団塊の青春と昭和の東京

昭和の名残りを求めて since2007・02・10

亀ヶ岡八幡宮

2008年01月31日 | Weblog

0196 (写真) 亀ヶ岡八幡宮         
                      (左) 鳥居の額 向かい合う鳩が八の字
鎌倉の「鶴岡八幡宮」は静御前や源頼朝・実朝などで、あまりにも有名で、日本中知らない人はまずいない。
JR中央・総武線 市ヶ谷駅から外堀を渡ってすぐの「亀ヶ岡八幡宮」はそれほど知られてはいないが、由緒ある神社だそうだ。

「亀ヶ岡八幡宮」は大田道灌が江戸築城に際し、鶴岡八幡宮から勧請して創建したとある。 鳩が向い合う八の字は鶴岡八幡宮と同じである。 ( 鎌倉名物「鳩サブレ」の起源らしい事も窺える )
江戸時代の図絵を見ると、広大な敷地に壮大な構えを配し、門前には大きな市も立ったことが分かる。

この辺りは23区内で、一番高い台地であるにも係わらず水も豊富に湧くので、江戸城を攻めるとすれば、これ以上の場所はないらしい。 そこに伊達政宗が目をつけて、この土地を徳川に要求したが、家康は受け入れなかったらしい。 この一帯は、江戸時代この「亀ヶ岡八幡宮」と御三家の「紀州家」で占めていたから、外様の入り込む余地はなかった。

以前、土地のお年寄りに聞いたら、「現在の何十倍もある広さだったらしいが、明治になって陸軍に接収され、戦後は自衛隊の東部方面になっている。 何代か前の宮司がバクチで負けて、東側の土地をやくざに取り上げられたらしい」と言っていた。

写真は、この正月7日の境内風景。 アルバイトの俄か巫女さんに甘酒をふるまわれたので、前述のうんちくを話したら、「スッゴ~イッ!」とはしゃいでいた。
「鶴」と「亀」で目出度いかぎりだ。

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青梅市の映画看板 26 江戸っ子肌

2008年01月27日 | Weblog

 0195 (写真) 江戸っ子肌 の看板

大川橋蔵というと、テレビの「銭形平次」とくるが、それは、映画に出なくなってからの事で、東映時代は“新吾二十番勝負”などの忘れられないシリーズ作品がある。
この人は、他の東映のスターほどシリーズ物は多くなかったが、“若さま侍捕物帖”シリーズなど、東映時代劇の一時代を築いた一人に数えられる。
          

写真の「江戸っ子肌」は観ていない。 彼の映画で印象に残るのは「赤い影法師」という忍者物の娯楽時代劇だ。 近衛十四郎が父、小暮美千代が母役で、東映にしてはシリアスな映画だったので、忘れられない一本だ。

片岡知恵蔵、市川右太衛門らの御大とは別に、中村錦之介、東千代介らとともに東映時代劇の若手スターとして輝いた大川橋蔵は「江戸っ子肌」のような役回りよりは、若侍役の方が多かったような気がするし、事実それが、似合っていたと思う。

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青梅市の映画看板 25 お熱いのがお好き

2008年01月26日 | Weblog

   0194 (写真) お熱いのがお好き の看板

マリリン・モンローの映画はほとんど観ていないのが残念だ。
「帰らざる河」を一度だけテレビで観たぐらいだ。
今でも彼女のビジュアルだけは、あちこちでよく見る・・これは、世界中で変わらぬ人気の証なのだろう。
映画をあまり観ない人でも、ビリー・ワイルダー監督の「七年目の浮気」の中で、地下鉄換気口の風が、彼女のスカートを吹き上げるシーンは誰でも知っているはず。
                        
       七年目の浮気 ポスター       西ドイツ版 ポスター
マドンナが出てきた時、だれもがマリリン・モンローを思い浮かべたのではないだろうか・・? ホクロの位置まで同じで、モンローの生まれかわりか・・とボクは思ったほどだった。 でも、最近は全然似ていないと思う。
紳士は金髪がお好き」という映画のせいか、ブロンドのイメージしかないが、彼女は実は、金髪ではなかったらしい。
大体、この手の古典的アメリカ顔は、1950~60年代のアメリカ美女に多いと思うのはボクの偏見だろうか? ジャクリーン・ケネディーも確かこのタイプだったように思う。
高校1年の頃には、イングリット・バーグマン、ソフィア・ローレンとともに、いち早く覚えた洋画女優の名前だった。
今、生きていたら、81歳・・どんなお婆ちゃん役をこなしているのだろうか?

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青梅市の映画看板 24 市川雷蔵

2008年01月25日 | Weblog

          0193  (写真)「大菩薩峠」の看板   

市川雷蔵・・わずか37歳でこの世を去ったが、彼ほど多くのシリーズを持った映画俳優はいないだろう。
①眠 狂四郎 ②陸軍中野学校 ③若親分 ④忍びの者 ⑤鞍馬天狗 ⑥大菩薩峠 など多くのシリーズと、その他の作品は時代劇、文芸物合せて150本以上に出演した。 時代劇のイメージが強いが、現代劇も結構多く、明るい役からニヒルな役まで何でもこなす役者だった。
シリーズ物以外の役柄は、他社の俳優と競合する作品が多かったので、いま一つ強い印象はないが、器用貧乏のようなところのある俳優だった。
秀逸なのは、股旅物で、中でも長谷川伸の 『 沓掛時次郎 』 は最高だ。
『沓掛時次郎』は戦前に大河内伝次郎がやったらしいが、これは観ていない。
新国劇でも、島田正吾あたりが演じているはずだ。
東映では、中村錦之介もやっているが、やはり、市川雷蔵の “ 時次郎 ” が一番だ。

この映画のラストシーンを観ると、アラン・ラッド主演の西部劇 『 シェーン 』 のそれを連想する。ストーリー全体も酷似している。
あの、「シェーンカムバック!」というところは、ひょっとすると 『 沓掛時次郎 』  のラストシーン「おじちゃ~ん!」からのパクリだったのかも・・?
つまり、『 シェーン 』 はアメリカ版の 『 沓掛時次郎 』 かも知れない。
市川雷蔵版のラストシーンでは、三度笠を目深にかぶり、縞の合羽で去っていくところで、橋 幸夫の唄が流れて終わる。
写真の 『 大菩薩峠 』 では、盲目になった主人公 “ 机 龍之介 ” を演じている。
   

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広辞苑

2008年01月23日 | Weblog

    0192 (写真) 長年愛用の 「広辞苑」 昭和51年 第二版補訂版 
1月21日の新聞やネットに、10年ぶりに改定された「広辞苑」第6版の中に誤りがある、との記事が出ている。
NHKのニュースでも取り上げられ、在原行平の伝説の舞台が芦屋となっているが、正しくは神戸市の須磨だという。
能の「松風」の舞台は現在の「須磨浦公園」のあたりではないかと思うが、大阪転勤時代に3年位この近くに住んでいたから、雰囲気的にもよくわかる。
確かに夙川 ( 芦屋と西宮の境界)あたり は、神戸の須磨浦公園と似て、松の風景もある。
広辞苑の執筆者は松の付く地名の多さにだまされたのかも知れない。(松ヶ丘町、平松町、松園町、松生町、老松町、松原町、松下町・・そのものズバリの松風町もある )
辞書の一項目に誤りがあるからといって、新聞と、NHKの騒ぎ立て様は異常とも思える。
これが新聞記事になり、7時のニュースで取り上げられたのには首をひねらざるを得ない。 ミスはテレビの報道であれば毎日のようにあり、サラッとひと言 「訂正してお詫びします」 で終わりとなる。 新聞などは訂正すらしないのが普通だ。

根底には、マスコミ3媒体の他媒体攻撃にあると思う。
日本語に関して、新聞は新聞独特の堅苦しい日本語表記を国民に押し付けてくるし、NHKはアナウンサーが使う言葉が日本語のスタンダードだという傲慢な態度で電波を日本中に撒き散らす。
出版界での日本語表記は、概ね岩波の「広辞苑」が採用される事が多かったので、今回の誤記についてはNHKも、新聞も、鬼の首を獲った様な気になっているようである。
だから、これが広辞苑(国語辞書の代表)でなく、他の辞書なら、新聞もNHKも問題にはしないはず。

広辞苑は昭和30年が第1版だから、もう半世紀以上経つが、“正しい日本語”のバイブルとして、物書きや各界の知識人から絶大なる信頼を得た。
写真は第2版の補訂版で、ワープロ普及以前はよくお世話になったものだ。 ほぼ10年で改定し今回の第6版となっているが、広辞苑こそ、“ アナログ昭和 ” の大切なしるべだった。

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 “元祖” 三人娘

2008年01月22日 | Weblog

             0191 (写真)ジャンケン娘 のポスター

芸能界では、三人娘とか、○○トリオ、御三家などという呼び方をするが、美空ひばり・江利チエミ・雪村いずみ は三人娘の“元祖”だろう。 それぞれが歌手であり、俳優でもあった。
  青梅市の映画看板

映画「ジャンケン娘」は観たはずだが、記憶には残っていない。
音痴の、ひばり が最後には歌手になるというストリーの映画を観たが、はたしてこの映画だったかどうか?
三人娘のうち健在なのは、雪村いずみ だけで、あとの二人は亡くなった。
ジャンケン娘で共演した山田真二(あの,『哀愁の街に霧が降る』の)も昨秋70歳の若さで亡くなった。

この時代の映画は、「平凡」や「明星」などの芸能月刊誌とメディアミックスすれば、宣伝効果は抜群で、あとはラジオで歌を流しておればヒットした。
テレビ時代になってから様相が変わってきたので、テレビは映画の敵となる時代へと移り行くことになる。

“元祖三人娘”は御三家( 橋 幸夫・舟木一夫・西郷輝彦)たちよりも、10年は早かったように思う。
いずれにしても、昭和の芸能界を語れば外せない面々である。
御三家には、3人合せて250歳ぐらいまで、活躍して欲しいものだ。

 

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レトロポスター 6

2008年01月20日 | Weblog

                0190 (写真)カルピス のポスター

団塊世代以上は「三島海雲」といえば、カルピスと来るはず。
日本の経済人として歴史に残る人物で、英語教師から転進し、蒙古に渡り苦難の末に一代で財と名声を成した立志伝上の傑人だ。

カルピスは、ボクらが子どもの頃は “ 初恋の味 ” というキャッチで酸乳飲料で断トツだった。
他の大手食品メーカーも同様の製品に参入したが、カルピスのスッキリさにはかなわなかった。 今では、カルピスの会社自体も他の食品メーカーの傘下になってしまったが、ブランドだけはしっかり残っているのが嬉しい。
昔は、お中元で飲み物が占める割合は大きく、贈答用詰め合わせセットがポピュラーで白い紙に包まれ、水玉模様のラベルが爽やかさを呼んだ。
                                                     カルピスも一時苦境に陥ったことが記憶に残る。                     ロゴマークの黒んぼが、「 ちびくろサンボ 」 の黒人差別にオーバーラップし問題化したので、現在は使用していない。 
ツクダの 「 抱っこちゃん 」 までもが問題化したのには、ボクはこの問題について行くことが出来なかった。
「 機関車やえもん 」 とともに、子ども達に買い与えた、あの絵本の 「 ちびくろサンボ 」には早く復活して欲しいものだ。

写真のポスターでは、「 初恋の味 」はまだしも、「 初夏の味 」 とか「 1本が6~7倍に伸びる 」 「 滋強飲料 」 などと当時のコピーライターの感性に素朴さを感じる。
   

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映画ポスター 椿 三十郎 (平成版)

2008年01月19日 | Weblog

                    0189  (写真) 椿 三十郎 (平成版)のポスター

織田裕二の「椿 三十郎」を観た。
三船敏郎主演の前作から実に45年ぶりの平成版である。
リメイク映画ということだが、通常は多少のストリーやキャラクターの変更がなければ、監督のプライドが許さないと思うのだが、観た感じでは多分シナリオまでがそのままのような気がする。
黒澤明の作品にはリメイク版が多いのだが、今回は前作を忠実に再現している作品で、斬新さにかけるものに見えた。
昭和と平成の時代背景の違いといえば、全体が軽い物になっていること位だろうか?
もっとも、前作は白黒作品だからカラー作品よりも重苦しいのは仕方ないが・・
織田裕二が三船敏郎よりも軽い分、周りも相対的に軽くせざるを得なかったようだ。

前評判はすこぶる点数が良いが、それは前作を観ていない人の評価ではないだろうか。
今回、面白かったと感じた人には前作を是非観ていただきたいものだ。
昨日 ( 1月18日 ) のブログの写真を見て頂きたい・・迫力の違いは明らかだ。
  (昭和版の 椿 三十郎・・三船敏郎 主演)
正直言って森田芳光監督も大変だったと思うが、シナリオの中でよく出てくる言葉 “傍目八目”という観点から言わせて頂くと、少しぐらい配役に違った個性を与えるべきだったのでは・・と感じた。
ラストシーンで仲代達矢の室戸半兵衛が三十郎に斬られるシーンも豊川と織田では、迫力に欠けた。
   

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映画ポスター 椿三十郎 (昭和版)

2008年01月18日 | Weblog

                    0188  (写真) 椿 三十郎 (昭和版) のポスター

織田裕二 主演の 「椿 三十郎 」 が封切上映中だ。
年末からTVでも予告編をしきりに流して、パブリシティーを効かせているが、興行の出来としては、どうなるだろうか?
如何せん、黒澤 明と三船敏郎のイメージが強すぎるので、今度の映画は全体に昔の物より軽いものになっているのでは・・と想われる。
まだ、観ていないので何ともいえないのだが・・

三船の “三十郎 ”は5回ぐらい観たが、映画館では1度だけだ。
年末、大画面TVで見たが、やはり初めて観たときの場末の映画館が最も良かった。

個人的な視点でいうと、この映画で黒澤は1つだけ失敗をしていると思う。
隣の “椿屋敷 ”から白と赤の椿が流れるてくるシーンで、白の椿がドット流れてくるのだが、( 赤だとモノクロフィルムだから目立たなかったからだろう )本当は赤にして、あのシーンの椿だけカラーにしたら良かったと思うが・・
( 「 天国と地獄 」の煙のシーンで使ったあの手法 )
矢沢永吉がサントリービールのモノクロCFで、ビールだけカラーのアレだが、現在でも斬新さは失われていない。

今度の “ 織田版 ” は来年ぐらいにTV放映される時まで待つとしようかな?
   

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青梅市の映画看板 23 鞍馬天狗

2008年01月17日 | Weblog

                      0187  (写真) 「鞍馬天狗」 の映画看板

『 鞍馬天狗 』 は団塊少年のあこがれで、チャンバラごっこの定番だった。
風呂敷を頭巾にして、殺陣まわりを演じたものだ。
昭和20年代の映画では、嵐完寿郎主演で、美空ひばりや松島トモ子の杉作が登場し、桂小五郎、近藤勇、西郷隆盛など実在、架空を問わず登場し、とりあえずの幕末の歴史的な事象が身についた。
         

『 鞍馬天狗 』 は大佛次郎原作だったと思うが、主人公「 倉田典膳 」 は勤皇の志士で、幕末の京都で活躍するところは 「 月形半平太 」 によく似たシチュエーションだ。
両名が一緒に出てくることはないが、他の登場人物は共通している。
『 鞍馬天狗 』 とはいったい何者か?・・と言う疑問はその後のヒーローものに共通の問いかけを与えた。 ♪月光仮面は誰でしょう・・?などと。

嵐完寿郎以前に演じた俳優は知らないが、後には東千代介、小堀明男、市川雷蔵、高橋英樹など多くが演じ 『鞍馬天狗』 は、TV時代以前の国民的ヒーローだったことを窺わせる。
昭和30年代の大村崑主演 『 とんま天狗 』 はこれの捩りであることは確かだ。

♪笛にうかれて 逆立ちすれば 山が見えます故郷の・・  「 越後獅子の唄 」 が聴こえて来そうだ。
   

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銀座 和光

2008年01月15日 | Weblog

                     0186  (写真) 銀座 和光の夜景

銀座の「和光」が改修のため今週から10ヶ月ほど閉店になっているらしい。
それぞれの売り場は付近に仮店舗で営業するそうだが・・
日本を絞り込んで行くと、東京・銀座・4丁目の和光に行き着くのではないだろうか。

戦前から、銀座のシンボルとして4丁目交差点を見おろし続けてきた大時計が工事資材で隠されているのだろうか?
和光を見ようとして地方から上京した人達はさぞがっかりだろう。
銀ブラや海外からの観光客達はみな和光を背景にシャッターを切っているのが、常だった。

銀座界隈で時を知らせる鐘の音は、他には銀座教会、マリオン(日劇跡)ぐらいしか知らないので、残念だ。

年末には改装された和光がお披露目だそうだが、くれぐれも見た目には変わらないで欲しい。
でないと、銀座の特徴が海外高級ブランド店で埋め尽くされかねない。
銀座に海外高級ブランド店は似合わないということを早く日本人に認識して貰いたいものだ。
銀座は本来、日本橋、京橋、新橋などと同じ下町なのに、その良さが年々薄れてくるのは心寂しい気がする。
どうも・・銀座を洋風の最先端の街と勘違いしている人の方が多いのが残念だ。
高級ブランドは最近、丸の内や有楽町のオッフィスビルに出店しているが、その方が似合っていると思う。
そうすれば、丸の内も5番街のようになって来るだろうから・・

明治屋や伊東屋、丸善のような洋風トラディッショナルな店があれば、銀座レトロは安泰なのだが・・
とにかく、海外高級ブランドだけはもう御免被りたいものだ。
   

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高田馬場駅 ガード下

2008年01月14日 | Weblog

                     0185 (写真) 高田馬場駅ガード下のチンドン屋

生涯二回も仇討ちを成した堀部安兵衛が、1度目の18人斬りで有名な高田馬場。
ボクの学生時代の4年間はこの街を外しては語れない。
駅から大学までは早足でも20分以上要したが、大体は歩き通した。
すし詰めの 「早大正門」 行きの都バスよりも、ブラブラ歩く方が心に馴染んだし、帰りはホロ酔い気分で駅まで歩き、そこから新宿に出ようか?それとも西武線で東伏見へ帰ろうか・・?思案をしたものだ。

学生時代は銀座や赤坂、六本木など一度も行ったことがなかった。せいぜい池袋、渋谷止まりだったが、やはりこの馬場が一番だった。

今、行ってみると当時の店で残っているのは少ないし、残っていても代替わりしていて寂しい気もする。

今では、堀部安兵衛よりも「鉄腕アトム」が生まれたところと言った方が、全国的には通るらしい。
銭湯の「安兵衛湯」はまだ在るのだろうか?などと想いながら改札を降りガード下に来ると、何年ぶりかでチンドン屋に遭遇して、何かホッと心が和んだ。
   

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高田馬場 「さかえ通り」

2008年01月13日 | Weblog

      0184  (写真) 高田馬場駅ガード傍の「さかえ通り」入口

大学に入った頃、「山手線高田馬場駅」からは都電が走り、同じ架線でトロリーバスも運行していた。
都バスも早稲田大学の正門行きが単一路線で10円均一だった。
駅前にはまだ、大きなビルはTOMONビルぐらいで殆どが2階建てのモルタル建築だったと思う。
ビッグボックスが出来たのはその数年後ぐらいだったと思う。

「養老乃瀧」などの居酒屋は今も現存していてホッとする。
山手線外側のさかえ通りのゴチャゴチャした商店街に行くと、時空をこえて飛んできたような気になる。

当時、50円玉を入れると得体の知れないコップ酒1杯が自販機から出てきて、それを3杯も呑もうものなら、頭がガンガンの二日酔い確実だった。 ( この、50円日本酒自販機は関西にはなかった )
ホッピーもこのころ定番で、ビールより安いので、これに寶焼酎などで割って飲ったものだ。
最近、ホッピーが人気あるらしく黒バージョンまであるが、ドーモ高級感があっていけない。
大体、今の焼酎自体が高級化しているの事には困ったもんだ・・
   

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国立競技場

2008年01月12日 | Weblog

            0183  (写真) 国立霞ヶ丘競技場

正式名称は 「 国立霞ヶ丘競技場 」 というのを最近まで知らなかった。
このシーズン、ラグビー、サッカー、陸上競技その他で目白押しだが、団塊世代には高校生の頃、東京オリンピックが開催されたことが最も大きな思い出だろう。
昭和39年10月10日オリンピックの開会式では快晴のもと聖火台に火がつき、上空に五輪の輪が出来たのを白黒TVで観た。
最終日のマラソンでは、2番目に戻ってきた円谷選手がイギリスのヒートリーに抜かれて銅メダルとなった記憶は強くのこる。

去年も神宮球場や外苑を数回訪れたのだが、この競技場には大学入学の年の秋に運動部対抗競技会が開かれた時に訪れただけだから40年以上も昔の事になる。

ラグビーの早明戦にも、ついぞ足を運ばなかった。
今日は大学ラグビーの決勝戦で、早慶で覇を競うが、早稲田が20点差ぐらいで栄冠に輝きそうな気がする。
早慶による決勝戦はボクの記憶には1度しかない。
暖かければ、応援観戦に行っても良いのだが・・今日の寒さは老骨にはこたえる。
   

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明るい 「 ナショナル 」

2008年01月11日 | Weblog

   0182 (写真) 「ナショナル」 の家電販売店(昭和40年代の雰囲気)

昨日の夕刊各紙1面一斉に 「ナショナル」ブランド と 「松下電器」 という社名が10月頃までになくなると報じている。

“ 経営の神様 ” という異名を持つ松下幸之助が起こした企業は発展期には “ マネした電器 ” などとレッテルを貼られたが、世界的に 『 Panasonic 』 がブランドとして、認知されている昨今、社名、ブランドとも 『 Panasonic 』 に統一されるのは必然といわれていた。

松下の提供番組と言えば、何と言っても 『 水戸黄門 』 だが、それより以前に泉大介というタレントが土曜の夜、ナショナル プライスクイズ『 ズバリ当てましょう 』 という番組の司会をやっていた事は、団塊世代なら思い出せるはずだ。

当時の家電業界はテレビがシャープやゼネラル、白物が三洋、モーターを使う物が日立や東芝などの重電メーカーが強かった気がする。
後発の東京通信工業(現ソニー)はまだ、弱小だったし、松下は他のメーカーのマネばかりしていると揶揄されていた。

特に強い分野がない松下は技術力よりも、営業力とデザインの良さで伸びているとさえいわれていた。
テレビなどは、大阪にあっても東京芝浦電気(東芝)が強かった。
そんな松下が総合的にトップとして君臨してきた裏にはソニーが “ ゲーム屋 ”に成り下がったせいもあるが、根底には松下幸之助の経営哲学が生きているのだろう。
この機会に名著 「物の見方・考え方」を読み直してみようかと思う。
“ 二股 ” は創業者の大発明であまりにも有名だが、会社は今後Panasonicに一本化となる。
20年も経つと『松下』と『ナショナル』も忘れられているのだろうか?
サントリーが 「壽屋」 であり、ソニーが 「東通工」 であったことのように・・
   ナショナル坊や    ~ 神様が 二股やめて パナ一本 ~

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