徳川光圀は大変な上戸だったそうで、伝わっている酒の話には事欠かないようです。
飲んでも泰然自若としていた光圀は、いつでも鶯が鳴き出しそうになるという意味で、痛飲会である別春会を、毎月三十回(つまり毎日)開いたそうです。ただし、浄瑠璃、三味線、歌舞などの余興は禁物だったそうです。
若い頃光圀が吉原へお忍びでいったところ、郷里の額賀村の豪商、鈴木市十郎が吉原を買い切っていて入れなかったそうです。仲介する者がいて、合流して遊んだそうです。両者は意気投合して、後に光圀は娘を嫁がせたそうです。
精進日は、別間で一汁一菜の粗食でですごし、また、酒倉に封をさせ、料理の酒も使用を禁じたそうです。「陣中で酒を飲むのは、酒の勢いで戦うのであり、武士の恥である」ともいっていたそうで、飲まない時は飲まなかったようです。
光圀は酒席で、家臣の飲み工合をよくみていて、誰は幾杯飲んだからもうよいだろう、誰はまだ幾杯だからまだ飲めるだろうと指図したということです。
どんな大杯でも一息に飲み干し、ためらうことはなかったそうです。しかも、これでよいだろうという時には宴をおさめて、時機を失することはなかったそうです。
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