ここまで300回・・我ながらよく続いたと思う。
還暦を迎えた日(平成19年2月10日)からスタートしたので、813日で300回アップしたことになる。
タイトルの『団塊の青春と昭和の東京』の“東京”とはどこかというと、“青春”と結びつけるからには、やはり学生時代に馴染んだ街である「早稲田」であり、「高田馬場」ということになる。
学生時代のほとんどは西武新宿線の「東伏見」に住んでいたので、「高田馬場」へ出て、大学へは「高田馬場」から歩いて通学した。
   西武新宿線 乗り換口
   ガード下のチンドン屋 さかえ通り入口
高田馬場駅前の「BIG BOX」はまだ出来ておらず、「TOHMON ビル」が一番大きな建物だったように思う。
都電もトロリーバスもまだ走っていたので、“三丁目の夕日”の時代と同じ生活感が東京中に残っていた。
今でもチンドン屋がパチンコ店のビラを配り、ガード下には自転車が放置され、線路際には“養老乃瀧”があるのは40年前と変わらない。

山手線で新宿から2駅の高田馬場へは、駅やその周辺の音を聞きたくなって、ときたま定期券のまま乗り越してホームへ降り立つ。
 http://www.youtube.com/watch?v=4hPnTLQ0vxk←動画:駅付近の音クリック
JRから西武新宿線への乗り換え口など、懐かしさで満たされたところに来ると、心が和む。
駅前はロータリーに変わってしまって面影はないが、雑然とした町には今でも活気があふれていることを実感するのは学生の街ゆえか・・
ガード下傍の“栄通り入口”も変わらずに多くの人が行き交っている。
ボクの場合、この泥臭さが“青春”と“東京”を結び付けている原点かも知れない。

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青い山脈

2009年05月24日 | Weblog

 0299 『青い山脈』 の看板

“サユリスト”と言ったら“団塊世代”ならだれでも知っているが、このカタカナ語は平成世代には先ず分からない。
“サユリスト”なる言葉は昭和30年代に生まれ、“団塊世代”は確か昭和50年前後に堺屋太一氏が命名したと思う。

“団塊世代”が高校生だったとき、“国民的アイドル”だった吉永小百合は、以来、息の長い大女優として今でも活躍中だ。
食品会社のCMや鉄道会社のポスターなどでこの大女優を眼にしない日はない。
彼女が出演した作品を観ると、それぞれの時代の顔で好演していて、女優人生が順風だったことを感じる。
彼女の場合はブランクがなく、女優としてのイメージも昭和30年代から平成20年代までグラデーションで来ているので、いきなり10代のころの顔を見るとハッとさせられる。

アイキャッチのため、昔の映画看板を掲げている居酒屋をよく見受けるが、映画青い山脈で観た10代の顔を上野の居酒屋で発見した。
いまどきの高校生と違ってふくよかで健康的と感じたボクは、足を止めて、しばし見入ってしまった。
   昔のホーロー看板とともに掲げてある

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浅草 三社祭

2009年05月17日 | Weblog

 0298 仲見世

浅草の三社祭を初めて見物してきた。
年間に訪れる人は京都の清水寺よりも多いというから、日本一ということになる。
普段からごった返す境内や仲見世も特別に多くの人で、流れに身をまかすしかない程だった。
30%程は外国人のように思える。
浅草は手っ取り早く日本文化のさわりを体感するのに丁度良いのだろう。

三社祭というと、激しさや若さ、熱気を想像していたが、それ程でもなかった。
神輿を担ぐ人達も少々平均年齢が上がったのではとも思える。
若い男性の比率が少ないように思えるし、子ども達ももっと多ければと感じる。
それでも浅草は、その明るさ、派手さ、町のカラフルなところが、年中お祭りのような雰囲気を漂わせているので、時々行ってみたくなる町だ。                                     
              動画を見る↓
  http://www.youtube.com/watch?v=s3wHvdIB8es

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神宮球場外野席

2009年05月16日 | Weblog

 0297 神宮球場外野席

神宮球場の外野席で観戦したのは何十年ぶりのことだろう・・
学生時代の六大学野球応援観戦以来だから、40年ぐらい経っているはずだ。
田淵、山本浩二、富田(法政)や矢澤、荒川、安田(早稲田)、明治からは星野仙一など、後にプロで名を残した名選手のプレーを数多く観たものだ。
運動部に所属している学生は、試合開始前に応援グッズなどの販売等の手伝いをすると、無料で観戦できた。
当時外野には芝生席があっので寝そべって観たりして、のんびりとしたものだった。
それは大学野球ファンには忘れられない光景だったが、その外野芝生席も改装されて椅子席になり、グランドも人工芝になった今では想像もつかない。

昨日、内野席に近い外野席(甲子園のアルプス席にあたる)で、試合開始前の練習から陣取った。
どこへ行っても阪神ファンは有難いもので、この球場でも三塁側から席が埋まる。
あまりの寒さにビールから熱燗に替えての応援となったが、試合はタイガースの負けだった。
 神宮でも三塁側から席が埋まる
ボクが観戦すると、ほとんど負けるので去年は一度も足を運ばなかったが、昨日ひさし振りに行くと、やはり打線が湿ったままで終わってしまった。
この分だと今日も負けそうだと思っていたら、やはり連敗してしまった。
それでもめげないのがタイガースファン・・
早稲田の同期で、同じ釜の飯を喰ったスワローズの青木と、タイガースの鳥谷がそれぞれ三番バッターで対戦するが、三番ショート鳥谷♪のアナウンスが心なしか弱々しく聞こえた。            ↓クリック
     http://www.youtube.com/watch?v=xsBbAlgUBR4

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神田明神 神田祭

2009年05月10日 | Weblog

 296 神田祭

昨日は神田神社(神田明神の神幸祭を見物してきた。
神田明神というと、「江戸三大祭」ということだが、この三大祭が何通りもあるからややこしい。
ともあれ浅草の三社祭にしても、赤坂の山王祭、深川の富岡八幡宮祭もみたことがなかったので、都心の有名祭としてはじめて見物したことになる。
下町の神田明神のお祭りイメージはもっと賑やかで騒がしいものかと思っていたが、
初日の神幸祭宮出は儀式に則ったもので、厳かさが伝わっていた。
これには、銭形平次のイメージが強すぎるボクは少々驚かされた。
写真を撮っていると、カラフルで京都のお祭りと錯覚するようでもあった。
   
 神式は厳か  門前の町内会も盛り上がって  明神男坂・・この下に銭形平次が住んでいた?
この日の為だけに一年がありそうなお年寄りが法被、印半纏、紋付羽織袴姿などで、その表情も明るく、好天のもとで粋を競い合っていたのだろう。
九時前には、神田、日本橋、大手町へと向ったさまは見事で、馬の蹄嘶きも都心で耳にした。
           動画)クリック
 木遣 http://www.youtube.com/watch?v=DmQ2PulEzO8
                                                       
   祝詞 http://www.youtube.com/watch?v=HcVoXuMf6J8
 
 
宮出 http://www.youtube.com/watch?v=TnUcuiY3iik
 
                         

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ペコちゃん 還暦前

2009年05月09日 | Weblog

 0295 不二家 飯田橋神楽坂店

不二家のペコちゃんが来年還暦を迎えるらしい。
1950年生まれの彼女は永遠に6歳だそうだ。
サザエさんが1946年4月に登場したらしいので、たぶんイクラちゃんと同い年ぐらいと思えるが、歳をとらないのはどちらも同じのようだ。

不二家といえば洋菓子だが、子どもの頃、田舎には不二家の店舗はなかった。
だから、お菓子屋で買う“フランスキャラメル”や“ミルキー”それに缶入りの“ドロップ”しか商品の記憶はない。
東京では各地に店舗展開していたのだろう・・数寄屋橋交差点の三角屋根の店舗は映画でもよく見た。

飯田橋神楽坂店では、ここでしか買えないという“ペコちゃん焼”なる大判焼か人形焼のような逸品を売っていることを以前から知っていたが、今日まで食べたことはなかった。
何しろ2~3年前の不祥事の時でさえ順番・予約でないと買えなかったくらいだから、今日、この神楽坂名物を買えたのはラッキーだったかも知れない。
        
        董市では、ベティーちゃんとともに売られていた
子どもの頃、舌をペロリと出したペコちゃんは、日本の菓子メーカーのものとは思えなかった。
ボクにとっては、“ポパイ”や“ミッキーマウス”と同じように都会的、アメリカ的キャラクターだったので、グリコやカバヤとは異なり“ハイカラ”という言葉がイメージされた。
この、アメリカ的なペコちゃんのマスコット人形は昔から人気が高く、古道具・骨董市では定番になっている。
上野公園の骨董市でも本物かどうか分からないが、来年還暦のペコちゃんが永遠の6歳のまま売られていた。
・・となると還暦を過ぎた“団塊の世代”も骨董になって来ているのだろうか?

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「三丁目の夕日」の時代(50年前)・・② 週刊少年漫画誌

2009年05月05日 | Weblog

 0294 「少年サンデー」 創刊号

『少年サンデー』と『少年マガジン』が50歳を迎えたとのこと・・
今夜10時からNHK総合で “ザ・ライバル~少年サンデー・少年マガジン物語~” というのを放送するらしい。
朝日新聞の番組面コラム「試写室」には、“漫画はいかにして<文化>になったのか” とある。
今夜、視てみないと分からないが・・この2誌が今の漫画文化を築いたとでも主張するのだろうか?
もし、そうだとしたら、少々問題だが・・
しかし、硬いことを言わなければ、団塊世代のボク個人にとっては思い出深い2誌であることは間違いない。
    
この2誌が創刊された昭和34年は、39年とともに昭和史の中で最もエポックの多い年だったと思う。
御成婚、長嶋天覧試合サヨナラホームラン、ローハイド、レコード大賞、日産ブルーバード発売などいろいろあったが、少年漫画週刊誌の創刊は印象的だった。
当時、月刊の少年漫画誌が97円とか105円という値段だったとおもうが、1冊30円の週刊誌を月に4冊買えば120円で月刊誌の1冊よりも高い計算に悩んだりした。

『少年サンデー』の創刊号は、長嶋選手が表紙を飾り、確かプロ野球の選手名鑑が別冊付録だったことをよく憶えている。
 『少年マガジン』の表紙は、「栃錦」・「若乃花」ではなく少年に人気があった「朝汐」・・「巨人・大鵬・玉子焼」の直前だった
『少年マガジン』の創刊号表紙は横綱朝汐だった。  
両誌とも創刊当時は現在のような分厚い平綴ではなく、一般週刊誌と同様の中綴だった。
“漫画”から“劇画”になったことで分厚い平綴になったとおもうが、最近は“漫画”と“劇画”の区別がなくなってきたので、今夜のNHKはそれを如何に文化論的に分析するか・・
「子連れ狼」、「ゴルゴ30」、「無用の介」、「あしたのジョー」、「島耕作」は漫画ではなく劇画とみるボクには「鉄人28号」、「まぼろし探偵」、「赤胴鈴之介」、「イガクリ君」、「スポーツマン金太郎」、「巨人の星」、「オバケのQ太郎」が漫画なのだが・・

“劇画”という言葉は“漫画”に吸収されて“死語”と化したのだろうか?

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『寅さんの風景』 ⑫亀戸天神

2009年05月02日 | Weblog

 0293 亀戸天神

『亀戸天神社』は藤の名所として350年の歴史を誇るという。
ちょうど藤まつりが開催中で多くのお年寄りでにぎあっているが、夫婦連れが多く巣鴨よりは平均年齢も若いようだ。

“大宰府”、“北野”と並んで日本三大天神といわれる『湯島天神』ほど知名度は全国区ではないが、その佇まいは湯島のはるか上をいくとボクには思えた。
大宰府のそれに見立てた“太鼓橋”がアクセントとなって本殿、藤、鳥居とともにアマチュアカメラマンの被写体になっている。
      
   5月6日までは“藤まつり”  「男橋」と「女橋」 二つ太鼓橋がある

“男はつらいよ”シリーズ第10作『寅次郎夢枕』では、ここが舞台の一つでもある。
お祭りに神社とくると寅さんの「バイ」を連想するが、この作品ではそうではなくマドンナ役の八千草薫とのデートスポットに設定されている。
寅さんは“いつも振られる”というイメージがつきまとうが、実際は“振る役”が結構多い。
その一つがこの作品で、ここの池のほとりで「私ね・・寅ちゃんと一緒にいると何だか気持ちがホッとするの・・」と千代(八千草薫)に告白されるが彼女を振ってしまう。

“藤まつり”でにぎあう境内にきて、ふと36年前の映画を思い出した。

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